プワゾンドールズ
- ディスティニィ・チャイルド -
プリンセス オブ エストラ
6.ジェフキンスの館
「罪状など勿論、でっち上げですとも」
七面鳥の香草焼きオレンジソースがけの切り身にナイフを入れながら、ジェフキンスは唇を吊り上げた。
唇にかからない程度の口髭が一緒に歪んで笑みの形を作る。
これがジェフキンスの笑い方だった。
「不死王殿は貴方の御身を欲しがっておいでだ。
国を得ても民衆どもは第一王女である貴方が生きている以上、決して侵略者を認める事はないでしょうからな。
いやはや、恐れ入る。民の信頼は絶大というワケだ…貴方のお父上はまさに王の中の王だ」
テーブルの彼方のシェラハへと送られる彼の言葉は楽しんでいるような口調を含んでいる。
シェラハは何も答えない。反応もしない。彼を見もしない。
しかし次にジェフキンスが付け加えた言葉には、さすがの鉄面皮も崩れ落ちた。
「最も、あのお方も不死王の手にかかった今、貴方だけが最後の希望という事になりますが」
燭台の上で揺らめくロウソクの向こう側でシェラハの顔が持ち上がる。
緑の瞳はそのもっと深い、底知れぬ場所で負の色を湛えていた。
恨みとか憎しみとか悲しみとか、とにかくそういうものを全部引っ掻き回して混ぜた色だ。
その混沌は彼女自身にとっても何なのかよくわからなかった。ただただ、彼女の小さな胸を熱病のように熱くした。
シェラハは心が砕け散るような感覚を味わった。
「これは失礼。辛い事を思い出させてしまったか」
一応目尻を下げて申し訳なさそうな顔をして見せるジェフキンスの視線の先で、彼女は再び視線を下げた。
もう二度と彼の顔を見るまいと決意したかのように。
ジェフキンスは少女の様子を鼻で笑うと、椅子を引いて席を立った。
右手の窓の下にはジャンクションシティの夜景が広がっている。さながら、天上の星と上下相称になるかのごとく瞬いて。
その向こうには暗く重い夜の海が果てもなく続いていた。
窓とバルコニー越しに見える夜景を全身で受けるかのようにテーブルの前に立つと、彼は胸の前に垂れた顎鬚を撫でる。
「ご存知の通り、海を越えてあらゆる人と物とがやってくるこの街は非常に不安定なのです。
何もかもが常に一定しない、危ういほど揺らぎ多き街。
ジャンクションシティは兼ねてより貴方の国、エストラ王国と強い同盟を結んでその不安を解消していました。
寄らば大樹の陰…というワケですよ。しかしエストラ王国が不死王の手に渡った今、この街の後ろ盾は存在しない。
国交が途絶えた時も一応、前向きに努力はしたのですよ。
もっとも、現エストラに送った使者は首だけになって送り返されて来ましたが」
下を向いていたシェラハの目には白い葡萄酒の注がれたワイングラスと、ジェフキンスと同じ前菜の料理の乗った皿しか
映っていない。
すっかり冷めてしまった筈のそれは彼女の沈鬱な視線を受けて今にも凍り付いてしまいそうだった。
カツカツという足音が迫ってくる。それはシェラハのすぐ脇で止まった。
ジェフキンスの声は今度はシェラハのすぐ耳元で囁かれた。総毛立つような悪意をたっぷりと含んで。
「不死王アルハザードは、我らのように命の定理に縛られた者の言う事などお聞きにならないようだ。
しかし貴方の御身を手土産にすれば、きっとお心も変わられるでしょうな。そして」
カツカツと言う足音は今度は小さくなってゆく。
「彼の後ろ盾を手にしたら私は商人議会を永久に解散するつもりです。
この街に王は一人でいい」
夜の帳が上がって暁光が世界に手を伸ばす頃、街が動き出す。
朝食を終えた商人達が今日の仕事を始めようと市場に現れ、また道に市民のうねりが出来始める一方、裏路地に立ち並ぶ
