プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -
クレイジーハートブレイカー
最終話.BOY Meets GIRL
十二月の淡い朝日が昇る頃、地平線に顔を出した日輪を背景にエスチェボーンビルでは崩壊が始まっていた。
地上からそびえるその塔の各階層が爆風を吹き出し、支柱が順番に砕けてどんどん不安定になってゆく。
建物全体を揺るがすコンクリートの悲鳴と震動音の中、雨のように頭上から降ってくる大きな天井の破片を浴びないように気をつけながら
摩昼と伊緒の二人は必死に廊下を走っていた。
遠くから続け様に爆音と波打つような衝撃が伝わり、ガラスが次々に砕けて降り注ぐ。
階層の表記によればここは47階だ、地上まではあと46階層分を徒歩で降りねばならない。
伊緒はまだしも摩昼はすでに消耗しきっており、神薙の治癒力で少しずつ回復はしているが疾走は困難を極めた。
絶望的な思考が二人に重く圧し掛かる。
「諦めるな」
肩を貸していた摩昼の声に伊緒が顔を上げた。
鉛の詰まったような足を引きずって階段を降り、ようやく蝶姐と戦った広い階層の前までたどり着いた時だった。
今やビル全体が激しく震動していたが、摩昼は踏んでいる床の奥から別の音響を聞き取った。
派手な爆砕と激しく何か重いものを撒き散らす音。
爆弾が炸裂しているのだからそんなものは当たり前だろうが、問題はそれが階下からだんだんこちらへ向かってきているという事だ。
音も震動も少しずつ大きくなり、遂にそれは幼馴染の少女との最後の戦場になった倉庫の入り口前で手に取るように感じられた。
もう真下まで迫っている。
「伊緒!」
あわてて彼女を抱き止めた瞬間、目の前の床が弾けた。
撒き上がった埃に視界を奪われながらも飛散した床の破片から守ろうと伊緒を胸の中に抱き込む。
建物の凄まじい軋みに掻き消された彼女の短い悲鳴を聞きながら、弱々しく光る神薙を構えた摩昼の前で埃が大きく翳った。
信じられない面持ちのまま目を見張った中で、それはゆっくりと彼らの前へと前進する。
「火羽!?」
摩昼が漏らした声に嘘つきな鎧は何も答えず、しばらく二人を見下ろしていた。
その不器用な人型はやや縮んでいるとは言え紛れも無く稼動しており、表の鏡面は崩れ落ちる周囲の内装を映し込んでいる。
今しがた己が開けた穴を背に、嘘つきな鎧は次の一歩を踏み出した。
多分搭乗しているのは火羽ではないのだろう。体の半分を溶かされた彼が生きていたとは思えない。
となると自律機能がついていたのだろうか?
「畜生!」
「何…?」
脅える伊緒を下げて刀を構えた摩昼が最後の抵抗とばかりに相手を睨みつける。
足場は悪く体力は底を尽き、しかももう時間がない。更に伊緒が一緒なのだ。
絵に描いて額に入れたような窮地から湧く焦燥に心を焼かれ、彼は必死に頭の中で打開策を案じた。
突然嘘つきな鎧が両腕を持ち上げ、摩昼がそれに反応してさっと神薙を正眼に構え直した瞬間、凄まじい爆音の怒号が床を震わせる。
バランスを崩して転倒しそうになった二人に容赦なく嘘つきな鎧の手は伸び、二人の体を包み込んだ。
体を這う冷たい液体金属の感触に悲鳴を上げる間も無く飲み込まれた彼らを体内に留め、嘘つきな鎧は転身すると壁を破って右手へと
進んでゆく。
遂に外界とを隔てる窓までたどり着いた時、鎧は強化ガラスを砕いて窓枠に足をかけた。
制止できる者は誰もいないまま巨体が身を宙へ乗り出す。
そして虚空へと踊った瞬間、落下を開始しながら輪郭が溶けて形を変え、鎧は見る見る別のものへと成形を始めた。
