プワゾンドールズ
- ディスティニィ・チャイルド -






プリンセス オブ エストラ

8.ヒドラ





  三人が街の灯へと続くなだらかな坂道を半分ほどまで走り下りた頃、屋敷の方から沢山の松明が現れるのが見えた。

 地鳴りのような蹄鉄の音もする。ジャジャの目算では歩兵と騎兵が半々で編成されているようだった。

 「ひいー! 急がないと港が封鎖されちゃうよ!

 行っとくけどあたしも船に乗せて貰うからね、もうこの街じゃ仕事なんかできないよ」

 喚き散らす彼女を先頭に一同は近道をすべく裏路地に入った。

 複雑に絡み合うこの道は毎日のようにその表情を変え、昨日まであった道が荷物で塞がれたり家が建ったりが茶飯事だ。

 ジャンクションシティの盗賊ギルドは追っ手を巻いたり逆に追い込んだりする時の為にこの道をよく利用・研究している。

 ジャジャの案内が無ければシュマリとシェラハの二人は一生ここから出られなかったかも知れない。

 ぐねぐねと分岐と交差を繰り返す路地を三人は力の限りに走ったが、道の狭さが災いしてどうしてもシュマリが遅い。

 色んなものに引っかかり或いは足を取られ、シェラハの背後ではバキバキとかガラガラとか騒がしい音が一向に絶えなかった。

 いちいちガラクタに埋もれる彼を引っ張り出す手間も手伝い、ようやくジャジャの隠れ家までやってきた頃には三人とも息が

 上がっていた。

 「この鈍亀! 愚図!」

 ここに来るまでに溜め込んできた鬱憤を罵倒に変えて吐き出すジャジャを尻目に、シュマリは雑貨の下に隠しておいた灰色杖の

 無事を確認して安堵した。

 「やっぱ、これがねえと落ち着かねえ」

 「呑気だなあ、もう!」

 苛立たしげに帽子越しにバリバリ頭を掻くジャジャを見かねたシェラハが話題を変えようと慌てて口を出す。

 「港はもう封鎖されているんでしょう。どうやって脱出するんですか?」

 「お姉ちゃんの魔法が頼りよ」

 答えながら彼女は様々なガラクタ(とおぼしきもの)を溜め込んだ棚に向かうと、ガラス戸を開いて鳥の模型を取り出した。

 フクロウのようだが赤で派手にペイントされており、ガラス玉でできた二つの大きな眼が虚空を睨んでいる。

 ジャジャは棚からネジ巻きの取っ手を取り出すとその模型の背に差し込み、ぐるぐると巻き始めた。

 興味を引かれたシェラハに『それは?』と指差されるとジャジャはニッと笑う。

 「あたしの忠実なお使い」

 小脇に抱えていた書類をフクロウの鉤爪に引っ掛けると、ジャジャはフクロウを掲げて手を離した。
                      オ ー ト マ ト ン
 ネジをたっぷり巻いて貰った鳥型の自律人形は一声高く鳴き声を上げると、風のように隠れ家の窓から夜の闇へと飛び去って