娼館はしばしの惰眠に貪るべく戸締りを始めていた。
ジャンクションシティの朝はさざなみのように静かだ。最も、日中ともなればすぐに嵐のような喧騒に包まれるのだけれど。
街を見下ろすジェフキンス邸でも警備に当たっていた夜勤の私兵達が日勤と交代し、疲れた体を抱えてぞろぞろと宿舎へ
向かう所だった。
そんな彼らとすれ違い、館を目指す少女がいる。
一抱えもあるバスケットを胸に抱いてなだらかな坂道を昇った彼女は、まっすぐに門に向かって行った。
開かれた大扉の前では門番の兵士が二人、すぐ脇にある詰め所の壁にもたれかかって雑談に興じている。
彼らに近づきながらジャジャはひょいと屋敷に目をやった。
窓越しに慌しく行き交う召使たちの姿が見える。館内は朝の喧騒に揉まれているようだ。
余所見をしながらとことことやってきた少女に門番が気付き、視線を下げた。
「毎度ぉ、輝石堂ですぅ」
ふにゃふにゃした笑いを浮かべて相手の警戒を解くとジャジャは頭を下げた。
「何か用かい」
答えたのは詰め所から顔を出した別の門番だった。
顔見知りを見つけてジャジャは笑みの濃度を上げ、バスケットを差し出す。
「ややや、ジェフキンス様には色々お世話になっているのでほんの、心ばかりのお返しを、と思いまして。
つまんないもんですけどこれ、ジェフキンス様へと…」
バスケットを受け取った男が被せられていた布を取ると、二つのワインが横たわっていた。
両方とも緻密な細工を施された酒瓶に詰められており、ビンの口の所にそれぞれ赤と青の巻貝の飾りが下がっている。
「その、端っこの。緑色の蓋がついてんのは、兵隊の皆さんでどぉぞ」
「あ、そう? そりゃ悪いねえ」
渾身の笑みに兵士は口笛を一つ吹いて答え、ジャジャは彼らに見送られてその場を後にした。
屋敷から歩いてすぐ、坂を下った直後からはもう雑多な街が広がっている。
周囲を油断なく警戒して尾行がない事を確かめると、ジャジャは路地に飛び込んだ。
誰かが捨てて行ったゴミやら何が入っているのかもわからない木箱やらを器用に避け、ハーフリングは鼠のように駆け回る。
昼尚暗くカビ臭い湿った空気が充満するその道は何度も分岐し、やがて彼女を半壊した倉庫へと導いた。
長い年月の風雨に朽ちて天井は半分ほどがなくなっており、壁も虫食いのチーズのように穴だらけだ。
ここがジャジャの秘密基地だった。入り口は右手に回った場所にある大きな穴と決めている。
中は広いが打ち捨てられた様々な物資に埋め尽くされており、居場所にできるスペースはごく僅かしかない。
その僅かに開けた奥の一角では昨日同盟を組んだばかりの白熊が床に腰を下ろしていた。
「おー。どうだぁ」
「抜かりなし!」
ウインクすると握り拳を振り上げ、ジャジャはシュマリに答えた。
一応彼らがいる場所だけはきちんと整理されており、どこから拾ってきたのか小さなテーブルとソファもあった。
恐らくジャジャが修理したと思われる棚には様々な小物が並べられており、人形やら壷やら真鍮の鏡やら、その他得体の
知れない物品が狭苦しそうに肩を寄せ合っている。
これらは彼女のコレクションであちこちから盗んできたものだそうだ。
ジャジャはソファに身を沈めると、ポケットから二つの巻貝の殻を取り出した。
赤と青の二つで、彼女がジェフキンス邸に差し入れた酒瓶についていたものとそっくりだ。
「赤いのが屋敷、青いのが兵隊だからね」
そう言って彼女はシュマリに青い殻を差し出し、自分は赤いのを手に取る。
二人は同時に貝殻を耳にくっつけた。すると貝の遠くからの声がガヤガヤと聞こえて来る。
「おー。ほんとに聞こえるなあ」
