プワゾンドールズ
- ディスティニィ・チャイルド -






プリンセス オブ エストラ

3.東風旅団





  波を掻き分け東へ船を進める事一昼夜、サハギンの言う通り二人の前に五隻から成る船団が姿を現した。

 海賊や大海蛇などの海のならず者を撃退する為にカタパルトや衝角を装備した護衛船が三隻、そしてそれらに守られるように船団の

 中央には、スピードよりも荷物の載積量の限界を重視した事が覗えるずんぐりむっくりな船が二隻で構成されている。

 帆を下ろしてその場に留まっている事から、やはり何らかの理由で航行は中断されているらしかった。

 「でっけえ船だなー」

 まるで海上にできた木材の丘のようなそれらを見上げ、シュマリは感嘆を漏らした。

 流氷の船は絨毯海の真ん中に陣取った船団の中の一つ、『ビロードの果実』という船名の刻まれたものへと近寄ってゆく。

 見上げるほど大きなそれの下ではシュマリの船など巨人の足元の蟻のようだ。今にも押し潰されんばかりである。

 甲板にいた数人の男たちは流氷が彼方にある時からこちらを監視したようだが、上で随分大きな騒ぎが起こっているらしく、注意を

 払っているのはほんの数人ばかりだった。

 だからシュマリが大声を張り上げた際には、大部分の船員たちが何事かと驚いて甲板の柵へと駆け寄って来る。

 こちらを見遣る日に焼けた男たちは皆、軽い皮鎧を身につけ、腰には片手持ちのカトラスという剣を下ろしている。

 皆一様に軽装なのは船上では重装備だと海に落ちた際、脱ぐ暇もなく沈んでいってしまう危険があるからだ。

 他にも武装をしていない水夫などの姿も多く見られる。

 「おおーい、船の人よーい」

 シュマリは『ビロードの果実』のすぐ近くでいっぱいに両腕を振り回し、地鳴りのような大声で船上に向けて叫んだ。

 すぐ隣にいるシェラハはたまらず耳を塞いでいる。

 「俺ぁムグミカ族の戦士、シュマリってんだ! 何かあっただかー?」

 人の言葉を叫ぶ白熊の姿に、人間たちはぎょっとした様子だった。

 しばらく彼らは仲間内で何事か囁きあっていたが、遠目に青い服を着ているとわかる男の一言で内容は決着したようだ。

 水夫の一人がシュマリたちに言葉を返す頃には、すでに彼らは船の真横にまで来ていた。

 「お前、戦士なのか?」

 はるかな高みから白熊と少女を見下ろしつつ、髭面のそいつは叫ぶ。

 初対面のシュマリを見ても最初の頃のシェラハほどは恐怖を感じていないらしい。

 世界を股にかける海の男とくれば、多少の事では驚かないのだろうとシュマリは考えた。

 「んあ。そうだ」

 「そうか。とにかく上がって来いや」

  そんな訳で下りてきたロープを流氷に繋ぐと、それを伝ってまずはシェラハが上に行く。

 灰色杖を持ち出してきたシュマリを引っ張り上げる際には、実に四本のロープと五人の屈強な男たちの手を必要とした。

 ようやく這い上がった甲板の上では、彼らは好奇の視線を送るいくつもの眼に取り囲まれていた。

 それが居心地悪く感じられたのかシェラハはさっとシュマリの背後に隠れる。

 鈍いシュマリはむしろ異国の服装と装備に身を包んだ男たちと、想像以上にはるかに広い甲板の船に胸騒ぎのような冒険心を

 覚えていた。

 そびえるマストの下にはカタパルトとその弾丸となる大きな石、据え置き型の巨大なボウガンなどが並んでいる。

 帆を操作する為にあちこちにロープが伸びているのもシュマリにとっては不思議な光景だった。

 世界は本当に広い。

  一方こちらを気味悪そうに見ているのはほとんどが傭兵ふうの身なりをした男たちで、戦闘前特有の殺気を霧散させている。

 しかしとりあえずその殺気は彼らに向けられている様子ではない。

 むしろ昂ぶった雰囲気の中にやたらとのんびりした態度のシュマリが現れた事で、どこか拍子抜けしているようでもあった。

 肩に担いでいた灰色杖をどんと鳴らして石突(穂先の反対側)を甲板に下ろすと、シュマリは彼らを見渡した。

