プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -
クレイジーハートブレイカー
3.花の子ら
時々ダクトが吹き出す蒸気をまともに浴びないように気を使いながら、二人はなおも地下道を歩いていた。
時折見える天井の切れ目から覗く夜空にほとんど星は見えない。このあたりは神薙市でも最も空気の悪い場所だ。
くすんだ空に申し訳程度に輝く月明かりと途切れ途切れの蛍光灯だけが今の二人にとっての救いの照明だった。
真っ黒に汚れたコンクリートは光を吸収するのか周囲に陰気な雰囲気を撒き散らしている。
「あんまり長くいたくないとこだ」
不快感にハヤシバラが呟く。
通路は基本的には真っ直ぐに直進しているが時折十字路が見えた。迷わないか心配だったが蝶姐は確かな足取りで進んで行く。
もうどのくらい歩いているだろうと先行する彼女から視線を落とし、彼は腕時計に目をやった。
まだここに入って数十分ほどだ。もう一時間以上経ったような気がしていたのだが。
不意に目の前の蝶姐が口を開いた。
「もうちょっとだよ」
「ありがたい」
さきほどから気になっていたのだが、湿った空気の中に腐臭が混ざっている。
頭上に口を開けている天井の穴は通りに隣接しているので通行人がゴミを投げ捨てるようだ。
その臭いだろうが鋭敏な彼の嗅覚はそれ以外の臭いを感じ取っている。
何か、死体が腐敗した時の臭いだ。
そんなハヤシバラの疑問を知ってか知らずか、タイミングよく蝶姐が彼に注意を促す。
「ここを通る時は頭の上に気をつけてね。色々落ちてくるから」
「そのようですねえ」
足元に散らばる様々なゴミを蹴飛ばして彼が答えた。
せっかく初仕事だからと奮発して買った革靴はもう見る影もなく汚れているが、もはや彼もそんな事を気にしているふうはない。
「ここはザ・ショップの中じゃ有名なゴミ捨て場だから」
「有名?」
相手の言葉に眉根を寄せたハヤシバラはふと頭上の気配に気づき、全身に落ちた影に慌ててその場から飛び退いた。
たった今しがた上から落とされた青いビニールに包まれた何か大きなものがドスンと湿った音を立てて床に転がる。
人間ほどの大きさもある物だ。誰だか知らないが粗大ゴミをこんなところに捨てるなと彼は高鳴る胸を押さえ一人憤慨した。
そんなハヤシバラに振り返りもせず蝶姐は右手の壁に走るペイントアートに気が付き、立ち止まる。
随分薄汚れてはいるがはっきりとわかる、花びらの多い花を象った華美な文字が大きくコンクリートに走っていた。
相当細かく書き込まれているようだ。このまま額に入れて飾ってもおかしくない。
「『フラワーチャイルド』」
その文字をハヤシバラが小さく呟く。確か子供服のブランドか何かの名前だった筈だ。
彼女に質問をしようと思ったが、彼の声はすぐに前方の闇に向けられた蝶姐の声にかき消された。
「ジャスミーン! どこー?」
声は尾を引いて地下道に響き、消滅してからほんの数秒の間を置いて前方の壁の一部が開いた。
闇と汚れでまったくわからないが扉があったらしい、中から漏れる暖かな光が床に落ちる。
「お姐さん」
その明かりを浴びて現れ控えめな笑みを向けたのは蝶姐の言うとおりまさしく絵に書いたような美少女だった。
僅かな明かりを受けて軽くウェーブのかかった金髪は光を砕き、透き通った肌は水晶のようだ。大きな瞳は藍色をしている。
と同時に彼女という存在はこの地下道という背景とは完全に調和を拒否しており、ジャスミンと呼ばれたこの少女は陽光の下こそ相応しいだろう。
切れ端を繋ぎ合わせて作ったような、縫い目の糸が大いに目立つツギハギのフリルのドレスを身につけている。
不思議な国のアリスを思い出させる西洋人形のような美しさだ、年齢は13か4くらいだろう。
「こちら新入りのハヤシバラ。名前覚えなくていいよ、どうせ大して逢わないだろうし」