「しーっ! ちゃんと聞いててよぉ」
ジャジャに咎められて彼は頷き、それっきり口を閉じた。
これはあの湯屋で見た言の葉繋ぎと同じようなもので、二つの貝殻は中で空間が繋がっているのだ。
ジャジャが所属する盗賊ギルドから借りてきた物で主に盗聴に使われ、隠したり持ち運ぶのに便利だが上位の魔法使いしか
作れない為、絶対数が少ない上に非常に高価な代物である。
彼女の作戦とはまずシェラハの居場所を探る事だった。奪い返す策を練るのはそれからだ。
シュマリの貝殻から聞こえてきたのは酒の価値を批評する兵士達の声だった。
ちなみにこの酒はジャジャが酒場から盗んできたもので、それなりに高級品だと言う。
口にすればどんなもんかわかる、と兵士の一人は言っていたが、勤務が終わってからという事で落ち付き、酒瓶はどこかに
置かれたらしい。
ガチャガチャとかゴトゴトとか、どこかにしまい込む音がしてそれっきりだ。
戸を閉めたのか蓋を下ろしたのかわからないが兵士の声も遠くなり、聞き取れなくなってしまった。
「ダメだあ。こっちは聞こえなくなっちまっただ」
「盗賊の仕事は根気で勝負だよ。『藁をかじって好機を待て』ってのがウチのギルドマスターの座右の銘」
ジャジャは眼を閉じて耳に意識を集中させたまま言った。
俺は戦士だってのに。内心ぼやいて眉間に皺を寄せたシュマリは貝殻の位置を耳元へ戻す。
彼を言い包めたジャジャの様子はいつもの気の抜けようとは正反対だ。
輝石堂の主人が見たら何でその集中力が仕事に活かせないんだ、とでも悪態をつくだろう。
彼女の受け持っている方の酒瓶は館の中へと運ばれ、どうやら酒蔵に入れられてしまったようだ。
恐らくは昼食か夕食前にジェフキンスに飲ませる為に召使が取り出すだろうと信じ、ここからは持久戦を覚悟した。
二人は朝から始めて夕方までそんな事を続けていた。
用足しは交代で、食事を買いに行くのやらはジャジャがやった。
貝から聞こえてくるのは雑談ばかりで、退屈のあまり暴れ出したジャジャがシュマリに藁をかじれと言われたりしている内に
とうとう二人はそれぞれ重要な情報を掴んだ。
まずシュマリは先輩兵士が新入りに説教を垂れている会話から、今晩は館の内部の警備が手薄になる事を知った。
毎月この日は決まって特別な客が来るとかでジェフキンスは人払いをするのだそうだ。
一方、ジャジャの目論見通りジェフキンスは夕食の食前酒に差し入れの酒の封を切った。
シュマリの言う特別な客とやらの来る日は食事を早めに済ませるらしい。
執事への命令からシェラハの幽閉されている部屋もわかった。
そしてもう一つ、明朝一番の船で彼女がエストラ王国へ連れて行かれることも。
ジャジャがあらかじめ買い入れておいた夕食を取りながら、二人は作戦会議を開始した。
「特別な客、ねえ…」
パンの欠片を口の周りにいっぱいくっつけながら、ジャジャはむしゃむしゃと咀嚼中に呟いた。
「誰の事だろな」
焼き豚を齧りつつシュマリが答える。
「いや。心当たりあるんだよん」
「何だァ? どこのどいつだ」
「んー、娼婦の知り合いがさあ。毎月ジェフキンスの屋敷に呼ばれるって話してた事あるんだ。
ひょっとしたらアレのことなのかな」
夜の仕事の女の生態(まして人間の女の事など)を知る由もないシュマリは曖昧に頷いた。
舌で器用に口の周りのパン屑を舐め取ると、ジャジャは立ち上がって膝を払う。
「ま、とりあえずそいつに聞いてみよっか?」
この時はあまり気にしなかったのだが、シェラハがエストラ王国へ連行されるという事も謎の一つだった。
詳しいことはわからなかったがジェフキンスが彼女を母国へ連れて行く必要とは?
