プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -






クレイジーハートブレイカー

14.大好きです


  広場には摩昼の荒い呼気だけが響いていた。

 白い業火をまとう神薙を両手に構え、部屋の中央よりややズレた場所でしきりに周囲に意識を向ける。

 体にはいくつも打撲や切り傷などの軽傷を負っていたが、構っている暇はない。

 『嘘つきな鎧』を着込んだ火羽と相対してほんの十分で彼はすでに窮地に立たされていた。

  ピンと張り詰めた空気が不意に背後で流動する。

 殺気を感じて振り返った摩昼の胸に衝突した大きな質量を持つ何かは、そのまま勢いに任せて彼の体を広場の柱へと叩き付けた。

 背を強かに打って一瞬呼吸が止まった彼の喉の奥から呻きがも漏れ、吐き出した胃液が散って床に落ちる。

 その何かは空中に浮かんだ水銀のような物質の柱だが摩昼を押し付けている反対側の部分には何もなく、それはただ空中に浮かんでいる。

 上半身のほとんどをその水銀のような物質の柱に覆われて磔にされた彼の目の前で、ぐにゃりと一部の空間だけが歪んだ。

 やがて壁と風景の中から滲み出すように現れた『嘘つきな鎧』が摩昼を押し付けている腕から順番に実体を現し、その粘土細工の人形のような

 不恰好な姿を露にした。

 ミラージュスキンと呼ばれる軍隊などが使う特殊な光学的迷彩機能で、表層の光の屈折率を変えてまったくの透明にしてしまう。

 死闘が始まった瞬間から摩昼を苦境に立たせている厄介な能力だ。

 「言っただろう?」

  嘘つきな鎧の顔に当たる部分にできた裂け目がまるで口のように笑顔を作った。

 薬物で精神を拡張された火羽は今やこの鎧の外層すべてを眼にして視覚情報を掴む事ができ、また逆に自身の肉体に起きた異変も鎧に現れる。

 人間が車に乗ってハンドルを握るのとは違い、今この鎧は彼の体そのものとなって稼動しているのだ。

 鎧と言っても頭部は天井に届かんばかりで、摩昼と比べると身長差は1.5m近い。

 摩昼にとってはるかな高みで作られた嘲笑はもがく彼を前に一層嘲りを増す。

 「『嘘つきな鎧』だって」

 「くそっ」

 自由な右手で必死に自分の体を戒めている相手の腕に切りつけるが、澄んだ金属音が響くばかりでかすり傷もつかない。

 不安定な体勢からの斬撃であるという事とはまったく別に刃が通らないのだ。

 流動体から絶対の硬度を持つ固体へと変化し、常にミラージュスキンで姿を隠す。

 決して一定する事のない姿と戦闘スタイルがその鎧の名の所以なのだろう。

  右腕で相手を封じたまま、嘘つきな鎧の振り被った左腕がドロリと溶けて徐々に形を変え始める。

 摩昼は逃れようと必死にもがくが体を覆っているバリアブルメタルは鉄よりも硬く固形化しており、文字通り手も足も出ない。

 「ザ・ショップの一角をたった一人で壊滅させた男に…」

 嘘つきな鎧の左腕は巨大な槍となって成形を終え、露出している摩昼の顔にぴたりと焦点を合わせた。

 「乾杯」

 「うおおおお!」

 空気が唸った。

 突き出された槍の先端がが目と鼻の先まで迫った瞬間、摩昼は己の体に覆い被さっているバリアブルメタルに神薙を接触させて

 限界まで氣を増幅させる。

 流れ込んできた主のエネルギーを受けて神薙は瞬間、太陽と化して白銀の爆発を起こした。

 マスクの内側につけられたモニタを通して見える火羽の視界が完全に光に埋め尽くされ、すぐに眼が眩んで何もかもが見えなくなった。

 反射的に眼を守ろうと無駄な行為と知りつつも片腕を顔面に持ってきていた火羽の視界が戻る頃、視界から摩昼は消えていた。

 ほんの数秒間程度だっただろうが強烈な閃光に目の奥が痺れている。

 そして痺れた眼さえも剥かねばならない目前の現実に彼は驚愕した。

 「これは…」

 摩昼を掴んでいた嘘つきな鎧の片腕は大きく歪み、手首のあたりから先が完全に消滅していた。