「それはひどいなあ」
蝶姐親指で指されて彼は苦笑を漏らした。
「初めまして、ハヤシバラさん。ジャスミンです」
ジャスミンは初対面のハヤシバラに軽くスカートの端を持ち上げて挨拶した。
「ハヤシバラです。人は『百枚舌』と呼びますが」
「ひゃくまいじた?」
キザに笑って挨拶を返す彼に、大きな眼をぱちくりさせて無邪気にジャスミンが聞き返す。
「嘘ばかりついているんでね。最初は二枚舌だったんですがいつの間にか九十八枚プラスされまして」
「まあ」
口元を隠すと彼女はおかしそうに笑いを漏らした。
「これ、おみやげに服。元気でやってる?」
手にしていた紙袋を渡すと蝶姐はしゃがみ込んでジャスミンに視線を合わせ、柔らかに微笑む。
本当に彼女の事を気遣っているのだろう。ハヤシバラにはその笑みに偽りはないように思えた。
「ありがとう! うん、大丈夫。最近は食べる物が多いから」
「寂しくない?」
「犬たちがいるから」
ハヤシバラと蝶姐の二人が顔を上げるとジャスミンの出てきた扉の中から野良犬が二匹顔を出していた。
ここに来る途中何度も見た犬飼のサイボーグ犬ではない。改造を施されていないただの野良犬だ。
もう二、三言葉を交わして二人は見送ってくれる彼女を後にその場を去った。
しばらく歩くと地下道はそこで終わり、突き当たりにスチール製の扉が姿を現した。
「可愛い子ですねえ。一人であそこに?」
今まで逢ってきた連中がよほど彼には異常に思えたのだろう、ほっとしたようにハヤシバラが口を開く。
ノブを掴んで振り向くと、蝶姐は彼の期待を大幅に裏切りミタカの時と同じ口調で付け足しを加えた。
「被カニバリストって知ってる?」
「ヒ蟹…何ですって?」
イヤな予感が胸にじわじわ広がるのを感じて眉をひそめ、ハヤシバラが聞き返す。
「『可愛い女の子に食べられたい』っていうサイコ野郎が作ったパオ・ナナなの、あの子」
パオ・ナナ
包娼とはヒトゲノムが解析され、一般企業がヒト遺伝子に関わることができた時代から作られている特殊なドールズたちである。
誰からも苦情が来ない被験体、愛玩用、使い捨ての戦闘員…使用の幅は恐ろしく広く、医療目的以外で人間の遺伝子に手を入れる事を
厳しく禁止した人類倫理委員会を嘲笑うかのように闇で作られたクローンに毛が生えた程度の人造人間たる包娼は果てしなく生産し続け
られた。
包娼は主に性交渉能力を人間よりも高めて作られた金持ち用のペットのような存在だったが、彼女ら(男性型の包娼も少なくなかったが)と
人間との間にできた子は深刻な遺伝子的障害を持って生まれてくる事が判明し今でも問題となっている。
今もその人造人間たちの中でも最も多く作られたタイプの名称がそのまま使われ、すべてひっくるめて彼女らは包娼と呼ばれている。
「ある日あの子はご主人様を全部食べちゃってね。流れに流れてここに行き着いて、今はあそこでゴミ処理屋をやってるってワケ」
「ゴミ処理屋…って?」
何故かハヤシバラの背筋にぞわりと冷たいものが走った。
「あの子は人間を食うように設計されたパオ・ナナよ? そしてあそこはザ・ショップでも有名なゴミ処理場。そりゃもう色んなゴミが来るよ。
あんたが想像できる中で一番処理が大変なゴミって何だと思う?」
蝶姐に続いて扉をくぐろうとした時、言いようのない恐怖に駆られて彼はふと振り返った。
彼方を闇に飲まれた地下道の奥で、金髪の少女が犬を従えてゴミに巻かれた青いビニール製のシートを剥ぎ取っているのが見えた。
ハヤシバラの頭上から落ちてきたやつだ。そう、あれは人間大の大きさのゴミだった。
扉が閉じるほんの一瞬だけ彼の瞳が捉えたものは、ビニールシートの隙間から覗く血の気が失せた人間の腕だった。
その異常な白さが闇に映えている。
地下道を抜けて視界に溢れた地下街の照明に眼を刺され、たまらず手で明かり遮りながら蝶姐がもう一言加えて笑って見せた。
