プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -
ベリーベリースイートナイトメア
7.夢の淵
間隔を置いて常に聞こえてくる、大勢の人々の悲鳴のような声。
どんよりと曇った紫色の空に響き渡るそれは、ナイトメアウォーカーのエネルギーに呼応して発生する空間の歪の音だとミルが言う。
ヤツがいるのだ。
確実にこの狂った世界のどこかで牙と爪を研いで私達を待ち伏せている。
行けども行けども住宅街は途切れなかった。
隣り合った同じ赤い屋根の並んだ家々が、永久に道の脇に続いている。
狂気の産物である人々や奇怪なオブジェも一行に減る様子はない。
もうここに来て半日は歩いた筈だ。靴の中の足がズキズキと痛む。
見えてきたバス停のベンチに腰を降ろすと、私はしばしの休息を決め込んだ。
別段寒いわけでもないのに吐く息は真っ白だった。
「ネク。急がないと」
私と一体化しているミルが、頭の中から話し掛けた。
「人にのっかってるだけのヤツが文句を言うな」
靴を脱いで足の裏を揉みながら、私はふとこんなに一度に歩いたのはどのくらいぶりだろうと思いを巡らせた。
「…どこまで続いているんだ?コレは」
「もうそろそろナイトメアウォーカーの住処が見えてくる筈よ」
「やれやれ…」
重い腰を持ち上げると、私は再び歩き始めた。
科学者にあまり運動をさせないでくれ、と頭の中でミルに悪態をつく。
しばしの休息では足の疲れを取るには足らなかったようだ。
すぐに再び足の裏がズキズキと悲鳴を上げ、踵に鈍い痛みが走る。靴擦れができているのだ。
しかしそう休んでもいられないだろう。私は歯を食いしばって痛みに耐える方を選んだ。
私の疲労を気遣ってだろう、ミルが心配そうに声をかけてきた。
「ネク。大丈夫?」
「これでも『三博士』の一人と呼ばれた男だ」
無理矢理笑みを作って言ってみせるが、踵にできた靴擦れの苦痛はそろそろ耐えがたいものになっていた。
「何か話をして。気が紛れるようにね」
「…ああ。そうだな…」
ミルの気遣いに感謝しながら、歩くペースを落としてしばし何を話そうか思案する。
ふと、脳裏をよぎった一つの話題があった。
「私の妻と…娘の、ハルカの話をしよう」
話を続けながら私は歩みを進めた。
すぐ隣を、たてがみが炎上している二頭のキリンが走り抜けていった。
「妻とは大学時代に出会った…これでも一応昔はサークルに入っていてな。そこで知り合ったんだ。
ほとんど研究の事しか頭になかった私と違って聡明な女性でな…その明るさには随分助けられたもんだ。
大学を卒業し、私がオシリス・クロニクル社に迎え入れられてからすぐに結婚した。
イリア
私が22歳、妻の入阿が21歳の時だった」
「日本人でしょ、面白い名前だね?」
「彼女の両親は敬虔なクリスチャンだったとかでな。ま、名前とソレとはどこかで因果関係があるんだろうな」
自分自身の頭を両断しようとしているのだろう、即頭部にノコギリを押し付けて引いている男がいた。
脳漿を撒き散らしながら絶叫とも笑い声ともつかない声を発しているその男の脇を通り抜け、私は言葉を続けた。
「破局はすぐに来たよ。私が…仕事の事しか考えない男だったからな。容易に想像がつく破局だ。
子供はすでに…ハルカは歩く事を覚え始めた頃だったな、成長していた。
ある日いつものように仕事先から帰ってこない私の為に…料理をしたかったんだと思う。入阿が目を離した隙にハルカは自ら熱湯を被って死んだ。
全身火傷でショックを起こしてな…」
火傷自体で死ななくても、全身に熱湯を浴びれば人間はショックを起こして死ぬことがある。
皮膚の面積の狭い幼児ならなおさらだ。
ミルの私を哀れむ感情が伝わってくる。
私は記憶を手繰りながら、額を伝う汗を拭った。
「…入阿は優しい女だった。私を決して責めはせず、自責を繰り返していた。
ハルカが死んだと聞いた時も、葬式の時も、入阿に電話で離婚を切り出された時も…私は泣かなかったよ。
いや、泣けなかったんだと思う。何故か、すべてが遠い世界の出来事のようだったんだ。
大切なのは今目の前にある仕事の事のみで、少しも哀しいと思えなかった。…そんな自分に僅かに絶望したよ。
