プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -






クレイジーハートブレイカー

8.ターミネイト


  恐怖に突き動かされたユマは、元から白い肌をより蒼白にしてソファから跳ね起きた。

 蝶姐の手の中から逃れるとぱっと闇の中に向けて身を翻し、たちまちのうちに姿を消す。

 闇の中を遠ざかって行く足音を聞きながら彼女はゆっくりとその後を追い始めた。どうせ逃げ道などどこにもないのだ。

 しかし客を放り出して外へ出ようとした彼を、下手をすれば用心棒は射殺するかも知れない。

 そう考えると思い直して蝶姐は床を蹴る足に力を込める。

 生け捕りにしなければ何の意味もない。用があるのは頭の中の情報だ。

  例え視界がほとんど利かずともそこは勝手知ったる職場、闇に塗られた中であちこちでつまづいたり人にぶつかりそうになっている彼女を

 尻目にユマは暗黒を切り裂いて疾走を続けた。

 所々に置かれたスタンドが落とす灯りがほんの一瞬だけその生白い姿を幻のように浮かび上がらせる。

 二人の差はどんどん開いてゆくが蝶姐はそう焦ってもいなかった。

 どうせ丸腰の相手に数人の男が常時滞在しているカウンターは抜けられまいと高を括っていたのである。

 動きがあったのは予想以上に速かった。前方に不規則に浮かんでいる明かりの一つ、恐らく一番カウンターに近いと思われるものがフッと

 流れるように残像を残して移動する。

 誰かがスタンドを手にして動かしているのだろう。そして次の瞬間ガラスが硬いものにぶつかって炸裂する音が空気を裂いた。

 慌てて走る速度を高めるとやがて足元に黒い塊が一つ、黒い液体を垂れ流してうずくまっているのに気付く。

 クラブの黒服で、周囲にはスタンドの粉々に砕けたガラス片が散乱しており僅かに灯りを砕いている。

 ユマに一撃脳天に食らわせられたのだろう。

  思ったより能動的に動く少年だと気を引き締めてカウンターを抜けるとすでに異常を察知した他の黒服たちが数人、口早に相談をしている。

 それらに取り囲まれて閉ざされたエレベーターを背にしている少年の姿があった。

 手に先端の照明部分が折れてなくなったスタンドの棒を手にしているが、目の前で取り囲んでいる黒服たちが銃器で武装している事を考えれば

 それはあまりにもささやかすぎるものだと言えた。闇が彼の表情に張り付いた絶望を際立たせている。

 そしてその一同の背を眺めながら舌打ちをする女も一人。

 「参ったな」

  誰にも聞こえないように口の中で呟くと蝶姐はほぼ闇に埋もれている金髪の頭を掻いた。

 この店では常連で信用のある地位と人脈の持ち主ならば料金をいくらか加算する事で店の包娼を一晩か二晩借りられるサービスがあり、

 当初の目的ではユマをこのまま連れ出すつもりだったが(蝶姐が店に踏み込む役になったのはミタカの知り合いで店側にも信用はそれなりに

 あったからだ)これでは予定が狂ってしまう。もし店側にユマが捕えられたら色々不都合も起きるだろう。

 アンダーガード、引いては百狼会が手柄をさらう為には店やロッキング・チェアーズの介入はあまり好ましくない。

  どうしたものかと人知れず頭を悩ませる前で、ユマに取っての幸運は突如として訪れた。

 不意に隙間から光が漏れたかと思うとエレベーターの扉が開いたのである。扉に背をくっつけて体重を任せていた彼は耐え切れず背後に

 転がった。

 エレベーターに乗っていた客の男が何事かとユマの体を避けて慌ててエレベーターの奥へと下がる。

 瞬間的に自分の幸運を察知したユマは跳ね起きるとコンロールパネルの『閉』のボタンを叩いた。

