プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -






クレイジーハートブレイカー

6.御前舞踏


              とうおう
  神薙市の一角には東王区と呼ばれる場所がある。

 財政会や企業のトップなどが多く利用する高級ホテル街で、同時にザ・ショップに置ける最高議会『四塔』の本拠地でもある街だ。

 バブル期を過ぎてもなお増えつづけるコンクリートの宮殿は天を突かんばかりに伸びては夜空を侵食している。

 街の明かりはきらびやかに無機質なそれらを飾り立てているが、そのすべてがあまりにも空虚で見る者に熱を感じさせない。

 道行く車も人も尊大で豪奢な格好をしているがやはりどこか無気力に思えた。

  その虚栄が満ちる夜闇の中を裂いて走る、黒塗りの高級車が一台。

 「仕事はどうだね?」

 ぼーっと窓の外の後方へ尾を引いて流れて行く街灯に見入っていた蝶姐が、ふと錆を含んだ男の声に気付いて振り向く。

 「え…ええ。まあそこそこやってますよ、相変わらずお給料は安いですけれど」

 慌てて愛想笑いを作りながら答え、相手に気付かれないように彼女は大きく溜息をついた。

  誕生日を祝いたいと現在カネで雇われて愛人関係にある彼、九灯 芹人から連絡を受けて蝶姐は遠慮なく申し出を受け入れた。

 てっきりマンションで二人きりでこじんまりとやるのだとばかり思っていたが、どうも運転手が車の進路を向けている場所からしてそうでは

 ないらしい。

 今の彼女は黒のスーツにスラックス姿で、あとはロングコートを羽織っているだけの姿である。

 正装と言えば正装だがテレビで見たようなホテルでやるようなパーティならば、せめてドレスで来るべきだった。

 これではまるでホテルの従業員かボディガードのようだ。

 「格好ならそう気にする事はないさ。君はその方が似合っているよ」

  しきりに自分の格好を気にしている彼女に気付いたのだろう、苦笑を含みながら九灯は隣の席の蝶姐に告げた。

 誉め言葉かどうか微妙なところだが前向きに受け取る事にして彼女も微笑みを返す。

 お互いの姿は半ば社内の闇に飲まれ、時折窓から落ちる街灯の淡い光だけが深く陰影を刻んで二人の姿を浮かび上がらせた。

 九灯はちゃんとしたパーティスーツで、電話で彼女をマンションから呼び出した時からそうである。

 「ズルいなあ。私もちゃんと着替えていきたかったんですけど」

 口を尖らせる蝶姐に彼は眉根を寄せると笑って誤魔化した。

  彼女は先日の同窓会で再び摩昼との距離を思い知らされてからずっと精神状態が安定していなかったせいもあり、実の所文句を

 言いながらも九灯のお誘いは涙が出るほど嬉しかった。

 一人でいると気が滅入って仕方なかったし、何より孤独に耐え切れず寂しくて気が変になりそうだったのだ。

 今の九灯と蝶姐の距離はカネによって縮められている。彼女は向こうが飽きたら玩具のように自分が捨てられる事も何となくわかっている。

 愛情がないのだから未練もないに決まっている。九灯は他に二人(かそれ以上)愛人がおり蝶姐は恐らくはその中で一番下位の存在が

 自分だと自覚していた。

 彼女が『上の姉さん達』と呼ぶ九灯に最も近い愛人二人は彼の独占を狙って熾烈な戦いを繰り広げていると言うが、格下の蝶姐にとっては

 それも別次元の話だ。早い話無視されており、戦いの場にすら出られないのである。

 幸いと言うか芹人は格の上下に関わらず女性への対応を変えるような男ではなかったが、大抵は他の姉さん達の都合がつかない時の

 いわば『間に合わせ』として蝶姐は呼び出されていた。

 だけど蝶姐は摩昼とは別の感情で九灯が好きだった。

 お金をくれるからという単純な理由以上の別のどこかでこの男性に焦がれていたのだ。

 「九灯さんこそお仕事はどうなんです?」

 「俺か?」

  彼はしばし唸って考え込むような素振りを見せた。

 ドアの肘かけに腕を預けて頬杖をすると、眼鏡の奥で元から細い眼が更に細まる。

 「まあマフィアの仕事なんぞ楽しく話せる事などありゃせんが。奪われたドラッグストアのアタッシュケースが気になるな」

 六角町でネヴァーエンズに奪われたもののことだ。ザ・ショップの下部組織が手柄を得ようと血眼になって探している筈だが未だに蝶姐ら

 アンダーガード以外の連中では尻尾も掴めないらしい。

 「一度、あー…何と言ったかな ――― ああ、ネヴァーエンズか。の、連中の一部をひっ捕まえたそうじゃないか。何故逃げられたんだね?」

 九灯の声に特に責めているような響きはない。むしろどこか面白がっているようだ。

 突然アンダーガードの代表にされたようで居心地の悪さを感じながらも蝶姐ははっきりと答えた。
                                  パオ・ナナ
 「私達が根城にしている喫茶店で働いてる男の子、ああ包娼なんですけどね。その子が逃がしちゃって」

 「どこへ行っても間抜けなヤツというのはいるもんだな」

 「いやあ、いい子ですよ。それに私達の中では彼しか料理のできる人員がいないんですよ、いなくなっちゃうと色々困るんです。

 ですからねー、その…ネヴァーエンズの連中は百狼会へ引き渡す予定だったんですよね?」

 彼女にちらりとすがるような目つきを送られ、九灯は片眉を跳ね上げた。

 相手の言わんとする所はわかる。溜息を漏らして相手の期待に答えた。

 「どうせ末端だったのだろう? 情報は引き出したらしいし構わんさ。人質をエサに連中をおびき出す策もなくはなかったんだが…

 ま、いいさ」

 「ありがとうございます」

 拘らない彼に、いつものツンとした表情とは無縁の蝶姐がにっこり笑った所で老いた運転手の男が目的地への到着を告げた。

 自動で開かれたドアをくぐって地面に降りた時彼女は内心ほくそえんでいた、これで犬飼には大きな貸しが出来た事になる。

 (休みもらって芹人さんに海外旅行連れていってもらおっと)