 切れ口の液体は泡立ったまま機能を停止して流れ落ち、所々焦げて黒ずんでいる。

 嘘つきな鎧だけではなく床や摩昼が背にしていた柱の一部なども、所々光に削られたかのように奇妙な変色を見せていた。

 摩昼は神薙の纏う白い炎の温度を一瞬だけ爆発的に上昇させてバリアブルメタルを蒸発させたのだ。

 床に飛び散ったその名残の飛沫は断末魔のように小さく痙攣を繰り返している。炎に焼かれて本来の機能を失ったのだろう。

 中身の人間が鎧を通して伝わってきた熱に蒸し焼きにされてしまう事を除けば嘘つきな鎧は熱が特に弱点という訳ではなく、バリアブルメタルが

 溶けるなどという事はありえない。

 神薙の秘める恐るべき威力に背筋に走った冷気を火羽は意図的に無視した。

 恐らく連続で使用はできないのだろう。でなければこれを機に一気にすべてのバリアブルメタルを死滅させていた筈だ。

 となれば…

  嘘つきな鎧は背後に等間隔に立ち並ぶ柱を眺めていた。

 摩昼はどこかに潜んで狙っているのだろう。一撃で搭乗員である火羽ごと神薙で焼ける間合いを。

 広場に立つ銀色の巨人の姿の輪郭が、不意に水鏡に映った風景に落ちた波紋のように大きく歪んだ。

 一呼吸の間を置いて周囲の背景を映しこんでいた全身の鏡面が滲み、消えてゆく。



 「会長。そろそろ出た方がいい」

 数時間からずっと入れっぱなしのガムを飽きもせずに噛み続けていた古滝が、ふと思い出したように言った。

 紫陽花のガトリングを受けて大幅に破壊されはしたが、何とか立て直した管制室で彼は生きているモニタの一つを眺めていた。

 火羽が勝とうとも負けようともどのみちこれだけの騒ぎを起こしたのでは色々問題となる。

 この街の警察はザ・ショップの子飼いだがマスコミに真実を取り上げられてはまずい。この世界を動かしているのは今やマスメディアなのだ。

 「そうさせてもらおうか。君は?」

 「俺は残りますよ」

 テーブルの上に放り出していた足を組み換えて古滝は背後に振り返った。

 九灯と蝶姐は相変わらず壁際に立って彼越しにモニタを眺めている。

 「そうか、ご苦労だったな。行こう」

 「ちょっと待って下さい」

 出口に促した九灯の手をそっと解くと、彼に一言言って蝶姐は古滝の隣へと歩いていった。

 釘付けになっている視線は相変わらずモニタの中の摩昼の姿を追っている。ふと唐突に彼女が口を開く。

 どこか疲れたような口調だった。

 「紫陽花は死んだ。私が殺したよ」

 「…ああ」

 古滝はじっと正面を眺めたまま忙しなくガムを噛んでいたが、その表情は心なし翳って見えた。

 蝶姐が入る前から彼と紫陽花はアンダーガードで一緒だった。付き合いも長かったのだろう。

 古滝は表情の変化の乏しい男だがこう見えて情には厚い。と蝶姐は勝手に思っている。

 「ごめん」

 「謝るこっちゃねえよ」

 絞り出した彼女の言葉に深く溜息をついて答え、古滝は視線を隣の蝶姐に移した。

 「行けよ。男を待たすモンじゃねえ」

 背を向けて走り去る彼女の気配が消えると彼は椅子に座り直し、初めて口の中のガムに味がなくなっている事に気づいた。



  屋上のヘリポートではすでに脱出する人員が集まっており、順番に大型のヘリに乗り込んでいた。

 いずれも指揮官など指令系統の人間たちで、最後まで戦場に残った者たちだ。

 ヘリのメインローターが吹き付ける風に髪をなびかせながら、二人はヘリポートの中央へと向かった。

 足元のコンクリートを蹴る足音は風圧に掻き消され、会話は大声を出さないとほとんど何も聞き取れない。

 見上げた東の空はすでに白んでいた。灰色のビルが僅かな朝日を浴びて鈍く光っている。

  歩きながら無言で九灯は蝶姐の肩を抱いた。

 埃が入らないように二人とも手を目の前にかざしていたが、ちらりと彼に視線を移した蝶姐には相手の感情が見て取れた。

 ―― どうやって言えばいいだろう?