 行った。

  休憩する間も無く三人は路地に戻った。

 空に僅かに開いた建物の隙間から落ちる月光だけが頼りなのに、ジャジャは分岐点に突き当たっても迷う素振りも見せず

 黙々と前進を続ける。

 彼女の後ろを行くシェラハにとって、小さいジャジャの背は今はとても頼り甲斐があるように思えた。

 一方背後ではまたもシュマリが色々なものにぶつかっており、『いて』とか『ぐえ』とか声を上げている。

 彼もかっこいい時はかっこいいんだけど、とシェラハは何故か内心で彼を弁護するような考えをした。

  それからもうしばらく、シェラハの息が上がり、シュマリの真っ白な毛皮が埃と泥で真っ黒になる頃、ようやく彼方に路地の

 切れ目が見えた。

 夜に真っ黒に塗り潰された建物に両側を挟まれ闇に生じた亀裂のようにも見えるそこからは、潮の香りを含んだ風が吹き込んで

 来る。

 しかし同時に鬼火のようにおぼろげに漂ういくつかのかがり火も見て取れた。

 路地の出口に張り付いて油断無く港の様子を窺いながら、ジャジャは舌打ちをした。

 「うわー、うようよいるよ」

 ジャジャの言う通り港は先回りしたジェフキンスの私兵によって完全に封鎖されていた。

 設けられたかがり火と兵士達の持つ松明は煌々と黒い海を照らし、ネズミ一匹通すまいと彼らは眼を光らせている。

 若干鎧のデザインが違う面々は湾岸警備隊だろう。『犯罪者が逃亡を計っている』とでも吹き込まれたに違いない。

 シュマリの船に眼をやると兵士達が何人か乗り込んでおり、容易に出港できないよう鎖ではしけとを繋いでいる最中だった。

 くるりと振り向いたジャジャはシェラハを急かした。

 「何やってんのさ、お姉ちゃん。魔法で何とかしてよ!」

 「な、何とかって…」

 魔法が万能ではないと言う事は魔法使いが魔法を学べば学ぶほど知る事だ。

 彼女の言う無茶に思わず言葉を失って両手を組み合わせたシェラハは、視線を宙にさ迷わせながら打開策を案じた。

 かつての授業を思い起こせば、リュー・リイ師はこんな事を言っていた。

 『いかなる魔法も使い道は一つでは無いのです。応用を忘れてはなりません、頭を捻れば無限の可能性があります。

 使い方次第で魔法は人を殺し、或いは人を救う』

 ハの字になっていたシェラハの柳眉はゆっくりと動き、やがて決意の形に結ばれた。

 ずっと手の中に持っていた魔晶石を握り直すと、確かめるようにゆっくりと詠唱を始める。

  突如鼻先を見舞った湿った香りに、船を見張っていた一人の兵士は眉をひそめた。

 目の前の海原から沸き上がってくる海風とは違う潮を含まない香りだ。

 何だろうと思い視線を海から港に戻す。しかし彼の視線は白銀の幕に阻まれ、すでに陸には届かなくなっていた。

 霧だ。伸ばした自分の手の指先が見えなくなるくらい、濃い。

 不意の異変にたちまち封鎖を行っていた兵士達に混乱が走った。

 呼びかけでお互いの位置を確認しようとあちこちで怒号のような確認の声が上がる。

 「標的は!? どこだ!」

 「わかんねえ、クソ!」

 辛うじてかがり火や松明ばかりがゆらゆら揺らめいているのはわかるが、それさえもほのかでささやかなものでしかない。

 眼を凝らし手探りで状況を知ろうと右往左往する彼らの脇を、三つの足音が通り過ぎて行った。子供と、少女と、巨漢の。

  船に鎖をかけ終わった二人の兵士は、海に落ちないようにその場を動かずにいるのが精一杯だった。

 兵士の片方はすり足で船の淵に近づきながら背後の同僚に声をかけた。

 「と、とにかく陸に上がんないと」

 「阿呆、持ち場を離れ…」

 るワケに行かねえだろ、と続けられようとした言葉は霧の中に遠ざかり、消えて行った。

 いぶかしんだ兵士は同僚の名を呼んだが返事は無い。