 扉が閉じないように黒服の一人が腕を伸ばして扉に割り込ませようとするが、ユマの手に残っていたスタンドの柱の渾身の突きを腹部に受けて

 それも阻まれる。

 湿った呻き声を上げて上体を折る男の前で見る見るうちに扉の隙間から漏れる灯りは細くなり、すぐに消えた。

 黒服たちの隙間を縫って扉の前に立つと状況の傍観に甘んじていた蝶姐が静かに口を開く。

 「エレベーターは止められるでしょ? 停止させて下に戻せばいいじゃない」

 ほんの一瞬だけ蝶姐を眺めて値踏みした黒服が、包娼ごときにしてやられたという屈辱を顔に残したままできる限りやんわりと答えた。

 「もうやっています」

 「頼むよ。あの子は私のモンだからね」

 その言葉に含まれる別の意味を知らず、彼は小さく頷いて背後を振り返る。

 ただ一人ユマの突きを受け腹を押えて『畜生が!』と漏らす男の向こうではカウンターで別の男が何かを合図していた。

 湧いて来る焦りを押えて蝶姐はこの場からユマを掻っさらう方法をしきりに錯誤していた。

 持てるすべての頭脳を総動員して一筋の光を見出そうと努力するが何一つ思い浮かばない。

 いっその事この場からユマが逃げてくれると助かるのだが、エレベーターという密室ではそれも適うまい。

 一方黒服たちは飼い慣らしていたつもりの商売道具に手を噛まれて目に見えていきり立っている。

  それぞれの思惑が交錯する中、遂にコントロールパネルのカウントが点滅を始めた。

 地上へ向かう途中で目的地を変え、再び地の底へと戻ってきたエレベーターの中の鼠を捕えようと一同が扉を取り囲む。

 蝶姐は黒服にその場から退かされてその背ごしに扉を睨み付けていた。

 「ご到着だ」

 突きを受けた黒服の一人が腰に差していたスタンガンを手にそう吐き捨てる。

 募る焦りを押えながら、このままここの全員を叩きのめしてユマを強奪するという案の決断に迫られた蝶姐も人知れず構えに移った。

 相手は六人、全員が上背のある屈強な男たちでしかもスタンガンで武装している。懐には実弾の入った銃も収まっているだろう。

 無茶ではあるが扉が開いた一瞬の隙を付いて背後から襲い掛かれば勝機は無いでもない、と彼女は自分に言い聞かせた。

  目に見えて緊張が高まってゆき、扉の隙間から漏れた針のように細い光がカーペットに落ちた時それはピークとなる。

 蝶姐がまず倒すべき一番手強そうな男の背後にぴったりついた時に扉は開かれ、中からは一同の期待していたものが抜け落ちた光景が現れた。

 「お怪我は?」

 はっと我に帰った黒服の一人があわててエレベーターの中でへたり込んでいた男に駆け寄る。

 「ああ」

 背広の着衣を正しながら男は黒服の手を借りて立ち上がった。

 「ご一緒してた者はどこへ?」

 緊迫した質問に男は黙って天井を指差した。恐らくは棒で突いて開いたのであろう、通風孔の蓋が外れてぽっかりと口を開いている。

 エレベーターの中に入った黒服らが舌打ちをする中、蝶姐だけは緊張を解いてほっと溜息をついていた。

 「あのガキ、俺を踏み台にしやがった」

 憮然として男は背広を叩いて埃を払った。



  一方、地上の建物の裏口ではハヤシバラが緊張した時間を過ごしていた。

 そわそわと落ち着きがない様子で周囲を行ったり来たりしながら、しきりに懐に手をやっている。

 黒の背広の下には慣れない重みがずっしりと居座っており否応なしにも彼に冷や汗を吹き出させた。

 そのホルスターに吊るされているのは最近になって持たされた拳銃である。

 声を唯一にして最大の武器とする彼も自衛の手段として犬飼に持たされたのだ。

