プワゾンドールズ
- ディスティニィ・チャイルド -
プリンセス オブ エストラ
1.ムグミカ族の戦士シュマリ
こんな御伽話がある。
昔も昔、大昔。まだエストラ王国が小さく貧しい砂漠の辺境の一国だった頃。
まことめ
当時その国王の側近の一人、宮廷魔術師だった『真眼のアルハザード』という男は国政にも魔術の勉強にも大変熱心な出来た男で、
国王の信頼も誰よりも厚かった。
何代もにも渡って優秀な魔術師を数多く輩出しているアルハザード家でも、頭の出来は屈指だったそうだ。
『真眼』という別名は彼が国王から直々に授かったもので、その眼を持つアルハザードは決して誤ったものに心を動かされる事は
無いという尊敬が惜しみなく込められていた訳だ。
やがてアルハザードは『蛇吠砂漠』と呼ばれるエストラ王国の西の端っこにある遺跡の管理を任されるようになった。
この遺跡は有史以前からあり唯一にして偉大なる神・エストラーシャ様がこの世界を作りたもうた折に後の人々の心の灯台となるべく、
田の耕し方から悪魔を屠る強大なる魔術の使用法までをも壁画として残したとされていた。
アルハザードの役目はこの壁画を解読し人々に神の英知を分け与え、またこの知識が間違った事に使われぬよう監視する事。
実際彼はよくやった。
ジン
いつまで経っても雨季が来ずに国家が存亡の危機を迎えた大干ばつの時には雨の精霊と交渉し、大河と井戸に水を取り戻した。
また南の鮮血砂漠で通りかかる行商を襲うムカデの化け物『砂噛み』が大発生した時には破壊の魔術を用いて連中に鉄槌を下し、
見事に駆逐した。
アルハザードはよくやった。
しんぴ
そんな彼が『神火の灯台』 ―― 彼が命名した遺跡の名だ
―― の、最奥、禁断の祭壇で究極の魔術を見つけた時、自分こそがこの
世界の王に相応しい、或いはなれるに違いないと思ったのは、もしかしたら仕方が無かった事なのかも知れない。
アルハザードは頭が良かった。いや、あまりにも良過ぎた。常人とはかけ離れていた。
だからその『死霊使いの魔術』をすべて解読するのに一年もかからなかった。
唯一にして偉大なるエストラーシャ様が何故そんな魔術を残したのだろう。後に人々はこれは『神の試練』だと理解する。
この力に惑わされるようならば人間などいっそ滅びてしまえ、というエストラーシャ様の過激な試練だったのではなかろうか。
とにかくアルハザードは『真眼』から『不死王』と名の冠を変え、自らに『死に損ない』の魔術をかけて不死の怪物と化すと、
神火の灯台を己の城とし、たった一人でエストラ王国に戦いを挑んだのだった。
たった一人? いいや、彼には軍隊がいた。
冥府から呼び出した最も低級にして卑属の幽鬼、グールの軍隊だ。
圧倒的だった。エストラ王国は津波のように押し寄せるグールどもを前に水面に浮かぶ枯葉のように脆弱だった。
国王シャムザ・スェルタン・エストラ十一世はあの善良なアルハザードが悪魔の魔術に心奪われ、己の故郷に牙を剥いた事を嘆き
悲しんだ。
しかし彼とて王である。例え相手がかつての配下であろうとも今は逆臣、民と領土を幽鬼どもに蹂躙されるのを黙って見ている訳には
行かない。
王は剣を取り、なけなしの軍隊を率いてアルハザードと幽鬼の軍隊に立ち向かう。
悪が栄えた試しは無いという。一理有る。しかし今回、如何せん王は相手が悪い。
グールは頭は悪いし腕力も大した事はない。
だが奴らは手足の一本や二本切り落とされたって文句は言わないし、炎の服を着ているような熱砂の砂漠を水も食料も無しで一周間
歩き詰めになったって平気だ。要するに人間とは比にならないほどしぶといのだ。
