プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -






クレイジーハートブレイカー

12.リオナ


  闇に白煙の帯が舞い、すべてが一直線にエスチェボーンビルの正面入り口に吸い込まれてゆく。

 爆発は見張りに立っていた黒服たちごとゲートに大穴を穿ち、瓦礫は多少多かったが理想的な突破口を作った。

 先頭を走っていたヘルダイヴはバイクに乗ったまま中へ突っ込んで行く。

 ビルの正面には二つの駐車場があり、それらに挟まれた通路が真っ直ぐに建物の正面入り口へと続いている。

 大半のメンバーは駐車場でマシンを捨てて徒歩で入り口へ殺到したが、一部のバイカーは巧みに乗り物を操り突入した。

 正面玄関に立っていた黒服の残りが拳銃で応戦するが、うねるような相手の人数になす術もなく蜂の巣にされる。

 「アリみてェだなオイ」

 25階付近で双眼鏡で眼下を見下ろしていた戦闘員の一人が感想を漏らす。

 確かに餌に群がる蟻の軍隊のようだ。しかし蟻は退屈の拒絶の為に暴動を起こしたりはしない。

  エレベーターに乗る者とそれに待ちきれず階段を駆け上がる者とに別れ、古滝の言葉通り一行は真っ直ぐに上を目指してくる。

 しばらく管制室は静寂が支配した。

 エレベーターの現在の階層表示のモニタを睨むオペレーターの緊張した声だけが静かに響く。

 「5階…6階…7階…8階…」

 椅子に戻って再びテーブルの上に足を投げ出しながら、古滝はその男の声を聞いていた。

 煙草は止めてさっきからしきりにミントのガムを噛んでいる。頭の回転が速くなるという彼のジンクスだ。

 「10階…11階…12階…13階…」

 階段組はまだ7階あたりだ。各所に配備された監視カメラは戦いの狂気に歓喜する少年らの顔を如実に映し出していた。

 見た目でわかりやすい絶火やデーモニック・ギャルズの姿が予想以上に多い。ネヴァーエンズにそそのかされたのだろうが、果たして

 彼らは何の利益があって今回の殴り込みに参加したのか。やはり地下街の縄張りだろうか。

 「20階…21階…22階…23階…」

 別のオペレーターがパソコンに繋がっている赤いランプのボタンの蓋を開いた。張り詰めた表情で振り返って古滝に視線を送る。

 相手に目配せしながら古滝は組んでいた腕を解き、そしてその片手を自分の胸に置く。

 「あー天だかどこだかにいる我らの父よ。母だっけ? まあいいか、不運なヤツらを導き給え。塵は塵に、ガキは炭に」

 「24階…25階!」

 「アーメン」

 オペレーターの一人がスイッチを押した瞬間、四つのエレベーターに仕掛けられていた各20キロのプラスチック爆弾が点火した。

 悲鳴を上げる間もなく、何が起こったかさえわからないままローストビーフになった彼らがエレベーターの監視カメラに映し出される事はなく、

 モニタは一瞬の後爆炎にまみれて画像は途絶えた。



  階段を駆け上がっていたヘルダイヴが足を止めないままふと異変に気づく。

 遠くで響いた爆音と僅かに足元を震わせる衝撃に感覚を研ぎ澄ませ、隣を走っていたスキンシャークに訝しげな視線を送った。

 「何か聞こえた?」

 「あァ? 何にも」

 階段はただでさえ駆け上がるメンバーの足音で絶え間なく震動しているし足音もかなりのものだ。

 しかし爆音だけは間違えようがない。

 湧き上がる不安を押えてヘルダイヴは階段を蹴る足に力を込めた。

 呼吸はほとんど乱れず汗も出ていない。この辺は人造人間の専売特許だ、人間の連中はそろそろ疲れを見せ始めている。

 何十回目かの踊場の表示が現れようやく24階にまでたどり着いた事を示す。

 「ここァ何階建てだったっけ?」

 背後の仲間達の息遣いが乱れている事に気を配り、彼女がもう一度隣のスキンシャークに口を開く。

 「50階くらいだろ」

 踊場を抜けて更に階段を上がり25階への入り口に差し掛かった時だった。

 何回も繰り返し見た次の階層への階段の光景が消え、ヘルダイヴがそこに見たものは巨大な鉄の壁だった。

 壁と溶接して念入りに封鎖されている。どこかの防火壁か何かを外して無理矢理ここに取り付けたのだろう。

 何でこんな事を? まさか連中、気づいて…

 「シャーク、破れ!」

  焦りを隠すように叫んだ彼女に呼ばれて意気揚揚と壁に踏み出した彼の姿が一瞬、低い銃声と一緒に霞んだ。

 みぞおちに人間の頭ほどもある大穴を開けて反対側の壁に吹き飛んで行くスキンシャークを呆然と眺めていたヘルダイヴの視線が、ゆっくりと

 25階の階層内、階段の入り口が突き当たりの廊下へと向く。

 急造のトーチカ(鉄板などを組み合わせて作った弾除けの陣地)から顔を出した、防弾ベストをつけた背広姿の男がニッと笑うのが見えた。

 「いらっしゃいませ。ご予約承っております」

 ガチャン。

 他にトーチカの影で控えていた男がたった今撃ったばかりの対戦車ライフルのレバーを引き、硝煙を上げる薬莢をイジェクトする。
            ク レ イ モ ア
 「まずは前菜に指向性対人地雷のサラダなどは?」

 背筋に走った冷気にいち早く正気に戻ったヘルダイヴが階段の入り口から飛び出し、横に伸びる通路に飛び込む。後続に叫ぶ事も忘れない。

 「伏せろ!」

  トーチカの男が手にしていたグリップの、ボタンにかけた親指が沈み込むのが見えた。

 飛び退いたヘルダイヴの背後で閃光と一緒に破裂音が連続して炸裂する。すぐにそれに混ざる悲鳴。

 階段の壁の各所に埋め込まれていた対人地雷は火薬の爆圧で数百個の鉄球をバラまき、浴びた人間をミンチに変える。

 血と肉片を撒き散らして形容し難い陰惨な最後を迎えた仲間達の姿に動きが止まり、そこにザ・ショップの面々が雨あられと銃弾を打ち込んだ。

 通路の奥から階段の下の方に撃っている為にある程度の弾丸は地形的に届かないが、どちらにしろこれでは頭を出す事もできない。

 「くそっ」

 やはり何もかもバレていた。

 いつ? どこから?

