プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -
車ドロボウとお姫さま
3.お姫さまの悪夢
三日もすると全身の腫れも引きソノはようやく歩き回る事が可能になっていたが、生きている事を感謝する気にはなれなかった。
今日はユアンが指定した日だ。高い代償を払わされる事になるだろう。
いっそこのまま傷が治らなければいいとさえ思ったが若い彼の体は着実に元の体力を取り戻して行った。
気が重かったがすっぽかす訳にも行かずソノは飼い犬の頭を一撫でしてから家を出た。
ユアンが指定した場所とは神薙市の一角に存在する地下駐車場だった。
神薙市の地下には蜘蛛の巣のように地下街が張り巡らされており、地上とは異なるもう一つの街が存在する。
すでに余裕のない地上から移された駐車場や様々な店舗、居住施設など、あまりに巨大化し過ぎたので地上とは別にこの街を管理する
独自の政治的組織も存在している。
市民ならば何かと関係の深い場所だが、ソノがやってきた場所は始めて見る場所だった。
職業柄警察を巻くのに複雑に入り組んだ地下の交通網はよく利用するソノもあまり馴染みのない、中心街からやや離れた郊外の地下に
存在する大きな駐車場で、この真上には閑静な住宅街が広がっている筈だ。
言われた通り几龍咆で乗りつけたソノは地上の入り口からそこへ入った後、案内板を確認しつつようやく待ち合わせの場所へ辿り着いた。
ベッドタウンの地下だけあって車はかなり多く、車種も様々だ。
その中の一つ、一際異彩を放つ黒塗りの高級車のフロントの上でユアンはあぐらをかいていた。
いつもの黒服でほとんど闇に溶けて見えるが闇に茫然と映える乳白色の肌と銀の髪だけは見間違える事もない。
今回は取り巻きは少なく、彼の傍らで黒服の大男が一人佇んでいるだけだ。
シンクロを解いて車から降りたソノに気付くと少年は車から飛び降り、銀髪を振り乱してこちらへ駆け寄ってくる。
スニーカーの靴音がコンクリートの壁や天井で反響を繰り返して奇妙な合唱を作り出した。
「おっそいなあ、何やってたのさ」
「迷ったんだよ」
彼の友達に接するような人懐っこい笑顔がソノの神経に障った。
天井に連なっている無機質な明かりの下、相手の猫目の奥で爛々と狂気を湛えている光を見逃さなかったからだ。
ユアンはソノがこれまで逢ってきたどんな奴とも違う、何か特有の残酷さと恐怖を秘めている。
喧嘩で逃げる時は『相手に負けそうな場合』でなく『相手が怖いと思った場合』だと相田は言っていたが、その意味が今は何となくわかる。
恐怖による萎縮は人の正常な判断を狂わせ、恐慌への支配を促す。
なるべく相手と視線を合わせないようにしながらソノは気になっていた質問をした。
「轢けっつーのはどういう事だ?」
「べっつにー。そのまんまただフツーに轢いて欲しいだけだぴょん」
そう言うと片手にしていたピロピロ笛を口にして吹いて見せる。
巻き上げられていた紙の管が少年の呼気で伸び、ソノの額に先端が当たった。
激昂を堪えるのは難しかった。ユアンの姿も行動もすべてがソノの理性を剥ぎ取ろうとする。
恐らくはそんなソノの態度に気付いているであろうユアンはニッと笑い、笛で駐車場の彼方を指す。
その先では照明に遮られようとも尚支配の手を伸ばす、果てしない闇の彼方が見えた。
途中の案内板を見たソノの記憶ではこの先をずっと進めば別の地下駐車場へと出る筈だ。
「ドラウプニル…あ、几龍咆か? とシンクロしてあの通路を突っ切ってちょんまげ。速度は七十、それ以上でも以下でもダメよ」
「途中に誰か居るのか?」
ソノの疑問にユアンはわざとらしくそっぽを向き、笛を吹いて誤魔化した。
「居るんだな?」
念を押す彼に少年は困ったように眉根を寄せて顔を近づける。
「そんな事聞いちゃイヤ」
ソノの当初の予想とはやや異なっていた。
彼はてっきり街中を歩いている誰かを轢いて逃げろ、等と言う任務を押し付けられるとばかり思っていた。
しかしユアンの話と態度からするにこれはただの処刑ではなかろうか?