 抱いていた彼女の肩に抵抗が増したので蝶姐が立ち止まった事に気づき、九灯が眉をひそめて振り向く。

 「どうした」

 ヘリのライトの光を浴びて逆光に輝く輪郭を浮かび上がらせた九灯の声に、蝶姐は俯いたままだった。

 憂いを秘めた表情を不思議そうに覗き込んだ彼を前に、再び彼女は言葉に詰まった。

 背伸びしながら両手を伸ばして相手の首に抱きつくと、困惑する九灯の耳元に囁くように話し掛ける。

 いくらローター音がやかましくても息がかかるほど相手の耳と近ければ会話は成立する。

 「ずっと迷っていたんです。どうやって言えばいいか」

 「何を?」

 九灯の声も蝶姐の耳に呼気と共に吹き掛けられる。

 耳腔から伝わってくる相手の体温はいつもなら安心をもたらすのに、今だけは胸を締め付けた。

 「私にはずっと好きな人がいて、でもその人は私じゃない誰かが好きで。

 でも私はその人が好きだという感情とは別に貴方を好きになった。…どう説明すればいいのか…

 浮気と言ってしまえばそれまでなんですけど、私は…」

 「…」

 囁き合う二人をヘリの騒音が包み込み、今だけはこの二人だけの空間を作ってくれていた。

 この広すぎる世界でたった一人しかいないその人の体温も呼吸もすべてを感じられる場所。

 考えて見れば広大な世界にこれだけの人間が生きていて、そしてその中のたった一人のこの人に出会う事ができた。

 もしも九灯がいなかったら自分はどうなっていただろう?