 ただ一人別の通路に逃げ込んだヘルダイヴは歯噛みしながら手にしていたマシンガンを腰のホルスターに戻した。

 腕に巻きついていた鎖を解くと弾幕が途切れるのを見計らって通路から飛び出し、鎖の先端の分銅をトーチカに投げる。

 狙いを違わず鎖は銃を構えていた一人の男の首に巻きつき、イカリ型の分銅はその首筋の肉に食い込んだ。

 男が苦痛にうめいて鎖に手をかけた瞬間、彼女はそのまま恐るべき力で鎖を引き戻す。

 「メインディッシュは…」

 宙を舞って引き寄せられた男の鼻っ面に、限界まで振り被ったヘルダイヴの拳が炸裂する。

 「アタシの拳だ!」

 派手な湿った音と共に手に頭蓋骨が陥没する感覚が染み込み、飛び散る脳漿と血液に眉一つ動かさずに再び通路に身を隠す。

 ネヴァーエンズの側も士気を取り戻し、階段の影から応戦が始まったようだ。

 腰に戻した銃を引き抜いたヘルダイヴも始まった銃撃戦に身を投じる。



  一方、こちらはエスチェボーンビルのすぐ隣のビルの屋上。

 下からせり出しているコンクリートの柵に肘を置き、片目で狙いをつけていたネヴァーエンズの一人が引き金を引く。

 グレネードランチャーの弾頭は尾を引いてビルの側面、30階前後に突き刺さり炸裂した。

 ここからエスチェボーンビルとの距離は約60mほどだが爆発の衝撃波はビリビリと空気を震わせ、それはその場の一同にも感じられる。

  メンバーは摩昼とランチャーを担いでいたネヴァーエンズの新入り二人を除いて、全員が底部にローラーのついたごつい靴のようなものを

 履いていた。

 エンジン音を高らかに鳴らすそれはモーターブレードと言うローラーブレードに高性能の小型エンジンをつけたもので、その気になれば時速

 100km近く出せる違法改造の危険なスポーツ器具だ。

 モーターキラー・クイーンズと名乗るチームの彼らは一種変わった暴走族として地下街を根城にしている。

 「おい」

  鞘に収めた刀を肩に担いでいた摩昼が、眼下のビルの入り口に視線を向けた。

 地上では駐車場に次々と黒塗りのワゴンが到着し、あちこちに転がっているマシン以外は誰もいなくなった駐車場に停車している。

 中からばらばらと降りてくると機械のようにそつのない動きでビルの中へ向かう連中に、その場の全員が眼を剥いた。

 「何だありゃ?」

 モーターキラー・クイーンズの一人が当然の疑問を口にする。どう見ても遅れてやってきた仲間達というふうではない。

 柵に貼り付いて地上を眺める少年らの背後で落ち着き払って摩昼が答えた。

 「罠だ。ハメられたな」

 「てめェいい加減な事言うんじゃ…」

 戦闘を前に気が立っていたのか摩昼に掴みかかる少年の背後で、別の銃に持ち替えたスナイパーがビルに向かって引き金を引く。

 二度目の弾丸は黒いロープの尾を引いていた。ワイヤーガンだ。

 たった今グレネードランチャーで開けたばかりの大穴から覗く、ビル内の白い壁に弾頭の先端のクローがガッチリと噛み付く。

 本当は直接屋上から乗り込みたかったのだがこの付近にはこれ以上高いビルはない。

 「後にしろ」

  襟首を掴んでいた少年の手を払うと摩昼は親指でロープを指差し、相手を促した。

 彼とて伊緒をさらわれてたぎるように気が立っているのである。自分でも目の前の相手に手を出さなかったのが不思議だった。

 しばらくは摩昼に敵意を向けていたが、すぐに少年はコンクリートの上を滑って後退した。

 腕を組んでビルの方を見ていた小柄なスナイパーがビルに目を凝らし、いきなり柵に立てかけてあったガトリングを取る。

 「お迎えだ」

 「え?」

 摩昼の言葉に炸裂する銃声が答えた。

 ガトリング(六連装回転式機関砲)とは一まとめにされた六つのバレルが回転する事で銃身の発熱を極力押える事のできる重火器で、

 長さは持ち主の身長くらいあるし本来は車両や戦艦に搭載する銃器なので重量も凄まじい。

 ただし威力は見ての通り、弾丸の威力は拳銃とは比較にならず装甲車の装甲だって撃ち抜ける。

 しかしこれを平気で素手で扱う者の正体とは?

