プワゾンドールズ
- ディスティニィ・チャイルド -
プリンセス オブ エストラ
4.『絨毯海の交差点』
すっかり日が落ちて絨毯海にも夜が来た。
ようやく夕方の死闘の後始末が終わり、東風旅団は大幅に遅れた日程を取り戻そうと、大急ぎで重たい体を前に進め始める。
帆はいっぱいに夜の風を受けて膨らみ、まるで腹を立てた時のシェラハのほっぺたみたいだった。
夜空には宝石を散りばめたような満点の星たちと青白い月が笑顔を見せている。
ささやかな風と波の音も手伝って吟遊詩人なら一つ二つ曲のフレーズでも思い付きそうなシチュエーションだが、生憎と
『ビロードの果実』の上ではそんな繊細な感情など持ち合わせない男達の雑談と笑い声が野太い声で上がっていた。
日中のことを労い、ささやかながら船長から酒宴の許可が出ていたのだ。
振舞われた酒は安っぽいラム酒ではなく、彼が船長室から引っ張り出してきた秘蔵の葡萄酒である。
舌で溶ける芳醇な味わいに一同は顔をすっかり真っ赤にし、宴もたけなわという所だった。
傭兵の一人は意外なことにリュート(*)の才能があったらしい。前言を撤回せねばならない。
(*ギターのような弦楽器)
彼が弾く柔らかい音色に乗って、傭兵達はてんでバラバラなリズムで歌い始めた。
有名な曲らしく、うまい下手はともかくほとんどのメンバーが喉を鳴らしている。
海難事故で恋人を亡くしたにも関わらず港で待ち続ける女の悲恋を描いた歌詞だったが、どうにも彼らの歌声では始めて聞く
シェラハにとってそんな哀しい歌には聞こえない。
彼女はふと、何時の間にかサンダルを履いた自分の右足が動いている事に気付いた。
久しぶりに聞く音楽に、体が自然に調子を切っている。
その様子に気付いた傭兵の一人が彼女に歌唱を促す。歌詞なんざ聞いて覚えろ、後は適当でいいと付け加えて。
最初は戸惑っていたシェラハもやがて照れ笑いを隠し切れないまま、合唱に加わってゆく。
低い声の中に少女の水晶のように透き通った美しい歌声が重なった。
ジャロットは腕を組み、そんな一同の様子をやや離れた場所で眺めていた。
傍らではシュマリがテーブルの上の質素な料理をがっついている。
「商人の一人が調べてみてわかったんですけどね。あの壷はどこかの国の遺跡から発掘されたものらしかったんですよ」
「ふんふん、このパサパサしてるのは何てーんだ?」
「それはパンですよ。小麦の粉を練ってから、焼いて作るんです。
…で、中に封じられていたものは、蓋を開いた者を守るように命じられた魔法生物だったんです。
自然に落ちて割れてしまったから、何を守っていいのかわからずに暴走したんでしょうね」
「んじゃこの黄色いのは何だ? 変わった匂いがするだな」
「それはチーズです。ヤギの乳を発酵させた後、日保ちするように色んな香草が混ぜてあるんです。
…自分の守るべきものが何なのか理解できていないと、暴走を始める。
人間も多少の違いはあれど、同じなのかも知れません。僕は今回の事件について、改めて色々と考えさせられた気分です」
うんうんと神妙な面持ちで一人、頷きながら振り向いたジャロットの視線の先では、頬をいっぱいに膨らませているにも関わらず、
両手にチーズとパンを取ったシュマリの姿があった。
それらもまたすぐに彼の口の中へ吸い込まれてゆく。まるで何でも飲み込んでしまう渦潮の怪物、カリヴァディスのようだ。
傭兵達が酒を飲むのに気を取られている隙に彼は一人でテーブルの上のものを半分は平らげていた。
口の回りについた食べカスを器用に舌で舐め取ると、ビンごと葡萄酒を呷って口の中を洗い流す。
口を半開きにして呆気に取られているジャロットを前にシュマリは盛大なげっぷをした。
「世の中は広いモンだなあ」
「…はあ」
膨れたお腹を満足げに抱える巨体を見上げながら、彼を食料倉庫に放り込んだら東風旅団は数日で壊滅するのではないかと