 人間たちより頭二つ分ほど大きな彼には、傭兵たちの硬皮でできた兜ばかりがよく見える。

 「何かあったのかあ」

 間延びした声に答えたのは、筋肉質な男たちの合間を縫って這い出してきた一人の小柄な男だった。

 先ほど話を纏めた青い服の男だ。服はどちらかと言うと魔術師が着るようなローブなのだが裾が短く、体にぴったりしている。

 これも海に落ちた時に泳ぎ易くする為のものなのだろう。

 エプロンみたいな白い前掛けをつけており、そこには抽象化された大海蛇のような怪物が描かれていた。

 杖を手に取り、まだ二十歳になったばかりと見えるその痩せた若い男は柔和に微笑んで見せる。

 潮風で焼けた浅黒い肌の持ち主だが顔立ちにはまだ幼さが残っていた。

 しかしややその表情が引き攣ったように映るのは、やはりシュマリの容貌に圧倒されているのだろう。

 反応が初期のシェラハに近いところを見ると、彼はまだまだ修行が足りない。

 「僕が説明しましょう。リヴァイアサンの信徒、ジャロットと申します。

 現在ここの船長は、別の船で会議の途中でして…えーと…貴方はどちら様でしょう?」

 「シュマリだ。『雪と氷の大地』から来ただ。んでこのちっこいのが…」

 彼が背後を振り返る前に、シェラハは大きな背中からひょいと顔を出した。

 大きなアーモンド型の目をぱちくりさせて、ジャロットと名乗った男の顔をまじまじと覗き込んでいる。

 「シェラハです。貴方はリヴァイアサン教の…?」

 「ええ、そうですよ。ご存知ですか」

 柔らかそうな髪の毛を掻き揚げ、ジャロットは歯を剥いて笑った。

  リヴァイアサン教とは海に住まう神竜、リヴァイアサンを信仰する教団である。

 信者は船乗りが多く、また教会に勤める僧侶は航海士としての経験を積み、海をより知るべく商船に乗り合わせて世界を

 巡り、各地で神の教えを説く事から彼らは世界中に分布している。

 船上での生活や少ない食料から栄養のバランスを計算する術に長けており、航海が長旅になる際は港の教会にいくらかの

 布施を払って彼らに同行を頼むのが普通だ。

 また、海上では一対一ならば戦闘で彼らに適うものはいない。

 リヴァイアサンの信徒が使用する神聖魔法は海上で最大の威力を発揮するからだ。

 この場を代表しているのもリヴァイアサン教徒が船長と同等の権限を持つからである。

  簡単にリヴァイアサン教の説明をすると、シュマリは大仰に頷いた。

 「はぁー。お前さんらの神様は海にいんのかぁ」

 「はい。神竜リヴァイアサンは海からこの世界を作りたもうたのです。

 そもそも世界は、いえ、原始の海はリヴァイアサンの一滴の汗から始まり…」

 少し胸を張って誇らしげに話を続ける彼の脇腹を、傭兵の一人が肘でつついた。

 「話がズレてんだろ」

 「え? ああ、はい。そうでしたね」

 話を仕切り直すべく咳払いをすると、ジャロットは振り向いて右の海上に目をやった。

 「僕たちは『東風旅団』という、マクシミリアン帝国の商人議会が所有する船団です。

 未開拓の市場を求めて、色んな国の珍品や貴重品を持ち返るのが使命でした。

 大方船底が満足できるほど埋まったので帰国する途中だったのですが、昨日の夜からあの船の様子が変なんです」

 彼が指差した方向には商品を満載しているらしい貨物船が見えた。あのずんぐりむっくりな船のうちの一つである。

 「夕食の頃でしたか、甲板から水夫や商人の人達がばらばらと海に飛び降りていたんです。

 引き上げて事情を聞くと、船底から化け物が出たって言うんです。

 傭兵の皆さんは外側を守る船にみんな乗っていたし、そもそも海賊や海獣なんか外敵に備えて雇われていた訳だから、

 いきなり内部で起きた騒動への対応はかなり遅れてしまいました。

 でまあ、色々作戦を考えたりして、ええ、今この船の船長は他の船の船長たちと会議の途中です。

 どうやって収拾をつけるかって事なんですけど、まあ、結局は傭兵の皆さんで部隊を組んで、あの船に乗り込むって事になりそうで…」

 「あー化け物ってのァ、どんなんだ?」