 水音がしなかった事からして、なんだかんだ言いながら一人で逃げてしまったのだろうか。

 もう一度名を呼ぼうと口元に手を当ててメガホンを作った時、緊張を含んだ少女の声が霧の彼方から聞こえた。

 「あ、そっちにも一人います」

 今度はやや朴訥そうなのんびりした声。

 「そっちってどっちだ。このへんかあ?」

 次の瞬間兵士は大きな手で首根っこを万力のような力で掴まれ、悲鳴を上げる間も無くそのままはしけへと

 投げ捨てられていた。

 着地地点には目を回している同僚がおり、計らずも彼は上に兵士を着地させるはめとなった。

  灰色杖で鎖を断ち切り、シュマリは大急ぎで船を出した。

 進路はシェラハが指示している。魔法で産み出したこの霧は使用者の視界のみ塞ぐ事は無いのだ。

 「やーい、まーぬーけー!」

 ジャジャは腹を抱えて笑いながらここぞとばかりに遠ざかって行く港の明かりに挑発を送っている。

 そこでは尚も混乱による騒ぎは収まっておらず、なんだかんだと喚き立てていたが、それも徐々に遠ざかって行く。



  バスローブのまま自分の馬に乗ってようやく現場に辿り付いたジェフキンスは、混沌を極める場に唖然としていた。

 港の一部はすっぽりと霧に覆われ、その中からは兵士達のうろたえる声ばかりが運ばれて来る。

 「こ、このままでは私の栄光の未来が…」

 真っ青になった彼は頭を抱え、ぶつぶつとそんな事を漏らす。

 しかし霧のカーテンが圧し掛かったその場から一本、にょっきりと伸びている物見の塔に視線を移した瞬間、彼の脳裏に

 一筋の稲妻が走った。

 「そ、そうだ、あいつだ!」

 霧を前におたおたしていた兵士の一人を捕まえると、ジェフキンスは彼にただちに物見の塔に連絡するよう命じた。

 雇い主の必死の形相に気圧されながらも兵士は物見の塔に向き直ると、指定の通りの型で松明を振って信号を送る。

 しかしその信号はもう一つの意味を持っていた。

  沖まであと僅かという所で、甲板をはしゃぎ回っていたジャジャは突然凍り付いたように動きを止める。

 弛み切っていた表情に緊張が走った様子に思わずシュマリとシェラハの二人は顔を見合わせる。

 「どうしたの?」

 シェラハのかけた声を制そうと、ジャジャは尖らせた唇の前で人差し指を立てた。

 霧の彼方から角鯨の鳴き声のような、おぼろげだが地平線まで響く深い笛の音が放たれている。

 何かの信号のように定期的に間断を繰り返すそれに、ジャジャの血色の良い顔色は冗談みたいな勢いで真っ青になった。

 「うわ、うわ、まずいよ! 早く沖合いまで逃げないと」

 うろたえて自分の毛皮にしがみ付く彼女をなだめながら、シュマリが何事だと聞き返す。

 彼女は眼に涙の雫をいっぱい溜めて、悲鳴のように叫んだ。

 「ジャクションシティで最強の護衛が来るんだよー!」

  物見の塔の上では湾岸警備隊の隊員が角笛を吹き鳴らしていた。

 一聴したところでは曲のようにも思える緩急はなだらかに眠らない街、そして暗い海を撫でて行く。

 だがこれは聞くものに平静と一時の楽しみを与える音楽ではない。魔獣使いが使う特殊な暗号でコマンドワードと呼ばれ、

 一部のモンスターの心に働きかける効果がある。

 そして今、ジャンクションシティの海底で惰眠を貪っていた怪物は眼を覚まし、五つの首をくねらせて海上を目指しつつあった。

 暗い海の底からは月明かりが満ちた海面は大きな一枚の絨毯のように見えた。

 そこに木の葉のように浮かぶ船が一つ。怪物は迷わずそこへと向かった。



  全身の毛が総毛立つような感覚に襲われたシュマリが灰色杖を手に飛び起きるのと同時に、船の右翼で海が砕けた。

 次々に立ち上る太い水柱から海水のカーテンが下りると、夜の闇の中で邪悪な星のように光る十の眼が彼らを見下ろす。

