プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -






クレイジーハートブレイカー

15.忘れないで


 「ヘルダイヴか? …ああ、その話は後だ。…いいから聞けって! あと一時間でこのビルは倒壊する。ああ、ティエ…敵の一人が吐いた。

 間違いない。…喚くなよ、とにかく逃げろ。じゃあな」

  暗く冷えた空気の中で、採光の為の僅かな窓から落ちる光の柱が幽玄のように舞った埃を光り輝かせている。

 摩昼がケータイを切ってジャンパーの内側にしまうのをきっちり見届けた後、蝶姐は腕組みを解いて微笑を見せた。

 「これで心置きなく戦えるってワケだ」

 「戦うつもりはない」

 刀を片手に下げたまま凛として答えた相手に、蝶姐は構えを作った両腕のやり所に困った。

 「優しいね、アンタは」

 溜息をついて構えを解くと腰に片手をやり、左眼の下あたりに走る刺青に触れた彼女に摩昼はじっと視線を注いでいる。

  刺青に指を這わせながら蝶姐は何事か考え込んでいるような素振りを見せた。

 「私が風俗街で生まれた立ちんぼ(街娼)の子だって事言ったよね。いつだっけ…中学校の頃話した。

 中区の二丁目。あそこで仕事してる、刺青入れてる女たちの事知ってる? みんな違う蝶の刺青入れてんの。

 大抵が不法入国者だから、あの街で死んだ女は大抵誰だかわからないまま処分される。

 特にザ・ショップ絡みのイザコザの場合、連中は娼婦を殺した後に顔をメチャクチャに潰すんだ。

 昔っからそれが立ちんぼに対する警告なんだってさ、『逆らうな』って言う。

 …だから刺青だけが誰だか判断できる最後の材料になる。みんな覚えてて欲しいの、自分の事を。自分が死んだ後にも。

 私は母さんが死んで四歳の時に今の父さんが引き取ってくれたけど、何で刺青を入れなかったかわかる?」

 じっと自分と視線を噛み合わせる摩昼から視線を反らし、ふっと笑みを漏らす。

 「立ちんぼの子じゃなくなったから? 父さんが私の戸籍を登録してくれたから?

 違うね。私はずっと母さんと同じ刺青を入れる事が夢だった。やめたのは ――…」

 刺青なんかなくっても私が死んだらずっと覚えててくれる人ができてしまったから。

 そしてそれは貴方だと強く信じていたから。

 確かにそう言ったつもりだったが、唇が滑っても蝶姐の声は出なかった。

 もしも自分が死んだら摩昼は自分の事をずっと覚えていてくれるだろうか?