 それを考えると今ここにこの人がいてくれる事に魂が震えるような嬉しさと感謝を感じる。

 「きっと私は…愛する事ができたのが貴方で、恋をし続けているのがあの人で…ごめんなさい」

 涙で声にならなくなった蝶姐を九灯は固く抱いてくれた。

 「私と出会ってくれて…ありがとう…」

 九灯の唇を半ば無理矢理奪うと、後頭部に触れていた彼女の片手が空気に唸るような小さな音を立てた。

 「大好きです」

 「ティエ…チェ?」

 絞り出された言葉と同時に崩れ落ちる九灯の体を抱き抱え、もう一度だけ固く抱いてヘリへと運んで行く。

 僅かに超震動を働かせて軽い脳震盪を起こしただけだ。しばらくしたら気が付くだろう。

 九灯をヘリに乗せると乗組員には『私は残るから』とだけ言い残して背を向ける。

 ローター音とライトが夜空へと舞い上がってゆくのを感覚で感じた。

 手で涙を拭う時に湧き上がってきた振り返りたいという欲求を押さえ込み、階段へ向かう。

 背後に受けた風に髪と礼服を派手に躍らせながら、彼女は力いっぱい握った拳と引き締めた表情に決意を秘めてその場を後にした。



 「ま、ある程度予想してたけどな。会長は?」

  古滝はそんな言葉と苦笑で戻ってきた彼女を迎えた。

 管制室にはもはや彼しかおらず、他のオペレーターや司令官たちは脱出している。

 今舞い上がって行ったばかりのヘリにはここにあるものとほぼ同等の機械を搭載しており、状況は引き続き中継しているのだろう。

 今は古滝がオペレーターの席に座ってただ一人現地での活動をしていた。

 さっきまでの飛び交う命令や状況報告などの声が消えて操作する者のいないコントローラーシステムばかりの風景が、余計にこの場の

 空気を寒々しくしている。

 モニタの一部ではなおも続く階下の激しい戦闘を映し出していた。

 「先に逃げてもらったよ」

 「お前、島原摩昼と知り合いじゃねえのか?」

 突然の質問に泡を食ったような表情を向ける蝶姐に、古滝は楽しげに笑って見せた。

 「やっぱりな。なーんかあると思ってたぜ」

 食い入るようにモニタに浮かび上がる摩昼の姿を眺めていた姿を見ていないようで観察していたのだろう。

 本当に喰えない男だと蝶姐は内心苦笑を漏らした。観念して本当のことを口にする。

 「幼馴染なの」

 「なんとまあ」

 驚いたような顔をして見せたが古滝はそれ以上は何も追及しなかった。

  そう言えばもうアンダーガードは自分と古滝しか生き残っていないという事に気づき、蝶姐はにわかに胸の奥が冷えるような感覚に襲われる。

 個人的にはハヤシバラは人に誇れる死に方をしたと思う。

 紫陽花の事は本当にかわいそうだったと思うが、やはり涙は出てこなかった。

 「摩昼は?」

 「おう。丁度いいとこだぜ」

 声のトーンを落とした蝶姐の言葉に古滝が目の前のキーボードをニ、三度叩くと、生き残っていたモニタのすべてが摩昼と火羽が死闘を

 繰り広げている広場のカメラに切り替わる。



  再び姿を現した嘘つきな鎧の全身から雨のように放たれる槍を、摩昼が手にした神薙は寸分の狂いもなく打ち払ってゆく。

 槍の太さは人間の腕ほどで、嘘つきな鎧はハリネズミのように全身からそれを伸ばしてくる。

 火羽の意思の元硬質化したバリアブルメタルは鉄板をも貫く武器となって降りかかるが、摩昼とて伊達に死線を潜り抜けてきた訳ではない。

 無限に繰り出されては再び母体へと戻る槍の豪雨を防ぎながら、不意に摩昼は床を蹴った。

 なおも伸びる槍を弾いて間合いを詰め、嘘つきな鎧の胸板に全霊を込めて突きを繰り出す。

 槍を繰り出すのに体を構築する体液であるバリアブルメタルを放出し過ぎて幾分薄くなった鎧は刃を防ぎ切る事ができず、神薙は柄近く

 ほどまで鎧の胴へと沈み込んだ。

 刀を突き立てた部分の穴から染み出た真っ赤な血液が刀身を伝い、床に滴り落ちてゆく。

 「くたばれ、粘土細工!」

 摩昼が柄を握る手に力を込めようとした瞬間、鎧は刀を突き立てられた中身の人間を勢い良く吐き出した。

 予想だにしない相手の行動に戸惑う彼の体は飛び出してきたその体に押し倒され、背から床に転がる。

 「残念でした」

 「!」

 空っぽになった筈の鎧から発せられた声に、摩昼は絶望に駆られて覆い被さっていたその相手の顔を眺めた。

 間違いなく一番最初に殺されたモーターキラー・クイーンズの少年の一人の死体だ。

 潰された体の各所はバリアブルメタルが浸透してちぐはぐな人間の形を何とか保たせている。

 火羽は一番最初に殺した後にずっとその死体を体内に隠し持っていたのだ。

 「さあ、もう夜明けも近い。夜更かしはこのへんにしとこう」

 死体を除けようと足掻いた摩昼の体に、突然死体が凄まじい力で抱きついた。筋肉に食い込み縛り付けられるようなその拘束に呻き声を漏らす。

 見れば死体の背から伸びたバリアブルメタルの糸は、母体である嘘つきな鎧と繋がっている。

 血液の代わりに死体に浸透させたバリアブルメタルで少年の体をゾンビのように意のままに操っているのだ。

 鋼鉄のように硬化して固く抱きつく相手から体力を失った摩昼が逃れる手段はもはや存在しなかった。

  再び嘘つきな鎧の全身から伸びた槍は獲物を狙う蛇のように空中でくねくねと揺らめき、物色を終えた後に摩昼の体に殺到した。