 元が小心者である彼はどちらかと言うとその恐怖は己がものの弾みで殺人を行ってしまう事へ向けられており、極力持ち歩かないように

 心がけて生活していたが、今回はそうも言っていられない。

 今回は万一作戦が失敗しそうになった場合は目標を射殺しろと言われている。

  さっきから喉が渇いて仕方なかった。幾度となく唾を飲み込みながらハヤシバラは自分を落ち着かそうと胸を張って大きく深呼吸をする。

 どうかティエチェさんがドジを踏みませんように。踏んでもこっちの裏口からユマが来ませんように。

 もしもの場合は反対側の路地の裏口で張っている紫陽花が処理してくれるよう何度も祈りながら、ウロウロと扉の前を行き交う。

 頼りにならない人間に対して油断無く通路で身構えている三匹の犬たちは、そんな彼の姿を呆れたように眺めていた。

 ハヤシバラに割り当てられたサイボーグ犬は毛の長い真っ黒な大型犬のイワノフとゴールデンレトリバー、ドーベルマンだった。

 路地は狭く両手をいっぱいに伸ばせば隣の建物まで届いてしまう。人間が二人並んで歩く事は無理だろう。

 よって人間よりもはるかに小回りの効く犬を何匹も連れてきたことは正解だったと言えよう。

  あまり人が通らない場所なのか地面は剥き出しになっており、様々なゴミが散乱していた。

 時刻はそろそろ五時を回る。闇に視界が奪われ見通しが利かなくなってきた頃、ハヤシバラは耳に突っ込んだインカムから古滝の声を拾った。

 ザッ 遅すぎる。ティエチェの奴ミスったかもな、二人とも用意しとけ

 「えー!? マジっすか」

 ハヤシバラが不安を込めて情けない声を出す。建物の裏では多分紫陽花も同じようなセリフを吐いているだろう。

 お前は何もしなくても平気だ、犬に任せとけ。銃は最後の最後まで使うんじゃねえぞ

 にわかに震えのきた手を押えると懐から拳銃を抜き、慣れない手つきで銃弾を確認するとサイレンサーを取り付ける。

 彼とて短い間とは言えユマに対して仲間意識を持っていなかった訳ではない。しかしもし裏切りが本当だとすればそれは許されない事なのだ。

 乱れる呼吸を抑えて額を伝う汗を拭う。犬たちも恐らく高まる緊張を悟ったのだろう、ピンと張り詰めたように動きを止める。

  絞り出すような犬たちの唸り声が聞こえた。

 時々その犬たちの剥き出した牙からバチバチと青白い閃光が跳ね散っているのは噛み付いた瞬間に相手を麻痺させるスタンファングの電流だ。

 ハヤシバラと犬たちは真っ直ぐに裏口の扉に向き直り、いつ相手が飛び出してきても行動を起こせるように体勢を整える。

 銃はサイレンサーをつけて再び懐に突っ込んだままだ。

 もしユマでなく客やこの店の用心棒が出てきた時に銃など構えていたら下手な言い訳ができなくなる。

 いつでも抜けるように片手で背広の裾を押え、もう片方の手は背広の下で拳銃のグリップを掴んでいる。

  長い長い時間が過ぎてハヤシバラの頬を伝った汗が地面に落ちた瞬間、イワノフが突然火がついたように吠え始めた。

 凍りついた時間を突然破った犬にハヤシバラが心臓が飛び出さんばかりに驚き、肝を潰して咄嗟に拳銃を抜く。

 慌ててブレる銃口を向けたが、しかし扉はピクリとも動かなかった。

 ほっと深い溜息をついて何時の間にか顔面を満たしていた脂汗を拭い、相変わらず吠え続けているイワノフに向き直る。

 「驚かすなよ!」

  憮然として犬を見下ろした彼はふと異変に気づいた。

 イワノフは扉にはそっぽを向いて通路に向かって吠えているのだ。ハヤシバラが夕闇に眼を凝らしても動くものは何も見えない。

 真っ黒に塗り潰された通路から数本の通風孔のダクトが伸びているだけだった。

 出やがったか!?