この通路の途中には仕事を失敗したり裏切りを行ったロッキング・チェアーズのメンバーが身動きできない格好でいるに違いない。
地下の長い通路は大抵人身事故を避ける為に自動車専用路で、人間用の通路はそれとは隔離されているからだ。
よってここを通る人間を轢き殺すとは考え難い。
「いい事、ソノっち。途中で何が見えても絶対止まっちゃダメよ」
車に乗り込むソノにユアンはそう忠告した。
「そいから一回轢いたらそれでオッケーよ。そいつの体がボールにみたいに吹っ飛んだらそこで終わり。
それ以上轢いちゃやーよ」
シンクロシステムとアクセスし、几龍咆を発進させながらソノはまだ迷っていた。
あの少年は何という事は無いように人を轢けという。
最後に付け加えた言葉は恐らく相手を殺さないようにする為だろうが、大きく犠牲者の体を破壊する事には違いないだろう。
わからない事は多々あった。
何故普通の車でなくわざわざ自分と几龍咆を選んで人を轢かせるのか?
そもそも相手を殺すまでもないのに車で轢くという手間を選んだ理由は?
答えは何も出てこなかった。
ニ車線分の通路の真ん中を錆びた風のように疾走しながら、几龍咆は徐々にスピードを上げて行く。
天井に埋め込まれたオレンジ色の正面が残像のように背後へ流れているのを見ながら、ソノはこのままここで反転してユアンの元まで
戻り、彼を轢き殺してやりたい誘惑と戦った。
だが相手もそれを予想して出入り口を車で塞ぐくらいの事はしているのではないだろうか。
それにここで何かそのような反逆の意思を見せれば仲間達に何をされるかわかったものではない。
ソノはあの少年がロッキング・チェアーズの頭領であるという事を最早疑ってはいない。
自分が伏せっている間に銀姫が調べた情報では間違いなく彼がユアン・ソムファだと言うのだ。
彼女の情報はいつも確実だ。だからこそ今まで本職の車泥棒でもヘマをした事はない。
通路は予想以上に長かった。
地上の土地が限界に達し、神薙市が地下に希望を見出し始めた開発時代に作られた地下施設はこのような無駄が多い。
まだ手探りの時代だったからだろうが、それにしても長すぎる。
ソノは段々と時間と距離の感覚が麻痺している自分に気付いた。
相変わらず天井には果てしなく続くオレンジ色の照明。彼方には同じ色の闇。
皮膚と化した装甲を駆け抜けて行く風圧は冷たく澄んでおり、ピリピリするような緊張を感じる。
通路のはるか先は黒い点のように見えたが、ソノはそれがふと白い点に変わったように思えた。
速度は七十。要求通りそれ以上でもそれ以下でもなく現状を保っている。
ブレーキに意識が伸びたが、ソノは何とかそれを留めようと気合いを発した。
あの点は目的のものなのだろうか?