だけどそれ自体もすぐにどうでもよくなった」
ふと、住宅の壁に這う植物のつるが目についた。
暗い緑色をしたそれは、うねうねと壁を縦横に走っている。
歩くうちにだんだんと、壁から伸びたつるが道路にも目立ってきた。
「哀しいと思う事ができない自分が哀しかったよ。だが、紅緒に会ってから少しだけ自分の中で変化あった事を実感している。
紅緒はよく笑う女だ。私にも何かと世話を焼いてな…最初は煩わしかったが、何故か嬉しかった。
…ある晩、紅緒にハルカの事を話したんだが…あの時私は初めて失ったものの大きさに涙を流したよ。
あの時やっと気づいた、いや…紅緒に気づかせてもらったんだ。自分の娘が死んだという、たった一つの現実を」
足に頻繁にその植物のつるがひっかかる。
地面と壁、そして住宅を埋めつくほどのつるがそこらじゅうに伸びているのだ。
今や視界の大部分は、その暗い緑色をした植物に支配されていた。
「…これは?」
足を止めて私はミルの返事を待つ。
「いよいよよ。ここから先はヤツの、ナイトメアウォーカーの本拠地なの」
先ほどと変わって凛々しい口調になったミルが私に語りかけた。
ドリームディプス
「私とナイトメアウォーカーはここを『夢の淵』って呼んでるわ。
ヤツが今まで仕掛けてこなかったところを見ると多分、ここで罠を張ってるんだと思う」
懐から銃を抜き、弾丸を確認する。撃ち方は一応『保健所』の連中に習ったが命中させる自信はまったくない。
「この鉄の節くれがあいつに効くといいんだがな」
遊底をスライドさせて初弾を装填すると、銃を懐に戻した。
何時の間にか空にまで伸びたその植物は、わずかな陽光さえも奪っている。
踏み込んだその先は鬱蒼として暗く、所々ピンク色のグロテスクな南国風の花が咲いていた。
縦横無尽に走るつたとあいまって生物の体内の中にいるような気分だ。生ぬるい空気には植物のニオイが溶けていた。
「…ねえ。奥さんは、今は?どうしてるの」
不意にミルが、好奇心に駆られたのか言いにくそうに問い掛ける。
「人づてに聞いた話では再婚してまた子供もできたらしい。幸せにやってるそうだ」
視界が悪く、見通しは5mほどが限界でその先は闇に飲まれている。
私は右の壁伝いに植物の迷宮を進んだ。
「入阿が幸せになってくれていたのは嬉しいよ。願わくばこれからもそうであってほしい」
ふと、右のつたの壁にぽっかりと穴が空いているのに気づいた。横道だ。
「どっちだ?」
「真っ直ぐよ」
横道を通り過ぎて直進する。何時の間にか足の痛みは気にならなくなっていた。
不意にミルが確信したような口調で言う。
「貴方もきっと幸せになれるわ」
「何故言い切れるんだ?」
苦笑交じりに答える。
「貴方が他人の幸せを祈れる人だからよ」
「…。そうか」
何かもっと言おうと思案を巡らせた時だった。
闇の奥で何か、白い影がゆらめいているのが見えた。
息を呑んで反射的に立ち止まる。
「ミル」
「ええ、わかってる。気をつけて、あいつの事だからとんでもなくエゲツない罠を用意してる筈よ」
銃を抜き、教わった通りに構えてじりじりとその影に迫る。
距離はあと7mと言ったところか。
「私と貴方は一体化してるの、動体視力も筋力も今までの倍以上に上がっているわ。
不意の攻撃やなんかはある程度私がブロックするから、貴方は攻撃に専念して」
「筋力も? その割にはかなり体力を消耗したな」
「持久力はそのままなのよ。私一人、貴方一人ではナイトメアウォーカーには勝てないわ。だけど二人一緒なら…」
もしかしてお前が疲れたくないから持久力だけは一体化しなかったんじゃないか。
そんな考えが一瞬思い浮かんだがすぐに忘れることにした。
闇の中から少しずつ、ゆらめいている白い影の輪郭が浮き上がってくる。
私の太股の中ほどの高さの物体だ。一応人の形をしているようだな。
それとの距離が5mほどに迫り、私はようやくその全体を捉えた。
見た途端に心臓が壊れた鐘の音のように早まるのを感じた。
全身から汗が吹き出、同時に全身の神経に電撃が走ったような衝撃が駆け抜けてゆく。
「どうしたの?」