  耳が痛くなるくらいの震えるようなその爆音に身を縮めながら、摩昼もビルの穴付近に現れた人影を確認する。

 爆発に気づいてやってきたのだろう、たちまちガトリングの銃弾の雨を浴びて人の形を失ってゆく。

 「援護する。行け!」

 一瞬途切れた弾幕の際、ガトリングを構えたまま彼女は叫んだ。

 銃声にしばらく驚いていたモーターキーラー・クイーンズも軽く頷くと身構える。

 ある程度の距離を取ると身を縮めて風圧を受けにくい姿勢を取り、ベルトのダイヤルを回転させてモーターブレードの出力を最大にする。

 咆哮を上げたエンジンに押し出されて加速すると中空に伸びるワイヤーに向かって柵を飛び越え、夜空に身を躍らせた。

 ワイヤーの上に見事に着地するとそのまま勢いを利用してブレードの底部で横滑りするようにビルへと向かって行く。

 グラインドと呼ばれるモーターブレードのアクションの一つで、本来は鉄柵などでやる。ジャンプ中に繰り出すアクロバットと並んで

 モーターブレードの花だ。

  命綱もつけずに次々と渡って行くメンバー達に、最後にガトリングガンを背負いなおしたスナイパーを勤めたネヴァーエンズと摩昼が

 取り残される。

 ワイヤーガンに二つ目のクローとワイヤーを装填するとスナイパーは今度はややエスチェボーンビルの上の方に向かって引き金を引いた。

 隙間なく並ぶ窓の僅かな合間のコンクリートに突き刺さったのを確認すると、数度ガンを引っ張って体重を支えられる事を確認する。

 たった今飛び込んだ仲間達も銃撃戦を始めたようだ、ビルから断続的に銃声と閃光が瞬いている。

 「捕まって」

 夜闇の上に帽子を目深に被っているので顔はわからなかったが、振り向いた相手から発せられたのはやはり女の声だった。

 バイクに乗れないらしくここへ向かう仲間達を前に道端で立ち往生していたのを途中で摩昼が拾ったのだが、そう言えば本当にこの相手が

 ネヴァーエンズかその仲間だとは聞いていない。

 ただ本人が『新入り』だと言っただけだ。

 ヘルダイヴが特に何も言わなかったところを見ると間違いはなさそうだが…

 「お前本当に仲間か?」

 「ああ、ロンモチよ」

 彼女の小柄な体を抱き抱えるようにワイヤーガンの銃身を掴んだ摩昼のいぶかむ言葉に、相手は平然と答えた。

 「事情を話したらヘルダイヴが名前にしてくれてさ。まあ一悶着あったけどね」

 柵の上に立った二人は何ら掛け声もなしにいきなりコンクリートを蹴った。

 軋みを上げるワイヤーに振り子のように運ばれながら、ターザン方式で二人共ビルに突っ込んでゆく。

 「あっ…」

 顔に受けた冷たい風に少女の顔が一瞬青ざめる。強風に煽られて二人の視界からビルに開いた穴が大きくズレた。

 やや狙った地点を外してガラスに突っ込み破片を撒き散らしながら二人は内部に飛び込んだ。ガラスにぶつかったのがせめてもの救いだろう。

 合間のコンクリートや窓枠に衝突していたら骨折程度ではすまなかった筈だ。

 二人共もつれ合うように絨毯の上を何回転かしてデスクにぶつかり、止まる。

 「もっと地味に入れねェのか?!」

 「登場は派手にって決めてんのさ」