いう恐怖にジャロットは戦慄した。
注意をリュートの演奏者とそれを取り囲む傭兵らに反らして見れば、そこでは男の歌声が一つ、また一つと止んで行く。
代わってゆるやかに雰囲気を支配しつつあるのがリュートの弦に添うシェラハの歌声だった。
静寂と波の音に合わせてその二つは絡み合い、歌詞の男と女のようにお互いを高め合う。
女が何年待っても男は結局帰る事は無く、病の床で彼女は遂に息絶えるのだが、歌詞の最後ではこう綴っている。
「―― やっとあの人のいる海へ 帰れるわ」
最後の一息で歌い終えた後、夢中で歌っていた彼女は今更ながらに自分に集中している眼の多さにぎょっとした。
沢山の視線が蜘蛛の巣みたいに自分に絡み付いている。
尾を引くリュートの弦の音が止んでも拍手をする者は誰もいない。
さっきまで雰囲気は一転して静かなものになり、ただ目頭を押さえたり、涙を拭う動作が拍手に代えられた。
「船に乗るヤツなら誰でも一度はあるんだ。この歌を聞くと、ここんとこにズキンと来るような経験がな」
リュートを弾いていた優男の傭兵がくい、と親指で自分の左胸を指す。
場が一気に盛り下がってしまったので、宴会は暗黙のままそれっきりでお開きになったらしく、傭兵達は見張りの当番を残して
寝室へと戻って行く。
そんな彼らをしばらく見送っていたが、すぐにシェラハは息を弾ませてシュマリの所へ駆けて行った。
葡萄酒とは別の酒を呷っていたシュマリの前で立ち止まると、彼女ははにかんだようにつま先で甲板をいじる。
「そのう…聞いててくれましたか?」
下に向けられていた彼女の吊り目がちらりと上目遣いにシュマリを見遣る。
彼は頭を掻いてしばらく無言だったが、ある時突然思い出したように頷いた。
「んあ。そうだな、うん。聞いてただよ」
「本当に?」
彼の態度にシェラハは厚い唇を尖らせた。
シュマリは彼女の疑いの視線から逃れようと慌てて大きな黒い瞳を傍らのジャロットに向ける。
「本当だともよ。なあ」
同意を求められた僧侶は曖昧に微笑んで頷いただけだ。
「じゃあどんな歌詞だったか言えますか?」
「そりゃあ…お前。…あー、アザラシの肉が食いてえとかどうとか」
「聞いてなかったんでしょう。もう!」
ヤケ
シュマリが手にしていた酒瓶を引っ手繰ると、自棄になったシェラハはビンの角度を垂直にして中身を口に流し込んだ。
「あっ、それは」
ジャロットが慌てて彼女の暴挙を制止した頃には、もう残っていた酒の半分ほどが彼女の喉を滑り降りている。
ぷはあ、と酒臭い息を吐き出してビンを口から離すと同時に、少女は音もなく引っくり返った。
「ありゃあ」
気の抜けた声を出したシュマリに、ジャロットは拾い上げたビンを渡した。
「これは蜂蜜酒ですよ。甘いけど強烈なんです」
その時、船内へ続くドアへ向かっていたカムダが思い出したように振り向き、こちらに向かってくるのに彼は腹の底から湧き上がって
くる嫌な予感に苛まれた。
昼間のことで何か文句でもあるのだろうか。
身構える小柄な彼を前に、筋肉で膨れ上がった傭兵はフンと鼻を鳴らす。
「てめェはひよっこの足手纏いのガキだ」
「何をいきなり」
杖を握る拳に力を増しながらジャロットは答えた。
しかしカムダは腕を組むと彼から視線を外し、吐き捨てるように告げる。
「今はまだ、な」
「?」
相手の言葉の意味がわからず眉根を寄せたジャロットにくるりと背を向けると、彼はそれっきり奥へ引っ込んで行った。
翌日、シェラハの朝は猛烈な頭痛に加えた吐き気と共に始まった。
おぼつかない足取りを支えようと、シュマリにしがみ付きながら虚ろな視線を真っ直ぐに床に向けている。
彼女の十倍は飲み食いしたと思われる彼は体の作りが違うのか、けろりとしていたのだけれど。