 そんな事を考えながら蝶姐は目の前にそびえ立つホテルを見上げた。



  エントランスを抜けてエレベーターに向かうまで、蝶姐はびびりっぱなしだった。

 吹き抜けになっているホールの上の天井では筆舌に尽くし難く繊細で豪奢なシャンデリアが光を砕いている。

 女神を象った大理石の彫像はその表情に微笑みを刻み付けたまま静かに佇んでいた。

 多分このエントランスだけでも喫茶『アイアンメイデン』の四倍くらいは広い。

  すべてが輝いて見え、何もかもがあまりにも非日常的で蝶姐は一瞬めまいを覚えて九灯の腕にすがりついた。

 「ティエチェ? 何だ、どうした?」

 「いえ。貧乏育ちなのでつい…」

 上着を預けてエレベーターに向かう途中にすれ違った人々の物腰もやはり庶民には思えない。

 少なくともこの場で育ちが悪いのは自分だけのような気がして早くも場違いな居心地な悪さを感じ、眉根を寄せて蝶姐はセミロングの

 金髪を掻き揚げた。髪にゆるくウェーブをかけたのは今夜会った時から九灯に指摘されている。

 ザ・ショップで最高の位に位置する一人である彼にはよくこのような頭に『高級』がつく場所に連れてきてもらうが、彼女は未だにそれが

 苦手だ。

 普通に焼肉屋でパーティなどと言うのもあまり九灯のイメージではないが。

  厚い絨毯に沈む自分の足元を眺めながら、せめてローヒールは止めておくべきだったと後悔する。

 身に付けている物もほとんどは安くはないが少なくともこの場には合わないような気がしてならない。

 「にしても」

 やたらと広いエレベーターの中で一緒に乗り合った数人の人物をちらりと眺め、蝶姐はこそこそと九灯に耳打ちした。

 「何かパーティでもやっているんですか?」

 いかにも紳士淑女といった格好の人々は皆パーティスーツやドレスに身を包んでいる。

 彼女は彼らをきっと財政会とか政治家とか言う類いの金持ちなんだろうと勝手に納得していたが、どうも普通にホテルに泊まりにきたような

 客ではなさそうだ。

 「ああ、まあ人脈作りの為のパーティさ。俺が主催してるんじゃあないが。これから俺らも出席する」

 正面を向いたままの九灯に蝶姐が勢い良く向き直った。

 「私の誕生パーティ…じゃあないですよね」

 「残念ながら違う」

 「えーと…九灯さんは私の誕生日を祝いたいと言って呼んでくれたんですよね、それはつまり」

 「『他の何かのパーティに呼んで君の誕生日パーティも一緒に済ませてしまおう』という実に安上がりな案だが、何か?」

 悪戯っぽい笑顔を向けた彼にどんな顔を向けていいかわからず彼女はしばし停止した。

 表情の固まった蝶姐を見て彼女が怒ったと思ったのだろう、少し慌てて九灯は弁解を始めた。

 「冗談だよ。実は今夜誘う予定だったリカ…ああ、君の『上の姉さん』の一人の都合がつかなくなってしまってな。

 今夜のパーティにはどうしても来れなくなってしまったんだ、だが俺も隣に美女の一人もいないとカッコがつかないだろ?