何より数が多い。人海戦術という言葉があるが、この時は砂漠がグールの紫色の肌で埋め尽くされたという。
おまけにどんなにやっつけても神の知識を手に入れたアルハザードが後から後から冥府よりグールを呼び出してくるのだからたまらない。
今まさに王都イエールが落されんというその瞬間、エストラ王家の血に脈々と受け継がれる聖なる力が王に力を与えた。
死霊の魔術を手にしようとも、もし人間にまだ希望があるのならばそれを食い止められるに違いない。
それは唯一にして偉大なるエストラーシャ様が残された希望だったのかも知れない。
王都の中央、聖地テメノスから湧き上がった黄金の水柱は雨となって大地に降り注ぎ、後に『テメノスの涙』と呼ばれるそれを受けた
グールは見る見る溶けて再び冥府へと帰って行った。
しかしアルハザードはこの位ではへこたれない。彼の手の中にはまだ神の英知が残されていた。
国王シャムザは最後の力を自らの命を捧げて搾り出し、奴めの不滅の魂を神火の灯台に封じた事でこの物語は幕を閉じる。
エストラ王国はシャムザの息子ロシャナクが英雄となった父親の後を継ぎ、ようやく平和を取り戻したという事だ。
神火の灯台は封印され、アルハザードのような愚か者が現れぬよう、人々は二度とその地に足を踏み入れる事はなかった。
この物語には『エストラ物語』という名が付き、今も子供を寝かしつける時のお話として定番となっている。
果たして数千年も後にこの物語の続きが展開する事になろうとは、エストラーシャ様とて予想できなかったに違いない。
そこがどこなのかと言われると、説明するには少々言葉が足りない。
ただ闇があった。そこは闇の底だと表現できた。冷たく無慈悲な果てしない闇が。ただそこに、闇だけが。
そこに在った《もの》にとって闇は永遠の痛苦だった。
闇はイバラのように体に巻きつき、絶望という棘を肉に食い込ませている。
息をしようと喉を鳴らせば体内に闇が雪崩れ込み、数え切れぬほどの虫が臓腑に牙を立てて食い荒らしているような感覚に苛まれる。
《もの》は悶えた。闇から逃れようとただ必死にもがき狂った。身をよじった。ひたすら助けを求む声を叫んだ。
答えるものは何もない。
男のあらゆる行動は闇の暗幕が飲み込み遮断して、その彼方にある光まで届く事は絶対になかった。
《もの》はどのくらいそんな事を繰り返しただろう。
もう気が遠くなるような時間をこの泥みたいな闇に呑まれたまま過ごしたようにも思えるし、あの憎き王に封殺されたのはつい先ほどの
事のようにも思える。
だが《もの》は諦めない。『不死王』と呼ばれたその誇りにかけて決して諦観を受け入れる事はない。
そうしないのには理由があった。
《もの》は己の手の中に神が残した英知が残されている事を忘れなかったからだ。
実際彼はそれが徐々に熱を帯びている事を感じていた。
憎悪の炎を食らって成長する力が闇の枷を解き放つのにどのくらいの時間がかかるのか。
さしもの《もの》にもそれはわからなかったが、遠くない未来である事だけは確かだった。
《もの》は触手を伸ばす闇に意識を侵食されぬよう、絶叫する言葉を助けの言葉から自分の名前に変えた。
「アルハザード、アルハザード、アルハザード! 我こそが不死王アルハザードだ!」
カーペット・シー
『絨毯海』という変な名前がこの海には付いていた。
理由は床の上に広げた絨毯のように海面が平ら、つまり年中波が穏やかで凹凸が少ないという理由からだ。
なるほど、青い空と白い雲、それを地上と分ける水平線まで続く海は大地にいっぱいに広げた深い青色の絨毯のように見える。