 銃で新手と応戦するモーターキラー・クイーンズの一人に軽口で答えながら、身を低くしてデスクの影に隠れた彼女が答えた。

  帽子を落として素顔が露になった彼女は16歳くらいの少女で、セミロングの茶髪を後ろで一つにまとめている。

 瞳には摩昼と同じ決意と憎悪の炎が見て取れた。

 鞘を捨てて神薙を抜くと彼女の声に再び記憶を揺さ振られ、彼はガトリングを降ろす相手の顔をいぶかしげに覗きこんだ。

 「名前は?」

 「紫陽花」

 「…どこかで逢ったか?」

 「いいや。初対面だね、島原くん」



  数で圧倒的な優位に立ちながら、ヘルダイヴ達は苦戦を強いられていた。

 この階層が丸ごとブービートラップの畑になっているのだ。

 絨毯の下に置かれた感圧式地雷、壁の非常灯にカモフラージュされた対人指向性地雷、地面すれすれに引いたワイヤーに繋いだ手榴弾を

 始め、時々床が水浸しになっている場所では決まって電線が引かれていてそこを踏めば電撃で黒焦げになってしまう。

  床を抜いて上に絨毯に見せかけた紙をしいた落とし穴は底に犠牲者を串刺しにする槍が仕掛けてあったし、扉を開けて部屋に入った瞬間に

 頭上から20キロはありそうな観葉植物の植木鉢が落ちてくる事もあった。

 しかもただ仕掛けられているのではない。こちらが相手の銃弾を避けるべく身を隠す退路を的確に狙って巧妙に忍ばせてあるのだ。

 よほどトラップという陰質な戦法に慣れた敵がいるらしい。

  ヘルダイヴ達は上へ向かう別の通路を探して後から後から出てくるザ・ショップの戦闘員と絶え間ない銃撃戦を繰り広げていた。

 仲間も敵ももう何人死んだかわからない。

 階下でも別の仲間達がザ・ショップの別働隊と激しい攻防を繰り広げている。

 耳鳴りがしてくるほどの銃声と悲鳴。

 途中で拾ったイングラムよりニ回りほど大きなサブマシンガンをぶっ放しながら、なるべくバラバラにならないように心がけて彼女たちは

 廊下を進んでいた。

 「島原たちは?!」

 「突入できたみてェだな」

 ヘルダイヴの怒鳴り声に通信機を耳に突っ込んでいた少年が答える。

  なるべくブービートラップを踏まないように相手側が使うのと同じ通路を選んでいる為、行軍は遅々として進まなかった。

 当然の事ながら敵の攻撃は激しいがヘルダイヴの鎖を用いた戦法により、ようやく一行はある一つの大きな部屋に入る事ができた。

 元は休憩所か何かだったのだろう、自販機がいくつか置かれていたが椅子などはすべて除去されている。

 さっきからザ・ショップの連中が出入りしていた事を考えるとトラップがあるとは考えにくい。彼女がまず部屋に入ると自販機に向かう。

 一撃蹴りを入れると自販機は大きくクレーターのように凹み、何やら耳障りな電子音で不平を垂らしながらゴトゴトとジュースの缶を吐き出した。

 「ったく、どこに階段があるんだ?」

 コーラの缶を拾い上げると蓋を開き、天を仰いだ顔に豪快に垂直に立てて喉に流し込む。カラカラの喉に冷えた液体はありがたかった。

 他のメンバーも汗を拭って彼女の水分補給に習い、その間にヘルダイヴは広場の先の通路を調べようと前進する。

 「リオナ」