 君の誕生日は別で祝うが今夜だけは付き合ってくれ、悪い」

 ――― 誕生日を祝ってくれるつもりじゃなくてお飾りとして呼ばれただけか。

 腫れ物に触るような態度を取る彼の顔からあっさりそう理解すると、精一杯表情にこみ上げてくる別の感情をこらえて笑顔を作って見せた。

 カネで雇われているんだ。このくらい我慢しなきゃ。

 「いえ、謝らないで下さい。私もどうせ今夜、芹人さんが誘ってくれなかったら誕生日なのに一人でしたし。

 誘って頂いた事は感謝していますよ」

 実は紫陽花が祝ってくれる予定だったのだが、九灯に呼ばれた為それはキャンセルしてきたのだった。

  九灯の立場はわからないでもないが蝶姐にとって当然いい気はしない。だが湧いてくる感情は怒りではなく諦めのようなものだった。

 仕方がない。これが今の九灯と自分との距離なのだ。

 「そう言ってくれるとありがたいんだが。埋め合わせは必ずしよう」

 「そんな。いいんですよ」

 心底申しわけなさそうに言う九灯に彼女が努力して作った笑顔で辞退を示す頃、ようやくエレベーターのコントロールパネルの中で

 階数表示が停止した。



  出席していた人間は千人は下らないだろう。

 広い会場は着飾った人々で溢れ、豪勢な料理の乗ったテーブルが各所に置かれている。

 中央にある程度のスペースがあるのは後にダンスをする際の場所なのだろう。

 隅では楽師たちが優美な音楽を奏で、きらびやかなその空間を満たしていた。

  ただし談笑する人々に混じって油断なく周囲の殺気を探る、明らかに堅気でない人物もちらほらと見える。要人達のボディガードだ。

 九灯と蝶姐達の周囲にも何人かいるが、やはりあたりへの警戒を怠っていない。

 ここで行われているのはいわゆる立食パーティというやつだろう。蝶姐にとっては何かもテレビ以外で見るのは始めてだ。

 彼女は当然ながらこのような場所に置いての作法など何一つ身についてはいない。最初のうちは九灯の影に隠れるようにしていた。

 「別に取って食われやせんよ」

 社交界の礼儀は生まれた時から教え込まれた九灯の物腰は堂々としており、苦笑交じりに傍らの蝶姐の肩に手を置く。

 「ただし二つの事だけは守りたまえ。一つ、懐に手を突っ込むな。ヒットマンと勘違いされて射殺される。

 二つ、あまり敵を増やすような発言はしないほうがいいぞ。どいつもこいつも執念深いからな」

 平然と語る彼を隣に早くも来た事を後悔しながら、彼女は九灯の右腕の袖を掴んだ。

  とっとと自分を見失って現状をわからなくしてしまおうとテーブルの一つに置かれていたグラスをひょいと手に取って口に注ぎ込む。

 甘いが濃厚な液体は喉を滑り降りて行くと同時に蝶姐の眼をチカチカさせた。かなりアルコールが強いようだ。

 「グデングデンになるなよ」

 「はーい」

 自分もグラスを取った九灯ににわかに紅潮してきた頬を押さえて彼女が答える。



  九灯と知り合ったのは蝶姐がアンダーガードに入ってすぐの時だ。

 ザ・ショップには『社長』と呼ばれる男がまず頂点に立ち、その下に位置する四人『四塔』が各々の部署を率いている。

 その内の一人・九灯 芹人はヤクザの総本山であり各部署の流通ルートの開拓・維持を行う『百狼会』のリーダーに若くしてなった男だ。

 並々ならぬ手腕を発揮しザ・ショップの中でも切れ者と名高いが彼は下の頭に節操がないというクセがあり、百狼会の下部組織などで働く