轢かなければならない。それに相手を殺す訳ではないのだ、ここで思い留まらなければユアンは必ず自分の仲間に手を出す。
ソノは自分が冷酷になるよう必死にそう言い聞かせた。
勿論矛盾には気付いている。七十キロも出して人とぶつかれば大抵は相手を殺す結果となる。
だが彼は意識的にその考えを心の内へと押し込んでいた。
白い点は少しずつ大きくなり、ある境を越えた時点で急激に成形を開始した。
薄暗い通路に白い絵の具を一滴垂らしただけのようなそれはどんどん縦に伸びて人の形となるが、何故かいつまで経っても車との
接触が起こらない。
まるでスローモーションをかけているように几龍咆はのろのろとその人型に接近して行った。
人型は少女だった。
ユアンよりも尚白い、生気のまったく感じられない雪のような髪が通路を吹き抜ける風に激しく踊っている。
物憂げな瞳は几龍咆という外殻を突き抜けてソノの精神を直接眺めていた。
ソノはあの少女を知っていた。先日のキャノンボールの時にも見たが、それよりもずっと前から。
名前は思い出せず顔も初めて見るのに何故かソノは彼女の姿に見覚えがあったのだ。
意識が霞む。この少女を轢いてはならないと心に激しい亀裂が走る。
ぎしぎしと粉砕寸前の木造船のような嫌な音を立てる心の痛苦に耐え切れず両手で顔を覆ったソノが指の隙間から見た世界は、激しく
花びらの舞うどこかの草原だった。
そこであの少女だけが何も変わらず佇み、微笑んでいる。
ソノは色のない正体不明の強迫観念に襲われて今度こそ迷わずブレーキを踏んだ。
幸いと言うべきか不幸にもと言うべきか、すでに目的の人物へ接触した直後に几龍咆は急停止した。
タイヤがコンクリートを削る、耳が千切れそうになる凄まじい音が地下通路を一時支配する。
少女はユアンの言葉の通り蹴飛ばしたゴムボールのように弾き飛ぶと地面を二転三転し、動かなくなった。
夢を見ながら眠っていた所に突然氷水をぶっかけられた気分だった。
ソノはシンクロシステムを解くとよろよろと車を降り、しばらくその光景を夢のような気分で見守っていた。
あらかじめ他の車との接触を想定してある几龍咆の前部は少しも凹んでいない。
しかしそれと同じ事が少女にも言える事にソノは気付いた。
打ち捨てられた人形のようにうつ伏せに転がっていた少女がぴくん、と一度だけ小さく痙攣すると、地面に小さな手を突いた。
飾り気の無い白いワンピースの裾を吹き抜ける風にはためかせ、少女もまた夢から覚めたかのようにゆっくりと立ち上がる。
ユアンの言う通りソノが七十キロを保って運転していた事は絶対に間違い無い。
しかし少女も几龍咆と同じく凹んでもひしゃげてもいない。まったく傷が付いていないのだ。
ただ厚い唇の端に少しだけ赤い筋が走っていた。少女はそれを無造作に親指で拭うと、固まっているソノを見上げた。
しばらくその視線は釘付けになっていたが何かを理解したかのように頷き、ぐらりと一歩を踏み出す。
「だ、大丈夫」
よたよたとぎこちなく前進しながら、か細い声で彼女はそう言った。
肩で切り揃えた真っ白な髪が接触の際の衝撃でくしゃくしゃになり、顔にかかっている。
「私、頑丈だから…」
ソノは何も答えなかった。
いや、口は動いていたが喉が枯れて声が出ない。
几龍咆は相手が死んでもおかしくない速度だった筈だ。人間ならば普通、衝撃で壁に投げつけたトマトみたいになっている。
この少女は立って歩いていた。血もほとんど出ていない。
ただ歩き方だけが妙に不自然で、全身の関節の可動範囲が妙に狭いように思える。
油の切れた人形のような動作だった。
「新入りの人でしょ」
ぽつりとそう言ったがソノが何も答えられないでいると、彼女はもうそれ以上何も言わなかった。
しばらくするとソノがやってきた方向から車が現れ、乗っていたユアンと大男が降り立った。
客はもう一人おりこちらは初見のスーツ姿の男だった。
見た目や風格からしてどこかの会社の重役のように思えたが、彼はソノを一瞥しただけで自己紹介はしなかった。