 どうやらくどくどと説明するのが癖らしいジャロットの言葉を聞きながら、好奇心を押さえ切れずシュマリが聞き返す。

 説明を遮られても別に気分を害した様子も見せなかったが、彼は爽やかな表情をやや曇らせた。

 「それがよくわからないんです。針を飛ばす猿みたいなやつだ、ってみんな言うんですけど」

 「針ぃ? 針って猿が針を飛ばすだか?」

 「どこから入って来たんですか? まさか海の底から猿がやってきた訳じゃないでしょう」

 少しずつ興味を引かれてきたらしいシェラハの言葉に、ジャロットは腕を組んで益々考え込むような素振りを見せた。

 「うーん…あの船には色々なものを積んでいましたからね。

 もしかしたらそのいずれかに猿が封印してあったんだけど、何かの拍子にそれが解けたとか」

 …推測ですが、と彼は最後に付け加えた。

 となればただの猿ではなかろう。何らかの理由で封じ込める必要があった、それなりの力の持ち主の筈である。

 「そんな訳なんですよ。相手の素性がいまいちわからないので、今まで二の足を踏んでいたんです。

 シュマリさんでしたか、立派な体格をお持ちですよね?」

 値踏みするような彼の視線を送る彼の言葉に、シュマリはまんざらでもないような様子だった。

 「良ければ化け物の退治に協力して頂けませんか。報酬の方は…」

 「おい、待てや」

 野太い声に自分の言葉を遮られ、ジャロットは視線を右へと移した。

 甲板に置かれた樽に腰かけた、張り詰めるような雰囲気からして熟練とわかる傭兵が布切れでカトラスを磨きながら、眉根に皺を

 作っている。

 「船長が不在だからってアンタにはそこまで決める権限はねえぜ」

 傭兵が手にしていた得物の切っ先を彼に向けると、顔が映り込みそうなほど磨き込まれたカトラスが陽光を吸い取ってぎらりと輝く。

 「え…ええ。まあ、続きは船長がお帰りになってから、という事で」

 威圧に気圧されたのか、ジャロットは曖昧な笑みを浮かべてそこで言葉を打ち切った。

 恐らく一応現在の彼の肩書きは船長代理、なのだろうが実権はこの傭兵頭と思わしき男が握っているらしい。

 ジャロットがこの場を代表し、シュマリに説明をさせるがままにさせておいたのも、自身が事の経過を口で伝えるのが面倒だったに

 過ぎない。

 確かにジャロットは若過ぎる。傭兵たちだって自分より年下のリーダーの言う事なんか聞きっこないだろう。

 彼にあからさまに卑下した視線を送ると、傭兵はフンと鼻を鳴らして視線を刃に戻した。



  大方の予想に反して団長船から帰ってきた『ビロードの果実』の船長は、シュマリの体躯と灰色杖を見るや否や、是非とも

 協力して欲しいと言い出した。

 これは傭兵と傭兵頭(カムダと言う名だった)にとっては心底予想外の結果で、ジャロットは内心で密かにガッツポーズを作った。

 ちなみにシェラハの存在については何も言われていない。どうもシュマリがいると彼女という存在はあまりにも小さく映り、

 人の目には見えなくなってしまうものらしい。

 「もちろん、やるだよ」

 鼻息を荒げてシュマリは船長の申し出を受け入れた。

 「こいつはご先祖の英霊様が俺に下された、真の戦士になる為の試練に違いねえだ」

  そんな流れでシュマリ達を加えた傭兵のチームが結成された。

 傭兵頭のカムダをリーダーにジャロットらリヴァイアサン教徒も加わり、総勢で20人ほどである。

 『ビロードの果実』から件の商船、サンタハンナ号へと乗り移った後、まずは数人が化け物が潜んでいると思われる船底へ向かう。

 彼らが化け物を挑発しておびき出し、一対多数で戦い易い甲板で待ち構える傭兵たちがそれを迎え撃つという流れとなった。

  陽も落ちかけた頃に一向はボートへと下り、今は化け物の潜む砦と化したサンタハンナ号へと向かう。

 ちなみのシュマリの体重ではボートが沈みかねないので、彼と彼にくっついてきたシェラハだけは流氷の船に乗っている。

 「お前はついてくんなっつってるだに」

 「何でですか?」