 女性をよく手篭めにしたりしていた。お互いの同意の元での強引な方法ではないにしろ、蝶姐はその内の一人である。

 九灯はやがてその内に洗練された女性を求めるようになりパーティで見つけた愛人業を生業とする数人の女性をはべらせるようになったが、

 蝶姐が未だにわからないのが何故彼は自分に愛人にならないかと持ちかけてきたのか、という事だ。

 相手は若さに惚れたなどと曖昧な事を言っていたがそのあたりは良くわからない。まあ彼女としてはありがたい申し出だったが。



  しばらく二人が雑談を交わす内にふ、と九灯に向かって歩み出た男がいた。

 「会長」

 研ぎ澄まされたような緊張感の持ち主は三十代半ば、パーティスーツの下が不自然に盛り上がっているのは防弾ベストを着込んでいる為だ。

 振り向いた九灯に彼は囁くように耳打ちした。

 「仕事の件で問題が」

 「後にしろ」

 「それが火急の事態で」

 投げやりに答えた上司に男は蝶姐には見向きもせずに言葉を続ける。

 やれやれと溜息をついて頭を掻くと、九灯はチキンを齧りながら事の成り行きを眺めていた蝶姐に向き直った。

 「すまない。どうやら問題があったようだ」

 「私なら構いませんよ」

 ようやく解けてきた緊張に咀嚼を休めてにこやかに笑い、彼女は人込みの中を指差す。

 「さっき知り合いを見つけましてね。ちょっと顔を見せてきますよ」

 「五分で戻る」

 言い残して彼は部下と共にその場を離れた。

  すっかり肉のなくなった骨を皿に置いてテーブルに預けると、蝶姐も先ほどから気になっていた二人に向かって歩き始めた。

 会場が広いので人が多くてもそう狭苦しいと言う感じはないが、一番最初の酒が効いているのか足がもつれて数度人にぶつかりそうになる。

 そうこうしてたどり着いた時に、その二人は彼女の顔を認めて驚きの表情を作った。

 「久し振りです、お姉さん」

 「もしかしてティエチェ?」

 と答えた方は細やかな刺繍を施したブラックフォーマルのタイトなドレスに黒い羽飾りを肩に巻いた、むせ返るような色気の持ち主の女性だ。

 纏っている独特の体臭と香水が混じり気が遠くなりそうな艶美を醸し出している。

 大きくウェーブをかけた艶やかな黒髪は雪のような白さのきめ細やかな肌にかかり、すっと通った鼻梁と濃い目のアイシャドウはどぎつくならない

 程度に彼女本来の美を際立たせていた。

 まさに筆舌に尽くし難い美女だ。

 「やっぱそうだよね。いつか見た時ァ全然ガキだったのにね〜」

 続けて快活そうに笑って答えたのは、ショートカットの燃えるような赤毛に桜の刺繍を施し大きく肩と胸元の露出した和服の女性。

 美人ではあるが猫のようなイメージを与え、どこか少年のような活発さの持ち主だ。

 二人とも愛人業を生業とする女だが蝶姐のようなにわかなものではなく、複数の金持ちを専門として僅かな期間で信じられないほどの金額を

 稼ぐプロ中のプロである。
          ユウ
 着物の女性は遊と言い紛れもなく日本人だが、魔女のようなイメージを与えるレイヴンと呼ばれている美女は国籍どころか本名・年齢さえも
                              パオ・ナナ
 はっきりしない。極めて人間的な機能を搭載した包娼だと言う噂もある。