唸りを上げて流れて行く空気を浴びながら完全な球体へと変わったそのバリアブルメタルから、二つ大きく腕のようなものが伸びる。
あっという間にその二つは球体のバリアブルメタルを吸い尽くして巨大な一組の羽根へと変わった。
地上へと逃れたヘルダイヴ達が眺めている先でアゲハ蝶のように長い尾を持つそれは羽ばたく事はせず、音もなく滑空しながら向かいの
ビルに正面から突っ込んだ。
誰も出社していない早朝の建物の真ん中あたりの階層に砕いたガラスとコンクリート片を撒き散らし、机や内装などの調度類を倒して
ようやく羽根は停止した。
ずるずるとバリアブルメタルが引いて摩昼と伊緒が床の上に姿を現す。
二人とも先ほどいきなり呼吸ができなくなったせいで解放されると同時に同時に激しく咳き込んで空気を貪り、流れ込んでくる甘い空気に
喉を鳴らす。
浮揚感は感じていたが一瞬状況が掴めず、摩昼は窓際から崩れ落ちるエスチェボーンビルに目をやって初めて助かった事を知った。
次に視線を移したのは言うまでもなく辛うじて羽根の形を留めている嘘つきな鎧だった。
頭を突っ込んではいるが胴体の半分ほどはまだ窓の外に垂れ下がっているそれは、制御を失ったのかビクビクと表面が波打っている。
声もないまま見つめていた彼の目の前で、摩昼と伊緒を吐き出した鎧の表面がもう一度溶けて内蔵していたもう一人の人間を露出させた。
声を失った摩昼の目の前で彼女の体にまとわりついていたバリアブルメタルが見る見る退き、丁度背に羽根を背負っているかのような
状態になってようやく溶解が終わる。
朝日の逆光とそれを跳ね返す銀のバリアブルメタルに、蝶姐の姿は光に抱かれていた。
まるで陽光を浴びて舞う蝶のように。
「ティエチェ」
呆けたように声を絞り出した摩昼に彼女は何とか笑みを作ろうとしているようだった。
しかしどんなに堪えようとしても、また涙が溢れて止まらない。
「私は泣き虫のままだね」
どうにか浮かべて見せた笑顔は果てしなく遠く、柔らかかった。
きっと摩昼は死ぬまでこの笑顔を忘れる事ができないだろう。
ゆっくり、名残惜しそうに蝶姐は瞳を閉じた。せめて彼の最後の姿を瞳に焼き付けて置こうと。
ぐらりとその姿が背後へと倒れ込む。後ろは破った壁の穴以外何もなく、虚空が広がっていた。
摩昼が床を蹴って走った。彼女の体を抱き止めようと伸ばした腕の中を寸前ですり抜け、その姿が虚空に沈んで飲み込まれる。
蝶姐の体はくるくると錐揉みしながら真っ逆さまに地上へと落ちていった。
羽根の鏡面があらゆる角度で光を弾く、閃光を纏った蝶となって。
「摩昼はさ」
教室の机に腰掛けた蝶姐の声に、やや奥でプリントを前に机についていた彼が顔を上げる。
セーラー服姿で長い金髪をポニーテールにした幼馴染の少女は、切れ長の瞳で夕焼けの校庭を見下ろしていた。
制服の夏服の裾は破れたままになっている。またどこかで喧嘩をしてきたのだろう。
高校二年の夏。
いい加減将来を決めなければならない、ある意味最も夢と希望に溢れた時間だった。
二人は居残って結局できなかったプリントの問題を解こうと躍起になっていたが、蝶姐の方は早々に諦めて退屈そうにしている。
窓から差し込む夕日は美しく、他には誰もいない教室のすべてをオレンジ色に染めていた。
その彼女の夕日を浴びてオレンジと金の入り混じった、表現し難い色になっている金髪にふと摩昼は目を奪われた。
「摩昼は私の事をどう思ってた?」
いや、待てよ。俺はさっきまで確かに、ビルの中に…それにあの蝶姐の姿は?
ここはどこだ? 彼女の記憶の中?