  不意の男の声にびくっと身を震わせ、銃口を通路の先に持ち上げる。

 言葉を聞いた途端に酸素を求めて激しく乱れる呼吸に合わせて胸の上下の速度が高まる。

 それは疲労でも驚愕によるものでもなく、発せられた単語に体が自然と反応を示したからだ。

 仲間たちが異常を察して即座に広場の反対側の入り口に銃を構えるが、やはりヘルダイヴは硬直したままだった。

 通路に続く扉の奥の暗がりから現れたのは一人の車椅子だった。それの付属品のように身を沈めている、背広姿の長髪の男。

 両腕で両脇のタイヤを回転させながらゆっくりと進み出てヘルダイヴと視線を噛み合わせる。

 「リオナ」

 同じ言葉を繰り返した。前髪の隙間から覗く陰気な瞳と、頬の目立つ刃物傷の跡。

 「…お…父さん…」

 ヘルダイヴは混乱を始める頭の中で驚愕していた。その言葉が己の口から出た言葉だと知って。

 「今でもそう呼んでくれるか」

 疲れたように微笑んで犬飼は大きく溜息をついた。

 彼女を見つめる瞳は壊れてしまった玩具を眺めるような、ひどく悲しげで寂しそうなものだった。

 「俺のモノに戻れ」

 「あっ…アタシは…」

 がらんどうになってしまった心にその言葉は恐ろしい侵食を以って響く。

 しかし彼女は精神力の限りを尽くし血が滲むくらいの力で手を握ると自我を取り戻して叫んだ。相手に対してではなく、自分に確認する為に。

 「アタシはヘルダイヴだ!!」

 ビリビリと肌を横殴りにする凄まじい気迫に、犬飼はもう一度大きく溜息をついた。

 と、同時に口から漏れる低い口笛のような音。

 「…残念だ」

  犬飼の背後の通路から広場へ殺到してきたいくつもの黒い塊がたちまちのうちに広場を満たす。

 敵意を剥き出しているのに異様なまでに獣性を感じない獣たちの集団は、風のようにヘルダイヴ達に襲い掛かった。

 犬飼が支配するサイボーグ犬で30匹は下らなかっただろう。一同が慌てふためいて銃を構えた瞬間、視界が闇に塗り潰される。

 照明を落としたのだと気づいた時にはもう喉の底から咆哮を吐き出す犬たちは彼らに猛然と飛び掛っていた。

 「銃は使うな、同士討ちになる!」

 ヘルダイヴが包娼ならではの反射神経で相手の殺気を読み取り、鎖を巻いた腕で犬の牙を防ぎながら背後に叫ぶ。

 しかしその叫びも空しくパニックを起こした一人が引き金を引いて闇に火花が咲き、暗がりに鮮血がほとばしった。

 いくらなんでもここまで真っ暗では何もわからない。窓から僅かに月光が差しているが部屋の中で蠢くのが味方か犬かの区別もつかない。

 一方サイボーグ化されたとは言え犬たちには野生の本能として闇を共にする術があり、匂いや物音で容易く人間の位置を掴む事ができる。

 牙を穿とうと飛び掛ってくる犬の相手に精一杯でヘルダイヴは窮地に立たされていた。

  落ち着け。

 一番最初に鎖を巻いた右腕に噛み付いてきた犬をそのままに、その犬の胴体を武器に振り回して他の犬を牽制する。

 悲鳴や犬の唸り声、時々炸裂するマシンガンなどで視界の利かない戦場は地獄と化していた。

 落ち着け!

 自分に何度も同じ言葉を言い聞かせて必死に頭を巡らせる。

 犬は匂いでこちらを探ってくる。匂いだ!