 唇を尖らせるシェラハに彼は頭を掻いた。

 「何でってお前…」

 「自分の身くらいは守れます。ほら、これ」

 そう言って彼女はシュマリに拳を突き出すと、細い指に包まれていた宝石を見せた。

 真珠のような光沢を持つ半透明の鉱物で、見る角度や光の具合によって変わる数え切れないほどの色彩を含んでいる。

 色合いは惹き込まれそうなほど深い。彼女の瞳か、果てしなく広がるこの海ほどに。

 「何だぁこりゃ」

 「魔晶石です。魔法を使うのに必要なものです」

 彼女の言葉を少しばかり補足すると、魔晶石とは魔法使いの精神の集中を助け、魔力の底力を増幅する為の道具である。

 魔術師が使う杖などには大抵これが埋め込んであり、中には体内に隠し持つ者さえいる。

 「ジャロットさんが予備に持っていたものを貸してくれたんです」

 「魔法って…お前、魔法が使えんのかぁ?!」

 思わず牙を剥き出して驚いた彼に、シェラハは悪戯っぽく微笑んだ。

 「黙ってましたけどね」

 「お? だったら何で今まで使わなかっただ」

 「私の持っていた石は貴方がすべて船ごと沈めてしまったんじゃないですか!」

 「俺が沈めたわけじゃねえだよ」

  そんな言い合いをしている隣の彼らの船を見ながら、ボート上でカムダに一人の傭兵が囁きかけた。

 視線はあからさまな不信感をシュマリ達に投げかけている。

 「船長も何考えてんだか。あんな連中を加えて平気なんですかい?」

 「ああ」

 くゆらせていた紙巻煙草を海に吐き捨てると、カムダは磨いていたカトラスを掲げ上げた。

 「まあ、デカいからな。弾除けにはなる…と、考えとこうや」



  傭兵たちは船上の機動にも慣れたもので、フックのついたロープを船の縁に投げかけると、するすると蜘蛛のように

 登って行く。

 怪力ではあるが自分の体重がそれを上回るシュマリは『ビロードの果実』に乗り込んだ時と同じく、先に上がった傭兵らに

 綱を下ろしてもらい、それに体をくくりつけてから引き上げてもらった。

 「あー、迷惑かけるだな」

 彼の巨体を宙に浮かせるという労働ですでに肩で息をしている男たちに、当の本人はあっけらかんと詫びる。

 「ちったあ痩せろよ」

 「俺ァ村じゃあ、ちっこい方だぞ」

 「…てめえの村の椅子ァ、鉄で出来てんのか?」

 軽く冗談を飛ばし合った後、カムダの指示で甲板に広がり、隊列を作る。

 シュマリを筆頭に直接戦闘を主だった仕事とする傭兵が前衛、弓や魔法などある程度後方から攻撃できる者が後衛。

 扉から目的の怪物が飛び出してくると想定して準備を進める。

 問題の囮役にはあらかじめ決めてあった数人が進み出た。軽装に似合わない大きな盾を装備しているのは、針を飛ばすという

 情報からの警戒だろう。

 「じゃ、皆さん。こちらにご注目下さい」

 一同の準備が粗方済んだ頃、各船から集められたリヴァイアサン教徒が傭兵の視線を自分達に集めた。

 沢山の眼がこちらに集中する中で彼らは指で印を組み、不思議な音程の歌を朗々と合唱し始めた。

 皆それを待っていたかのように雑談や確認の言葉を止め、目を閉じて歌声に聞き入っている。

 シェラハは雰囲気を察知して同じようにしたが、シュマリだけは目をぱちくりさせていた。

 「なあなあ、何やってんだ?」

 隣で目を閉じていた傭兵の肩を軽く揺さぶる。彼にとっては軽く、だった。

 大嵐に見舞われた大海の木の葉のように揺さぶられた男は驚いて目を見開き、慌てて小声で説明する。

 「目ぇ閉じて黙って聞いとけ、終わったら教えてやっから」

  歌はそれから間もなくして終わり、一同は何事もなかったかのように動き始めた。

 「なあ…」

 「掴むなって、お前さん力の加減ができねえのか」

 終わるのを見計らったシュマリのごつい手にまた肩を掴まれそうになり、男は慌てて横へ逃れる。

 鎧と着衣を正しながら咳払いを一つすると、傭兵は簡単に説明してくれた。

 「あれはな、リヴァイアサン教徒の使う『呪歌』ってもんだ。ほれ、さっきよか心が落ち着いてんだろ?