 ―― きっと伊緒と幸せに暮らしているうちに、私の事なんか忘れちゃうよね。

 「ティエチェ。何でザ・ショップなんかに入った? 俺らがドラッグストアを追ってた頃の事を忘れたのか?」

 彼女の話が途切れると次は摩昼が疑問を口にした。

 名前を呼ばれただけで彼の言葉が自分の身に染み込んでいくような気持ちになる。

 相手の瞳に燃えているのが蝶姐には何なのかわからなかったが、少なくとも自分との再会を喜んではいないだろう。

 「女ってのは万年就職難でね」

 「答えろ」

 有無を言わせぬ相手の迫力に蝶姐は一瞬もたじろがず、気迫を込めて睨みを返す。

 質問には答えず少しだけ口調を変えた。

 「伊緒だけどね」

  表層上は何ら変化はなかったが摩昼の気配が変わるのを感じ、彼女は楽しげに目を細めた。

 今作っている笑みは摩昼が見てきたどの蝶姐の笑顔よりも醜く歪んだものと映っているだろう。

 「私がアンダーガードで拷問をやってたってのは聞いたでしょ。拷問は必要事項を速やかに相手に吐かせる作業…」

 抑えきれなくなった相手の怒気が服を通して肌にピリピリ感じられる。

 「三年間で私が担当したのはたった50人ちょっとだったけど、ああ、最近は自白剤を使うらしいからね。

 けど制裁の意味を込めての拷問ってのはまだまだ続いてるんだ」

 「伊緒はどこだ?」

 極めて静かな相手の声と、そのほとんど狂気に近い憎悪を含んだ刃の視線。

 常人ならその視線を浴びただけで立っている事もできなくなろうが、今の蝶姐にとってはその瞳こそが望みだった。

 「伊緒は頑張ったよ。うん、私が担当した誰よりも強情だった。絶対あんたの事言わなかったもん」

 「貴様…」

 片手で相手を制して懐から何か細い金属製の棒のようなものを取り出すと、蝶姐は相手によく見えるように光の中に掲げて見せた。

 窓から落ちる淡い陽光の中で光を弾いているが、その光は角度によってはべっとりと付着した赤黒いものにより時折赤光を含ませている。

 柔らかい笑みを浮かべたままの彼女の手の中にあったものが何なのか理解した瞬間、摩昼は遂に点火した。

 「女の子の体は柔らかくって切りやすかったよ〜?」

 「貴様ァ!」

 蝶姐が手にしているそれは血塗られた親指くらいの太さの細いノコギリだった。

 彼女がゆっくりとした動作でそれを懐にしまう間に摩昼が両手に握り直した神薙が白い炎を吹き、たちまち刀身が包まれてゆく。

 摩昼の激しい怒りに感応し神薙は凄まじい唸り声で空気を震わせた。

 にわかにできた強い照明に二人の姿がおぼろげに舞う影として階層の壁にゆらめき、それが二つとも同時に構えの姿勢に移った。

 「そうこなくっちゃあ」

  腰を落とすと両手を手刀の形に開き、片方は高く体に引き付けもう片方は軽く前方に伸ばす。

 お互いの距離は約4m。リーチの点から刀を手にしている摩昼の方がはるかに有利だ。

 しかし懐に入ってしまいさえすれば武器を振るう余裕のない彼はどうする事もできない。

 通常刀を手にした敵を素手で相手にする場合は三倍の実力差が必要と言われるが、もちろんそれは素手で刃を弾き相手を刻む術が

 ない場合の話だ。

 深呼吸を繰り返して氣の循環を高めながら相手の出方を待っていた蝶姐に、摩昼は先手を打って猛然と間合いに踏み込んだ。



  摩昼の猛攻は烈火の炎と化して寸分の間隙も生まれなかった。

 怒りに心を濁されたとは言え、神薙の正式な継承者である島原家の男である。

 嵐のように繰り出される斬撃を両手の腕刀と身のこなしでやり過ごしながら、蝶姐は一方的に防戦に回っていた。

 三年のブランクはあるがそれまでは毎日のように手合わせをしていた仲だ。お互いのやり方はすでに肉に染み込んでいる。

 蝶姐は守りの一手で相手の隙を狙うやり方。

 摩昼の方は攻めて戦いの中で相手の癖や弱点を探ってゆく、彼女に言わせれば無謀極まりないやり方だ。

 高校生時代から何百回戦ったかわからないが師匠の立会いの元の正式な試合の中で、摩昼は蝶姐から勝ちを拾った事は一度もない。