実際そこはその場に立ってぐるりと見回してしてみても海と空しか見えない場所だった。最も海上だから立つ場所なんかどこにもない。
あるとすればそれは船上か島だ。
ムグミカ族の戦士、シュマリはその前者の上にいた。
大海の上を木の葉のようにさ迷う一艘の船があった。
遠目にはただの氷の塊にしか見えないが、この流氷のような物体がシュマリのれっきとした船である。
空気の粒をたっぷり含んで雪みたいに真っ白な銀色の胴体の上に、大きな鎌倉のような居住施設がついている。
海上に出ている部分は僅かで流氷の大部分はバランスを取る為に海中に沈んでおり、居住施設には地下室もある。
洗濯物が干してあったり釣った魚を干物にしていたりと狭い甲板はゴチャついており、その狭い中に大きな白い毛むくじゃらのものが
でんと陣取っていた。
天突く巨漢で体重は人間で言えば大の大人三人か四人分はあろうか。熊のような体躯の持ち主である。
実際、彼は白熊だった。
普通の熊よりもやや首が長いのが特徴で、泳ぐ際には海上に顔を出す際に役に立つ。
見た目はもうこれ以上ないと言うくらい白熊だが、両手の平は物を自在に掴めるよう五指に別れて人間に近く、様々な染料を用いて
美しい文様の描かれた民族色豊かな硬皮の鎧をつけている。
眠たげに細くなっている眼のついた頭部には額に鉄甲の縫い付けられた兜が乗っており、ここにも不思議な文様が刻まれていた。
彼が『雪と氷の大地』 ―― 人間が『地上の最果て』と呼ぶ場所――
を故郷とするムグミカ族の戦士、シュマリである。
片手に持った吊り竿を退屈そうに上下しながら、シュマリは半分夢の中にいた。
まだ見ぬ世界の冒険を夢見て故郷を飛び出し一ヶ月、何度か無人島に漂着しただけで後はうんざりするほど続く海ばかり。
当ての無い旅とは言えど少々気も滅入って来ている所だった。
一応、行って見たいと思っている国はある。生まれ育った村の魔術師がくれた絵地図に載っている南東の国だ。
聞けばこの国は太陽が荒れ狂い、とても暑いという。おかげで大地は干上がり砂ばかりだと言うのだ。
氷の神が気紛れで与える暴力のような寒波の中で育ったシュマリには、それが信じられなかった。
好奇心旺盛な少年の心を持ったまま成人を迎えたばかりの彼は居ても立ってもいられなくなり、老いた漁師から航海術を教えて
貰うと餞別代りに『必ず北を向く矢印』を貰い受け、冒険の旅に出たのだった。
シュマリは気が長い方だった。いつも母親から『ボーッとしている』と指摘された。
のんびりしているのは確かに好きだが流石に一ヶ月ともなると飽きてくる。
村では今ごろ貴重な食料であるアザラシを獲る漁をしたり、『針の森』に住まう白狼族と交易を行ったりしている頃だろう。
白銀に満ちた村の様子を懐かしく思い浮かべ、シュマリは背後にあった社に眼をやった。
社と言っても三つの木の棒を組み合わせて立たせ、上に粘土をこねて作った白熊の頭蓋骨を乗せただけの簡単なものだ。
シュマリはここに勇敢な戦士であった自分の先祖を祭って日夜崇めている。
あくびをする度に滲み出てくる涙を拭い、惰眠の底に近い場所をさ迷う意識を引き戻す。
シー・サーペント
竿は一向に引きがない。食料は心許無なく、大食漢のシュマリにとっては大海蛇より恐ろしい餓えが近い。
「…アザラシの肉が食いてえ」
ぼそりと呟き、彼は鼻先を掻いた。
猫のような(シュマリは猫を見た事はないが)鳴き声を上げながら、カモメが海上の風の流れに乗って優雅に舞っている。
どこかの島からシュマリの船に移り居座ってしまったらしい彼らの卵もまた、貴重な食料の一つであった。