 「ヒドラ!」

 そう叫んだシェラハは突如出現した怪物の威容に眼を剥き、ジャジャは転げるようにシュマリの背後に隠れる。

 五つの蛇の首はたちまち彼らから夜空を奪った。一本の高さはシュマリの倍以上ある。

 ぎらぎら光る相手の眼を気合いを入れて見据えながら、シュマリは腰を落として灰色杖を構えた。

 彼とて五つの時から海に出て父親と祖父に漁を習い、幾度となく大海蛇やクラーケンと戦ってきた歴戦の戦士である。

 おたおたする二人を尻目にシュマリは素早く戦略を練った。

 相手の首は五つ、こちらの武器は一つ。圧倒的に不利な立場である。

 シェラハの魔法とジャジャの技術がどれほど活かせるかが鍵になるだろう。

  立ち上がったヒドラの首の一つが月に向かって高く咆哮を上げた。

 野太い笛のような音で、たっぷりと凶暴性を含んだその雄叫びがビリビリと彼らの毛皮あるいは皮膚を刺激する。

 「おら、喚いてねえでかかって来いや!」

 相手に負けないくらいの絶叫を上げたシュマリの挑発に答えるように、首の一つが彼に向かって飛びかかった。

 それに合わせ、短い怒声を漏らしながら彼は踏み込みを入れて斧を薙ぐ。

 ぐわっと目一杯に開かれた大顎がシュマリの胴を捕えんとする瞬間、灰色の閃光が帯となって走る。

 肉が断ち切られ骨が潰れる音が夜の空気を震わせた。

 横顔にまともに斧の一撃を受けたヒドラの頭部はグシャグシャになって脇へ流れ、噴き出す鮮血が返り血となってシュマリの

 白い毛皮を赤く染める。

 「すっごい!」

 ひょっこり顔を出したジャジャが目を輝かせて彼を賞賛した。

 しかしその声にシェラハの叫び声が重なる。

 「シュマリ、ヒドラの首はすぐに再生するの!」

 彼女の声にシュマリが振り向くと同時に、右へ吹き飛ばされたヒドラの首はゆっくりと元の位置へと戻った。

 灰色杖を受けて凹んだ頭部の肉は見る間に盛り上がり、まるで時計の針が逆回転しているみたいにあっという間に再生を

 遂げる。

 感情の窺えない蛇の頭部は彼らの無力を嘲笑っているかのようだ。

 「何てこった」

 呆然と青ざめる彼に向かって、今度は五つの頭部が同時に甲板に殺到した。

 我に帰ったシュマリが慌てて斧を振るう。

 嵐のような猛攻と乱打の前にも灰色杖はシュマリの意思に従い、敵の牙が体に達する寸前にことごとく頭部を殴り落とす。

 攻撃の大半を盾となって受け止める彼の背後で、打ち漏らした頭部から逃げ惑うシェラハには、灰色杖がまるで鞭のように

 唸りを上げているように見えた。

 彼の怪力と精密な技巧に支えられた斧は戦士の一部となり、確実な破壊力を以って敵を穿つ。

 正面から鼻先を押し付けるかのように体当たりを放った蛇の頭部を灰色杖で叩き潰すと、すぐに両側から二つの首が

 シュマリを挟み撃ちにしようとうねりながら飛び掛ってきた。

 彼は寸での所で身を伏せてかわすとそのまま後転し、頭上で交差した二つのそれの交わる場所に渾身の力を込めて

 斧を放つ。

 薄桃色の鮮血が噴水のように上がり、双頭は赤い筋を引きながら海原へと落ちて行った。

 「駄目なの、切り落としても!」

 他の首から逃げ惑う事に精一杯だったシェラハが悲鳴をあげた。

 「傷口を焼くか再生能力を持たない胴体を攻撃しないと…」

 ひらひらとヒドラの頭部の攻撃を避けながら(後にシェラハはその時の彼女の様子を『菓子の万引きがバレて逃げ出した子供が、

 人込みを走るような』足取りだったと語る)ジャジャが負けずに甲高い声で叫び返す。

 「説明してないで、お姉ちゃん魔法使いなんでしょ! 何とかしてよ、ホラ、炎の魔法とかさ!」

 「わ、私は攻撃系の魔法が苦手で、その、先生にいつも才能が無いと言われていて…」