  通路の奥に後退した犬飼は、じっと阿鼻叫喚の闇の中を見つめていた。

 瞳を閉じれば今もそこに焼き付いているのは娘としてずっと愛でていた一人の包娼。

 まさかこんな形で再会する事になろうとは。

 膝に手をやって生地越しに膝を撫でてみると、指には妙な凹凸が感じられる。彼女に付けられた古い傷跡だ。

 足の交換も傷跡を消す事もしなかったのは、恐らくこれが彼女の最後の思い出になるであろうと何となく予感がしたからだ。

 しかし、今。

 「リオナ。何故俺から逃げた?」

 返事は期待せずに彼は闇に語りかけた。

 「お前を愛していたのに…」

  語尾は目前の闇から飛び出してきた鎖が喉に巻きつき、呼気が途絶えた事によって途切れる。

 凄まじい力で巻き戻された鎖に引きずられて、車椅子から落ちた犬飼はずるずると床を滑って再び部屋の中へと連れ戻された。

 襟首を捕まれて引き上げられた顔の目前には僅かな月光を浴びたリオナの顔があった。

 己の瞳の奥をじっと睨む彼女の瞳の色は非望か、それとも哀れみか。

 「匂いで相手を探れるのは犬だけじゃあないんだぜ。このへんで獣臭さとも汗臭さとも無縁のヤツっつったら誰だ?」

 「リオナ…お前を愛して…」

 懇願するような犬飼の言葉を引き千切るように彼女の絶叫が暗黒に響き渡る。

 「アタシはっ…」

 限界まで振り被った彼女の拳がふっと犬飼の視線から遠のき、すぐに引き戻されて視界をいっぱいに覆った。

 「ヘルダイヴだーーーーーッ!」

 西瓜のように粉々に砕け散った相手の頭部から赤い破片が舞い、すぐに床にぶちまけられる。

 絨毯に四散する赤黒いものから視線を反らして乱れた呼吸を落ち着かせるべく努力する。

 片手に掴んだままになっていた無頭の胴体は抜け落ちるようにどさりと床に転がった。

  司令塔を潰された犬たちはすべてその場に伏せり、ぴくりとも動かなくなる。

 拳にべったりとついた血と脳漿を腕を中空に一閃させて払うと、彼女はゆっくりと生き残った仲間達に振り返った。

 5人ほど無残にも喉笛を食い破られており、残りの仲間達も体のあちこちに軽傷を負っている。

 声をかけるべきかどうか迷っていた少年らがびくっと身を震わせたのが、月明かりの中に見えた。

 「…行こう」

 取り落とした銃を拾い上げると、弾丸を確認して彼女は足早に部屋を出た。






  一方、摩昼たちは順調に上の階層へと進んでいた。

 37階まで上がった一行は破竹の勢いでザ・ショップの戦闘員を蹴散らして行く。

 25階に戦力を集中させていたザ・ショップ側には申し訳程度の防衛力しかなく、彼らの前には手も足も出ない。

 「紫陽花!」

 エレベーター前の広い廊下のトーチカを前に、柱の影に隠れていたモーターキラー・クイーンズの一人が銃で応戦しながら叫ぶ。

 呼ばれて更に奥の別の通路の影から弾幕が途切れるのを待っていた紫陽花が顔を出すと、軽々とガトリングを取り回して銃口を

 トーチカに向けた。
  ダイ      ダイ     ダイ      ダーーーーーーイ