 犬の咆哮をハヤシバラのインカムを通して聞いた古滝の張り詰めた声に、彼は困惑して返事をする。

 「いえ…何か明後日の方向に吠えてますけど」

 ぼんやりと眺めていた通路の風景はただでさえ採光が悪く、夕闇にほぼ真っ暗になっていた。その闇の一片が不意に大きくずれた。

 ビルの外側を這っている通気ダクトの一部分が老朽化して腐っていたのだろう、一ブロックまるごと地面へと落ちたのである。

 そしてハヤシバラは見た。そのダクトから這い出てくる、闇の中でなお生白く蝋のごとき光を弾く肌の少年を。

 「でっ…」

 彼はインカムを押えながら再び腹の底から持ち上がってきた緊張に叫んだ。

 「出ました! こっちです、北の裏路地の方です!」



  再び正常通り動き始めたエレベーターを降りて地上へ立った蝶姐が最初に聞いたのは古滝の叱責だった。

 逃がしやがって

 「怒んないの。プレッシャー加えるつもりが逆効果でさ。ところでユマって上に出たの?」

 ハヤシバラが張ってた方の出口だ、通気ダクトから出てきたらしいな。どこに追い込んだんだお前

 ユマはエレベーターの室内の通風孔を破って一度縦穴のスペースに出た後、通路の空気を通すダクトを通って地上へ出たのだろう。

 緊急時にエレベーターが停止した場合を考えて大抵こういう場合ダクトは非常通路を兼ねており、人間が充分に通れるようできているのだ。

 エレベーターを使った蝶姐が自力で上がっていったユマより遅れたのは、黒服たちが縦穴を調べる少しの間に待たされたからである。

 摘発にあった場合に備えてもしかしたらその非常通路は別の場所にも伸びていたのかも知れない。それに気づかなかったか選ばなかったかは

 定かでないが結局見つかってしまったユマにとっては不幸極まりなく、しかしアンダーガードにとっては幸運だった。

 急げ、店の連中に見つかったら面倒だぞ。十時の方向だ

 古滝の言葉を聞きながらコンクリートを蹴って正面入り口から出た蝶姐が路地へと飛び込む。



  腕につけた大きな腕時計のようなものから青白い線が立体的に浮かび上がり、ワイヤーフレームでこの界隈の地図を表示させている。

 ガントレットナビと呼ばれる携帯のナビコンでホログラフによって付近を表し、彼女は迷う事なく路地を進んでいった。

 様々な建物が窮屈そうに立ち並ぶその僅かな隙間が自然と路地となってこの場所はできているらしい。

 たまに裸電球の街灯があるが視界は芳しくない。

 何度もつまづきそうになりながら蝶姐は壁に反射する犬の声が近づいてきているのを感じた。

 ハヤシバラが下手を打っていないかどうか大いに心配だが犬たちがついているのなら大丈夫だろう。

 彼がパニックを起こして無闇に銃を使わなければいいが。

  闇に溶けて走りながら僅かに呼吸が乱れ始める頃、彼女はようやく割れ鐘のように咆哮を上げる犬たちの元へとたどり着いた。

 ダンボールや木箱が詰まれた袋小路の奥の人影へ向かって、イワノフたちがしきりに吠え立てている。

 その様はさながら暗黒から生まれた魔獣のようだった。

  犬と一緒にいたほうの人影が気配に振り向いて蝶姐の姿を確認すると、ほっと息をついた。

 「ティエチェさん」

 震える手で銃口を正面にポイントしたままのハヤシバラだ。

 よほど走らされたのだろう、背広があちこち泥にまみれ引っ掻き傷だらけになっている。

 彼女は珍しくこの青年に対して好感を持った。

 「お疲れ様。頑張ったじゃない」

 「いえ」

 いつもなら軽口で答えるところだが彼は緊迫した表情を崩さずに正面に向き直った。

 やはり裏切り者とは言え、仲間に銃を向けているのはプレッシャーなのだろうか。