 どちらもミタカの知り合いで、蝶姐が彼女の弟子だった時代に知り合った女たちだ。

 確固たる意思を持って生きている二人は昔から蝶姐にとって憧れの女性だった。

 「さっき見えたからもしかした蝶じゃないかって思ってたんだけどさ、一緒にいたの誰よ?」

 興味津々で訪ねてくる遊に蝶姐が答える前に、レイヴンがゆっくりとくゆらせていた煙管を口から離した。

 「アタシら新しい客の開拓に来てたんだけどね。『四塔』の九灯芹人が来るらしいからちょっと待ってるんだけど」

 「下半身に全然節操がない人らしいからね〜きっとお金になるわあ」

 「そんな人じゃないですよ」

  彼女に続いて出た遊の言葉に思わず声を上げた蝶姐に、二人の視線が集中する。

 しばし考えを巡らせているようなふうを見せていたレイヴンが眉根を寄せて口を開いた。

 「もしかしてアンタの今の男って」

 「…九灯さんです」

 「わーお」

 遊が目を見開いて厚い唇を開いて見せる。同じく驚いたような笑みを浮かべてレイヴンが続けた。

 「これまた大物釣り上げたじゃない。狙ってたんだけどねえ、まだ空きありそう?」

 空きとは九灯が現状以上愛人を雇うつもりがあるか? という意味だ。

 「さあ…どうでしょう」

 申しわけなさそうに答えながら、ふと昔『こういう場合は状況に関わらず「ない」と言っておけ』とレイヴンに教えられた事を思い出す。

 客が抱える愛人が多くなれば色々やりにくくなるし取り分が減る。当然の事だ。

 「へえ。アプローチかけてみようかしらね」

 『しかし男を有象無象の女たちの中から自分だけに狂わせるのがこの仕事の醍醐味』だとも彼女は言っている。

 どう考えても勝ち目がなさそうな相手なので、蝶姐をからかうように言ったレイヴンの言葉は少々彼女を慌てさせた。

  ふと人込みの中の一人の男をちらちら眺めていた遊が懐から携帯端末を取り出すと、素早くペンを走らせる。

 表示されたデータに一人確信したような笑みを浮かべ、いそいそとその場を去った。

 「ちょい行ってくるわ。じゃあねレイヴン、蝶もバイバイ」

 「またね」

 「あ、さようなら」

 挨拶を返した後レイヴンは遊が向かった先で他の男たちと談笑している人物を目を細めて眺め、しばし値踏みするような視線を送る。

 「ふーん…新設ドラッグストアの所長か。何か大失敗やらかして今ピンチだって話だけど」

  この業界の人物や裏側に詳しいのも彼女達愛人業ならではである。

 恐らく大失敗とは例のアタッシュケースの件だろうと蝶姐は口には出さず悟った。

 ヘルダイヴの言葉ではあの中身は薬物の設計図だったらしい。

 ザ・ショップの中で麻薬製造関係のすべてに関わっているのがドラッグストアだからだ。

 「遊さんはその事知らないんですか?」

 「まさか。知ってるわよ、まあピンチって言ってもドラッグストアは今再復興中で景気いいからね。カネにはなるんじゃないかしら。ところで」

  急に改まった態度で煙管を咥え、蝶姐に向き直ったレイヴンは真っ直ぐに彼女の瞳を覗き込んだ。

 同性でも思わずどぎまぎしてしまう。

 「何かあったの?」

 「何かって…いえ、別に」

 「アタシに隠し事なんか100年早いわよ子猫ちゃん。男のことじゃない?」

 目に見えてぎくりと肩を震わせる相手を眺め、彼女はおかしそうに吹き出した。

 「素直ねえ」

 「はあ」

 「何よ、いつか言ってた幼馴染のこと?」