ただシュマリが居眠りをしている際に、甲板で干している魚をさらってしまったりもする油断のならない連中でもある。
まあ本格的にヤバくなったらカモメの肉でも食うだな、と彼は持ち前の楽観で食糧への危機感を打ち切った。
他にやる事もないのでシュマリはカモメの数を数える事にした。
動き回る彼らを視線の矢で捉えるのはなかなか難しい。
「あー…いち、に、さん、しの、ごの…」
真っ青な空に散らした真っ白な雲。その中を泳ぐこれまた真っ白なカモメたち。
「ろく、しち、はち…んあ?」
声に出しているうちに彼は奇妙なことに気付き、呆けたような声を出した。
彼の船に居候しているカモメは真っ白な羽毛に包まれた黄色いくちばしの種類だ。
だが空にじっと眼を凝らすとその天空を舞い踊る純白の鳥たちの中に、ちらほらと黒い線のようなものが見える。
見た事のない別種のカモメだ。
胴体は白いが広げた翼の先端、風切り羽根と頭の上が黒い大型種で、シュマリが連れているカモメに奇妙な鳴き声を上げて
喧嘩を売っているように見えた。
鳥の流れを目で追ううちに彼は地平線の彼方に豆粒のように見えるものを捉えた。
その上空に蝿のようにカモメが群れている。
舳先にいた彼から見て左、北東の方角である。
「ありがてえな、船かな?」
もしかしたら食料を譲って貰えるかも知れない。
だがその期待以上にシュマリの胸を好奇心で高鳴らせるものがあった。
村の魔術師が言う、『人間』なる奇妙な種族に会えるかも知れない。
「あらー」
ようやくその船全体を視界の中に捉えたシュマリの第一声は、いつにも増して間延びした声だった。
船はまさしく浮いているのが不思議なくらい半壊していた。
小型だが質の良い木材で作られたがっしりとしたフレームを持ち、各所に見た事のない造船様式が施されている。
まともな姿ならば相当なスピードが出たであろう高速船である。
穂は破れ穴だらけになって見る影もないが、何か竜のようなものが描かれているように見えた。
とりあえず目に付くような洒落っ気と言えばそのくらいで、後は全体的に見て質素で飾りが控え目だ。
だが質実剛健を目標としていたからこそ、ここまで破壊の嵐が吹き荒れても原型を留めているのだろう。
ラム
衝角(*)やカタパルトがない所を見ると戦の為の船ではなかろうが、どうも民間人が乗るような船にも見えない。
(*船の鼻っ面の下部、海中に沈んでいる部分から伸びている大きな槍で、体当たりして相手の船の横っ腹に穴を開ける為の武器)
高性能であったであろう事を考えると持ち主は相当な財力の持ち主だったに違いない。
船の全体に穿たれた傷跡は痛々しく、何か巨大なものが巻き付いて捻り上げたような凹みが船体を這い回っている。
「こりゃ大海蛇かダイオウイカにやられただな」
自分の船を横付けすると傷を見上げてシュマリは呟いた。まだ新しいものだ、出来てから一ヶ月は経っていまい。
カモメが群れていると言う事はここに彼らにとって魅力的なものがあるという事だろう。
食料が残っているのか。或いは先に上げた怪物との戦闘で出来あがった死体を貪っているのか。
どちらにせよシュマリの中で疼く好奇心はもはや溢れ出さんばかりである。
カモメにかっさらわれないよう自分の船の甲板で作っていた干物をすべて鎌倉に放り込むと、彼は奥の方から竿のようなものを
持ち出してきた。
それは細かい傷や磨耗によってすっかり金属としての光沢を失っているが、それでも昼過ぎの陽光を受けると餓えたようにぎらりと
輝く。
長さはほぼシュマリの背丈と同じ、先端にはピックとその反対側に大海蛇でも真っ二つにできそうな大振りの刃が下がっている。