 「イワノフ。静かに」

 ハヤシバラと同じく正面に視線を送った蝶姐の声に途端に犬の吠える声がしぼんで低い唸り声に変わる。

 「古滝? 今ついた。目標に傷はなし、回収するよ」

 手袋を外してロングコートと一緒にハヤシバラに預けながら蝶姐は犬たちの間をすり抜けて少年に向かい、一歩を踏み出した。

 袋小路を背に凍りついたように動きを止めていた蒼白の少年がビクッと体を震わせる。

 短く細いが激しく乱れたユマの呼吸だけが、冷えた夜の空気に白いアクセントを加えていた。

 「かわいそうに」

  目前まで迫った蝶姐から彼は押し潰されそうな圧力とストレスを感じていた。

 身を屈めて相手と視線を合わせた彼女が哀れみを込めて呟く。

 ほとんど半裸に近いユマの全身は細かい擦り傷や引っ掻き傷に満ちており、蝋のような肌が裂けて不釣合いに赤い鮮血が這っている。

 恐怖の色を濃厚にする相手の瞳を覗き込みながら、不意に蝶姐の右腕が持ち上がった。

 歯の根が合わなくなるほどに小刻みに震えている彼の横顔にそっと触れた指先が、舐めるようにその肌を這う。
                            や
 「自白剤なんか使わせない。あなたは私が拷問る」

 自分の眼前の相手の顔に浮かぶ憐憫に紛れた嗜虐の炎を知ってユマはか細い悲鳴を上げようと口を開いた。声は出なかった。

 ガチャリと背後で重い金属音が響く。溜息をつきながら蝶姐はハヤシバラに振り返った。

 「もう銃はいらないよ」

 「いるよ」

  返事をしたのは聞き慣れた少女の声だった。

 空には気の早い月が出ており、その僅かな月光を浴びて幽玄のごとく紫陽花は立っていた。

 路地を吹き抜ける風にセーラー服のスカートと茶色の髪が踊り、前髪から覗く瞳は絶対の意思に満ちている。

 かけられている黄色いサングラスは簡易式の赤外線ゴーグルで、他にも相手との距離や動体反応なども算出できるものだ。

 「紫陽花」

 蝶姐は不測の相手の行動に唾を飲み込むと、できる限り柔らかに名を呼んだ。

 「銃を降ろして」

 天空から注ぐ光を弾く彼女の両手のマキシンの銃口は間違いなく両方ともその場の人間に向けられていた。

 左は硬直しているハヤシバラ。そして右は蝶姐の眉間。

 「ユマから離れて!」

 今は言う通りにしろ

 インカムから緊迫を込めた古滝の声が聞こえてくる。そう言えば付き合いは長いが彼のこんな声は初めて聞いたような気がする。

 犬を使う。一瞬だけ紫陽花の気を引けるか?

 「無駄だよ」

 ゆっくりと脇へ退いてユマから離れ、彼に道を空けながらインカムに言葉を返した。

 「紫陽花だったら多分…」

 「何かの行動を起こす最初の一動作で全員に弾をブチ込める」

 サングラスに表示されている、目まぐるしく形を変える図形や数値を眺めて紫陽花が彼女の言葉を続けた。

 マキシンに入っている弾丸はすべて暴徒鎮圧用のゴム弾だ。

 だからこそ例え蝶姐やハヤシバラが相手でも何のためらいもなく引き金を引けるだろう。

 ある程度この事態を予想できないでもなかったが、これは読み違いだったと言わざるをえない。

 「ユマ、逃げて」

  突然の状況に判断をしかねていた彼が声をかけられ一瞬動きを止める。

 しかしすぐに飛んできた『早く!』と叫んだ紫陽花の叱咤に驚き、犬と蝶姐の間をすり抜けて袋小路から飛び出して行った。

 遠のく足音を背で聞いていた彼女の耳のインカムからは、古滝の説得が響く。

 紫陽花、止めろ! どのみち逃げきれねえぞ、パオ・ナナの頭ん中には発信機が入ってるって知ってるだろ?