 偉大なるリヴァイアサンは、その歌に耳を傾ける者の心に大海みたいな平静を授けて下さるのよ」

 「どういうこっちゃ」

 「きっと、心に平静をもたらす魔法の一種ですよ」

 眉根を寄せるシュマリにシェラハがそっと囁きかける。

 彼女は流氷の船から持ち出してきた、元から彼女の私物である短剣を腰に帯びていた。

 「怪物がいきなり現れてもみんなが混乱せずに、冷静に対処できるようにジャロットさん達が唱えたんです」

 「なるほどなー。俺もこれで驚かねえで済むってワケだな」

 最も、元から呑気なシュマリに海神の恩恵が与えられているかどうかは不明であった。

  やがて囮の部隊に突入の用意を告げる檄が飛ぶと、シェラハはシュマリとの会話を打ち切ってそちらへ駆け出して行く。

 扉を取り囲んだ数人は、律儀に彼女の為に船内へと向かう扉の前の場所を空けていた。

 両側にはカムダとジャロットがそれぞれ陣取っており、走ってきた彼女に視線を送っている。

 「お願いします。僕の遠見の魔法は狭い場所には不向きなもので…」

 申し訳なさそうな表情になったジャロットから魔晶石を借りる際に、シェラハは先に自分の探査の魔法で船内を調べる事を

 申し出ている。

 これには感覚が情報を得る事のできる範囲を広げ、洞窟や建物の奥などを自らを危険に晒さずに調べる為の魔法を使う。

 ジャロットも同じような魔法が使えないでもないが、大海原が主な舞台となる彼の魔法は彼方の島や船を発見するべく

 より広範囲・遠距離に効果を及ぼすタイプのもので、狭い場所を調べるには少々手に余る。

  無言のまま頷いた彼女は左手に魔晶石を握り締め、右の掌を真っ直ぐに開くと、目の前の扉へと向けて差し出す。

 全身を血液のように駆け巡る魔力が掌へと集中するのをイメージしながら数語、呪文を口ずさむと、シェラハは全身の体温が

 掌から搾り出されてゆくような感覚を味わった。

 流出した体温は彼女の目の前で凝固し、意識はゆっくりとそこへと移ってゆく。

 そこに新たにシェラハの感覚が出来上がった。

 霊体だけになったと表現できる彼女は扉を苦も無く透り抜けると、薄暗い船内へと足を踏み入れた。

 しばらく進むと背後で聞こえていた傭兵達のざわめきも遠くなり、今は砕ける波と船が軋む音だけが満ちている。

 肉体という制約から逃れた彼女は甲板から離れるにつれて、『存在』の息吹を確かめる事ができるようになっていた。

 それが何かはまだわからない。

 だが人間では有り得ない、異質な波動を持った大きなものが船の一部に潜んでいるのは間違い無い。

 船底に向かうに連れて波動は大きくなって行く。

 今のシェラハに皮膚は無いが、針で肌をちくちく刺しているような感覚が圧し掛かっていた。

 途中、床に死体がごろごろ転がっていた。傭兵、水夫、船員など、数える限りで十数人は犠牲者があっただろう。

 生々しい光景に心臓が止まりそうになりながらも、彼女は背けたくなる視線を意思の力で正し、念入りに死体を調べてみた。

 血はほとんど流れていない。ただ全身に白濁したガラスのような物質でできた針が、一体につき何百本と刺さっていた。

 針の突き立った部分の肉は漏り上がり、不気味な紫色に変色している。毒に違いない。

  死体を辿って何階層かを通り過ぎると、とうとう化け物が現れたと思われる倉庫に行き着いた。

 船底には中にヒカリゴケを詰め込んだランタンが沢山降りており、羽虫がそこに群れている。

 その明かりの下に転がる傭兵の死体は武器さえ抜いていない。本当に突然のことだったのだろう。