 「DIE! DIE! DIE! DIIIIIIIIIIIIIIIIIE!!!」

 瞬間、相手側の使うマシンガンにも増して破裂せんばかりの銃声が空間を支配する。

 たまたまトーチカから第二波を放とうと頭を出した男の一人が銃弾の豪雨を浴び、爆竹を詰め込んだ人形みたいに弾けてあっという間に輪郭を

 失ってゆく。

 紫陽花の援護を受けて相手がひるんだ隙に突風のように飛び出した数人のモーターキラー・クイーンズがタイヤで床を削りながら間合いを詰め、

 あわてて相手側が銃口を向けるがそれを見越し全員が壁に向かって跳ねた。

 「ヒュー!」

 弾丸を受けて弾ける床を尻目にほんの数十秒だけ壁を滑りながら勢いをつけると、今度は壁を蹴ってトーチカの内側へと飛ぶ。

 空気を引き千切って放たれたモーターブレードでの蹴りは狙いを違わず完全に戦闘員の頚椎を捕え、炸裂した。

 メキメキという湿った音を立てながら弧を描いて倒れる相手を踏まないように着地する頃には、隣にいた男も別のメンバーの蹴りを受けて

 伏せっている。

 モーターキラー・クイーンズの喧嘩はスピードと機動力が武器だ。

 「イエー」

 仲間と拳を打ち合わせてお互いを称え合うと、すぐに銃を構え直す。

  不意にトーチカよりも奥にあった通路からバタバタと足音がし、反応する間もなく防弾ベストをつけた男たちが飛び出してきた。

 「死にやが…」

 あわてて散開しようとした時、その戦闘員たちの胴体が横にズレた。血の噴水を上げながら下半身と決別した上半身が床に落ちる。

 カチン、という小さな鍔鳴りの金属音が全員を正気に戻した。

 すぐに血溜まりになった床を踏みしめその靴を通して感じられる不快感に顔をしかめながら、神薙を鞘に収めて摩昼が通路から姿を現す。

 革ジャンとジーンズはいっぱいに返り血を浴び、頬にも派手に飛沫が走っている。

 しかしそんな事は泥が飛んだほどにも気にせずに瞳の奥で冷たい憎悪の炎を燃やしながら、彼は大して興味もなさそうに

 モーターキラー・クイーンズたちに一瞥をくれた。

 そのまますたすたと先へ向かおうとする彼にメンバーの一人が声をかけるが、摩昼は振り返ろうともしなかった。



 「島原摩昼」

  背後の蝶姐と同じかそれ以上モニタに食いつくように見入っているとは気づかず、古滝はその名を呟いた。

 オペレーターの肩越しにしばらくそのままでいたが、ふとすぐ隣の相手に声をかける。

 「『嘘つきな鎧』の稼動状況は?」

 「充電率88%、活動可能まであと8分」

 「上々だ。頼むぜェ、火羽さんよ」

 狐のような顔で笑みをこぼしながら、古滝は己の中の高まりを押えきれずにはいられなかった。

 予想外の展開だった。別のビルから移ってくるという襲撃の方法は予想済みですべて封鎖してあったのだが、どうやら破られてしまったようだ。

 しかし彼はいつだって『予想外』を喜んで受け入れる。

 「いいねェ。こうでなくっちゃゲームは面白くねえ」























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