 早くしねえと店の連中が探知を始めて追ってくるぞ、俺達ァそれまでに捕まえて逃げて上層部に連絡しねえと丸ごと反逆者になっちま…

 「あんたたち平気なの!?」

  相手のセリフに割り込んで叫んだ紫陽花の瞳に浮かぶ光の粒にふと蝶姐は気づいた。

 「ユマはずっと友達だったじゃん! お姐も古滝もハヤシバラもユマが拷問されても殺されちゃっても平気なの!?

 ユマが…ユマがいなくなっちゃうんだよ? あたしはそんなのやだ、絶対にイヤだ!」

 立て続けに二回の銃声が闇を引き裂いた。

 尾を引きながら背から吹き出す血を流し崩れ落ちる少女の体を呆然と眺めていた二人の目の前に、一人の長身の男が現れる。

 「バカが」

 その言葉は二人の目の前で放たれ、同時に耳に突っ込んだインカムの中からも聞こえた。

 硝煙を吐く拳銃を懐に戻すとハヤシバラが手にしていた蝶姐のロングコートを引ったくり、倒れている紫陽花の体を包んで持ち上げる。

 「古滝さん」

 気の抜けたハヤシバラの声に古滝は大きく溜息をついて通路を指差した。

 「追え」



  ガントレットナビを腕につけて再起動させながら、蝶姐は再び路地を走っていた。

 古滝は紫陽花を病院へ連れていく為に移動中の車から指示を出している。

 ハヤシバラと犬、蝶姐は一人、そして犬だけで構成された三つのチームに分かれて再びユマの追跡が始まった。

 ハヤシバラと蝶姐がつけているガントレットナビは逃亡者を追う場合に逃げる者の心理からどの道を選びやすいか算出できる機能があり、

 あまり信用しすぎるのも考えものだが参考にくらいはなる。

  ナビの地図を眺めて確認を続けながら、彼女はインカムに手をやって古滝に押し殺すような声を出した。

 「紫陽花は?」

 吐血してねえから弾ァ臓腑には入ってねえな、骨格と筋肉が頑丈なおかげで止まっちまったんだろ。死にゃあしねえよ

 いくらかいつもの緊張感のない声に戻った古滝の声にほっと安堵の溜息を漏らす。

 紫陽花を撃った彼に怒りを感じていないではないが、あの場面では仕方の無い事だっただろう。

 彼女の安否も気にかかるが、心配なのはこれらの一件はすべて犬たちの電脳に記録されているという事だ。

 反逆の罪に問われれば紫陽花は確実にザ・ショップに処刑される。

 古滝の考えでは権力を欲している犬飼の事だ、自分の部下が包娼に同情して裏切ったなどという汚点は握り潰すに違いない。

 そうなってくれると良いけど、と不安げに返事をして蝶姐は路地を出た。

  そこは四方をビルに囲まれた小さな広場で、朽ちかけた大型のバイクやスクーターなどが隅で山積みになっていた。

 すべて残らずバンパーがなくなっている所を見ると盗難車でこの広場はその廃棄場所なのだろう。

 向かい正面には別の路地へと続く通路が口を開いていたが、それを人の形に切り抜いている影があった。

 それが放つチリチリと身を焦がすような殺気に反射的に立ち止まり身構える。

 暗くて人の形をしているという事以外はほとんどわからないが、その焼け付くような気配は間違いなく自分に敵意を持つ存在だ。

 店の黒服の一味だろうと判断した彼女の先手を打って相手は粗暴そうな声を発した。

 「会いたかったぜえ」

 金物を弾く音の次に相手の手元でポッと小さく火が灯り、残像を残してそれは片隅でうずくまっていた赤錆の吹いたバイクに落ちた。

 ライターの火はタンクに残っていたガソリンに引火し、一瞬低い爆発音が空気を震わせる。