  床のコンクリートを蹴る音に混じって激しく空に火花と剣戟の音が散る。

 金属が噛み合う甲高いその音は広い部屋の中で響き渡り、悲鳴のように木霊した。

 そしてその悲鳴を切り裂いてまた大きく闇に閃光が走る。

 大上段から振り落とされた相手の斬撃を蝶姐が頭上で両手を十字に組んで防ぐと、しばらく二人の間で力が均衡する。

 彼女の両腕は神薙を以ってしても切断する事はできないが、光を吸収する漆黒の金属のその表面には僅かに傷が見て取れた。

 空気を巻き上げて摩昼の右の爪先が跳ね上がる。

 片腕を下ろして神薙を横に滑らせながら退けると、蝶姐は間合いを詰めながら身を横に流して蹴りをかわした。

 すぐに目の前の腹部を狙って蹴り上げられた相手の足を抱き込むと、自分の足で相手の床に残った足を払って転倒させる。

 「ぐっ」

 背をコンクリートに打ち付けて一瞬呼吸の止まった摩昼の鼻先には、満面の笑みを込めた蝶姐の表情があった。

 息がかかるほどの近くで彼女はそっと囁いた。残酷さを隠した優しい声で。

 「伊緒はずーっと言ってたよ。『摩昼が助けてくれる』『摩昼が助けに来てくれる』って。

 ちなみに私は貴方が死体になっても愛せるよ?」

 「てめェ!」

 刀を振るおうにも間合いの余裕がない。

 摩昼は刀を手放すと両手で自分に乗りかかっている彼女の胸倉を掴み、相手に捕まっていない左足でその脇腹に膝蹴りを入れた。

 目の前の唇から苦しげな呼気が漏れて体にかかっていた圧力が消える。

 脇腹を押えて飛び退き痛みに堪える蝶姐に、神薙を構え直した摩昼が再び対峙した。

  しばらく二人の息遣いだけが静止した空気に流れ込む。

 蝶姐はふっと相手の瞳と纏っていた雰囲気が変化するのを感じた。

 激しく燃え盛るような怒りと憎しみから氷の冷徹さと意志を持つ冷たい瞳の男へと、それはまるで吹っ切れたように変わっていった。

 「お前をもうティエチェだとは思わねえよ」

 すっと熱気が失せて刺さるような冷気を発し、摩昼はそれに合わせて纏う炎の縮んだ神薙を正眼に構える。

 彼の姿が薄れたような錯覚に蝶姐は眼を細めた。

 「原因は何だ? 俺の知ってるアイツは間違ってもそんな事をする奴じゃなかった」

 「私の口には何を聞いても無駄」

 幽鬼のような相手の声に、痛苦から立ち直った彼女は笑みを張付かせて答える。

 「吐かせてみなよ。それも伊緒の居場所も私の体に聞くしか方法はないね」

 嘲りを含めた彼女の答えに、摩昼は瞳を閉じて大きく溜息をついた。

 「もういい…ティエチェは死んだんだ。三年前にな」

 気合いを漏らす声と同時に次は蝶姐が先手を打って踏み込みをかけた。

 初撃は胴への手刀、摩昼が神薙を立てて刀身の中腹で受けた瞬間にその掌は跳ねるように上段へと軌道を変える。

 頭を引っ込めてそれをかわした彼の髪を、超震動の刃が数本刈ってゆく。

 次の攻撃に備えて一歩後退した彼に凄まじい怒号が被さってきた。

 「何で探しに来てくれなかったの?!」

 「!?」

 呆気に取られて構えを緩めそうになった摩昼が、慌てて繰り出された蝶姐の右の掌底の中段突きを刀で防ぐ。

 超震動を発動した掌が神薙の刃に触れ、雷鳴のような凄まじい金属音と同時に火の子を花火のように散らした。

 「もしも摩昼が私を探しに来てくれてニ、三発ぶん殴ってくれれば私だってまともに生きていけたかも知れないのに!

 毎日毎日あんたが迎えに来てくれないかなって思ってたのに!」

 左手で右手の中に残っていた刃を弾いて外に反らすと、自由になった右手を摩昼の胴に伸ばして再び掌底を放つ。

 「何よ、大学で伊緒と遊ぶのがそんなに忙しかった!? 私の事なんかどうでも良かったの!?」

 「ふ…」

 後退して掌底から逃れると取り戻した冷静さもどこへやら、相手の言い分に激昂し返した摩昼は蝶姐に負けないくらいの剣幕で喚き散らした。

 「ふざけんじゃねえ! お前、俺とおっさんがどんだけ心配したと思ってやがる!?