 「この役立たず!」

 「お互い様でしょ!」

 歯を剥き出してお互いをなじり合う暇もシュマリが一人で防御を受け持っていればこそだったが、少女達はお構いなしに相手の

 短所を探しては口々に罵倒の攻防を繰り返す。

 「乳なし!」

 「ちび!」

 「寸胴!」

 「短足!」

 「お前らなあ!」

 いい加減息の上がってきたシュマリが怒号で二人の間に口を挟んだ。

 そうしている間にも両手はまるで別の生き物となったかのように油断なく斧を振るい、ヒドラの頭部を寄せ付けないが、

 だんだんとその技は精度を落としているように思える。

 対してヒドラは疲れなど知らないかのように歯向かってきた。

 肉を潰されても骨を砕かれてもまるで意に介す様子もなく、ひたすら再生を済ませては五つの首を船上のちっぽけだが

 しぶとい存在へと巡らせる。

 目は猛り狂って爛々と輝き、時々漏らす唸り声は咆哮となってシュマリの毛皮を震わせる。

 ジャジャは甲板の上を走り回りながら隙を突いては吹き矢を放っていたが、相手は蚊に刺されたほども感じていないようだ。

 「ご先祖様、何卒お守り下せえ」

 正面から突っ込んできた蛇の眉間に灰色杖を叩き込み、それがしばし動きを止めた事を確認してから、シュマリは息を

 整えながら短い祈りの言葉を呟いた。

 いつのまにか彼の背後にシェラハとジャジャが回り込んでいる。

 彼女らはヒドラがこちらの様子を見ている間に小声で言い合いを済ませると、シュマリの背中に話し掛けた。

 「シュマリ、今ちょっと話し合ったんだけど」

 「お互いの乳の無さと足の短さをかあ?」

 珍しく気の利いた皮肉を口にする彼のふくらはぎをジャジャが軽く蹴った。

 「いいから聞いてよ。ヒドラはね、首はいくらでも再生できるけど胴体にはその力が無いの。

 アタシが首を引き付けるから、そしたらその斧で一撃食らわせてやって!」

 「首って…あの首全部か?!」

 シュマリが驚いて思わず振り返った時にはもう、二人は返事も聞かずに準備に入っていた。

 シェラハが早口に詠唱を済ませると彼女の掌に青白い燐光が灯り、それはジャジャへと投げかけられて、その両足に帯びた。

 「よっしゃあ!」

 軽く屈伸運動をした後につま先で地面を叩いて靴の具合を確かめると、彼女は不適な笑みを浮かべていきなり跳ねた。

 電光の勢いで霞んだジャジャはシュマリの頭部を踏み台にし、彼がうめく声を上げる前にはもうヒドラの首が生えた海上へと達している。

 「なななな何したんだあ」

 「『速駆け』の魔法です」

 頭のてっぺんをさすりながら、まだ何が起きたのか理解できていない彼にシェラハが弱々しい笑みを見せた。

 魔法の連続使用で精神疲労が限界近くまで達しているのだ。

 ヒドラは飛燕ごとく自分たちの首の合間を飛び交うジャジャを捕らえようと、それぞれの頭部を闇雲に追わせた。

 手の中を逃れるシャボン玉みたいにその隙間を縫い、ジャジャはヒドラの太い首を蹴っては宙に踊る。

 さすが盗賊、逃げ足は一品だ。愚かなヒドラの一頭が眉間を踏まれ、わななくような唸りを上げた。

 「へへん、こっちこっち!」

 コケにされて怒り狂ったヒドラは船上のシュマリとシェラハの事も忘れ、とにかくもう目の前を蝿のように飛び回る、この癇に障る

 ちびを捕らえようと我を忘れて五つの首をうねらせた。

 遂に顎の一つが無防備なその背に食い付かんとした瞬間、彼は伸ばそうとした首がどこかで引っかかった事に気づいた。

 振り向いて見てみると、別の仲間の首が絡み付いているのだ。苛立たしげな唸りを上げてその頭部は手柄を、肉を嚥下する快楽を

 別の頭部に譲るざるをえなかった。

 しかし目をやればすでに直立している首はひとつとして存在していない。すべて複雑に絡み合い、まるで毛糸玉でじゃれた猫みたいに、