「ご苦労ご苦労。まさか途中でターンして戻って来ちゃったりしたらどうしようと思ってたぴょん」
男の脇をすり抜けてユアンはソノを見上げ、目を細めて笑って見せる。
恐慌を来しかけていたソノも小憎たらしげなその笑い方にややあってから正気を取り戻し、胸糞悪そうに視線を反らした。
その背けた視線の先で男と少女は奇妙な行動をしていた。
少女の明らかに本人の思い通りには動いていない細かく痙攣している手がゆっくりと持ち上がり、男に差し出される。
男はその手を握り返したが普通の握手とは異なり、二つの右手は指相撲をする時のように指を噛み合わせていた。
小さな少女の手が大きな初老の男の手と隙間なく重なると二人は親指を立ててその腹をぴったり合わせる。
その姿勢のまましばらく時間が止まっていたかのように二人は静止していたが、一分ほどで済んで手を離す。
男は少女に一礼し、それでこの日のソノの体験は終わった。
ユアンに何か聞くのは癪だったがソノは車に乗り込み際、同じく帰り支度をしている彼に話しかけた。
「おい」
「何だプー」
唇を尖らせて相変わらずのふざけた語尾を付けながら、少年は助手席の窓を開いて身を乗り出す。
大男の運転する車に乗っているのはユアンだけで、あの初老の男と少女はそれぞれ別の足があるらしい。
通路を抜けた地下駐車場まではユアンの車で送ったが何時の間にか二つの人影は見えなくなっている。
ソノが色々と考え事をしていたせいで去って行くのに気付かなかったのだろう。
「さっきのは一体何だったんだ?」
他の雑多な玩具やお菓子と一緒にポケットに突っ込んであったピロピロ笛を取り出すと少年はそれを口に咥え、ニ、三度吹いた。
笛から耳障りな奇音を上げつつ視線は中空をさ迷っている。ソノには考え事をしているように見えた。
「そーだなー…逢ってみるぅ?」
少年の言葉にそれまで機械のように動かなかった運転席の大男が、明らかに動揺した様子でばっと振り向いた。
ユアンはそんな相手に構わずポケットをごそごそと漁って紙片を取り出し、ボールペンを走らせながら続ける。
「ここに行ってみそ。この名刺がありゃあ通れるからね」
指を弾いて放った紙片を慌てて受け取ると、その天井の照明を頼りに紙面に目を走らせた。
表は今時珍しい紙製のユアンの名刺、裏は今書いたばかりの即興の地図になっている。
ユアンの乗る車が一つ吠え、身震いをした。
「おい、逢うって誰にだよ? さっき轢いたガキか?!」
ソノは手を振りながら遠退いて行く少年に叫んだが相手は何も答えてはくれなかった。
夕方まで迷いに迷った挙句、ソノは結局地図の場所へと赴いていた。
場所はとある閑静な高級住宅街の一角、億を下らぬ豪邸が肩を寄せ合っており、ソノにとっては居心地の悪い街である。
ポンコツのビートルにツナギを着た明らかに堅気でないソノという組み合わせはこの美しい街並みの中でどうしようもなく浮いていた。
ソノと銀姫のコンビはこの街を縄張りの一つとしていて車を盗みにきた事が数回あり、仕事の際には二人とも背広姿で当たり触りのない
髪型にする事にしている。
装いは必ず『高級車専門の洗浄器具の販売員』。
車をじろじろ見ている彼らを怪しんだ警官の職務質問を受けた時に追求をかわすソノの知恵で、その為にパンフレットや名刺まで
作ってある。
幅に余裕を持たせてゆったりとした道路とその両側の枯葉を湛えた上品な街路樹は不思議と忙しい気持ちを忘れさせ、車の
速度さえも緩ませているように思えた。
灰色の空は短い昼を惜しむかのようにゆっくりと夜の帳を下ろしていたが、そんな感傷的な風景の中でもソノは仕事柄どうしても
他の車に目が行ってしまう。
大抵の家は駐車場を持っており、流石に高級車がゴロゴロしている。
しかし同時にソノはそれらに無機質な視線を送っている監視カメラを見逃さなかった。
彼らが数回盗みに入ったので最近はどの家も警戒しているのだろう。
実は泥棒のやり方によってはこれらの防犯システムはまったく無視する事ができる。実際同職には持ち主が家を出たらすぐに