 いつかとは会ったばかりの頃に一度レイヴンに飲みに連れて行ってもらった時話した内容で、摩昼の事について少しだけ相談したことだ。

 人間的にあらゆる面に置いて経験豊かな彼女に相談すれば少しは解決の糸口が見つかるんじゃないかと思ったのだった。

 「まだ忘れられない?」

 若干声には可愛い後輩を気遣うような柔らかさが込められている。

 しかしその問いに蝶姐は無言を返しただけだった。レイヴンはそれを肯定の返事と受け取り、言葉を続ける。

 「愛人はカネをもらって愛を売る。愛する事なんか愛される事に比べれば簡単よ、まあ私の勝手な理論だけどね。

 だから私はお金での繋がり以外では決して誰のものにもならない。人は寂しい女だって言うかも知れないけどね、これは私の誇りなの。

 誰のものでもないから私は誰でも愛する事ができる。死ぬまで永久に恋を続けられる」

 彼女の舌を伝って唇から導き出された紫煙が弧を描いて宙を舞い、滲むように消えてゆく。

 「一人の人にずっと愛されたいって言う女をバカにするつもりじゃないけど、人より綺麗に生まれたんなら多くに愛される努力をしたいからね」

 レイヴンほどの女性が言うと嫌味にもならない。彼女も己がそう自覚するに値すると言う自信を持っているのだろう。

 「えーと、何の話だっけ? ああ、そうそう。

 恋愛の方程式はたった一つ、相手の幸せを祈る事だけ。例え思いが届かなくてもね。

 それができなくなった時、アンタはアンタが一番嫌いな存在になっちゃうわよ。ま、できるなら同じ位自分の幸せを祈りなさい」

 見入るように自分を見つめている蝶姐にそう言ってレイヴンは優しく微笑んで見せた。

 彼女は蝶姐に『貴方は優しい娘だから』と言った事がある。その時は絶対にそんな事はないと思っていたが今ならわかる。

 優しさと弱さは極めて近い場所にあり、同時に強さはそれらと表裏一体という事が。

 「ああ、そうだ。新しいの貰ったからコレあげる」

  不意にハンドバッグから手にしているのとは別の一つの煙管を取り出すとレイヴンは蝶姐に差し出した。

 初めて会った時に彼女が使っていた物だ、見覚えがある。

 手に取って見ると実物よりも一回り小さい銀の蝶が先端部分に止まって羽を休めている。非常に繊細な細工物だ。

 素人目にも安物とは思えない。

 よく手入れがしてあるのだろう、年季が入ったものでありながらその輝きは惹き込まれそうなほどに美しい。

 「いえ、私にはちょっと…でももらっときます」

 「そうそう。遠慮はしないのがいい女ってもんよ」

 煙管を手に背筋を伸ばしてその場に立っているレイヴンはそれだけで完成された美の象徴のように見えた。

 しかし蝶姐が例え同じものを持っていたとしても彼女のようにできるという自信はまったくない。

  ほどなくして九灯が話を切り上げ戻ってきたので、レイヴンに丁重な礼を言って彼女はその場を後にした。

 レイヴンはしばらくは優しげな瞳で蝶姐のその背を眺めていたが、それは男に話し掛けられた時にはすぐに艶然とした微笑に変わっていた。



  一度だけ振り返って他の男の相手を始めたレイヴンに視線を送った九灯が、興味深そうに聞く。

 「友達かね?」

 「ええ。少し」

 九灯が持ってきたワイングラスに口をつけながら素っ気無く彼女が答えた。

 「随分美人だな」

 「芹人さんもああいう方がお好み?」

 「…まだ怒ってるのか?」