「食べ物は腐りかけが一番うまいってね」
ザ・ショップの組織内ではこの地下道に捨てた死体は決して発見されない事で知られている。
地下街はもうすでにほとんどが閉店している。
一部の喫茶店やファーストフードなどは24時間営業だし中には深夜までやっているクラブハウスなどもあるが、それでも通路は不気味に
静まり返っていた。雨露を防げるのでたまにホームレスが通路の隅で薄汚れた毛布にうずくまっている。
地区にもよるがこのあたりは夜になるとほとんどの店がシャッターを下ろしてしまう。当然それにならい人通りもすぐに失せる。
昼間も相応だが地下街が本当に危険になるのはこの時間あたりからだ。アンダーガードの支配圏内とは言え弱小チーム同士の喧嘩や
細かな犯罪まではいくらなんでも彼らも手が及ばない。
よって大抵はこちらの利益に関わらない限りはそのような問題は放っておかれる。
二人は寒々しい白いタイルの道を並んで歩きながらしばらくは雑談を交わしていた。
やがて行き着いた大きな十字路で隣の通路から曲ってきた一組の男女とすれ違う。
蝶姐は会話を切ってその二人をチラチラを見ていたが、何か確信したのかいきなりハヤシバラの影に隠れるようにこそこそと身を縮ませる。
突然の彼女の行動に理解が及ばず、ハヤシバラは相手がするがままに任せてしばらくはそのまま歩いていた。
それとなく視線を向かわせると男は革のジャンパーに身を包んだ精悍そうな顔つきをしており、その隣で男と談笑している女は髪の長い美女だ。
モデルのようにすらっとした体つきをしており、ロングスカートから覗く脚はブーツに包まれている。
男の方も何となく蝶姐の妙な行動に気を取られたのか、こちらに視線を巡らせる。
「ティエチェ?」
すれ違ってほんの2,3歩したところで男から声をかけてきた。
思わずハヤシバラが立ち止まり、隣の蝶姐の黒のロングコートを引っ張る。
「お知り合いのようですが」
ハヤシバラを心の底から呪いながら言われて彼女が初めて気づいたように振り返った。
彼は蝶姐が自分に向かって憎々しげに『このバカ』と呟くのを聞いたが、罵倒される覚えは何もない。
「あ…」
わざとらしくそう言って男にぎこちない笑みを浮かべたが、彼女は何と挨拶していいかわからず相手の言葉を待った。
「よう、何だよ気付かなかったのか?」
「うん、ごめんね。 久し振り、摩昼」
―― 気付かないワケないじゃない。 ――
そんな事が脳裏を駆け抜け、片手を上げて挨拶を返すがどこに視線を置いていいかわからずどうしても伏せ目がちになってしまう。
蝶姐がしきりに左眼の下あたりに手をやっているのは刺青を隠しているのだとハヤシバラは気付いた。
「ティエチェじゃん! どこ行ってたの、今まで! 何やってんのさ」
ダウンジャケットの女の方が屈託のない笑いと共に声をかけてくる。
返事に窮した彼女を見かねてハヤシバラが変わりに口を開く。彼は鋭く蝶姐の胸の内を悟ったのだ。
「いえ。それがまだお仕事でして。俺は彼女と同僚のハヤシバラと言います、よろしく」
ニット帽の奥でにこやかに笑って彼が頭を下げた。伊緒が片眉を跳ね上げる。
「ええどうも。お仕事って、こんな時間にこんなとこで?」
「いえ、たまたま通りかかっただけですよ。お二人はティエチェさんのお友達で?」
「ああ、幼馴染だ。俺が摩昼でこっちが伊緒。それはそうと」
会話から取り残されていた蝶姐に不意に摩昼が向き直る。彼女がぎくっとしたのに気付いたのは隣のハヤシバラだけだ。
「お前高校出てからロクに連絡もしないで何やってたんだ、成人式も来なかったろ? 仕事か?」
高校を出てからというのは例の三年前の事件のすぐ後のことだ。
まさかザ・ショップの一員となり拷問と喧嘩に明け暮れ、ヤクザのリーダー格と愛人関係にあるなどという真実は口が裂けても言えない。