シュマリの一族に伝わるこの戦斧は『灰色杖』と名付けられていた。
最初はもっときちんとした名前があったのだろうが長年の使用で疲弊し、灰色になってしまってからはこの名で呼ばれている。
故郷では迷い込んでくる大海蛇を倒す一撃必殺の武器から、鎌倉を作る際に氷を穿ったり降り積もった雪を除けたりする冴えない
日常道具としてまで幅広く使われていた。
シュマリにとっては十五歳の時に父親から譲り受けて以来の、手に馴染んだ心の許せる相棒だ。
海の潮にも錆びぬよう特殊な魔法の幕がかかっており、先祖が雪山の女神から授かったと伝承にはある。
数回頭の上で振るって感触を確かめると綱で二つの船を繋ぎ止め、シュマリは手頃な穴から中へと進入した。
船内は薄暗かったがここそこに穴が開いているせいで、かしこから注ぐ陽光の柱が床まで伸びている。
やや狭く灰色杖を振るうにはスペースが不充分だ。これが人間という生き物の乗り物ならば、彼らは思ったより小さいらしい。
不意の敵の撃退に備え、シュマリは戦斧を水平に倒して最も隙のない突きの構えを作った。
灰色杖の頭についた穂先は度重なる死闘のいずれかで失われ折れてなくなっていたが、それでも彼が渾身を込めて繰り出せば
相手の体を吹っ飛ばす事くらいはできる
窮屈な通路はシュマリの体を推し進めるには想像以上に狭かった。
しかし彼の真っ白な体毛が擦る壁や床などに施された細やかな浮き彫りの装飾や、額に入って飾られた絵などが持ち主の品位を
表している。やはりただの一般人ではなかったのだろう。
精一杯縮こまったシュマリが一歩を踏み出すごとに床はみし、みしと不安げな声を上げた。
頼むから抜けませんように、と彼は心中で先祖の英霊に祈る。
彼が入った場所は居住区らしかった。
中央に通路が走っており扉はその両側に四つ、突き当たりに一つ、合計五つ並んでいる。
彼の入ってきた穴のすぐ背後、船尾に向かえば甲板と船底へ向かう階段がそれぞれ上下に伸びていた。
シュマリは耳を澄ませた。
氷の下の海中を泳ぐアザラシを探る要領である。
ささやかな波の音、カモメの鳴き声、踊り狂う風。
それに混ざって規則正しい安らかなる音が彼の耳に届き、鼓膜を蚊の羽音ほどに震わせる。
これは寝息だ。
眼を閉じて意識を集中させると全身の体毛を張り詰めさせるイメージで感覚を広げ、気配を探る。
船首の方、つまり奥の右の部屋だ。
忍び足は苦手な方だが彼もムグミカ族の端くれ、驚くほど耳の良いアザラシに悟られぬよう歩く事くらいはできる。
なるべくそっと歩み寄ろうとしたが、しかしこの狭さでは足音を潜めるなどという繊細な動作ができる筈もない。
足の裏の肉球は体重を分散させて彼の気配を隠すよう努力はしてくれた。だが返ってぎしぎし音は大きくなっているように思えた。
緊張しているせいで体が強張っているのだろう。
あと部屋までもう一歩、という所でシュマリはうなじの毛が逆立つような感覚を味わった。
相手がこちらに気付いた。目を覚ましたのであろう、それはもう間違いなく感知し、警戒の空気を漂わせている。
そろりそろりと慎重に慎重を重ねた足音が壁越しに響き、彼が目の前にした扉の反対側にまで近づいて来た。
思わず動きを止めたシュマリは灰色杖を握る手に力を込めた。
村の魔術師は『人間は戦争が大好きな連中』だと彼に教えている。しかし彼としては初見の種族、友好的に行きたい所だ。
よってシュマリは槍を下ろした。穂先を相手に向けているとまずそうなので肩に担ごうとしたが、狭いせいでそれは無理だった。
扉はゆっくりと開いた。本当にゆっくりで気の長いシュマリでも緊張の糸が途切れそうになった。