ミルが私にそう聞いたような気がしたが、私の頭は別のことでいっぱいになっていて聞こえなかった。
闇の中から現れたその少女は私を見上げていた。
白いワンピースが、風もないのにひらひらと揺らめいている。
5,6歳の髪の短い、頬の丸い少女。私の記憶の中の残影とはっきりそれは重なった。
目を疑うとはこの事だろう。全身の体温が一気に上がるのを感じた。
私は無心になって叫んだ。
「ハルカ!」
私の声に呼応したのか、ハルカはくるりと転身して闇の中に身を投じた。
銃を懐に突っ込む事も忘れて私は慌てて後を追った。
このとき、私の頭の中は空っぽだった。
目の前のハルカ以外の何もかもが遠くなり、視界の外へと外れていた。
ミルが私を制止させようと必至になって何か叫んでいたが、私にはもう何も聞こえなかった。
どれくらい闇の中を走っただろう。
何度も道を曲がり、とっくに自分がどこから来てどこへ向かい、そしてここがどこなのかもわからなくなっていた。
時々視界の端にハルカのあのワンピースが残像のように閃いているのが入った。
それを追い、私は苦痛に悲鳴を上げる全身に鞭打って闇の中を彷徨っていた。
「ハルカ」
荒れ狂う呼吸と心臓に一瞬耐え切れなくなり、壁に手をついて娘の名をつぶやく。
汗を吸って服が重量を増している。喉がカラカラだった。
何度も転倒したせいで体中に細かな傷ができ、足の靴擦れが再びズキズキと痛み始める。
私はそんな苦痛さえもが感じられなくなるほどの、耐えがたい飢餓感を感じていた。
今見失ってしまったらハルカを永久に失ってしまうような、強迫観念じみた思い。
割れ鐘のように何度もミルが頭の中で叫んでいた。
壁にもたれるように数歩、よろよろと前進した時だった。
前方の闇の中からワンピースをひらひらと閃かせる少女が現れた。
私を待っていたかのように、その場で立ち尽くして私を見上げていた。
私がもう一度娘の名を呼ぼうとした時だった。
突然、ふっと壁についていた筈の右腕の感覚が抜け落ちた。
次の瞬間違和感に気づき、バランスを失って転倒しかけた私の右頬に何かが炸裂した。
自分の拳だった。
私は自分で自分を殴っていたのだ。
口の内側から生暖かいものが流れ出す。口の中を切ったのだろう。
腕の感覚と共に、私の心の内側に理性が戻り始める。
「落ち着いてネク!貴方の娘は死んだのよ!」
私はこの時初めて同じ事を叫び続けていたミルの言葉を理解する事ができた。
枯れかけた彼女の叫び声は、涙声だった。
私に理性を戻させようと必死だったのだろう。
恐らく私の腕の感覚を一時的に乗っ取り、荒治療で正気を取り戻させたのだ。
「…ああ、そうだ。ハルカは…死んだんだった」
壁に感覚の戻った手をつき体を起こして立ち上がる。乱れた髪を撫で付けると着衣を正した。
「死んだんだ」
自分に言い聞かせ、冷静さを取り戻す。
体中からゆっくりと熱気が冷めていくのを感じた。
「ネク、良かった。気づいたのね?」
「ああ。…下らん事をしやがって、いるんだろう?」
未だに立ち尽くして私を見上げるハルカに向かって私は叫んだ。
もう娘を前にしても何も感じなかった。
むしろふつふつとナイトメアウォーカーに対する憎悪が沸いてくる。
「バカな子」
不意に嘲笑の声をあげながらハルカの背後の足元のつるが渦を巻きながら持ち上がった。
隙間なく巻き上がったそれが解けて再び地面に吸収されると、つるの中から現れたのは一人の女だった。
ナイトメアウォーカーだ。
きめ細やかなピンク色の髪を揺らすと、ナイトメアウォーカーはふふ、と笑った。
ぞっとするような笑みだった。
「バカな子。せっかく貴方の望んだ世界が手に入るところだったのに」
ナイトメアウォーカーは嘲笑を込めて私を眺めた。
「世界だと?」
「ここは私のテリトリーよ。どんな世界でも構成できるわ、例えば…」
ナイトメアウォーカーが手近な壁に手を押し当てると、力を込める。
エネルギーを送っているようにも見えた。
「こーんな世界とかね…」
弾かれたように視界を覆っていたすべての植物のつるが意思を持ったように動き出す。
地面に吸い込まれるようにしてつるがすべて消えてなくなると、そこに現れたのは光の溢れる別の世界だった。