 お前の兄貴たちゃずーっとお前を探してたんだぞ!」

 喉元への突きを払った蝶姐に対して摩昼は軌道が反れた刀を振り回してその場で一回転し、殴りつけるように相手の横顔に斬撃を放つ。

 両手で防ぎはしたもののあまりの衝撃に蝶姐がよろめいた瞬間、踏み込みをかけた摩昼の太刀筋が霞んだ。

 「周りの人間が全部お前の事だけ考えて生きてるとでも思ってんのか! お前のそういうとこがガキだってんだ、この…」

 右膝の脇に下段蹴りを受けてがっくりと体勢を崩した彼女に、逆袈裟で刀を浴びせ掛ける。

 「大バカ野郎!」

 斬撃を前に蝶姐は手を目いっぱい正面に伸ばして×字に組み合わせるとと上体を折って倒れ込み、すくい上げるように伸びてきた刀を

 腕で防ぎつつそれを押さえ込んで摩昼の目の前で逆立ちをするような姿勢になった。

 「私はアンタに来て欲しかったのに!」

 摩昼の顔面に逆立ちしたままの蝶姐が放った蹴りが炸裂し、よろよろと三歩ほど後退する。

 「私を探したいって言ったら伊緒に疑われると思った? 『ティエチェを好きになってる』って! だから来れなかった?」

 呻きながら瞼の奥で火花の散っていた瞳を開いた時、ふと摩昼は彼女の表情を見た。

 礼服をなびかせながら前転して立ち上がると、蝶姐は自分でも初めて頬を伝って床に落ちている雫に気づいた。

 心の内側をムチャクチャに引っ掻き回されたような激しい胸の痛みがあるのに、涙は苦痛で流れているのではない。

 運命に対する怨嗟でも自分のものにならなかった相手の心に対する怒りでもない。

 「『貴方の側にいたい』…」

  ふと怒鳴り声が途切れた中で蝶姐が見せた表情に、摩昼は初めて懐かしさを感じた。

 それは記憶の中の弱虫な彼女と二つの顔はぴったりと重なった。

 「簡単に見えてそれが一番とんでもない無茶なお願いだったの。

 貴方が好きだったの、ずっと、ずっと!」

 彼女の告白に真っ白になった摩昼に、蝶姐は涙をこぼしながら哀しさの入り混じった笑顔を見せた。

 「誰かを拷問する度に考えちゃいけない事が頭に浮かんだ。

 もし貴方をこうできたら…って。

 …貴方と二人で一緒に幸せになろうっていう考え方がある日気づいたら全然できなくなっちゃってた…」

 それは多分、摩昼はもう絶対に自分のものにはならないから。そしてその考え方が蝶姐を結果として歪めてゆく事となった。

 単純に彼を好きだと思っていた頃は良かった。ただ好きでいられた。

 だけど『自分のものにはならない彼』という考え方に切り替わった時から蝶姐はどこか壊れてしまった。

 好きな人の幸せを祈れるだけの心が自分に欠片でもあれば、こんな事にはならなかったのに。

 「…伊緒はここから二つ上の階の宿直室に閉じ込められてる」

 しばらく天井を仰いでいた彼女がゆっくりと視線を正面に戻す。

 涙はもう止まっていた。

 「私を斬って伊緒を助けるか。みんなで一緒に死ぬか」

 キッと睨んだ相手の視線に摩昼が無言で構えを取って答える。



  死闘のニ幕目は沈黙から始まった。

 息を呑んだ二人は石化したように微動だにしない。

 しかしお互いには見えていた。循環する氣は今までにないほどに高まり、渦を巻いて肉体を巡っている。

 青白い炎と化してほとばしるお互いの気迫を探り、二人は対峙したままじっと動かない。

 空気が唸った。

 同時に跳ねた二つの影が一点で繋がり、空に凄まじい火花と金音の悲鳴を上げる。

 そして床に散った鮮血の塊も二つ。

 蝶姐の手刀は相手の脇腹を、摩昼の神薙は彼女の首を霞めていた。

 お互いもはや防御は考えておらず、ギリギリの場所で致命傷を外しているだけだ。

 恐らく勝負は一撃で決まる。

 次に始まった二人の剣戟は焼きつくような鬼気を放ってはいたが、本命の為の布石ですべての攻撃が軽い。

 ひたすら相手の隙を探って打ち合っているのだ。

  せめぎ合う二人の体にはたちまち細かな傷が刻まれ、吹き出す鮮血が床を染めてゆく。