僅かばかり開いたドアの隙間から今まで経験した事のない、彼のあらゆる記憶に当てはまらない香りが漏れ出した。
それに続いて恐る恐る黒っぽいものが顔を出す。
それは船首の方をびくびくしながら眺めた後、ゆっくりと視線を船尾へと持ってきた。
まず、床。そこにあるのは白熊の体を支える太い足。
次に、胴。硬皮の鎧に包まれた肉体と足と同じく丸太のような腕。
つまりそこに、通路を塞ぐ白い毛皮の壁と化したシュマリがそこにいた。
非常にまずい事に灰色杖を持ち直そうと掲げた所で、斧の刃は彼女のやや頭上にあった。
相手の立場で考えれば、白い怪物があたかも死刑執行人のごとく自分の頭を切り落とさんとしていたのである。
「○×%☆*+−♂♀△!!!!!!」
七面鳥の首を締めたってこんな悲鳴は上げないだろう。
狭過ぎて両の耳を押さえる事もできなかったシュマリの耳の奥をその声は銅鑼のように激しく震動させた。
鉄の鍋で頭をぶん殴られたような衝撃に彼が木偶の棒と化すと、娘は慌てて部屋に顔を引っ込める。
かんぬき
ノブのあたりでガチャリという金属の噛み合う音が二回した。一回目は鍵、二回目は閂であろう。
目の前を飛び散る火花や星がすっかり消えてなくなった頃、シュマリはようやく我に返っていた。
女の声が細く甲高いのはどの種族も共通なのだろうか。
とにかく敵でないという事を知らさねばなるまいと彼は考えた。
悲鳴の影響で鍵をかける音が聞こえていなかったシュマリがドアノブを掴んで回すと、途中僅かな抵抗が発生した。
構わず回転を続けるとガキンという金属が折れ曲がる音がする。
あん
「何だぁ? 随分ボロっちいだな」
そう、彼にとっては優しく回したつもりだったのだ。
だがムグミカ族の体躯と力は人間のそれを遥かに上回る事を彼は知らない。
そして今ドアを押すのも優しくしたつもりである。
閂どころか蝶番ごと吹っ飛んだのにも、シュマリはドアノブと同じ感想を抱いただけだった。
かくして彼は部屋に入った
娘にとってはこれが悪い夢だと祈るしか手段が無いほどに、それはもうあっさりと。
部屋は小奇麗に片付いているが、外に面する壁が大きく修復されている。
鎌倉で暮らすのが普通の木材にはあまり縁の無いムグミカ族の青年にも、その直し方が随分不器用な事がわかった。
適当な場所から調達してきたのであろう板はばらばらに貼り付けられ、不揃いなまま釘が打たれている。
所々布着れが突っ込んであるのは、海水や隙間風が入ってこないようにする目張りだろう。
整頓された机の上や宝石箱など何となく女の子の部屋だとはわかるが、この船全体に言える事だが飾り気が無い。
味気ないと言ってもいいだろう。
部屋の主は部屋の隅で小さくなって震えていた。
さっきはちょっと見ただけだったからわからなかったが、今はその恐怖におののく顔立ちが明らかになっている。
ドア枠の形を大幅に変える事でどうにか部屋の中に入ったシュマリは、絵以外で初めて拝見するこの奇妙な生き物をまじまじと
見下ろした。
彼の第一印象。『寒そうだな』。
彼女は自分と異なり毛皮を持っていなかったからだ。最も、手と頭しか露出していなかったけれど。
(彼にとっては)小さな細身は褐色の肌に包まれ、ゆるくウェーブを描く艶やかな髪が後ろで無造作に一まとめにされている。
やや吊り上がった眼をしており、緑色を湛える瞳は宝石のように美しかったが、今は恐怖に濁っていた。
この季節のこの海域はまだ寒いせいか、あり合わせとおぼしきゆったりとした服を幾重にも纏っている。
本来は薄く、風通しの良い夏服なのだろうが、重ね着する事で寒波を凌いでいるようだ。