街はすでに真っ暗だが、ヒカリゴケを詰め込んだ街灯の眩い光の下では様々な人が行き交っていた。
ジャンクションシティでは公的な賭博のみ合法となっており、街に二つある公営カジノには人だかりができている。
そしてそんな欲望に燃える男達を獲物にすべく、街娼もまた光に惹かれる蛾のように集まってくるのだ。
ジャジャは実際人間も蛾も大して変わらないように思えた。
はぐれないように、という彼女のアイデアでシュマリはハーフリングを肩車して街を歩いていた。
異様なまでに目立つ姿だと思われたが夜ともなるとこの街もロクでもない風体の面々がゴロゴロしており、特に周囲の
注目を浴びるふうもない。
なめらかな白熊の毛皮を滑り落ちないように彼の額当てをしっかり掴みながら、ジャジャは人差し指でシュマリの行く先を
示した。
自分の数倍はあろうかと言う巨体を意のままに操っていると船頭になったようで気分が良かった。
二人はカジノの一つ、『33回目の墓穴』という縁起でもない名前の賭場へとやって来ていた。
ジャジャが言うにはかなり古い歴史を持つカジノで、改名する前に名前の回数だけ破産者が出たそうだ。
『34回目の墓穴を掘るのがお前だぜ』がこの賭場の決め台詞らしい。
シュマリは彼女に言われるまま賑わう表の入り口を避けように裏路地に入り、建物の裏手に回って勝手口へとやってきた。
腰に剣を下げたいかつい面構えの男が二人、酒を呷りながらこちらに視線を絡めている。
「ハァイ。元気かな?」
シュマリの背中から滑り降りてジャジャは二人に笑顔を送った。
「失せな、ガキ」
用心棒はおよそシュマリの予想通りの対応をしたが、彼女は二人に身をよじって見せる。
「ああん、そんなふうに言っちゃイヤん。
ミカティって人に逢いたいんだけどー、ジャジャが来たって言ってくれる?」
「失せろっつってんだろ」
無げもなく言われたジャジャに傍観を決め込んでいたシュマリが囁きかけた。
「ぶっ飛ばすか?」
「時間もないし、そうしよっか」
男達が彼らの会話に腰のものに手を伸ばすが、ジャジャはそれより速く懐から人差し指くらいの太さの筒を抜いていた。
片方の端っこを口に付けて息を吹き出すと中から飛び出したものが男の腕に突き刺さる。
最初のうちは先手を打たれて仰天していた用心棒も、腕に生えているものがただの吹き矢だと知って唾を吐いた。
「こんなもんで人が殺…」
筋肉で膨れ上がった体はゆっくりと崩れ落ち、すぐに大いびきが上がる。即効性の眠り薬を塗ってあったのだろう。
得意になって胸を張る彼女の頭上で火花が咲いた。
残りの一人が薙いだ剣が彼女の首筋に届こうかという時に、シュマリが手を伸ばして篭手で刃を防いだのだ。
ジャジャがそのまま足を払うと、剣を弾かれて体勢を崩していた男は見事にすっ転んだ。
腰を打ってうめく用心棒に吹き矢を装填し直した筒を構えたジャジャが詰め寄る。
「ミカティはどこ?」
「中だよ、中」
遂に観念したらしい男は腰をさすりながら親指でドアを示した。
用心棒を尻目に中に入ると、そこはすぐに娼婦たちの控え室になっていた。
忙しげに身支度をしている彼女らはカジノの経営側に上がりのいくらかを支払う代わりに、店内で客を取る事を許されている。
この建物の一階と二階がカジノ、三階が簡素なホテルになっているのはそういう訳だ。
ドレッサーや姿見と睨めっこをしていた娼婦らの視線が場違いな二人組にさっと集中する。
着替えの途中で半裸の女たちもいたが、シュマリにとっては別に眺めても面白い物でもなかった。
そんな中の一人、二十代も半ばと言った感じの背の高い女が目をぱちくりさせながら小走りに駆け寄ってくる。
目鼻のくっきりとした美女で、甘ったるい香水の香りをぷんぷんさせている。
「ジャジャ」
「ミカティ!」
やや鼻にかかるハスキーな声の彼女にジャジャが抱き付いた。
といっても身長の関係でミカティの太腿のあたりに彼女が蝉のようにくっついただけなのだけれど。
「大した用じゃないんなら今度にしてくれる? 今夜は予定があるの」
引っ剥がされたジャジャは困ったような顔をすると、振り返ってシュマリを見る。
彼は巨体が勝手口のところに引っかかって身動きが取れなくなり、何とか室内に入ろうと悪戦苦闘していた。