 ごうごうと燃え上がった炎に圧倒的な存在感を以って浮かび上がった大男に蝶姐は頭を抱えたくなった。

 「スキンシャーク」

 「他人行儀だな。シャークって呼べよ」

  野卑な笑みで相手を見下しながら彼は腰に手をやった。隆々とした筋肉を見せつけるかのようにジャンパーの下はシャツ一枚だ。

 その笑いにこみ上げてくる生理的嫌悪感を押えながら彼女がインカムに手をやる。

 「スキンシャークが出たよ。ネヴァーエンズがもう動いてんの?」

 何だと

 古滝の声に若干驚きがこもる。

 それとなく探ってみろ

 「お前らさあ、何でこんなとこにいんの? ユマのお迎え?」

 古滝の言葉を意に介さない直球の質問に、スキンシャークは自分の背後に隠れていた少年を前へ押しやった。

 元から背は低いがシャークと比べると絶望的なチビに見えるユマだ。

 「このガキのスパイは今日で終わりだ。こいつが出勤してすぐに一番の客の成りすまして重要なモンは先に全部受け取った。

 仕事が終わってからガキ自体を受け取りにくる予定だったんだが何か騒がしいモンでな。ヘルダイヴがうるさくてよ、見て来いって」

 相手の言葉に彼女は店に入ってすぐにエレベーターの乗り降りですれ違った二人組の事を思い出した。

 あの片方がスキンシャークだった訳だ、もう一人はヘルダイヴだったのだろうか。

 そして蝶姐は今日で二番目の客という事になる。一番最初の時にすでに書類などは彼に渡していたのだろう。

 「ま、いいじゃねえか。どうでもよ」

 両手の指を組み合わせて関節をボキボキと鳴らすとスキンシャークが心底楽しそうに言った。

 「焦がれてたんだぜえ、てめえによ。絶対ェてめえだけは俺が叩き潰す」

 人は一生に一度、それまでの人生の中では考えられないほど異性からモテる時期が誰しもあると言う。

 今がその時期だとしたらよりもよってこんな相手に。

 「お前ら何人で来たの」

  胸の前で手を合わせてゆっくりと呼吸を繰り返しながら、一瞬の油断も見せずに蝶姐が氣の循環を高める動作を始める。

 彼女が使う武術の刺踏だけでなく格闘技には大体このような呼吸法がある。

 氣の乱れを抑えて体に流れるその循環を完全な輪とし、攻防の際に凶器にも鉄壁にもなる純粋なエネルギーに変える。

 少しずつ彼女がその身にまとう気配は刃のごとく鋭くなってゆく。

 「さーな」

 蝶姐がインカムで仲間と連絡を取り合っている事に気づいたのだろう。

 質問には答えずスキンシャークも軽く両足を開いてボクシングスタイルで構えを取った。

 相手の気配が殺気に変わり、その皮膚を刺激する感覚にゾクゾクと冷たい電気が走る。

 「お前はここにいろ。アンダーガードの奴等がいんなら下手に動くな、新入りの野郎がすぐにこっちに来る」

 ユマに短くそう伝えると同じく構えを取った相手を彼は満足げに眺めた。

 「こうでなくっちゃァなああ」

 ニタリと唇の端を持ち上げ、そして死闘が始まった。



  一方、ハヤシバラも苦戦を強いられていた。

 苦戦と言っても彼は戦ってはいない。今、目の前では二人の男が彼と対峙している。

 腕力にまったく自信のないハヤシバラの命綱であったサイボーグ犬たちはすべて地面で伸びており、いずれもその胴体には鉄パイプで

 殴打された後の青黒い痣が走っていた。

  それはほんの一瞬の出来事だった。

 角から姿を現したその二人組の片方はその辺で拾ったものであろう鉄パイプを駆使し、三頭の犬をあっという間に蹴散らしてしまったのである。

 まさに鈍い銀光が踊り、一閃したのみ。