 蝶姐は特に意地悪で言った訳ではなかったが、今夜の彼には無意識にそんな態度を取ってしまったのだろう。

 眼鏡の奥で困ったように眉根を寄せる彼を前に、彼女は自分を戒めて精一杯の微笑みを見せた。

 「いや、そんなつもりじゃないですよ」

 言った後に今目の前にいるこの男が何だか好きな女の子をイジメすぎて嫌われてしまった男の子のように見えてきたので、吹き出しそうに

 なるのを堪えながらふと彼女はテーブルの一つに目をやった。

 大きなケーキを切り分ける為に相応の大きさの包丁が置かれている。片手持ちの剣と言ってもおかしくないだろう。

 「私が格闘技の道場育ちっていうのは話しましたよね」

 グラスをテーブルに置くとその包丁を手に取ってペーパーナプキンで刃についたクリームを拭いながら、蝶姐は会場の中央へ向き直った。

 彼女にしてはかなり多めの酒が回っているが、頭の中がふわふわするような浮遊感は心地良かった。

 「刺踏って言う中国生まれの格闘技で、剣をなくした武人が篭手をつけた手で相手の刃を払い除けながら戦う武術なんですけど…

 その内に一つの武術として確立したんです。それで何年かに一度、王様の前で大会をやって優勝者はその王様に踊りを捧げたそうです。

 『御前舞踏』って言うらしいんですけどね」

 包丁を手にすたすたと会場の中央へ歩いてゆく彼女を慌てて追うと、蝶姐は不意にくるりと九灯に振り返った。

 「でも、今夜は貴方の為に舞ってあげる」

 ふと、会場に流れていた楽師たちの気だるげな音楽が終止符を打って、ざわめきだけが残された。

 次に突如として始まったのは打って変わって激しいリズムを刻む曲で、渦のように空気を巻き込み会場に満ち始める。

  御前舞踏は刺踏を学ぶ者にとって教養の一つとして習うものに過ぎなかったが、幼少の頃から父親に教えられてきた蝶姐にとっては

 格闘と同じく動作が体に染み付いている。

 しばらくは目を閉じてリズムを取っていた彼女は突如覚醒したようにステップを刻み始めた。

 曲に合わせて激しく靴を踏み鳴らしながら、振るわれる手にした刃の銀光が軽やかな唸りを上げて踊り狂う。

 流れる音楽に任せ、しかし確固たる優美さを纏わせて海を泳ぐ魚のようにその曲の流れに彼女の体は舞った。

 時折刃の切っ先が客の体を霞め、刃物を振り回している彼女に気付き慌てて離れてゆくが、当の本人は勿論そんなことは気にしていない。

  一心に舞う彼女は恍惚として至福の統一感を味わっていた。

 中途半端な自分のすべてがこの瞬間だけは全部本当の自分になっているような気がする。それが錯覚だとしても構わない。

 周囲の人間も次第に優美な弧を描くように踊るその姿に惹き付けられて、思わず蝶姐の姿に視線を集中させた。

 何時の間にか彼女の周囲からは人影が消え、にわかにできた舞台を限界まで使って舞踏者は木の葉のように舞う。

 存在はちっぽけでも躍動を繰り返すその姿は美しく、ふとそちらを眺めていたレイヴンさえもが息を呑んだ。

 まったく時間の流れを感じさせなかったがほんの15分間ほどの音楽は何時の間にか止み、高らかに靴を踏み鳴らして舞踏を終えた彼女の

 その姿を人々はしばし呆然と眺めていた。

  魅入られていた全員を我に返したのは、たった一人の男の惜しみない拍手だった。

 やがて一斉に巻き起こった拍手を受け、全身を逆巻いていた興奮がゆっくりと弾いて行くのを感じながら照れくさそうに笑って蝶姐は四方に