見送りに来てくれたのはジャロットと『ビロードの果実』の船長、それにカムダを含めた傭兵が何人か。
「世話んなったなあ」
灰色杖を肩に担いだシュマリはそんな彼らの顔を一通り眺め、朴訥そうに笑った。
「こちらこそ。できれば貴方もこの船の傭兵になって欲しいのですが…」
「食料倉庫が明日にでも空っぽになるわな」
船長の苦笑交じりの言葉にカムダが付け加えた。一同からしばし、笑い声が上がる。
そんな中、ジャロットがふと疑問を口にした。
「そう言えばどちらへ行かれるのですか?」
「んあ? 暑い国だ。砂ばっかりのな」
そう言うとシュマリはベルトのポーチから一枚の石版を取り出し、彼に差し出した。
三つの太い曲線が円を描くように刻まれており、その中央に六角形がある。
「村の魔術師がくれたモンだ。人間と交易のある鳥人族から買ったとか言ってただな。
この印がある場所に行きてえんだ」
「うーん…何の印でしょう」
眉根を寄せて顎に片手をやったジャロットが持っていた石版を、横から伸びてきたごつい手がひょいと持ち去った。
奪った石版をちらりと見ると、カムダは船長と顔を見合わせる。
「こりゃ聖地テメノスだ」
「んあ? 聖地?」
「エストラ王国っつう東の大国だ。そこの首都にある聖地を拝むのに確か、この通行証が必要だって聞いた」
彼の言葉に船長が付け加えたところ、この印はテメノスを抽象化したものらしい。
さすが海を股にかける男と戦争があれば世界の反対側まででも出かけて行く傭兵稼業、物知りだ。
「ふんふん。そのエストラ王国ってとこに行けばいいだな…あー、何だあ? シェラハの故郷じゃねえか」
それまで彼の腰にしがみ付いて、青ざめた顔をしながら時折『おえっ』とか『うえ…』とかうめいていただけのシェラハが、びくっと
身を震わせる。
「そ、そうかも知れないれす…」
変なろれつで彼女はぼそぼそと呟いた。
「そうかもも何も、そうに違いねえだろ」
「…」
それきりシェラハは何も言わなくなったが、ジャロットには彼女は意図的に言葉を封じたように見えた。
短い別れを済ませ、シュマリとシェラハは再び流氷の船で二人っきりになった。
見えない帆は風をいっぱいに受けて順調に滑り出し、すぐに東風旅団は見えなくなった。
甲板の淵でずっと手を振っていたジャロットの姿が海平線に飲まれて消えた頃、シュマリは一晩留守にしていた船の甲板の
上で報酬をじっくりと眺めた。
化け物退治で報酬代わりに受け取った品物は本人の希望でサハギンの通貨、それにジャロットの好意でカラカラの木の苗を一つ
譲ってもらった。
カラカラの木とはリヴァイアサン教徒が気の遠くなるような時間をかけて品種改良を重ねた小さな木で、潮風に強く海水でも育ち、
非常に頑健で枯れ難い植物である。
年中成る小さな実は非常に酸っぱいが新鮮な栄養をふんだんに含んでおり、船乗りを栄養失調から救ってくれる。
しかし苗の植えられた鉢をどこに置くかは少々迷った。
シュマリらの帰還を喜んでいるのかどうなのか、上空で騒がしい鳴き声を上げるカモメ達が彼の目に入る。
甲板に置いたらあっという間にあの居候たちに貪り尽くされてしまうだろう。
とりあえず鎌倉の中の窓際に置いておく事にして、シュマリは鉢植えを手に中へ入った。
中では幾分気分が良くなったらしいシェラハが彼の座布団の上に腰を下ろしている。
しかし膝を抱いて宙を見つめているその表情は、出会ったばかりの頃を思い出させる沈鬱なものだった。
ジャロットに言われた通り船が傾いても鉢が落ちないようテーブルにロープで固定しながら、シュマリは少しの間、彼女に
どう声をかけていいのか迷った。
呑気な彼にそうさせるくらい、今の彼女の雰囲気は暗雲立ち込めるものだったからだ。
「エストラ王国へ向かうんですか?」
「まあな。そう言う事になるだな」
シェラハの口調が鉛みたいに重いのは酒気のせいだけではないだろう。