突然放り込まれた思い出の世界に状況の理解に戸惑う摩昼に、彼女がふっと金髪を乱して向き直った。
「私はその事ばっかり気にしてたよ。…貴方が好きだったんだ、ずっとね。これは本当」
机から飛び降りると踵を踏んだ上履きを鳴らし、蝶姐は立ち上がった彼の目前までやってきた。
ずっと同じ位だった背は何時の間にか摩昼に追い抜かれている。
「『恋愛の方程式はたった一つ、相手の幸せを祈る事だけ。例え思いが届かなくてもね。
それができなくなった時、アンタはアンタが一番嫌いな女になっちゃうわよ。ま、できるなら同じ位自分の幸せを祈りなさい』…って。
私の尊敬してた人の言葉なんだけど…今ならわかるよ」
ふと、摩昼の視界からすっとオレンジ色が消えた。
目前の蝶姐の笑み、机、窓から差し込む夕日…それらからすべてのオレンジ色が薄れ、消えてなくなったのだ。
次に青、次に緑という具合に、一色ずつすべての色彩が消えてゆく。
「相手が、自分が一番幸せになったところを考えて。人はそれに向かって生きてゆくから」
そして最後に彼女の輪郭が消滅し、何もかもが白い世界に放り込まれた時、彼は手を伸ばして叫んだ。
「ティエチェ!!」
「ごめんね。本当にごめんね」
無色の声もやがて色と同じように薄れ、消えていった。
――― 今なら考えられるよ。私は私の幸せを強くイメージできる。
郊外の大きな家で私と摩昼は一緒に夫婦で住んでてさ。
子供は二人、女の子と男の子。
私はいつもキスをしたがって、貴方は恥かしがるけどやっぱり結局はしてくれる。
日曜日には家族揃って広い庭でお弁当を食べよう。花壇にはいつもいっぱい蝶々がいるんだ。
そんな住宅のCMみたいに幸せな家庭。作れたらよかったな。
貴方がいてくれたから…全部、貴方が私と出会ってくれたから見れた未来。
でも、もう…
さよなら、大好きな人。どうか幸せになって下さい ―――
『 ジー…ガチャッ。 シャーー…
ふー…さて。何から話していいのか…ああ、そうだな。
まずは事の経過から話そう。
今回一連の事件でザ・ショップはまたもや大きな打撃を受け、加えて火羽の死からドラッグストアは大幅に縮小せざるを得なくなった。
俺たち百狼会も相当な数の戦闘員を失った。またしても我々は島原摩昼に煮え湯を飲まされたというワケだな。
カネもメンツも人員も失ったが…俺は君を失ってしまった。
頭蓋骨の陥没で脳に致命傷を負った君は断言するがもう助からん。生命維持はあと三時間が限界だそうだ。
奇跡的に即死を免れたのは君が最後の最後に身に纏ったバリアブルメタルのせいだ。搭乗員を守る為に自動的にクッションとなったらしい。
火羽が予備に持っていたクスリを打って君が嘘つきな鎧に乗った理由は聞いたよ。あんな大怪我をしてまで…
だが結局は君は死ぬ。
…何でこんなバカな事を! 俺がどれだけ君の事を…!
いや…もういいんだ過ぎた事はな。
俺が自分の生い立ちを憎んでいた事は話したよな? 百狼会を継ぐ九灯家のヤクザの家系に生まれた事を呪っていた。
俺は平凡に生きて行ければ良かったんだ。
…蝶姐。君だけが俺の人生で福音だった。君ァ俺が何で君を選んだかずっと不思議に思ってたみたいだが…
いや。理由なんかないさ。俺は蝶姐が蝶姐だったから好きになったんだ。
君を助ける方法が一つだけある。
島原摩昼…ああ、彼は君の幼馴染だったそうだな。そして愛していた。そうだろう? 彼に会って話したんだ。
いやまあ、それはもういいんだ。
彼の持っていた刀、神薙だがアレには不思議な能力があるそうだな。持ち主の傷を癒し、回復させる。
どこからそのエネルギーが来ていたと思う? 斬った人間から吸収していたそうだ。
彼は疑っていたが、説き伏せてそれを借りてきた。だから君の手に握らせて私を斬ったら…?
島原摩昼はこの刀は島原家の人間にしか使えんと言っていたが、何でも人間の『思い』に干渉して能力を発揮する刀だそうだな。
俺の思いが強ければ、或いは…
許してくれ、今度は俺が君を悲しませなければならない。だが他に君を救う方法はない。
この音声データを残す理由は…そうだな。未練だな。
君が生き返れば必ず罪を問われるだろう。だが生きてくれ。幸せになってくれ…俺が言いたいのはそれだけだ。
…蝶姐。
ありがとう。愛している。 ガチャッ 』
街がクリスマスで彩られる頃 ――
イルミネーションで着飾った並木の並ぶ坂道で、一人の少女がじっとその美しさに心を奪われていた。