 蝶姐の純白だった礼服が血の染みで半分ほど埋まった頃に、勝負の流れは見え始めた。

 己の傷を刀の治癒力で塞ぐ事のできる摩昼に対し、血液と体力を失って見る見る消耗してゆく彼女の動きには次第に無駄が目立ち始めた。

 呼吸を荒げて空気を貪りながら、蝶姐は薄れ始めた視界の中にじっと相手を捕えていた。

 満身創痍なのに眼光だけは疲れを知らないかのように爛々と刃のごとく輝いている。

 蝶姐には確信があった。

 多分摩昼は口でどう言っても自分の胴体に刀を突き立てられるほど冷徹になれないだろう。

 彼がどのくらい優しい男なのかは蝶姐が一番よく理解しているつもりだった。

 ―― その優しさがアンタを殺す。

  振り下ろされた摩昼の刀の軌道が突然落ちて、蝶姐の脚へと向かった。

 その脛打ちを全力で床を蹴って真上に跳ねながら避けると、体を捻った彼女の足が唸りを上げて摩昼の横頬に迫る。

 いわゆるローリングソバットを身を縮めてやり過ごした次の瞬間、彼の顎で衝撃が爆発した。

 空中での回し蹴りの勢いを殺さずに着地しながら、そのまま地上で同じ方向にもう一回転して裏拳を放った蝶姐の二段攻撃だ。

 倒れまいと踏み止まったのは摩昼の最大の失策だった。

 「はぁぁあああ!」

 両腕に極限まで集中させた氣の唸りを口から漏らし、相手の両足の間に踏み込んだ蝶姐の両腕が激しく霞んだ。

 防御も間に合わないままの摩昼のみぞおちに向かって両の指先を内側に向けた双掌打が突き刺さる。

 呼吸の止まった彼の前で蝶姐が跳ねた。

 渾身の脚力を込めて両足の靴底を相手に押し当てたままの自分の手の甲に炸裂させ、二重の衝撃を食らって彼は壁際まで吹き飛ばされた。

 背を打った壁に寄りかかって何とか崩れ落ちるのを防いだものの、指一本動かす事さえできない。

 骨と肉がバラバラに粉砕しそうな感覚に脳が焼き付き、内臓が軋みを上げて煮えたぎるようだった。

  初撃の掌打の上から更に両足での蹴りを入れる事で衝撃を二重に浸透させる、刺踏に置ける奥義の一つで信じ難い破壊力を発揮する。

 蝶姐の父親、自分の師匠でもある男に一度食らって死ぬ思いをした技だ。確か太陽衝と呼ばれていた。

 蹴りを入れた反動を利用して空中で一回転しながら着地すると、蝶姐は細胞の崩壊を味わっている相手の元へとゆっくりと歩いてゆく。

 摩昼は肉体が粉砕してゆくかのような、かつてない感覚に壁を背にしたまま必死に嘔吐を堪えていた。

 今吐いたらズタズタになった内臓まで吐き出してしまいそうだった。

 ―― 『教えておくが人間には使うな。俺は自分の子供を人殺しにゃしたくねえ』…

 蝶姐に言っていた師匠の言葉の意味が今わかったような気がした。自分が実験台になったあの時はまだ手加減していてくれたのだろう。

 おっさん、あんたの子供は親の言う事を聞かない不良娘だぜ。

 「摩昼」

 摩昼の感覚が失せたみぞおちにもう一度蝶姐の両の掌が置かれた。

 彼は必死に眼を凝らしたが鼓膜が痙攣していて焦点が合わず、真正面にいる彼女の顔さえ見分けがつかなかった。

 テレビのノイズのように歪み切った視界の中に、かろうじて判別がつく金髪に半分ほど遮られたその表情は酷く哀しげに映っている。

 「貴方は私だけのものになる」

 遠く霧の中から放たれたような声が摩昼の耳腔の中でガンガン響いた。

 相手の掌が触れている腹部から触感は消えていても、僅かに相手のその体温は伝わってくる。

 「私だけの…」

 蝶姐が押し当てた両手に力を込める。

 ふと、氷のように冷たい涙が頬を伝うのを感じた。

 もう涙は枯れたと思っていたが、後から後から雫は流れて床を濡らす。

 何でだろう?

 もはや命を奪うだけの獲物を前に、蝶姐の中ですべての思考が停止した。

 辛うじて湧き上がるのは果てしない胸の痛み。

 何で私はまた何もかも自分の手で大切なものをブチ壊そうとしているんだろう?