 勇気を振り絞ると、扉が破られている一番奥の部屋へと足を踏み入れる。

 相手がただの生物ならば肉体を持っていないこちらの気配には気付かない筈だが、それでも怖いものは怖い。

 扉にまず顔だけ突っ込むと、中の様子を窺う。

 木箱や大きな布包みが窮屈そうに肩を寄せ合いひしめく中、床におぼろげな光を乱反射する物体が散乱していた。

 破片から想像するに元は陶器の壷だったらしい。

 シェラハはまだ壷の形を四分の一ほど残している、一番大きな破片に目をやった。

 磨耗した表面には得体の知れない怪物の彫刻が施されており、それに習って複雑な文様が全体に這い回っている。

 見た事の無い配列だがこれは封印の言霊の筈だ。魔術の家庭教師に習ったものと酷似している。

 ここに猿が封印されていたのかも知れない。船の揺れで荷物の山から転がり落ち、砕けたのだろうか。

  しばらく考えに更け込む彼女の背後で、体重を預けられた床がみしりと鳴る。

 ぞわりと全身が総毛立つような感覚。

 シェラハが振り返った時にはもう、すでにその白い衝撃は彼女に飛びかかっていた。



  ひゃっと叫んで尻餅を付いたシェラハに、ジャロットとカムダが同時に駆け寄ってきた。

 「いたか?!」

 意識が肉体に戻ると同時に、全身から冷たい汗が噴き出して来る。

 精神力の酷使によりひどくめまいがしたが、彼女は目頭を押さえながら何度も頷いた。

 「船底に…大きくて白い獣みたいな生き物が。途中、針を受けて死んでいる人がたくさんいて…」

 「お疲れ様です。後はおまかせ下さい」

 言いながらジャロットは彼女に手を貸して立たせた。

 カムダ達傭兵はもうシェラハには目もくれずに二言三言話し合った後、いざ船内へと足を踏み入れて行く。

 「っしゃあ、行くぞ!」



  囮が扉の奥へと消えてから、しばらく甲板の上は言いようのない緊張に蝕まれていた。

 誰かが飲み込む唾の音さえ波に混ざって聞こえて来る。

 シュマリは最前列の真ん中、丁度扉を真ん前に臨んだ場所を割り当てられた。

 真っ先に敵の攻撃を受けた際にその図体を弾除けにする為に傭兵達が仕組んだのだが、当の本人は一番目立つ場所に

 祭り上げられて呑気に喜んでいる。

 「今日もいい天気だっただなー、夕焼けが真っ赤だ」

 夕陽を浴びて白銀の毛皮をオレンジ色に染めながら大あくびをする彼に、他の傭兵たちが疎ましげな視線を送っているのは

 言うまでもない。

 シェラハはと言うと、やはり彼の傍らにくっついていた。

 「大丈夫かしら」

 不安を隠せない彼女の頭の上に、シュマリの大きな掌が被さった。

 「あのおっさん達かあ。あー、大丈夫じゃねえか」

 「だってもう、かなり経ってますよ」

 扉のすぐ近くには傭兵が数名付いて、中からの連絡を待っているが、それを知らせる気配は一向に無い。

 「中で寝てんじゃねえかあ」

 「もう!」

 自分の頭の上からシュマリの手をどけると、頬を膨らませた彼女はリヴァイアサン教徒が控えている最後列へと走り去ってしまった。

 「あんまりふざけるなよ。行っちまったじゃねえか」

 含み笑いをしながら、さっきの傭兵がシュマリを横目で見上げた。

 「別にふざけてねえだよ」

 「余計に悪い」

 その時、扉の前で控えていた傭兵が何かに反応し、さっと中に顔を突っ込んだ。

 シュマリらにも微かに男達の怒号やバタバタとブーツが床を蹴る音が聞こえてくる。

 「来るぞ!」

 見張りの一声に、戦陣の緊張の色合いがさっと変わった。