一望して長旅で疲れ切った様子が伺える。
顔色もあまり芳しくないが、これは恐らく慣れない孤独で心が疲弊しているのだろう。
あの悲鳴で誰も出て来ないとなれば、船員は彼女のみとしか考えられない。
何から何まで自分とは違う生き物は、刀身が波打った奇妙な短剣を手に最後の抵抗を見せていた。
切っ先を真っ直ぐにシュマリの喉元に向けているが向かってくる様子は一向に無い。
恐らく今の彼女には威嚇が精一杯なのだろう。これでも同年代の娘と比べれば気丈な方だ。
め
「あー。俺ァ、ムグミカ族の戦士でシュマリってんだ。『雪と氷の大地』から来ただ。お前ェさん、なんてーんだ?」
鼻の頭を掻きながらのんびりと名乗った彼に、しかし彼女は一言も答えない。
口元はきゅっと一文字に結ばれたままだ。悲鳴を必死に押し殺しているようにも見えた。
シュマリは同じ口調で同じ事を繰り返したが、結果は同じだった。
「ありゃー、もしかしたらアレか、言葉が通じねえかァ?」
こりゃ参っただな、と呟いて左手で後頭部を掻く彼の動作に少女はびくっと身を震わせる。
「別に何にもしねえよ。そう嫌わないでくれや、な?」
慌てて腕を下ろして言っても少女は答えない。
短剣の柄を両手で握ったままひたすらシュマリを見上げ、睨みつけていた。
膠着を打開したのは朽木が弾ける音だった。
バキンという船底から吹き上がってきた音に船全体が身震いをする。
続いてぎしっ、ぎしっ、ぎしっという軋む音が迫ってくるかのように少しずつ大きくなって、シュマリの神経を逆撫でした。
この感覚は故郷で覚えがある。
そう、今にも自分が足場にしている流氷が崩壊し、砕け落ちて海中へ呑み込まれる寸前の緊張感に近い。
「やべえなあこりゃあ」
ちっともやばくなさそうな口調で彼は己の足元へと視線を落した。
沈み行く巨大なものは周囲のすべてを引き込んで海中へと没して行く。
木造船ならばその辺の木片にしがみ付く事ができれば結局は浮いてくるだろうが、木材に挟まれるのは危険だ。
「ここは危ねえだよ。俺の船に来いや、茶ァくらい出すでな」
近しい崩壊の音に可哀想な少女はあたりをキョロキョロ見回しながら、どうする事もできずにいた。
目の前には得体の知れない言葉を投げかける怪物、船からは今にも押し潰れそうな音。
泣きたくなるような状況が彼女から行動の勇気を奪っている。
「そのぎらぎらするモン下ろしてくれや、ホレ」
ぎらぎらするモン
自分が手にしている灰 色 杖もそのままにシュマリは少女をなだめたが、彼女は頑として抵抗の姿勢を崩さない。
「あー。しょうがねえなあ」
刻一刻と迫る事態にもう構ってられんとばかりにシュマリは少女へ歩み寄った。
ぎょっとした後にその愛らしい顔立ちに絶望の表情が見る見る色濃くなってゆくというのは、人間の顔に馴染みのない彼に
とってもあまり気分のいいものではなかった。
彼女の短剣の刃をひょいと掴んで手の中から引っこ抜くと、その彼にとっては枯れ枝のように細い体が折れないよう細心の
注意を払って肩に抱え上げる。
少女は当然と言うか仕方なくと言うか、狂ったように暴れたが、万力のようなシュマリの腕から逃れるにはあまりにもか細い
抵抗だった。
灰色杖を空いている右手で振るい、修復跡の残る壁へと力の限り叩きつける。
ぶおんと空気が唸って材木は爪楊枝みたいにぶち折れた。木の破片や粉が飛び散り、部屋に充満する。
自慢の毛皮に粉が付くのは気に入らなかったが、シュマリがもう一度灰色杖をぶつけると壁にはぽっかり穴が開いた。
彼が潜るには少々小さいが、その周囲を埋める木材も最早疲労し切っている。