ジャジャの視線を追ってシュマリを見たミカティの表情が途端に真顔になる。
「もしかしてアレを抱けって言うの?」
「えー?! 違う違う」
慌てて否定しながら、ジャジャはジェフキンスとシュマリの事を説明し始めた。
そんな訳でミカティを先頭に二人は連れ立って丘を昇っていた。
そう、二人だ。頭からすっぽりとマントを被った彼女、それに大荷物を背負ったシュマリのみである。
灰色杖はジャジャの命令で彼女の秘密基地に置いてきた。
彼は家宝を放置することにごねたが、あんなものを背負っていては忍び込むどころの話ではない。
街の光を受けて浮かび上がるジェフキンス邸は見事に夜空をくり貫いている。
しかし屋敷はひっそりと静まり返り、所々窓から光が漏れている以外は何ら気配が感じられず、廃墟のようだ。
対照的の屋敷のふもと、屋敷をぐるりと囲む城壁の内側では警備兵達がひっきりなしに行き交っている。
所々に設けられた物見の塔の上では夜目の利く者から選ばれた兵が見張りを請け負っていた。
なだらかな坂道を行く際、ミカティは溜息のように言葉を漏らす。
「本当に気乗りはしないのよ。むしろ逃げ出したいくらいなんだから」
「大丈夫だっての、あんたに迷惑はかけない。…と、思う」
付け足されたジャジャの言葉の語尾は蚊が鳴くような声だった。
ちなみに彼女の声がどこから聞こえたかと言うと、シュマリの背負った木箱の中からだ。
「もう、今回だけよ。本当に絶対に今回だけだからね」
「へーい。感謝してます」
口をへの字に曲げたミカティが早足でずんずんと進んだ事を確認すると、シュマリは背中の荷物に囁きかけた。
「お前、あの姉ちゃんとどういう関係だあ?」
「ミカティの弟が昔、熱病にかかったの。治療に必要な薬草がすんごい高いヤツでさ。
あたしが盗んできてあげたんだよ」
「おー? お前さんでも世の役に立つ事があるだな」
「うっさいわボケ!」
大仰な驚きを見せて背の荷物に振り返ったシュマリに対し、ジャジャは箱の内側に蹴りを入れて反論した。
門番の男は欠伸をしながら夜景を見下ろしていた。
風に乗って届く楽しげな音楽や女の使う香水、酒と料理の匂いは彼の欲望を堪らなく刺激する。
仕事がなければこの場をほっぽり出して行きたい所だ。
馴染みの娼婦がくれたスカーフをポケットに入れたり出したりを繰り返し、今すぐにでも会いに行きたい昂ぶりを抑えようと
男は意識を他所に移した。
きらびやかな夜景からずれた視線はしばらく当てもなくさ迷った後、坂道から姿を現した一向へと釘付けになる。
傍らの華奢な人影は女だろうが、もう一つの熊みたいに巨大な人影は一体何なのか。
二つは真っ直ぐにこちらへやってくる。
思わず腰に下げた剣の柄を握り締め、門番は声を張り上げた。
「何用だ!」
「あたしよ。ミカティ」
フードを跳ね上げるとミカティは紅を引いた唇を吊り上げ、にっこりと笑って見せる。
収まっていた金髪がこぼれ落ちて松明の光を砕き、彼女の顔立ちに更なる美を与えた。
うっかり見入ってしまった門番はしばらく魂を抜き取られたような顔をしていたが、慌てて首を数回振って正気を取り戻す。
彼は咳払いをしてからシュマリを指差した。
「はあ…後ろのは?」
「荷物持ちよ」
「荷物?」
「あら、ジェフキンスさんから何も聞いてないの?」
柳眉を吊り上げて目を見開き、ミカティはシュマリに目配せする。
「荷物ってどんな…」
「彼が今夜は『道具を使いたい』って言うから。んもう、言わせないでよ」
珠に染まった頬に手をやり照れ笑いをする彼女に、門番は曖昧な笑みを返した。
果たしていかなる道具が入っており、我が主はその道具をどのようにこの目の前の美女に用いるのであろうか。
妄想で彼の頭は弾け飛ばんばかりである。
「通ってもいいわね?」
その時、もう一人の門番が敷地の中に足を踏み出そうとする彼女に声をかけた。
「いえ、一応確認させてもらいます」
内心でぎくりとした事を彼女は微塵ほども表の表情には出さない。
シュマリは明らかに動揺していたが、門番は彼まで注意が行っていない。
取り次ぐ為に屋敷の中に入ろうとした彼に慌ててミカティが擦り寄った。
「ねえ、彼が時間にうるさい人だって知ってるでしょ?