 半分夢の中にいるみたいな、恐ろしく長く感じたこの人がいない日々。

 吐き気がするほど苦しくても、泥沼の中で足掻いていても、この人との優しい思い出だけは嘘じゃなかった。

 嘘じゃなかったから頑張ってこれたのに。

 何でまた私はこんな事をしているんだろう。何で私はこんなダメなままなんだろう。

 「摩昼、私…っ」

  語尾は血と同時に唇から溢れた。

 蝶姐の脇腹から走った冷たい金属の感覚が体内を駆け抜けてゆく。

 自分の身に起きた事が信じられないような面持ちで、視線を銀光が生えた自分の脇腹に落とす。

 数歩後退する足取りは揺ぎ無かったが、そこまでだった。鮮血の溢れ出す脇腹を押えがっくりと膝からコンクリートに崩れ落ちる。

 蝶姐が自分から後退したせいで神薙は自然と抜けた。

 ほぼ自分の指と一体化したかのような感覚となっている刀をしばらく空中に留めたまま、摩昼は少しずつ戻ってゆく視界の中でしきりに血の

 混じった咳を吐き出す幼馴染の少女を見ていた。

 礼服の脇腹の部分の血の染みが見る見る広がり、やがては真っ赤になって床に紅の雫が落ちる。

 カッと見開かれた瞳で彼女はコンクリートを見つめていた。

 脇腹が熱くなり、失血のせいかひどく耳鳴りがする。

 「私っ…貴方が、伊緒と一緒になって…それで…」

  自分の体の中にまだこんなに残っていたのかと思えるほど吐血は溢れた。

 恐らく肺に穴が開いたのだろう。胸の奥で肺に血が流れ込むゴボゴボという音が聴こえてくる。

 「貴方の中の私の記憶が…思い出になって、忘れられちゃうのが…それだけは絶対耐えられなかったからっ…

 でも、伊緒がいるから…貴方は私をもう好きになってくれないだろうから…

 わ、私…貴方に嫌われたかったの。物凄く嫌いになってくれれば…きっと、貴方は、私の事っ…忘れないと思って…」

 跪いたままの自分の体が折れてコンクリートに突っ伏しそうになるのを、辛うじて片手で支える。

 神薙を握り締めたまま治癒力を高めていた摩昼は、どうする事もできずに漏れてくる彼女の悲痛な声に聞き入っていた。

 「ご、ごめんね…ごめんね…私の事、絶対に許さなくていいからっ…憎いなら…もしかして可哀想だと思うなら、忘れないで、絶対、絶対…」

 彼女がゆっくりと倒れて自分の流した血の中に横たわる頃、摩昼はどうにか歩けるようになっていた。

 みぞおちを片手で押えながら、よろよろと前進して蝶姐の前に屈み込む。

 蝶姐の礼服の懐から滑り落ちた小さなノコギリが床を滑って摩昼の靴に当たり、澄んだ金属音を立てた。

 彼女の血液に混じってはいるが、指につけて舐めてみるとすぐにわかった。最初から付着していたのは赤いインクか何かだ。

 「忘れない」

 血で顔に貼り付いた彼女の髪をそっと掻き揚げてやると、胸を締め付けられるような哀しみを堪えて立ち上がった。

 「絶対に…」

 もう時間がない。

 伊緒を見つけて階下までは徒歩で降りねばならないのだ。

  足音を響かせて小走りに広間を抜ける時に湧いた、振り向きたいという衝動を無理矢理飲み込んで上を目指す。

 再び静寂が支配したその部屋では、窓から差し込む燐光が静かに蝶姐の体を包み込んでいた。

 まるで天空へ彼女を導いているように。



  伊緒はすぐに見つかった。

 物置に隠れていたが、摩昼の声を聞いて廊下に飛び出してきたのだ。

 恐怖と疲労に憔悴してはいるが彼女は特に何か傷を負っている訳ではないようだった。

 二人が一頻り無事を喜んで抱き合った後、伊緒は手にしていた大きなガラス切りを彼に見せた。

 蝶姐の腕刀と同じメカニズムの超震動の刃で防弾ガラスでも切れる特別製だ。

 「ティエチェがくれたんだ。何か黒服の男たちがアタシを探しに来たんだけどさ、その前にコレ使って外の窓を破って逃げたの」

 恐らく火羽が倒された事で動揺した司令部が人質を使おうとやってきたのだろう。