「あの国は今、戦争の真っ最中です。
大昔に封印された不死王という怪物が甦って、グールの軍隊が国中を蹂躙しているんです」
「詳しいだなあ。ああ、お前、戦争になったから故郷から逃げてきたのかあ?」
ロープの端をきつく縛ると、シュマリはシェラハの前までやってきて腰を下ろした。
すると持ち上がった彼女の鋼のような視線が彼を真っ直ぐに射抜く。
「違っ…! いえ。…そういう事なのかも知れません」
怒鳴り声を押し殺したシェラハは、語尾を溜息に変えるとそう言ってまた視線をどこかへ放した。
一瞬膨れ上がった感情の熱もそれと同時にしぼんで行く。
シュマリは頭を掻くと彼もそれきり何も言わなくなった。
それから一週間は特に何もないまま過ぎて行った。
しばらくの間塞ぎ込んでいたシェラハもようやく明るさを取り戻し、相変わらずの間抜けっぷりを発揮し始めた頃、海の彼方に
粒のように島が見て取れた。上空では数え切れないほどのカモメが群れている。
海図を開いて確認すると三日前に逢ったサハギンの言う通り、あれは『絨毯海の交差点』と呼ばれる街・ジャンクションシティに
間違い無かった。
絨毯海の丁度中央に位置するこの島は宿場町として栄えている他、交易船がもたらすありとあらゆる物資・種族により街全体が
雑貨屋のようにゴチャゴチャしており、遠目にも様々な建築様式の建物がひしめいているのがわかる。
この街はどの国にも属さない自治区となっており、統治は四人の大商人から成る議会が行っているとの事だった。
「おー。賑やかなとこだなあ」
掌で目の上にひさしを作ると、シュマリは眼を細めて船の行き交う島の感想を漏らす。
久しぶりの陸地に彼の傍らに立つシェラハも目を輝かせた。
「島の面積自体は小さいんですけど、人口密集率がとても高いそうですよ。
ならず者が多くて、盗賊ギルド(*)が裏で街を支配してるなんて話も…」
(*ギルド…組合。組織))
「色々詳しいだな」
「この海を行き来する船乗りならみんな知ってますよ」
「あーあー。俺はどうせ田舎もんだ」
上陸の用意をしようと鎌倉の中から荷物を出し入れしていると、島はもうすぐそこまで迫っていた。
灰色杖を担いではしけに着くのを待っている間、シュマリはふと水面下を黒い影がゆらゆらと泳いでいるのに気付いた。
魚にしては大きい。かと言って鯨がこんな所にいるだろうか。
甲板の淵に寄ってしゃがみ込むと、彼は鼻を鳴らした。
「何だこりゃ」
激しく吹き上がった水飛沫がその言葉に答えた。
海中から長い首をもたげた影は海水を垂らしながら、何の遠慮も見せずに鼻先をシュマリに向かって突き出す。
うおっと叫んで飛び退った彼はぎょっとしてその怪物を見上げた。
ぬるぬるとした湿った光沢を持つ鱗に包まれた、シェラハの体と同等の太さを持つ巨大な蛇が、半月を湛えた眼でこちらを
睨んでいる。
更にその蛇の首の周囲で同じように海水が漏り上がり、水面を突き破って持ち上がってくる首があった。
合計で五つが海上に束となっているが、海中ではまだいくつかの影が揺らめいている。
「大海蛇かあ」
口調とは裏腹に緊張を漲らせると、シュマリは戦斧を肩から下ろして構えた。
しかし今まさに刃を振るわんと腕の筋肉が膨れ上がった時、灰色杖の柄にシェラハが飛び付く。
「待って!」
「うお!?」
彼女の小さな体をくっつけたまま、目測を誤った灰色杖は大きな半月を描いて空を薙いだ。
強風にあおられた枝の木の葉みたいに振り回されたシェラハだったが何とかしがみついたままで堪え、慌てて付け加える。
「このヒドラはジャンクションシティの衛兵です。湾岸警備の魔獣使いが操っているんですよ」
しばらく灰色杖を構えたままのシュマリとヒドラの息が詰まるような睨み合いが続く。
五つの首は十個の眼でシュマリを見下ろし、対してシュマリは一番最初に出てきた首に絞って見据えている。