無理矢理車を止めさせ、銃でも突き付けて強盗まがいの方法で掠め取る荒業を使う者もいるが、ソノと銀姫には車泥棒に武器は
使わないという彼ら也のポリシーというものが存在した。
ガタガタした線のユアンの地図は読み難かったがそれから更に何件か通り過ぎ、一町内ほどを進むと目的の家屋はあった。
家の前で一時駐車してからそれを見上げるソノは思わず絶句する。
一昔前のアメリカの映画の中でもお目にかかれないような、この街でも特に多くの敷地を占めている豪邸だ。
薔薇の咲き乱れる(遺伝子操作で冬でも花をつけるプラチナスノウという品種だ)運動場みたいな広大な庭の中央に普通の
学校くらいの大きさの建物がそびえている。
建築家が粋を凝らした洗練されたデザインの優雅な屋敷で、おとぎ話に出て来るお城のようだ。
しかしながら不思議とどこの国籍や風土の影響も思いつかない、掴み所がないような奇妙に無色で無機質な城。
だがそんな形式美を感じるほど人間ができていないソノは、狭い日本の土地を食いやがってと内心悪態をついた。
敷地をぐるっと囲む外壁の一端にある大きな正門の前まで来ると守衛が駈け寄って来る。
言われた通り名刺を見せるとあっさり通過する事ができたが、ソノはあの少女がこの屋敷に住んでいるとは信じ難かった。
短い付き合いだがユアンの性格は良くわかる。
本邸までの両側を刈り込まれた芝と薔薇に挟まれた道路を進む間、一杯担がされたような気分になってくる。
―― あのガキ、フカシこいてんじゃねえだろうな…
煙草のフィルターを苦々しげに噛み潰しながらソノは案内板に沿って道を折れ、あまり車の無い駐車場へと入った。
いくらソノのような男と言え、自らの格好はあまりにも場違いのように思えた。
せめて少しでも良く見えるようにとモスグリーンのツナギの上に羽織った同色のジャンパーの着衣を正す。
彼方にあるテニスコートを眺めていると何となく『西園寺』とか『白鳥』とか、そういう苗字が意味も無く思い付く。
正面の扉は開かれておらず脇の勝手口の前でどうしようか迷っていると、向こうから扉が開いて使用人が顔を出した。
ソノにとっても『使用人』なんて言う人種は始めて見る。見た事もないような高級素材のスーツに身を包み、鉄の芯でも背中に通って
いるかのように背筋を伸ばした若い男だった。
萎縮しそうになる自分に恐れを知らない不良根性の喝を入れ、ソノは堂々とここまで赴いた理由を話した。
聞いた事もない、丁寧過ぎて半ばソノの理解の範疇を超えた敬語で対応され、意外な事に話はすぐに通った。
ユアンのおかげだと思うと意味も無く癪に障ったがこちらの言い分はすべて通り、ソノは迷子になったら生還は不可能と思われる屋敷を
案内された。
踏み慣れない絨毯を歩いてなるべくキョロキョロしないよう男の背広に視線を釘付けながらついて行く間、ソノは奇妙な部屋を横切った。
恐らくは医務室なのだろう。これだけ大きい屋敷ならばそんな部屋があっても納得は行くが、少し覗いて見ると何故か出入りしている男と
看護婦数人は大病院に匹敵しそうな量と質の様々な器具を整理している。
奥に見えたヘルメットのお化けみたいな機械は脳波をチェックするものだったように記憶していた。
少年時代に他のチームと大乱闘を繰り広げて頭を殴られ病院に運び込まれた際、自分で一度受けた事があるからだ。
まるで小さな病院がこの屋敷の一角に納まっているようなものだ。どう考えても大仰過ぎる。
不思議に思って目の前を行く男に声をかけようと思ったが、その前に彼は医務室の隣の部屋の前まで来ると立ち止まった。
表札には『柳』と下りている。ソノはプレートをまじまじと見つめた。
やなぎ
「名前だよな。…柳?」
リャオ
「『柳』様とお読みします」
まず使用人がノックする。
紛れも無いあの少女の細い声が返ってくると、ソノは部屋の中へ通された。
部屋は悪趣味にならない程度の少女趣味の部屋だった。
調度類の飾りや置物などが適度に部屋に散らばっているが、何故かソノは部屋全体から冷気が立ち上っているような感覚に捕われた。
全体の色彩が寒冷色で纏められているせいもあるだろうが何故か生活臭がまるでしない。不気味なくらい無機質なのだ。