セーラー服の上にロングコートを着込み、厚手のマフラーを巻いている。
夜の闇に星のように瞬くその街は、今だけは彼女の心痛を忘れさせてくれた。
正面の道路からやってきた黒塗りのワゴンが不意に彼女の視界を多い、少女が我に帰って向き直った。
停車したワゴンの運転席の窓が開き、切れ長の眼をした面長の若い男が顔を出す。
「待たせたな」
煙草をドアの灰皿に押し付けて口を開いた古滝に、紫陽花は無言で睨み返した。
「そう睨むなよ。命令だったんだからよ」
「用って何よ? あたしアンタもお姐も許してないんだからね」
「ほーう。どうすんだ? 蝶姐も生きてたんだろ、俺もあいつも撃つか?」
「ユマが!」
歯を食い縛った彼女が悔しさで拳を震わせながら視線を落とす。
「ユマが…許してやれって言うから。復讐なんかしないでって」
顎を撫でながら話を聞くうちに古滝は大抵の事は想像がついた。
恐らくユマは紫陽花が復讐などに駆り立てられて彼女の人生が自分のせいで潰れてしまう事を恐れているのだろう。
紫陽花自身は彼の優しさに気づいていないようだったが。
仏頂面のままの彼女を前に頭を掻きながら後部座席に合図をする。
後ろの窓が開いてハヤシバラが顔を出すと、紫陽花を驚かそうと『バア』とやってみせる。
特に反応のない紫陽花に戸惑うハヤシバラを放っておいて古滝はポケットからカードを取り出し、紫陽花に押し付けた。
深い青の表面に色々な数値などが印刷されている。
「…何コレ」
「ユマの身分証明だ。偽造だけどな。
ユマの所有者は紫陽花って事になってる、それがありゃァパオ・ナナでも大抵は人間と同じ扱いになれるぜ」
紫陽花がキッと相手を睨んで手にしたカードを地面に叩きつけようと振り上げた腕を、古滝がぱっと掴む。
「そいつがなけりゃユマは永久に道具扱いだぜ。あいつは元から密造されたパオ・ナナだ、身分証明なんざ発行されるワケがねえんだよ。
殺されようがある日どこかの誰かに連れ去られようが、人権のないオモチャにゃ世の中ァ何にもしちゃくれねえぞ」
自分と視線を合わせようとせずに唇を噛んだ彼女の瞳をじっと覗き込みながら、彼は続けた。
「そのカードに助けられる都度俺の事を思い出せ。そんでいつかお前がユマを一人で助けられるようになったら俺に叩き返しに来い」
紫陽花の腕から力が抜けるのを確認し、古滝は手を離した。
「じゃあな。またいつか逢おうぜ」
窓を閉めるとハンドルを握り直し、ほとんど車の姿が見えない道路へとワゴンの進路を向ける。
バックミラーには紫陽花に駆け寄る白いダッフルコートを着込んだ少年の姿が見えた。回復したユマだろう。
「良いんですかね」
弾傷シールを腕にくっつけて遊んでいたハヤシバラが不安そうに古滝に問う。
大型のホームセンターなどで売っているパーティグッズで、体に貼るとまるでそこが銃に撃たれたかのような傷に見える。
これに血糊を塗れば銃で撃たれた傷のできあがりだ。
ハヤシバラはモーターキラー・クイーンズと摩昼と相対した際、最初からこの傷を作っていたのだ。
煙幕が切れると同時に死んだフリをして相手をやり過ごしたのである。
紫陽花はただ単に頑丈な骨格と筋肉のせいで助かったが街路樹に落ちたというのも大きかった。
結局アンダーガードは犬飼以外全員が生き残り、エスチェボーンビルの件からバラバラになってしまった(古滝に至っては作戦失敗の責任を
負わされザ・ショップに追われる身だ)。
夜の繁華街を眺めながら、古滝がハヤシバラの顔が映ったバックミラーに目をやる。
「こうして面白くしてくんだぜ、運命ってゲームはな」
古滝はこの後中東あたりへ逃げてまたどこかで自分を必要している場所に収まるつもりだ。彼はゲームができればどこでも生きていける。
ハヤシバラはまだ何も考えていないが今は破綻しそうな彼女との間柄を保つのに必死である。
古滝らの乗るワゴンが通り過ぎた、ある高等学校の校庭。
真っ暗なグラウンドでは二つの人影が激しく交錯していた。
飛び交う拳の弾幕を正確に腕でいなした、片方の影から伸びた掌底が見事にもう片方の顎を捕える。
「ほら」
摩昼が恐る恐る目を開くと、迫った掌底は顎先で寸前で停止していた。
「私の方が強いでしょ?」
「偶然だ。暗くて見えない所にたまたま食らっただけだろ」
引いた蝶姐の手首からジャラジャラという金属の輪がぶつかり合う耳障りな音が響いた。