先に引いたのはヒドラで、まるで睨めっこに飽きたようにゆっくりと海原へと沈んで行った。
沖合いへ向かう大きな影を見送りながら二人ともほっと安堵の溜息をつく。
「ヒドラっつーのか、ありゃ」
「ええ、首の沢山ある大きな蛇です」
ヒドラとは海竜のような胴に九つの首を持つ巨大な蛇である。
際限無く成長する大海蛇やクラーケン、カリヴァディスなどと言った、船乗りが恐れる海の魔獣だ。
頭が沢山付いているせいか(?)その中でもヒドラは比較的頭が良い方で、たまに彼らを飼い慣らした海軍や海賊なども存在する。
ジャンクションシティの警備隊もその例の一つなのだろう。
湾内には博覧会のように様々な様式の船が雑多に入り乱れており、行き交う人々の肌や髪の色、服装なども多種多様だ。
リザードマンや鳥人などの亜人種も数多く見られ、ここが無国籍の都市だと言う事が肌で感じられる。
眼を皿にしながらシュマリは改めて世界の広さを噛み締める思いだった。
船を繋ぎ止めている時に様子を見に来た衛兵が言うにはこの街の港に船を停めておくには手続きが必要らしい。
港の中央にある立派な船舶管理所に案内されると書類を渡され、それに眼を通した後にシェラハが署名する。
何故シェラハがかと言うと、羽根ペンは人間の手のサイズに合わせて作られていたからだ。
それを済ませて船の正当な所有者である事を証明する木の札を受け取り、街に行こうとカウンターに背を向けると、鎧を付けた
男が管理所に飛び込んできた。
息を切らせながら彼はシュマリを見上げ、自分は湾岸警備の隊長だと名乗る。
「あんまり見ない形をした船だったからな。ヒドラも警戒してたんだろ、先に手ぇ出してたらアンタらヤバかったぜ」
サレット(軽装の兜)を外した男は免れた危うくの事態の余韻からか、額から噴き出す汗を拭った。
「いやいや、ほんとにヤバかった。危うく不祥事になるとこだ。
泊まるとこなら『赤い砂亭』ってとこにしな。警備隊のケスパーの紹介だって言えば少しはまけてくれるよ」
「おお。済まねえなあ」
「別に気にしてませんから…」
二人がやんわりと受け答えすると、男は安堵の吐息を吐き出した。
彼の『ゆっくりして行ってくれ』という言葉を背に受け、シュマリとシェラハは街に足を向けた。
彼らが立ち去った後、警備隊長はしばらく二つの影の小さな方、つまりシェラハの背を眼で追っていた。
「小娘のケツばっか見てんじゃないわよ」
受け付けの馴染みの女にざっくりと言われ、彼はああ、と答えた。
鼻の頭に皺を寄せていぶかしむような表情を扉に向けている隊長を疑問に思ったのか、女はまた声をかけた。
「どうかした?」
「…いや。どっかで見た顔だなーって」
その『どっか』が彼ら湾岸警備隊の本部の、指名手配書の保管所だと気付くのは、彼が帰還してからのことだった。
船舶所で聞いた所によれば、サハギンとの通貨であるゴゴは両替しないと使えないとの事だ。
人に道を聞いて『赤い砂亭』までたどり着くと安い部屋を二部屋借りて(シュマリは相部屋でも良かったが、シェラハが絶対に
嫌だと駄々をこねた)、元は船乗りだった事が知れる日焼けした主人に両替所の場所を教えてもらう。
荷物はすべて宿に置いてきたが、こればっかりは家宝だからと言って灰色杖を担いだ白熊の戦士、そして褐色の肌の黒髪の
少女。
他所なら目立つ事この上組み合わせだが、様々な種族が野菜炒めみたいにごっちゃになっているこの街ではそんな事もない。
街は本当にゴチャゴチャだった。
石畳で舗装された街道は長い年月をかけて何千、何万という雑踏に揉まれてすっかりつるつるになっている。
シェラハの言う通り人口の密集度が恐ろしく高く、普通に歩いていても行き交う人々と肩が触れるほどだ。
熱い空気を噴き出す鍛冶屋からは焼けた鉄を叩く単調なリズムが漏れ、奥で樽に手足をくっつけたような体型の山の妖精族、