 くんずほぐれずどうしようもなくなっていた。

 いかなる鎖をも引き千切る怪力の持ち主でも、自らを戒めているのが木の幹ほどもある自分の首とあっては脱しようが無い。

 身動きひとつできなくなって初めて、ヒドラは愚かな頭でようやく自分が計略にはまった事に気づいたのだった。

 「トドメの必要もねえだろ」

 大きく溜息を吐き出しながら灰色杖を担ぎ直すシュマリに、シェラハも力なく頷いた。

 魔力の帆を張り直そうと社に戻り際、シュマリはまだヒドラの頭上を飛び回っているジャジャに声を張り上げる。

 「おう、行くぞ」

 「はーい」

 身悶えするヒドラの首の結び目の上に腰を下ろしていたジャジャは笑い声交じりに返事をした。

 「ふふん、やっぱアタシがいなくっちゃね」

 得意げに呟くと腰を下ろしていた首から立ち上がり、よっと掛け声をかけて宙へ飛ぶ。

 次の瞬間、彼女は甲板で驚いたシェラハが自分に向き直り、みるみる青ざめた表情で必死に自分に何か叫んだのを聞いたが、

 耳元を覆う風圧の音で何も理解できなかった。

 ただ両の足からさっきまで力強く脈動していた神秘の力が消えて失せ、自分の体が真っ逆さまに海面へ向かっていく、不安な

 浮遊感だけははっきりとわかった。

 とっくに速駆けの魔法は尽きていたのだ。

 真下には他の首と巻きつきあって丁度上向きになったヒドラの顎があり、今まさに落ちてくる彼女の体を受け止めるかのように

 開かれる真っ最中だった。

 考える時間も行動に出る時間も無かった。

  一頭の口の中にジャジャの小さな体が消えるとシェラハの悲鳴が上がり、それに弾かれるかのようにシュマリは甲板を走った。

 全身を虚脱感が包み、灰色の疲労感が圧し掛かってこようとも、彼は重たい体を突き動かして甲板の淵から海上へと跳ねる。

 ジャジャを飲み込んだ頭部の首に膨らみが生まれ、それはみるみる胴体へと下って行った。

 錬金術師が実験に使うガラスのチューブがたくさん付いたおかしな器具のように入り組んだ首の一つを通って遂に体内へと

 消える瞬間、首の結び目のてっぺんにシュマリの斧が炸裂した。

 稲を刈る鎌のように太い首を切断しながら斧は海上に姿を見せていたヒドラの胴に達し、首の付け根あたりの肉を穿って深く食い込む。

 薄赤い血液が怒涛の勢いで噴き出し、まだ胴体と繋がっていた頭部が一斉に甲高い絶叫を上げた。

 斧を引っこ抜いてのたうつヒドラの胴の上に這い上がると、シュマリは灰色杖を振り被りもう一度渾身の力を込めて今作ったその傷の

 上に攻撃を被せる。

 厚い刃が肉を千切り、骨を粉砕する。ヒドラはもう悲鳴は上げなかったが、一度大きくビクンと痙攣し、そして遂には停止した。

 果たして遂に残った首と再生しかけていた首はシュマリもろとも力なく海へと倒れ、海水を朱に染める。

 甲板に残されたシェラハは呆然と事の成り行きを見守っていたが、すぐにその細身は柱を失ったかのように崩れ落ちる。

 「シュマリ…ジャジャ」

 しばらく脱力感を含む静寂が満ちた。

 と、へたり込んだ彼女の目の前に海から生えた毛むくじゃらの手が伸びてきて、甲板の淵を掴む。

 驚いたシェラハが飛び退く間も無く、水飛沫を巻き上げながらジャジャを抱えたもう一本の手も。

 返り血を海水で洗い流したものの、すっかり濡れ鼠(濡れ白熊?)になったシュマリが重たげに己の身を持ち上げて甲板に

 転がり込むと、彼はきょとんとしているシェラハに怪訝そうな顔をした。

 「呼んだかあ?」
                                           はらわた
 彼は大海蛇を解体する要領で水中でヒドラの体を切り開き、ジャジャを腸から引っ張り出してきたのだ。