もう機械製ではなくなった両腕を繋いでいる手錠の音である。
思い出話に花咲かせた後にこれをつけていても摩昼には負けないという蝶姐の言葉から口論になり、二人はちょっとした組み手を
終えたところだった。
結果は見ての通りだったが摩昼は認めたつもりはない。
「神薙がありゃお前なんかなァ…」
「あっても勝てなかったじゃない。無理なのよ、無理」
口をつぐむと仏頂面になって摩昼は腰に手をやった。呼吸は軽く乱れている。
ふと蝶姐が思い出したように懐から煙管を取り出すと、摩昼に向かって口に咥えて見せた。
レイヴンから譲り受けた、先端近くで銀細工のアゲハ蝶が羽根を休めている繊細な芸術品だ。
「似合う?」
「全然」
「…」
「おっさんには逢ったか?」
「うん。ムチャクチャ怒鳴られたよ、殴られたし」
その後蝶姐の父と兄姉らはは彼女が犯罪者になっていた事をともかくとしても、生きていてくれた事に涙に暮れた。
血が繋がっていないのに三年間も家出をしていてもまだ家族として扱ってくれた彼らに感謝し、彼女は何の連絡もしなかった事を皆に詫びた。
摩昼が脱ぎ捨てた革ジャンを拾って着なおす間、蝶姐は煙管をしまって星を見上げていた。
「伊緒は何時間だけ許してくれた?」
「あ?」
「私と会う時間」
真っ白な息を吐きながら摩昼は鼻を擦ると、何だかばつが悪そうに答える。
「いや、別に…何とも言わなかったけど」
「私はあと一時間だけ」
またジャラッと音を立てて蝶姐が向けた親指の先には、校門の外で街灯の光を浴びている車とこちらを眺めている二人の背広姿の男が見えた。
蝶姐のような端末までは普通警察の手は及ばないものだが、彼女は自首したのだ。そしてあまりにも傷つけた人間の数が多すぎた。
重度の傷害致死、殺人(人権を持っていない包娼の場合はすべて器物破損として扱われる)、暴行の他にも違法に戦闘サイボーグ手術を
受けた事など。
数えれば切りがないほど沢山の罪を犯したその罰に、彼女はこれから長い長い時間を償いに費やされるだろう。
しばらく二人の間に沈黙が落ちる。
摩昼は蝶姐を、蝶姐は天を仰いでまた星を眺めていた。
黒のロングコートに身を包み、同じく髪も黒く戻した彼女の姿はほとんど夜の暗闇の中に溶け込んで見えた。
校舎は黒く闇に塗り潰されてはいるが、二人には見間違えようもなかった。ここは摩昼と蝶姐の母校だ。
ここで育ち学び、蝶姐は摩昼に対する思いを募らせ、彼は伊緒と出会った。
他にもここには星の数ほどの思い出がある。その一つ一つが今となっては胸に残る、たまらなく愛しい記憶。
ここでは摩昼とも何度も喧嘩をしたが、それも後で思い出して見れば懐かしい。
「ごめんね」
不意に漏れた言葉に摩昼が顔を上げると、蝶姐と視線が噛み合った。
「三年も何にも連絡しなかった。色んなバカな事してさ…」
「待っててやる」
「?」
真っ直ぐに自分を覗き込んだ相手の瞳に吸い込まれそうになった蝶姐に、摩昼は凛として言った。
「何年でも待っててやる。言える時が来たら全部話してくれ」
「…ありがと」
嬉しそうに笑って答えた彼女に摩昼も微笑を返す。
笑みで歪んで形を変えた、蝶姐の左眼の下の刺青だけはそのままになっていた。
「そうだ」
声をあげると蝶姐は突然足で地面に線を引き始めた。
冷気にガチガチになった土は予想以上に硬く、靴が磨り減るくらいの力で爪先を押し付けないと線にならない。
眉根を寄せた摩昼の周囲をぐるっと周り、その中に自分も入って円を閉じる。
「何だよ?」
「流行ったじゃん。ウチの学校の七不思議でさ、校庭に円を描いてその中に二人が入って…」
「背中合わせに手を繋ぐと何か出るんだか幽霊が見えるんだかってヤツか?」
「ちーがーう! 未来が見えるんだよ」
彼と背中合わせになった蝶姐がおずおずと手錠に繋がれたままの手を後ろに差し出す。摩昼はその手を強く握ってくれた。
こんなに人の手が暖かく感じられるのは初めてだった。
すっと閉じた瞼の裏側はさっきまで眺めていた瞬く星が焼きついている。
彼女はきっとこの先何があっても、今過ごしているこの時間の事だけは忘れないだろう。
きっと探しに行ける。幸せな未来を ―――
「摩昼」
ふとすれば落ちてしまいそうな涙を必死に堪え、蝶姐は背に体温を感じる相手にそっと聞いた。
「何が見える?」
2002-05-11
クレイジーハートブレイカー
HAPPY END!