ドワーフがハンマーを振るっているのが見えた。
露店でブーツなどの靴の補修を行っている、赤い三角帽子を被った小人の老人はレプラコーンだ。鼻歌を歌っている様子から
陽気そうだが、彼らは妖精族の中でも特にずる賢いと言われている。
さっきから屋台で酒を呷りつつこちらを睨んでいる傭兵のような風貌の種族はトカゲ人間、リザードマンである。
また売っているものも様々で異国の衣服、アクセサリーや武器、砥ぎ屋や湯屋、船具などの店舗が並び、中には街路にはみ出して
半ば露店と化した店もあった。
特にリザードマンや森の妖精族であるエルフなどは人間とは食生活が異なる為、酒場は相手にする種族の数だけ種類がある。
確かにリザードマンは生の獣肉や魚を好むし、対してエルフは菜食主義だ。
お互いの食欲を減衰させない為には分ける必要があるだろう。
シュマリは始めて雑貨屋へ連れて来られた子供のように、目をしばたたかせながら街の様子に見入っていた。
「世の中にゃあ、色んなやつがいるだなあ」
「私もシュマリを始めて見た時、そう思いましたよ」
そんな会話を交わしながら、二人は大きなコインの形をした看板の下がった両替所に入った。
ありとあらゆる国の外貨を扱っているせいか、店内には各国の両替レートが大きく張り出されている。
彼らの手持ちのゴゴは金貨で十枚ほどになった。
「んー。色々買い込むにゃあ、ちょっと足りねえなあ」
店から出るとシュマリは珍しく困ったような表情を見せた。
人の波に体を持って行かれないよう彼の体にしがみ付きながら、シェラハが彼の顔を見上げて提案する。
「ああ、それなら香辛料を売ってみたらどうです?」
「香辛料ぉ?」
「ええ。私の船から拾っていたでしょう? ビンに入った、辛い粉ですよ」
一度宿に戻って彼女の言う物を市場に持って行くと、驚くほどの高値で買い取って貰えた。
何でも彼女の国の特産品の一つらしい。
「あーんな辛いモンどうすんだぁ?」
「料理に入れるんですよ。とても美味しくなるんですよ」
「んあ。そんなモンか」
二人はマーケット・ガーデンと呼ばれる広場の中央に位置する噴水のへりに腰を下ろし、しばしの休息を楽しんでいた。
この広場では年中市が開かれ、世界中から持ち寄られた様々な品が商談にかけられている。
またそう言った商人達を相手に屋台や見世物の大道芸人なども各所で持ち前の技を披露していた。
とても賑やかな場所で、喧騒に負けずに相手にこちらの意思を伝えようと皆大声で喋り、それが更に輪をかけて喧騒を大きくしてゆく。
長い静寂の冬が支配する大地からやってきたシュマリにとっては、この騒がしささえもが珍しい。
隣にちょこんと座っていたシェラハは、飽きもせずにそんな様子を眺めていた彼に遠慮がちに声をかけた。
「シュマリ」
「お前、ジャロットん時は『さん』て付けてたよなあ。何で俺の名前ぁ、初対面の頃からそのまま呼んでんだあ?」
思わぬ返答にシェラハは開きかけた口を閉じる事ができなくなった。
シュマリの口調は相変わらずののんびりしたもので、攻めるようなものはまったく無い。
しかし彼女は焦った。
「いえ…別に。親しみを込めているつもりだったんですけれど。気になさってましたか?」
「何でだ?」
「いえ…あの。してないのならいいんですけどね」
どきどきする胸を押さえて、シェラハは話を戻した。
「湯屋に行きませんか?」
「ゆや?」
「お風呂があるところですよ」
「風呂? 風呂って温泉の事か?」
シュマリの故郷では風呂と言えば、山のふもとにある谷底から懇々と湧き出してくる温泉のことだった。
ちなみにムグミカ族は入浴は一年の初めに身を清めたり、傷や病を治す理由以外ではほとんど行わない。
その事を伝えると、シェラハは心なしか彼との距離を広げたように思えた。