 シェラハは口をぱくぱくさせて何か言おうとしたが、そのまま糸が切れたかのようにふっつりと意識を失い、ゆっくりと甲板に

 身を横たえた。

 彼方では白い朝日が水平線に現れ、暁光が今日も穏やかな絨毯海を淡く照らしていた。



  霧が晴れたジャンクションシティの港では警備隊が呆然とシュマリの船を見送る中、ジェフキンスが気が狂ったように

 頭を掻き毟っていた。

 「かかかか考えろ、考えろ、考えろ…どうすればいい!?」

 しかしどうして彼にこの状況を脱する考えが浮かんだだろう。

 水平線の彼方に顔を出した日輪は美しく、偉大な神の力強さや恵みを感じずにはおられない神々しいものだったが、今の

 ジェフキンスにそんな余裕がある筈も無い。

 悪巧みに富んだ目は血走り、あの気取った髭は見る影も無く乱れている。

 暁光が照らし出すにはあまりにも悲惨な姿の彼にふと騎馬の影が落ちた。

 瞳に染みる日光を遮るそれは暖かな日の光とは対照的に、冷然とジェフキンスを見下ろしていた。 

 「大層な姿ですな、ジェフキンス殿」

 ジェフキンスは声にビクリと身を震わせ、ゆっくりと 視線を頭上に持ち上げた。

 夜の闇と朝の光が入り交ざる澄んだ藍色の中に浮かんでいた人物は貴族的な衣装を身に纏っており、皺の寄った口元を

 にやりと吊り上げて笑みを作って見せた。

 「どういう訳か今朝、我が邸に面白い書類が届きましてな。

 これによれば貴方は盗賊ギルドを支配下に置いて随分と私腹を肥やしておいでのようだ」

 「デタラメだ! 貴様、私を侮辱するとどうなるか…」

 錆び付いたジェフキンスの声は何ら男の心を挫くものではなかった。

 薄ら笑いを浮かべて男がくいと顎をやった先に眼をやると、そこには逆光を受ける痩身の男の姿があった。

 真っ直ぐに背筋を伸ばした初老の男で、頬に目立つ傷がある。その姿を認めたジェフキンスは顎が外れそうになった。

 「ルバラ、き、貴様…この私を裏切ると言うのか…」

 「いいえ、ご主人様。それは違います」

 ルバラは偽りの主に力を込めて言った。

 「私は最初から貴方に忠誠を誓ってはおりませぬ故。裏切るという表現は不適当ですな」

 「内容を検討した後に貴方は査問会にかけられる。愚かな事を…地位と欲に眼が眩まれたか。

 遺憾に思いますよ、この街を治める商人の一人としてね」

 真っ白に燃え尽きたジェフキンスを一瞥すると、男は馬を巡らせてその場を後にした。






 「私はエストラ王国の王女、シェラハ=スェルタン=エストラードです」

 甲板を撫でてゆく塩辛い風に髪を柔らかに靡かせながら、シェラハは決意の溢れる表情で言葉を口にした。

 「数年ほど前、我が国で不死王アルハザードが復活した事はご存知ですか。

 彼は過去に私のご先祖がかけた縛めの呪いを自らの魔力を以って破り、王国を征服したのです。

 しかもそれに飽き足らず、世界さえも飲み込もうと近隣諸国へ兵を送っているとも…。

  不死王の襲撃があった夜、私は魔術の先生に連れられて城から逃亡し、長い間海をさ迷っていました。

 不死王は私に濡れ衣を着せて首に賞金を賭け、自らもまた追っ手を差し向けて来たのです。というのも私は王家の血を

 引く者だから自らの屈辱の証拠として彼が憎むのは当然であろうし、同時に彼を封印できる唯一の血族だからです。

 逃れる事のできた私と先生、それに僅かなエストラの兵士は長い間海を放浪し、国を奪還する機会を伺っていました。

 しかしたった10人足らずの私達にどうして強大な不死王に打ち勝つ事ができるでしょう。

 逃亡に疲れ切った私にいつも『諦めるな』と励まして下さった先生がある日、こんな事を言ったんです。

 『何もかも忘れて普通の女の子になる、という事も選択肢に入れておきなさい。

 国、王家、不死王…すべては逃れられないお前の宿命なのかも知れない。

 だが、お前だけが自分の幸せを掴む資格がないなんて事は馬鹿げている。

 運命から逃れたお前をこの世のすべての人達が責めたとしても、私だけはお前の味方だ』

 …私はもうずっと、長い間このことを考えて来ました。

 この考えは跳ね除けていたんです。少なくとも先生と兵士たちが不死王の追っ手に殺されるまでは…

 あの日からずっと、私は先生の言葉を甘受するべきだと思っていた。だけど、私は…」

 ここでぐっと唇を噛むと、シェラハは二人に向かって深々と頭を下げた。

 確かに優雅で気品のある動作だった。

 「お二方ともお願いします。どうか私にお力添えを!