二人が同じ大学へ入ったというのは知っている。
伊緒はもう就職活動を初めているそうだ。摩昼は一度留年した為今年も大学生をやっているらしい。
何故そんな事を知っているのかと言えば時々彼の事を調べているからだ。
それが果てしなく空しい事だとは蝶姐が一番良く知っている。もうどうやっても摩昼の心は自分のものにはならないのに。
「ちょっとね。色々ね」
言葉を濁した彼女に冗談めかしてどうせ浪人でもやってんだろ、と摩昼が続け、笑って見せた。
何とか作った笑顔を返しながら蝶姐が彼の笑顔に一瞬心を奪われる。
あまりにも遠くて決して手の届かない場所で輝いている笑みだった。
「遅くなんないウチに帰った方がいいんでない」
腕時計を見ながら伊緒が恋人を急かす。ああ、と頷いて彼も駅の方向へと向き直った。
「ティエチェ、たまにゃ実家に連絡しろよ。おっさん心配してたぜ」
数回頷いただけで彼女は特に返事はせず手を振って見送る。
「じゃあね」
伊緒がもう一度笑って見せると彼の腕に抱きついて一緒に歩き出した。
明るそうな娘だが蝶姐とは対照的にどこか大人っぽく雰囲気に色気を帯びている。
それがまた彼女にとっては現在の自分の立場の無さを見せ付けていた。
今眼の前で去って行く二人は三年前のあの日から随分大人になったように見える。
何故か自分だけがあの日から何も成長しておらず思い出の中に取り残されているようだ。
刺青を入れたり髪を染めたりしてはみたけれど、結局それは変わる事のできない自分の心の内に対しての虚勢だった。
不意に上げた視線が振り返った摩昼と噛み合う。彼女はそれだけで気が遠くなりそうだった。
あの時感じていたほのかな想いよりも、今はずっと激しく胸にたぎる感情が爆発しそうになっている。
摩昼の心が他人、つまり伊緒のものとなって蝶姐は初めてかけがえの無いものに気づいたのだった。
「摩昼!」
しばらくその背を見つめていた突然蝶姐が声を張り上げた。前方の二人が驚いて振り返る。
思い詰めたような顔でまっすぐに摩昼と視線を合わせながら、彼女が言葉を絞り出す。
「私がいなくても平気?」
突拍子も無い質問に一瞬変な顔をしたが、彼は呆気に取られたまま答えた。
「あ…ああ。もう子供じゃないだぞ」
子供の頃摩昼は弱いくせに喧嘩っ早いのでよく友達に泣かされたものだった。
しとう
蝶姐の実家は道場で彼女は親から刺踏と呼ばれる武術を習っており、近所で一番腕っぷしが強く、彼を守る事がしばしばだった。
彼が去った後にハヤシバラは溜息交じりに落ち込んでいる先輩に声をかけた。
「…大体あの男の方との関係は予想がつきますけど、だったら何であんな自虐的な質問を?」
蝶姐とて『お前がいなくちゃダメだ』というありえない答えを期待していた訳ではない。
ただ何となくそう聞いたら自分の思いを断ち切れるような気がしただけだ。
しかし彼女の胸では今もなお彼の笑顔が焼き付いている、眼を閉じるだけであまりの息苦しさに窒息しそうだった。
蝶姐にもわかっている。
問題は摩昼たちが大人になったのに、自分はまだ好きな人を諦める事のできない子供のままだということ。
根城に戻る途中、髪の長いロングコートの女性とすれ違った。
夢遊病者のようにその足取りは頼りないもので、らんらんと輝く瞳はすでに正気を放棄している。
脅えるハヤシバラを制して蝶姐は通り過ぎ様に彼女に挨拶を送った。
「こんばんわ、ミタカさん」
「こんばんわ」
一切の感情がこもらない機械が軋むような声で返事はすぐに返ってきたが、相手の視線はどこも見ていなかった。
そのままふらふらと彼女は地下街の奥に消えた。
喫茶アイアンメイデンに帰った二人を迎えてくれたのは、犬飼を除く三人だった。
彼は手に入れた人質のその後について百狼会の面々と相談があると言う。明日まで帰らないらしい。
すっかり落ち込んでいた蝶姐もすぐにいつもの調子になり、テーブルについてユマにカフェオレを頼む。