 肉を潰し貫く音と骨を砕く音。空気に舞い上がる鮮血の帯。

 少年の体ごと無数の槍に串刺しにされた摩昼の口から吐血が溢れ、それが途切れるとあらゆる動きが停止した。



  古滝がインカムを取ってモニタを見つめたまま口を開く。

 「こちら『丘の上の屋敷』…ダンスホールで特別なゲストが踊り疲れたのを確認。繰り返す、こちら『丘の上の屋敷』…」

 暗号でヘリに連絡しているのだろう。

 蝶姐はただ、彫像のように凍り付いてモニタを眺めていた。



 「ふん」

  鼻を鳴らして槍を引くと、火羽はその内の一本を触手のように起用に動かしてモーターキラー・クイーンズの少年の体を串刺しにしている

 神薙を引き抜いた。

 主を失った刀はしばらくは余韻のせいかチロチロと炎の舌を伸ばしていたが、見つめる火羽の目の前でそれも刃に吸い込まれて消える。

 水晶のように透明な刀身に戻った神薙は惹き込まれるような美貌を見せていた。

 しばしその美しさに心を奪われた火羽は堪えきれずに嘘つきな鎧の表層に移動し、上半身だけを外気に露出させた。

 マスクとゴーグルを外して冷えた空気を吸い込みながら、光の粒を散らす目前の神薙に目を細める。

 「子供にはもったいないオモチャだな」

 「俺もそう思うぜ」

 その声に頭の中が真っ白になるような驚愕に火羽が凍りつくより速く、目の前の神薙が白銀の炸裂を起こした。

 鎧の中へと身を沈めて逃れようともすでに間に合わず、眼球を焼かれて悲鳴を上げながら火羽はのたうった。

 鎧に預けた五体は焼け付く熱に発狂しそうな苦痛を脳に伝え、彼は顔面から自分の肉体が蒸発してゆく言葉にできない衝撃に延髄を

 ねじ切られるような感覚が発生した。

 部屋の中のすべてが閃光を被せられて形を失い、やがてそれが終わった頃には静寂が戻る。

  しばらくは部屋の中を沈黙が支配していたが、不意にせきを切ったように荒れた摩昼の呼吸がそれを破った。

 光に眩んだ眼は閃光が終わっても一向に視力は回復せず、彼は闇の中に放り込まれたままだ。

 暗黒中で彼は最後の気力を振り絞って顔を上げ、目の前の物体に視線を送った。

 全体の三分の一ほどのバリアブルメタルを失って横たわっている巨体はすでに人型をしておらず、かき混ぜられた泥の塊のような醜態を

 さらしている。

 そしてその中に埋もれるようにして火羽の姿はあった。

 ほぼ肉体の前半分を熱で溶かされ赤黒い肉と内臓、そしてほとんどを焼き尽くされた脳を露出させながら。

 「伊緒…」

 全身に開いた傷からどくどくと流れ落ちる血液を感じながら、摩昼は目の前の銀の液体に埋もれた神薙を手探りで取った。

  胸に受けた傷は心臓を半分ほど貫いている。自分でも生きているのが不思議だった。

 床に横たえた全身は凍りつくほど冷え凍えるほど寒い。それでいて臓腑に受けた傷が熱を発し、体内だけは溶岩を飲まされたようだ。

 神薙を握ってしばらくすると刀の治癒効果が始まり、摩昼は何度も銀光を放つ血の混じった液体を吐き出した。

 バリアブルメタルだ。モーターキラー・クイーンズの死体に圧し掛かられた時に相手が吐き出した液体のそれを飲み込んだのである。

 そしてそれが全身を巡り、内蔵に浸透して出血を押えたのだった。

 摩昼は神薙を媒体に取り込んだバリアブルメタルを己の意思の支配下に置き、無意識のうちに致命傷を避けたのだ。

 ほとんど偶然が重なってできた芸当で、彼としても二度とこんな真似をするつもりはない。

 しばし意識が遠のき、恋人の名を口にしたまま混濁した彼の意識は深い闇へと落ちて行った。



  眠っていた時間はほんの数十分だっただろう。

 関節がひどく痛み、血を多く失ったせいか頭がクラクラした。

 眩暈を堪えて立ち上がりながら胴体に受けた傷に手をやる。完全に塞がってはいなかったが無理をすれば動く事はできそうだ。

 意識を失っている間にも神薙の治癒の力は働いていたのだ。

 神薙を杖にどうにか立ち上がった瞬間、膝をつきそうになるのを必死に抑える。果てしない意志の力が休息の誘惑に拒否を見せた。

 伊緒を助けねば。

 汗と血に塗れた柄を握ってもうしばらくすると、体の奥で消えかかっていた命の炎が少しずつ大きくなってゆくのを感じた。

 乱れた呼吸が静かになるのを待って摩昼は出口へ向かって歩き出す。

 床に散った液体のバリアブルメタルが彼の靴に踏まれてぬかるみのような湿った足音を立て、しばらく広場に恨めしそうに響いていた。



  もう頭を使う必要はなくなったので古滝はガムを煙草に変えていた。

 屋上に吹きすさぶ突風に上着の襟を立てながら、手早く準備を進める。

 耳に突っ込んだままのインカムから聞こえてくるのはヘリのオペレーターの声ではなく、女の声だった。

 アンタはどうすんのよ?

 「あァ。逃げるに決まってんだろ、今回の作戦の失敗は全部俺の責任になるだろうからな。

 『勝ち負けはゲームのおまけだ、内容が一番重要』っつー俺の理論は上にゃなかなか理解されねえんだよ。

 まあそれなりに楽しめたけどよ」

 別働隊もすでに壊滅状態だし、島原摩昼が火羽を破った以上すでに彼に対抗できる策は何もない。

 大きく膨らんだカーキ色のリュックを背負うと、複雑なベルトを体に巻いて各バックルを念入りに組み合わせる。

 逃げるってもうヘリはないんでしょ?