 お辞儀をする。

 熱が引かず僅かに汗ばんだ彼女を感嘆を漏らして九灯が迎えた。



  ビル街の中央にそこだけがコンクリートが抜け落ちたようにその空間を小さな緑が囲っている。

 歩けば100歩ほどで対角線を横断できるほど小さい公園で、排気ガスによってくすんだ木々が申しわけ程度に植えられていた。

 蝶姐が鼻をひくつかせると都会独特の、何と言うべきか無機的なコンクリートの匂いに混じって空気に植物の匂いが溶けているのを感じる。

 二つは混じろうとも決して相容れる事はなく、鼻腔の中で不調和を放ち表現し難い臭気となっている。

  パーティを抜けてからしばらくした後、彼女と九灯は車を止めさせてその公園で少し休んでいた。

 ベンチに腰掛けて缶ジュースに口をつける蝶姐の隣に座っていた彼は、再び賞賛の言葉を口にする。

 蝶姐は謙遜したが九灯にとってはお世辞など含めているつもりはなく、心の底から感動させられた事への礼だった。

 「素晴らしかった」

 「よして下さい。恥ずかしいなあ」

 照れ笑いを繰り返す蝶姐に九灯は愛しそうに微笑んだ。

 「まあ俺は王などに足る人間ではないがね。嬉しかったよ」

 頭を掻きながらその言葉を受け、幾分酒が回っているせいでもあるがやや朱を帯びた顔で彼女はぽつりと言葉を紡いだ。

 「九灯さんは私の初恋の人に似てるんです。あれはもっとバカで鈍感でどうしようもなかったけど…」

 思わず九灯が遠慮のない悪口に失笑する。

 「だけど優しかった。あの人はいつだって私を傷つけまいと必死だったんです。私もガキだったからその優しさに甘んじるのに抵抗があって…

 自分はもっと強いような気がしてたんです。誰からも優しさを受け取らなくても生きていけるような気がしてた」

 すっと遠くなった蝶姐の瞳は愛しい記憶と懐かしさに満ち溢れていた。

 よく実家の道場へ通っていた摩昼とは正式な試合を何度もしたが、彼が幼馴染の蝶姐に一度も勝てなかったのはやはり自分を傷つけまい

 という優しさが意識下のどこかで働いていたのではないかと思う。

 自分はどうだっただろう、とふと彼女は自問した。

 自分は彼に対して優しくあっただろうか?

 「その幼馴染に嫉妬するね」

  その横顔をじっと眺めていた九灯が苦笑と共に言葉を漏らした。

 冗談なのか本気なのかは蝶姐にはわからなかったが、街灯の下の彼の顔はどこかうらやんでいるようにも見える。

 「俺は彼の代用品かな?」

 「そういう意地悪な質問は止めて下さい」

 しばし静まり返った夜の闇に乾いた男の笑い声が上がる。

 「もう昔の話ですよ。…私は貴方が好きです、今はね」

 彼女は自分の言葉が現実でなく己の願望だと言う事には気づかないふりをした。

 声が止んで再びしんと静まり返った中、ちょっとはにかんだように笑って向き直った蝶姐に九灯が唇を寄せる。

 「『今は』を『これからもずっと』も置き換える気は?」

 「別に構いませんよ」

 相手の熱い体温を感じるくらいに接近した時、さきほどの反撃とばかりに彼女が言葉を続けた。

 「でも貴方がお金持ちでなくなったら、その時はわからないかも」

 唇を奪う事も忘れて目の前で呆けたような表情を見せる彼に、蝶姐は笑いを堪えきれなかった。





















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