アンダーガードの勤務は非常に曖昧で特に勤務表やタイムカードがある訳ではなく、仕事があれば呼ばれてやってくるという具合だった。
暇な時や特に用事のない時なども彼らはここでうろついている。
この場にいる面々は大抵退屈なのが嫌でこの仕事を選んだ連中ばかりだ、荒事の多い今の職場が気に入っているのである。
蝶姐は少し異なる。
摩昼の心を永久に失った三年前、ヤケになっていた彼女は地下街で絡んできたあるチームの面々を相手に大乱闘を繰り広げ、銃を抜いた
二人を素手で殺してしまったのだ。
相手が銃について素人だったのが幸いだったのだが、正当防衛とは言え息の根を止めてしまったというのはかなりまずい状況である。
絶望に叩き落された蝶姐を救ったのがその戦い振りに惚れたアンダーガードのリーダー、犬飼だった。
監視カメラで事の成り行きを見ていた彼はその事件を他のチーム同士の抗争という形で闇に葬る事と引き換えに、彼女にチームに入ることを
強要したのだ。
取引というよりはほとんど脅迫のようなものだったが自暴自棄の極地にいた彼女は引き受けてしまった。
しかし特に後悔はしていない。比較的まだ頭のまともだったミタカに教えてもらって拷問に目覚めたのもこの頃だ。
「どうかしましたか?」
ふと思いを巡らせていた蝶姐にユマが声をかける。
お盆を手に彼女を気遣うような表情を浮かべているが、蝶姐は微笑みを返して何でもないと答えた。
ユマの爪には深い青と紫の中間のような色のマニキュアが淡く光を弾いている。よく遊びで紫陽花に塗られているのだ。
相手の視線に気付いたのか恥ずかしそうにはにかみながら彼は片手の指の爪を撫でた。
「自分で塗ったんです。お客さんに受けがいいから」
お客さんと言うのはアイアンメイデンを溜まり場にしている面々ではなく、彼が働いている別の店のことだ。
ここからそう遠くない場所にある風俗街が彼の仕事場である。男娼の包娼は数が少なく需要もあまりないがユマは客の男女を問わず
如何なる要求にも答えられる万能型として人気急騰中だ。
犬飼が喫茶店の店員用に余っているのを回してくれと友人に頼んだ際に、当時ほとんど顧客のいなかった彼が紹介されてきたのだった。
週に三日ほどは店に出ているがそれ以外は大体アイアンメイデンで雑務をしている。
これは彼にとっては幸運と言えよう、ユマは包娼としては極めて珍しく外界と大きな接点を持つ。
大抵の包娼は擦り切れるまで使われて使用不可能になればあとに待つのは焼却処分だけだから。
「腹減らねえか」
明け方近い時間、ノートパソコンを古滝がふとそう呟いた。
あれからは大した事件もなく一同は喫茶店で時間を潰していたが、ユマの出してくれた軽食では空腹をしのぎ切れなくなっていた。
彼の返事に答えず蝶姐は向かいのテーブルで自分のパソコンを前に眉根を寄せっぱなしにしている。
彼女のノートパソコンは目の前の古滝のものとケーブルで繋がっており、お互いのモニタの中では今まさに激戦が繰り広げられていた。
ネットからダウンロードしたフリーソフトで多人数対戦型の戦略ゲームなのだが、これがなかなか奥が深い。
蝶姐から返事がないので古滝はわざと彼女の神経に障るように現状を口に出して言ってやった。
「最終防衛ライン突破〜」
「あーっ」
いつものクールな彼女はどこへやら、気の抜けた声と同時に隣で同じくパソコンのキーボードを叩いているハヤシバラの肩を肘でつつく。
「ちょっとあんたの仕事対空じゃない、何やってんの!?」
「無理ですよお」
二人のノートパソコンより一回り小さい携帯端末のキーボードを叩きながらハヤシバラが情けない声を上げる。
彼は自国の防衛で手一杯だ、とても彼女を加勢する余裕はない。
事の始まりは古滝の『俺にコイツで勝てたら賭け金倍返し。誰かと組んでも可』という一言だった。