飽きもせず腕の中でもがく少女を守るように小脇に抱え直すと、彼は壁にできた穴に体当たりをぶちかました。
砕けた木々と一緒に虚空へ投げ出され、一瞬の浮遊感の後にすぐに冷たい海水の中へと放り込まれた。
厚着が水を吸う彼女、それに灰色杖という二つの重りを付けながらも、強靭なシュマリの筋肉は遊泳を可能にした。
幸い自分の流氷の船は目と鼻の先にあったので、甲板に少女と斧を放り上げてから自分も重たい体を押し上げる。
慌てて綱を解くと同時に、目の前で彼女の船は積み木が崩れ落ちるみたいに見る見る平らになってしまった。
のんびりやのシュマリもさすがに安堵の溜息をつく。
しかし肝心な事を思い出すとすぐにその溜息は引っ込んだ。食料のことを忘れていた。
呆然と海を漂う木片を眺めていると、一度は沈んだが再び浮力に従って色々なものが浮かび上がってきた。
船底にあったのであろう樽やよくわからないガラスのビンなども含まれている。
「食えるモンがあるといいだな」
そう言って再び洋上へと身を躍らせる前に、シュマリはふと甲板を振り返った。
幸か不幸か少女は彼が壁をぶち破った時の衝撃でとっくの昔に気絶している。
もうしばらくは目を覚まさねえな、と根拠の無い自分の確信に満足すると、今度こそ海へと飛び込んだ。
とりあえずあの船から手に入ったものと言えば、
@ビン詰めの何か赤い粉のようなもの(舐めてみるととても辛い)
A安酒が樽で一つ
B少女の服
Cその服の中身(つまり少女自身)
D彼女から奪い取った変な短剣
E木材(これは渇かせば燃料になる)
彼の故郷では貴重品でもある酒は嬉しかったが、後はあまり嬉しくない。
だがまあ、魚が干物でなく焼き魚で食え、それを肴に一杯行ける事を感謝せねばなるまい。
久々に豪華な夕餉になりそうである。
とりあえず少女だが風邪をひかないよう服を脱がせ(どうやって脱がせばいいのかよくわからなかったので引っ剥がしたのだが)
自分のマントに包んで日当たりの良い場所に転がしておいた。
まだ寒い季節だが、火が無ければ凍死するほどでもない。
甲板で戦利品を乾かしがてらそれらをひとしきり眺めていると、隅の茶色い布の塊がもそりと動いた。
持ち上がった上体はしばらく夢現という所だったが、白い塊を見るや否や突然現実に引き戻されたようだった。
あの悲鳴がもう一度上がった。
海上を飛び交う風の精霊が爆発したような音響が、寄せては返す波を震わせる。
今度は耳を塞ぐのが間に合ったシュマリは尾を引く絶叫が途切れた事を確認すると、素っ裸のまま鎌倉の戸口まで
飛び退いた彼女にもう一度名乗った。
「俺ァムグミカ族の戦士でシュマリってんだ。『灰色杖のシュマリ』とか呼ばれたりも、な」
やはり娘は何も答えない。
石像に話しかけたような気分になってきたシュマリは根気良く話を続けたが、結局彼女はそれからずっと何も口にしなかった。
ただただこちらを恐れて狼に睨まれた羊のように震えるばかりで、動く気配さえ見せない。
「ったく、ろくでもねえモン拾っちまったなあ」
胸元を掻きむしりながら大あくびすると、彼方の黄昏に目を細める。
マントに包まって微動だにしなかった少女は二度目のあくびで露わになったシュマリの乱杭歯を見ると、この世の終わりみたいな
顔をした。
海原をオレンジ色に染めながら水平線へと呑まれてゆく太陽は、もう上半分しか見えない。もうすぐに夜が来る。
きっと少女は『自分はあの化け物の晩餐になるんだ』と考えていたに違いない。
当のシュマリは食前酒とばかりに早くも酒をあおり始め、すっかりいい気分になっていたのだけれど。