 伊緒は蝶姐から譲り受けたこのガラス切りで窓を破り、高層ビルの屋上近くで窓枠を伝って別の部屋に移るという離れ業をこなしたのだった。

 その後はずっと別の部屋の物置に隠れていたのだ。

  胸に手を当てると幼馴染に礼を言い、摩昼は伊緒の手を引いて今来た廊下を引き返した。

 「ティエチェは?」

 ふと疑問を口にした彼女に摩昼は何も答えなかった。

 「急ごう。すぐに倒壊が始まる」



  一方ネヴァーエンズ達は大方脱出を終え、ヘルダイヴと一部の側近たちは負傷者を担いで階下を目指していた。

 ぱったりとザ・ショップの戦闘員の姿が見えなくなったところを見ると、摩昼の得た情報は真実なのだろう。

 生々しく残る弾痕などの傷跡が残る戦場には死体とネヴァーエンズの生き残りしかいない。

 ヘルダイヴが考える限りやはり情報のリークはユマだとしか思えない。

 喋った記憶がない以上、彼は自分たちの会話をどこかで立ち聞きしていたのだろうか。

 そもそも自分たちの今回の作戦は成功したのだろうか?

 他のビルから直接エスチェボーンビルへ乗り移ったモーターキラー・クイーンズの中で一人だけ生還した男も事の成り行きを最後まで見ては

 いなかったらしい。

 「死ぬなよ」

  肩を貸していたデーモニックギャルズの少女に励ましの声をかけながら、ひたすら階段を駆け下りる。

 バタバタと階段を踏みを鳴らす仲間達もとうに体力の限界を通り越し、気力だけが体を突き動かしているようだった。

 あと三階層で地階だ。パラシュートを使って降りているザ・ショップの兵士は何人か見たが、ここからではパラシュートを開くには低すぎる。

 怪我人を抱えてではほとんど飛び降り自殺と同じだし、ヘルダイヴはまだ走っても間に合うだろうと踏んでいた。

  不意に立ち止まったヘルダイヴにふと先を行く仲間達が振り返る。

 じっと耳を済ませていた彼女が突然向き直ると、転がり落ちるように階段を駆け下り始めた。

 「走れ!」

 訳もわからないまま慌てて遅れを取らないよう走り出した少年らも、床と壁を揺るがす爆発音を遠くで聞いた。

 ここよりずっと離れたどこかの階層に仕掛けられていた爆弾が火を吹いたのだ。

 「もうタイムリミットかよ、畜生!」

 左手でポケットに手を突っ込むとケータイを取り出し、画面を見る暇もないまま焦燥を抑えてリコールを押す。

 爆音と衝撃による震動は波のように少しずつ近づいてくるようだった。



  コール音を聞いてしばし伊緒から手を離し、ケータイを取り出す。

 と、同時に激しい衝撃を伝えて波打った床に摩昼と伊緒は危うく転倒しそうになった。

 壁に手をついて体を支えた彼の耳に、よほど焦っているらしいヘルダイヴの怒鳴り声が響く。

 島原! 彼女は助けたか?!

 「ヘルダイヴか? ああ、何とかな」

 よーし、よく聞けよ。ザ・ショップどもの死体からもぎ取った通信機によりゃあロッ ―ザ…― ラシュートが ―ザザザザ…― 島ば ―ザーザ―

  聞こ ―― ブツッ

 「ヘルダイヴ!? ヘルダイヴ!」

 ノイズに飲み込まれて消えた相手の声を求めたが、もうスピーカーからは何も届いてこなかった。

 改めて手の中のケータイを眺めると衝撃を受けて半ば粉砕している。蝶姐との戦闘の際にできた傷だ。

 それでもどうにかヘルダイヴの声の最初のあたりは拾う事ができたのだからよく働いた方だろう。

 彼女が何を言いたかったのかはわからず終いだったが、悩んでいる時間はない。

 ケータイを投げ捨てると不安げな伊緒の手を取り、二人は再びは階下に向かって走り出した。

 爆音はもうすぐそこで聞こえている。

 天井は崩れ、壁と床に見る見るうちに亀裂が走り、二人を逃がすまいとするかのように触手のように伸びて行く。





















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