 不死王の脅威から我がエストラ王国をお救い下さい」

 シュマリは灰色杖の刃に砥石を当てたまま、ジャジャは口の中に目いっぱいの魚を放り込んだまま、お互いに呆けたように

 顔を見合わせた。

 丁度三角形になるように甲板に腰を下ろした三人の真中では、小さな鍋が湯気を上げている。

 干し肉や魚、貝、海草、カラカラの実などを適当にぶち込んで煮たもので、彼らの基本的な毎日の食事である。

 二人はしばらく目配せをして無言のまま相談をした。

 彼らの様子が気になったシェラハが頭を下げたまま少しだけ面を上げてちらりと覗き見すると、たまたまシュマリと目が

 合ってしまい慌てて顔を伏せる。

 「お姫様だったとはなあ」

 斧と砥石を置くと腕を組み、シュマリは感慨深そうに一人頷いた。

 「まあ俺もタダモンじゃねえとは思ってたけどな」

 彼に心を読む能力があったら、目の前の娘二人が頭の中で同時に『嘘だ』と思った事に気づいただろう。

 「不死王を倒せっての?」

 「えっ? あ、はい」

 ジャジャの素っ頓狂な声にシェラハが垂れていた頭を戻す。

 「有史以前からある、エストラーシャ様が最初に地上にお作りになられたという遺跡に、不死王を撃退する方法が眠っていると

 お父様から聞いた事があります」

 「だってさ。どうする?」

 ジャジャが投げやりな口調と視線を隣のシュマリに振ると、彼は視線をシェラハに移した。

 今までに見せた事の無い真っ直ぐな瞳に、彼女はどぎまぎした。

 「お前のご先祖様に誓えるか? これからは絶対に諦めねえって」

 「は、はい。誓えます」

 「よし」

 不意に彼女の顔面を風圧が叩いた。

 がつんという硬く重いもの同士が激しく噛み合う音がして、甲板を伝う激しい衝撃にジャジャとシェラハの二人は体が一瞬

 浮かんだかのような錯覚を覚えた。

 シュマリは真っ直ぐにシェラハに向き直り、垂直にした灰色杖の石突を甲板に突き立てていた。

 先ほどの衝撃は石突が甲板を穿ったものだ。

 気が抜けたような表情から一点、猛々しくも神妙な表情を張り付かせたシュマリは地響きのような咆哮を上げた。

 「ムグミカ族の戦士、『灰色杖のシュマリ』は今ここに先祖の名にかけて誓う!

 汝シェラハの命運尽きるまで汝の剣となり盾とならん事を、戦士の誇りに懸けて誓う!」

 鼓膜がびりびり震えて耳鳴りがし、シェラハはしばらく声が出なかった。

 だけどだんだんそれは彼の怒号だけが理由でないとわかってくる。いつの間にか頬を伝う涙は止め処なく、今まで流した

 どの涙よりも暖かかった。

 胸が熱くて窒息しそうだった。

 「ま、お礼の方の期待できそうだし、あたしもOKなんだけどさ」

 じんじんと痺れる耳をさすりながら、ジャジャはさっきの衝撃で中身をぶちまけながら転がった鍋を拾い上げ、溜息混じりに

 呟いた。

 「どうすんの、今日のご飯。めちゃくちゃだよ」



 ―― 先生、弱音を吐いたりしてごめんなさい。私は諦めません。

     きっと国を取り戻して見せます ――

 小さな手で硬く拳を作ると、少女は今はもう遠い所へ行ってしまった師に誓った。 




















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