「有料だろ? いやあ、あんまりカネあるってワケでもねえしなあ。お前だけ行ってくりゃ良いだろ」
「絶対嫌です! 汚いでしょう、シュマリも入ってくれなきゃ絶対嫌!」
歯を剥いてそう主張する彼女にシュマリは頭を掻いた。
「あのなあシェラハ、食料やら何やら買い込なきゃいけねえし、この島ぁ出る時にカネ払わなきゃなんねえんだぞ。
無駄なカネ使ってっと後でなあ…」
船の預かり賃と入島税は島を入る時か出る時に一緒に払う事になっている。
彼らは手持ちがゴゴしかなかったので後者だ。
「絶対嫌!」
彼の言葉を一喝して遮ると、シェラハはそれきりそっぽを向いてしまった。
ジャンクションシティは先にも述べた通り、四人の大商人から成る議会が統治している。
建前の上ではその四人に上下の差は無いという事になっているが、現実に最大の発言力を持っているのはたった一人の
商人の男だ。
父親の残した莫大な遺産を手にした彼は手段を問わずにカネを掻き集め、一躍議会のリーダーとして伸し上がったのだ。
その為この街で最も黒い噂と敵の多い男でもある。
彼の館は街の中央にその権威を見せ付けるかのようにそびえ立っていた。
それぞれの頂点に尖塔が立った五角形を成す城壁に囲まれた要塞のような館で、彼の私兵が昼夜眼を光らせている。
その館内の一つ、贅を尽くした応接間で件の商人、ジェフキンス=カロルーダは商談に花を咲かせていた。
体が埋もれそうになるような毛皮を張り巡らせたソファに身を沈めたその姿は、上等な布地のゆったりとした服装に身を包んだ、
一見して魔術師にも見える風貌である。
指四つ分ほどに綺麗に切り揃えられた顎鬚は真っ直ぐに下に伸び、胸元まであった。
身振り手振りを交え、時には高笑いを織り交ぜて話を進める様子は貴族ながら親しみを持てる気さくな性格のようにも見える。
まだ三十代に入ってすぐだろうが、相手を見据える眼だけは相手の心の内側を吟味し尽くした老人のような鋭さを持っていた。
一通り話が済んで相手の商人が部屋を出て行くと、彼は大きく溜息をついてソファに身を委ねた。
仰け反るような姿勢になった彼の視線の先ではきらびやかなシャンデリアが吊り下がっている。
ふと扉が開く気配があり、彼は姿勢を戻した。
巡らせた眼の先にいたのは彼の侍従だ。一礼を済ませると彼は赤い絨毯の敷かれた室内に踏み込んだ。
「失礼します。湾岸警備隊から連絡がございました」
「何だ」
気の抜け切った口調で答え、ジェフキンスは覚めたお茶に手を伸ばす。
侍従は彼の背後まで歩み寄り、一枚の巻紙を彼に差し出した。
「発見致しました」
受け取った紙をくるくると開き、そこに描かれていた人相書きにジェフキンスは眼を見開いた。
一瞬、飲み込むことを忘れたお茶をゴクリと喉の奥に押し込むと、手の甲で口元を拭う。
「どこで?」
「船舶管理所で見たと。白熊の獣人と共にいたという話でございましたが」
「白熊?」
「は、そちらの方はまだ調べが及んでいないので何とも…」
「現在、どこにいる?」
「尾行を付けておりますれば、すぐに連絡が来るかと」
「良し良し、いいぞ。うむ、これは悪くない」
片手を小さく振り回して歓喜を表現した後、彼は巻紙を侍従に押し付けて飛び跳ねるように立ち上がった。
「引っ捕えろ。俺は彼女をお迎えする準備をする!」
そう言い残して風のように主が立ち去るのを確認すると、初老の侍従は巻紙を開いて改めて内容を確認する。
その白いものが混ざった眉は悲哀に歪んでいた。
「やれやれ。因果なものだ…」
溜息混じりに呟くと、彼は巻紙を手に主の背を追った。
巻紙の内容は少女の人相と共に、彼女を捕えた者に生死を問わず金貨千枚の報酬を与える事を約束していた。
罪状は殺しで、殺されたのは彼女の実の両親である東の王国の貴族とのこと。
彼女の名前はシェラハ=スェルタン=エストラード
―― …