 顔を出すと同時に出鼻を挫くべく弓兵たちが弦を引き絞り、番えた矢の先端を扉に釘付ける。

 前衛を張った傭兵は各々の武器を構え、最後列ではリヴァイアサン教徒たちが印を結んで魔法の発動に備えた。

  ばらばらと扉から飛び出してきた囮の傭兵らは四人にまで減っている。

 最後の一人がほうほうのていで転げ出てきてからほんの一、ニ呼吸の後、半開きになった扉をぶち破った白い突風があった。

 仲間達の作った陣の隙間へと逃れた囮の傭兵達を追ったそれは、勢いを殺さずシュマリの胸倉へと飛び込んで行く。

 矢を放つ隙も、彼が叩き落す暇もなかった。

 咄嗟に灰色杖を盾にすると、白い獣はそれを蹴って足場にしながら上空へと跳ねた。

 マストの中ほどに取り付いたそれは動きを止め、そして傭兵達もようやく姿を視界に収めることができた。

  取っ掛かりに手をかけて傭兵たちを高みの見物と決め込んでいる獣は、やはり生還者が言う通り猿のようにも見えた。

 生命力の感じられない土気色の顔に宿った、濁った紫色の大きな眼が二つの暗い洞穴みたいにみんなを見下ろしている。

 猿のようだが全身を覆い尽くす毛は雪みたいに真っ白だ。いや、毛皮のように見えるが一本一本がシュマリの人差し指くらい太い

 針になっていた。

 普通ならこの見た目だけでちょっと圧倒される所だが、そこは百戦錬磨の傭兵と経験を積んだ教徒たち。

 しかも魔法の歌を聞いておいたから心には平静が満ち、次に取るべき行動にも滑らかに移ることができる。

 まず部隊の三分の一を占める七人ほどの弓兵が、今度こそは一斉に矢を射掛けた。

 同時にリヴァイアサン教徒達が魔法の詠唱を終わらせると、船の周りの海水から生まれた氷の矢が雨あられと飛んでゆく。

 傭兵達はうまい具合に半月型の陣形を組んでいた為、撃ち漏らした流れ弾が反対側の仲間に当たる、なんて事はない。

 しかし猿は疾風のような身のこなしでその場から飛び出すと、うまくロープを伝って彼らの頭上を逃げ回る。

 あちこちへ移動するので傭兵達も流石に同じ陣形のままではいられず、たちまち混戦になってしまった。

  シュマリはロープを伝って猿に追いすがろうと思ったが、勿論それは無謀な策だ。

 彼の体重に綱が持つかどうか疑問だし、そもそもあの速度に間に合う筈がない。

 猿は今、メインマストの綱を手に見張り台に陣取っていた。

 ぎゃあぎゃあと連中と小馬鹿にしたような耳障りな鳴き声をしばらく上げていたが、すぐに柵に捕まって妙な姿勢を取る。

 仰け反って空を仰ぐようなポーズになった瞬間、猿の背中の針が一斉に蜂起した。

 「針が来る!」

 カムダの叫び声に、盾を持っていた僅かな傭兵は慌ててそれを掲げ、そうでない傭兵は物陰か海に飛び込んだ。

 シュマリは幸いすぐ側に別のマストがあったので、体がはみ出さないよう精一杯お腹を引っ込めてその影へと滑り込む。

 瞬間、針は炸裂した。ホウセンカの種が弾けるみたいに。

 甲板に敷き詰められていた板や置かれていた樽、木箱、それにマストなんかに雨のように針が降り注ぐ。

 運の無かった傭兵数人が鎧に守られていない肉にそれを受け、ほとんど同時に気を失って倒れ込む。

 「あっこから降ろさねえとどうしようもねえなあ」

 たまたま同じマストの影に飛び込んだカムダに、シュマリはやはり呑気に言った。

 鎧に食い込んだ針を引っこ抜きながらカムダは吐き捨てるように言葉を返す。

 「あの速さでどうやって矢を当てんだ! ロープを引っ掛けるにしてもだな」

 しかし猿の針が生え変わるほんの僅かな隙を狙って、海から激しく飛沫を巻き上げながら飛び出したものがあった。