 そして現在絶対に勝てそうにない相手と直面し硬直したハヤシバラに、残る一人が銃口を突きつけて尋問を続けていた。

 「てめえらアンダーガードだろ」

 「何の事かしら」

 放たれた声が普段の彼のものとは異なる事には二人共気づいていない。

 ハヤシバラは咄嗟にニット帽を深く被って顔を隠し声を変え女のフリをしてはみたが、誤魔化せる雰囲気ではない。

 ネヴァーエンズがこちらのメンバーを恐らく知っているであろうと予想しての変装だったが、効果を発揮しているようには見えない。

 のらりくらりと逃れながら声色で催眠を誘う手もあったが、二人のうちの銃を持っている男はどう見ても沸点の低そうな激昂しやすい

 今時の少年だ。

 喋っているうちに眉間に穴でも開けられてはたまらない。

 「…どっかで…」

  尋問を傍観していた鉄パイプを手にしていた方の男がふと眉根を寄せると、記憶をたぐるような顔つきをしてハヤシバラの顔を覗き込む。

 「どうした?!」

 「いや…どっかで見たような」

 こちらは銃の方よりも幾分年上で物腰も落ち着いているようだった。

 その声を聞いてはっとハヤシバラが記憶を巡らせる。

 彼は自分の持っている能力的に、一度聞いた他人の声はまず忘れないという特技を持っている。

 確かアンダーガードに配属された日に、蝶姐に地下街を道案内をしてもらっていた時に会った…

 (こいつネヴァーエンズだったのか!?)

 相手と視線を噛み合わせないように目を伏せながら、更に吹き出す冷や汗を拭おうともせずハヤシバラは飛び交う記憶に目まぐるしく

 頭を働かせた。

 しかしそんな余裕は今現在ある道理はなく、今にも指をかけた引き金を絞りそうな少年がハヤシバラの眉間に銃口を押し付ける。

 「言え! てめえこんなトコで何してやがった!」

 「…よーく聞いてね」

 両手を上げたまま意を決してハヤシバラは恐る恐る顔を上げた。声は女のままだ。

 「俺…アタシはね…」

 ゆっくりと言い終えてハヤシバラは空気を吸い込み始めた。

 それは途切れる事を知らず吸引は普通の人間の肺では考えられないほどの時間続き、見る見るうちに彼の胸が取り入れた空気によって

 盛り上がってゆく。

  二人が異常を察知するより早くその目の前で空気が爆発した。

 ハヤシバラが人工の肺に取り込んだ空気はその声帯に殺到して音の爆弾となって炸裂し、二人は衝撃波で背中から後方に吹き飛ばされた。

 路地に面していた建物の窓が次々に砕けてガラス片を散らせ、同じく地面に散乱していたゴミが千切れ飛んでゆく。

  やがて轟音が過ぎ去り静寂の闇が戻った頃、呼吸を荒げて空気を貪りながら彼は己の思惑が成功した事を知った。

 強烈な音に強化された鼓膜さえもが痛み、やや頭がグラグラしたが、目の前に転がっている二人ほどではないだろう。

 鉄パイプの方がインパクトの瞬間に咄嗟に耳を押えて鼓膜を守ったのにはハヤシバラも驚愕を隠せなかったが、しばらくは脳味噌が掻き

 混ぜられるような不快感と失われた平行感によって立ち上がる事も適うまい。

 もう一人の方は耳腔から血を流しながら小さく痙攣を繰り返している。死んではいないだろうが無力化した事に変わりは無かった。

 「アタシはね」

 酷使した呼吸が元通りの正常なものになった頃、ハヤシバラは喉を押えて悠々とその場を後にした。

 「危険なオンナなのよ」





















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