軽いもんだと自分と同じ経験者のハヤシバラと組み、万札一枚をテーブルに置いた蝶姐たちが負けるのにそうは時間はかからなかった。
いつもの眠そうな目でガムを噛みながらどう見ても真面目にやっているふうはないのに古滝の悪魔的頭脳による戦略はあっと言う間に
彼女たちの戦線を突き崩し、遂にはその喉元にまで迫ったのだった。
やがて蝶姐のモニタには『首都陥落』の四文字が現れ、彼女が名前を決めた大統領『ティエ』は銃殺刑に処された。
「ちっくしょ」
悔しげに唸る隣ですぐにハヤシバラも頭をバリバリと掻く。彼も惨敗を規したのだ。
「強えー…」
後悔と憎悪の念をこちらに向ける彼女らを風のように受け流しながら、飄々と古滝は同じ質問を繰り返した。
「腹減らねえ?」
テーブルに置かれた二つの紙幣を手に取りそれをひらひらさせ、さすがに悪いと思ったのかもう一言付け加える。
「俺が奢るぜ。巻き上げたてのカネで食う飯はきっとうまい」
「こいつ…」
「人生は怒ったら負けですティエチェさん」
いきり立つ彼女を禅僧のように悟りきった表情のハヤシバラが抑える。
「何、何か食べに行くの?」
三人がゲームに興じている間ずっとカウンターの席でケータイで話していた紫陽花が会話に割り込んでくる。
「こんな時間に? 太るよ。お肌に悪い」
そうは口にしてみたものの蝶姐は行くというのなら着いてゆくつもりだった。
自分の(ものだった)カネが自分の知らない場所で使われてしまうなど憤慨すべき事だと本人は感じている。
「まあ、私も行くけど」
「ユマも行こうよ」
短い別れの挨拶を交わしてケータイを切った紫陽花の言葉にカウンターの奥でエプロンをつけた少年が洗いかけの皿を手にしたまま
振り向く。
彼が振り返る瞬間に揺れる銀髪は本当に美しいと彼女はいつも思う。
「僕は洗い物がありますし」
「明日にしちゃえばいいじゃん」
「犬飼さんが帰ってきた時にお店が空っぽじゃマズいでしょう」
苦笑をこぼすユマにしかし紫陽花は食い下がった。
「ダンナならこんな明け方にゃ帰ってこないって、いいじゃん行こうよ」
ユマの事が気に入っているのだろう。彼女はやけに熱心だったが、彼はいかにも困っていますという顔をしてちらりと蝶姐を見た。
「紫陽花。ユマは色々あるの、ホラ。男の子だからね?」
「…どういう意味?」
「さあ」
自分でも良くわからない説得の仕方だったが、どうにか渋々紫陽花も納得し一行は地下街へと出た。
ここは地上と違い天井の蛍光灯が24時間点けられている為四六時中光に満ちており、時間の感覚がおかしくなりそうだった。
地上ならば酔っ払ったサラリーマンの姿なども見られようがここにあるのは満ち溢れた無機質な光と静寂だけだ。
蝶姐、ハヤシバラ、紫陽花、古滝の四人は談笑しながらどこの店に行こうかと色々意見を交わす。
この中で一番の古参が古滝でアンダーガードができた当時からいるらしい。
次が二年半ほどの蝶姐で、紫陽花は彼女よりも一ヶ月ほど先輩である。
事態にもよるが最前線で己の身一つで戦う彼らアンダーガードのような組織は疲弊が激しく、人員の入れ代わりもひっきりなしだ。
毎日のように他人と物理的な衝突を繰り返すこの職場はいつも狙われているという被害妄想じみた精神的ストレスを産み、それに
耐え切れずミタカのように薬物に走ってしまう者も後を絶たない。
ハヤシバラはともかく犬飼を入れた四人はそれを乗り越えた猛者達と言えよう。
見慣れた地下街の風景は階段を上がると途切れ、やがてはるか彼方が僅かに青みを帯びている空の下が現れる。
セントラルパークと呼ばれる地上の公園で都会の真ん中で唯一木々が生い茂る場所だ。
同時に夜な夜な街娼や薬物関係の売人の取引の場として使われるガラの悪いな区域でもある。
中央を走る通路を覆うように排気ガスに強い広葉樹が重なり会うように植えられており、更にこの公園の両側にはそれを挟むように