 「ヘリだけが空を飛ぶ方法じゃねえのさ」

 準備運動をこなして首にかけていたゴーグルをつけると、眼下に広がるビル群を眺めて深呼吸を一回。しばらくぶりの外気は肺に染みた。

 一晩中座っていたせいか腰が痛む。

 「お前こそどうすんだ? こうなるとは思ってなかったから言ってなかったけどな、あと一時間ちょっとでこのビルは崩壊すんだぞ」

 え?

 「連中もろともぶっ飛ばす最終手段として主要な支柱には全部プラスチック爆弾が仕掛けてある。起爆はヘリからしかできねえけどな」

 みんな知ってたの!?

 「いいや、俺ら司令部だけだね。まあ管制室を出る前に一応各員に報告しといたけどよ」

 報告って…どうにもならないじゃない

 今話をしている古滝のインカムは蝶姐のケータイにかけているものだ。

 先に管制室を出た蝶姐は知らないが、古滝はビルの中で生き残っている戦闘員が耳に突っ込んでいるインカムに何らかの報告をしたらしい。

 無論それが最後の通達だったのだろう。古滝はほぼ同じ内容を彼女に伝えた。

 「偶数階のロッカーん中にゃ俺からの餞別がある。お前も気が向いたら使え」

 生き残っている連中も彼の餞別を使って外へ脱出しているだろう。

 うん。でもやっぱり私は残る。…アンタは人を好きになった事はないの?

 「恋愛はそれほど楽しいゲームじゃねえんでな」

  不意の質問を軽く受け流した古滝は特に蝶姐を止めようという気にはならなかった。

 数年も付き合っていれば相手が死ぬ覚悟での決意を固めている事くらいわかる。

 古滝

 「何だ」

 会話は終わりに近づいていた。

 屋上の柵を乗り越えて絶壁から虚空を前にした彼に、蝶姐は溜息を漏らすような声を口にする。

 ありがとう

 「…気にすんな。じゃあな」

 礼に素っ気無く答えてパラシュートを背負った古滝は何もない空間に向かってコンクリートを蹴った。

 ぐんぐん近づいてくる地面を前に、別の階層からも窓を破って虚空にダイブする黒服の男たちが見える。

 皆古滝の背負っているものと同じ彼の餞別を背負い、木の葉のように空中を舞っていた。



  彼女はケータイを切って掌の上に乗せると僅かに力を込めた。

 発動した超震動がプラスチックのボディを塵にまで粉砕して床に散らす。もう必要のないものだ。

 蝶姐が立っている場所は屋上近くの階層だった。

 この階層だけは天井が高く、無機質なコンクリートの壁に飲み込まれて頭上は暗闇に消えている。

 窓から落ちる僅かな朝日だけが彼女の姿を浮かび上がらせていた。

 光を浴びて表情に深く陰影を刻まれ、表情に秘めた決意と哀しみが一層浮き彫りにされている。

 この階層は本来は闇から闇へ流れる様々な物資を保管する格納庫で、隅にはヘリポートまで直結している大きなエレベーターがあった。

 物資は戦闘前に運び出された為今この階層にあるのはフォークリフトだけで、あとは床にペイントされたガイドラインだけがこの灰色の

 空間から浮かび上がっている。

  寒々しい雰囲気に飲まれてか空気はひどく冷えていた。

 真っ白な息を吐きながら瞳を閉じた彼女の耳に、その足音は遠くから少しずつ迫ってくる。

 相手の動きによって流れる空気の分子の動きさえもが感じ取れるようだった。

 空気に触れて露出しているニの腕がゾクゾクと震えたが、不思議と呼吸は乱れなかった。

 足音は男の荒げた呼吸と一緒になり、やがてすぐそこの階段を上がる音になる。

 「待っていた。ずーっと…」

 姿を現した相手を蝶姐は瞳を閉じたまま迎え、まずは床に視線を落としてからゆっくりと瞼を開いた。

 階段を上がり切った相手の爪先から視線は上がってゆき、やがてはその表情に行き着く。

 彼の表情は驚愕とも哀しみとも憎悪とも取れない、あるいはそれらすべてが入り混じったものとなっていた。

 想像できないでもなかった。でもやはり現実に起きてしまった。そんな顔。

 「逢いたかった。摩昼」

 「ティエチェ…」

 血刀を下げたまま摩昼は凍り付いていた。

 彼と相対した蝶姐はふと寂しそうに笑って見せる。

 「ごめんね。本当にごめんね。私なんかと出会わなければ、貴方はきっと幸せになれたのに」























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