 海水でできた蛇だ。ばっと猿に巻き付き瞬時にして自由を奪うと、途端に凍り付いて甲板へと落下する。

 ジャロットが使った縛めの魔法だった。猿が次に飛び移る場所を予測して放ったのだ。

 こうなればもうこっちのものだった。猿は仰向けに落ちたので、背の針は床にしか打てない。

 傭兵らは揃って猿を取り囲むと、よってたかって自分の武器をその硬い毛皮に突き立てた。

 血がまったく出ない上に筋肉が石みたいに硬いのは、恐らく元は粘土か何かから作った魔法生物だからだろう。

 しばらくは傭兵達の怒声と刃が肉を砕く音、加えて猿の奇妙な悲鳴が続く。

 猿を拘束していた氷が魔力を失い、ただの海水に戻る頃には猿は原型を留めていなかった。

 体中穴だらけになり、腕やら足やらの肉がごっそりと抉られたそれは、断片的に人型を真似た彫刻の残骸のようにしか見えなかった。



  毒を受けて引っくり返っていた面々はリヴァイアサン教徒の毒消しの魔法により、しばらくしてから息を吹き返した。

 どうやらそんなに強力な毒でもないらしい。手当てが速ければ助かるようだ。

 囮に入って針を食らったメンバーも一命を取りとめ、しばし甲板で自分達の勝利を称える声が上がる。

 それに酔う暇も無いまま、戦いの後始末が始まった。甲板のあちこちに突き立った矢やら針を引っこ抜いたり、死体を引っ張り

 出してきて水葬の準備を始めたりと、各所で慌しく人が動き始める。

 大切な商品の損壊の具合を調べようと、別の船から渡ってきた商人ふうの男たちが大慌てで船内へ入ってゆく。

 カムダは甲板に並べられた死んだ傭兵達に労いの言葉をかけながら、リヴァイアサン教徒と一緒に短い祈りを捧げていた。

 戦闘中は甲板の隅っこの方で小さくなっていたシェラハも出て来て、安堵の表情を浮かべると、シュマリの顔を見上げた。

 「お怪我はありませんか?」

 「んあ。まあな。俺にかかりゃあんなもん、朝飯前だ」

 「お前は何にもしてねえだろ」

 すかさず傍らにいた傭兵から鋭い突っ込みが入ったが、彼は気にもしていなかった。

 「にしても腹減ったなあ。報酬だけんど、飯奢ってくんねえか」

 死闘の後でもこんな調子のシュマリに彼女は声を立てて笑ったが、視界の隅に毒消しの魔法を唱え終えたジャロットの姿を

 見つけると、そちらに向かって声をかけながら歩き出した。

 「ジャロットさん」

 彼女の小さな後姿を見送っていたシュマリの視界の隅で、灰色のものが蠢いた。

 最初、猿の死体をどうしようかと思案する水夫たちが突然の衝撃に吹っ飛んだ。

 その間から飛び出した白い疾風は真っ直ぐにシェラハへと向かっていた。

 戦いが終わって気が抜けていたせいだろう。リヴァイアサンの歌の効果もなくなっていた。

 だから、猿が死んでなくて動き出しただなんて誰も信じられなかった。

 一本の矢みたいに何の迷いも見せずに彼女に飛びかかった猿を一筋の白い風と表現するのならば、もう片方から飛び出して

 来たものは白い閃光と呼べた。

 あの巨体でどうやってそんな瞬発力が出せたのか、一瞬でシェラハに追いすがったシュマリの腕の中で銀光が霞む。

 そう、灰色杖が唸りを上げて振るわれたのは霞んだ、としか表現できなかった。

 灰色杖を胴に受けて吹っ飛び、空中で文字通り真っ二つになった猿が海へとばらまかれた頃、ようやくシェラハは異変に

 気付いた。






















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