二つの主要道路が走っている。
まともな人間ならば夜に一人で歩く公園ではないが一行は我が物顔で公園の中を歩いていた。
木々の合間にホームレスの粗末なダンボールハウスが覗いている。
不意に雑談を切った古滝が何気なく周囲に視線を巡らせた。細い眼の奥から放たれる鋭い視線が、木々の間を素早く駆け抜ける。
「ティエテェ」
「わかってる」
緊張感のこもった彼の声に蝶姐がいつものクールフェイスで答えた。
唇の端が持ち上がり歪んだ笑みを浮かべ、おもむろに歩きながら黒のロングコートを脱いでハヤシバラに押し付ける。
「汚したらブン殴るよ」
「ちょっとちょっと、自分で持って下さいよ」
どうやら事態に気付いていないらしい彼は見当違いの言葉を返した。
「離れないでね」
紫陽花がどこかのんびりした口調でハヤシバラに声をかける。
刺青の走る太股につけられたホルスターにはマキシンが二丁鎮座していた。
奇妙な緊張感に包まれたまま全身する一行の前方に街灯の光が落ちている。
その光を浴びて10人ほどの少年たちがベンチの周囲をたむろしていた。耳障りな嬌声と服装から見てもどこかの少年チームだろう。
絡まれたらどうしようと一人縮こまるハヤシバラを他所に四人はその脇を通り過ぎるべく前進を続けた。
隊列は先頭が蝶姐と古滝、その背後に紫陽花とハヤシバラだ。紫陽花はなるべく少年らから彼をガードするような位置についている。
無言のまま集団の隣を通り過ぎようとした時、ハヤシバラにとって恐らく最も最悪の事態が発動した。
「おい」
アンダーガードの一行を見るとはなしに見ていた少年の一人が声を発した。
明らかに爆発しそうな欲求不満を抱えた沸点の低そうな男だ。こちらに対する嘲りと敵意を剥き出しにしている。
古滝が応じようと無言で振り返る。ハヤシバラはすぐに紫陽花の背後に隠れていた。
「お前ら『アンダーガード』か?」
「わかってて絡んでんならてめェのクズさは表彰もんだぜ」
少しも相手に呑まれずいつものどこか緊張感のない声で古滝が答える。
無闇に相手を刺激する彼の態度にハヤシバラだけが蒼白になり、この無謀な男を呪った。
相手の一言で早くも怒張したのだろう、少年が突っ込んだポケットから手が戻ってきた時にはその手に黒光りする鉄の物体が握られていた。
彼らを何時の間にか囲んでいた他の連中の数人が同時に懐から得物を抜く。アンダーガードの面々はお互いに背を合わせるような陣形と
なっていた。
銃口を古滝に向けながらにたにた笑って恐らくはリーダー各であろうその男が言葉を続けた。
「俺らのダチが三人、地下街から帰って来ねんだよ。お前ら知らない?」
彼らがネヴァーエンズの連中だと全員が瞬間的に悟る。
それとは別に一人くらいは拳銃を持っているだろうと予想していた蝶姐にとってこの事態は予想外だった。
銃を持っている連中との距離は1mもない。いくら素人と言えどこの距離から撃てばよほどの間抜けでない限り命中させるだろう。
紫陽花の早撃ちならば向こうが引き金に力を込めるよりゼロコンマ数秒速く撃てるだろうが、それでは倒せる相手はせいぜい二人だ。
残りの連中に撃ち殺されてしまっては結果は同じである。
じわじわと彼女の胸に湧く焦燥を他所に、古滝は何か考え事をしているような素振りを見せた。
「何だ、ビビってんのかァ! あァ!?」
業を煮やして怒声を上げる彼におずおずと答えたのは、全員にとって予想外の人物だった。
「皆さん重そうな銃ですね」
先ほどまでの脅えはどこへやら、喉を撫でながら胸を張ってハヤシバラが一歩前へ出た。
同時に少年たちの視線が彼に注がれ、やがて数人の銃口までもがその額にポイントされる。
…やっぱ止めときゃ良かったかなあ、と内心後悔しながらもいいところを見せるチャンスとばかりにハヤシバラはありったけの勇気を
絞り出し、精一杯の虚勢を張って言葉を続けた。