私が遅れたら彼ってばとっても不機嫌になるの。お願い、今回だけは見逃して」
甘く媚びを含んだ声に門番は彼女をしばらく見下ろしていたが、やがて無言で道を空けた。
「ありがと。今度カジノに着てね、サービスするわ」
「いえ」
艶然と微笑む彼女に門番は少しも照れた様子も動揺も見せず、鉄面皮を張り付かせたまま冷徹に言い放った。
ミカティが内心彼が同性愛者じゃないかと疑ったくらいだ。
「主の部屋までお供させて頂きます。異存はありませんな?」
思わずシュマリと顔を見合わせたが、ミカティは微笑を浮かべて頷いた。
番兵の監視つきでようやく通された屋敷の内部は、隅々まで贅が凝らされていた。
ヒカリゴケを詰め込んだランタンやシャンデリアの元、化粧板の張られた壁と赤い絨毯が端から端まで伸びている。
所々にかけられた絵画や飾られている年代物の壷なども、素人目にも安物には見えない。
しかしどこもかしこも薄ら寒くなるほど、人気はまるで無かった。
娼婦を呼ぶ日はジェフキンスは自宅を空っぽにするのだ。理由はミカティ他、彼の相手をした経験のある娼婦しか知らない。
「怪しい素振りを見せちゃダメよ」
物珍しげにきょろきょろするシュマリにジャジャがひそひそ声で咎めを入れた。
彼が背負っている箱には空気穴を兼ねた四角い隙間がいくつか開いており、そこから外の様子を覗う事ができる。
勿論、シュマリの背後にぴったりついて来る門番に吹き矢を当てる事くらい朝飯前だった。
音も鳴く倒れた男がぐっすり眠り込んでいる事を確認すると、シュマリが背負っていた木箱を下ろして蓋を開く。
中から飛び出たジャジャが素早く猿ぐつわを噛ませて縛り上げると、シュマリが男の体をそのへんの物陰に放り込んだ。
「私に迷惑がかからない程度に頑張ってね」
「ああ、色々ありがとな」
お互いに手早く簡素な挨拶を交わすと、ミカティは客の待つ部屋へ向けて姿を消した。
残された二人は昼間得た情報を元に、シェラハが捕われている部屋へと極力足音を立てないよう走る。
と言ってもシュマリの体重ではいかに絨毯敷きと言えど、どうしてもどすどすという足音が立ってしまう。
職業柄それが我慢ならないのか、先頭に立っていたジャジャは振り向いて自分の足元を指差した。
「つま先で走るんだよ。体重を常に踵からつま先に移動させる感じで!」
「細かい奴だな、どうせ誰もいねえんだろお」
「あの門番が帰ってこないなら速かれ遅かれバレるよ、急がないと」
やれやれと呟きながらシュマリは彼女の背を追って階段を駆け上がった。
その部屋には圧し掛かってくるような重い闇が満ちていた。
石の床を蹴る硬質な足音を暗黒に響かせながらミカティが一歩を踏み出すと、途端に息苦しくなるような闇が纏わりついてくる。
闇は微かに鼓動していた。人を含んだ闇特有の、奇妙な粘つきが感じられた。
どこかでパチンと指の鳴る音がすると壁にかけられていた燭台に一斉に火が灯り、みるみるうちに闇を払ってゆく。
突如黒い帳を引き剥がされて光の元に放り出された部屋の片隅に、男は腰を下ろしていた。
バスローブの端をなびかせて椅子から立ち上がると、ジェフキンスは彼女の待つ部屋の中央へと歩いていく。
ここは石造りの地下室でミカティが背にしている扉以外に外界と繋がるものは一つもない。
部屋の各所には黒く塗られた奇妙な器具が狭苦しそうに並んでおり、どれも人体を固定する皮のベルトがついている事から
拷問器具のようにも見えた。
所々に設えられた磨き抜かれた鋼鉄製の飾りがぎらぎらと餓鬼の眼のように輝いている。
ジェフキンスの欲望と淫靡に狂う視線ににっこりと笑みを返し、ミカティは彼の言葉を待った。
「少し、遅かったな」
「門番に呼び止められちゃって」
囁くように彼女は言葉を返す。
「待たせてしまいましたかしら」
「いや。焦らされているようで逆に快感だったとも」
男の唇が吊り上がった。
「さあ、頼むよ。今夜も…」
「ええ。承知しておりますわ」
はらりとミカティの肢体からマントが滑り落ちる。
生白く輝く彼女の体は黒く染められた皮ほとんど面積のないのドレスに、長い手足はそれぞれ同じ材質でできた手袋と
ピンヒールのブーツに包まれていた。
各所に付けられた鉄のスパイクを妖しく輝かせながら、彼女は右足を跳ね上げてジェフキンスの顎に蹴りを見舞う。
「この豚がーッ!」
「あぁ、もっと…!」
恍惚として倒れ込む彼の前にミカティは皮の鞭を手に立ちはだかった。
「たっぷり可愛がってあげるわ、さあお立ち!」
毛皮に包まれた耳を震わせ、シュマリはふと顔を上げた。
「…何か聞こえたか?」
「あー。聞こえたけど聞こえなかったことにしとく」
人払いはジェフキンスのこの趣味が広まらないようにする為か。
内心辟易しながら先頭を走るジャジャは廊下の角を曲がった。
シェラハの捕えられている部屋はもうすぐそこだ。