ポリゴンで作られた虚構の世界のようだとソノは思った。
中央に置かれた大きなベッドの中では、上体を起こしたあの少女が部屋の付属品のように存在していた。
細い針金のような白銀に輝く、美しいがまったく柔らかさの感じられない髪を掻き揚げ、何故か彼女は落ちつかない様子でいる。
視線を自分の指先やソノを除いた部屋のあちこちにさ迷わせる彼女にソノが先に話しかけた。
「どこに座ればいい?」
はっとした様子で顔を上げると、彼女は慌てた様子で震える指先を小さなドレッサーに向けた。
ソノが机の下から椅子を引き出して腰を下ろすと今度は彼女からおずおずと口を開く。
口元には僅かに血の滲んだバンソウコウが貼られていた。
「あの、あの…えーと…わ、私、リャオって言うんだよ。あの、貴方は?」
途切れ途切れの掠れ声を上げる彼女は自分の容姿に怯えているのだろうとソノは思った。
雰囲気や佇まいからして世間知らずのお嬢様なのだろう。
特にどうと言う事はない、長いまつ毛と銀の髪くらいしか特徴らしい特徴も見当たらない少女だ。
見た所十六歳かそこらだろうが間違い無く処女だな、と下劣な考えも頭を過る。
「花町苑生」
ヒゲ剃ってくりゃ良かったか、と顎を撫でてソノは苦手なのを圧して出切る限り柔和な表情を作ってみる。
喉が痒くなる優しい声も何とか絞り出せた。
「リャオはどこの生まれだ?」
「うん。あのね…わ、私、台湾」
「日本語がうまいな。誰に習った?」
「わ…たし、日本で育ったよ。お、お母さん、…立ちんぼだった」
スラング
立ちんぼとは主にソノらのような社会の外れ者が使う俗語で主に街娼の事を指す。
ソノは瞬時に彼女の生い立ちが恐らくは銀姫に近い事を悟り、話題を変えた。
「俺はお前さんを轢いたよな。今日、昼」
彼のセリフに薄い青色のパジャマの上に羽織った肩かけを引き寄せてリャオは身を縮ませた。
はにかんだような笑みが消えて視線がソノのつま先あたりにまで落ちる。
「ありゃ一体、つまり何なんだ? お前さんは七十キロで走ってきた几龍咆…ああ、車に轢かれたが見たとこ大した怪我もねェ。
俺は何の為にお前を轢いたんだ?!」
「…」
小柄な少女の体がどんどん強張って行くのに気付き、自分の語気が荒くなっている事を知ったソノは慌てて声の調子を落とした。
伏せた視線をそのまま小さく肩を震わせながら、リャオはややあってから泣きそうな声で返事をする。
「見えるの」
「?」
「わ…私、あの車に轢かれると未来が見えるの」
「どういう事よ?」
意味が飲み込めずソノは眉根を寄せた。
リャオはどうしていいかわからない様子で動揺し、途切れ途切れに話し始めた。
「どういう事かって…そ、それは私にもわからない。
でも、ね、昔…えーと、私はあの車を『ジュジュ』って呼んでたけど、あの車に轢かれると未来が見えるようになったの。
車にぶつかった瞬間頭の中で…あの、えーと、光とか音とか…色んな景色と映像が爆発して…
私の体、筋肉も内臓も脳も…全部、轢かれた時の衝撃に耐えられるように強化してあるの。
ユアンがやってくれた」
「もしかしてありゃ占いとかおまじないとか、そういう類のモンだったのか?!」
「違うの!」
小さな悲鳴のようにリャオは否定する。
「私の見た未来は絶対に命中する!
く、車に轢かれた後に私、他の人と親指を合わせてたでしょ。
アレでね、ほ…他の人に望んだ未来の情報を渡すことができるの。私自身は一瞬見えるだけでほとんど理解できないんだけど…
前にあらかじめ欲しい情報を聞いておいて、そ、それから車に轢かれると情報を得る事ができる…
望みさえすれば株のこと、土地のこと、宝くじのあたる番号だってわかるしその人が何時どこでどんな理由で死ぬかもわかる」
ソノは人差し指と中指を揃えて額に当てた。考え事をする時の癖だ。
勿論リャオの話の内容についてだがソノはまずこの少女の正気、引いてはユアンのそれをも疑っていた。
どう考えても二人とも普通じゃない。そしてそれに巻き込まれた自分もすでにそうなりつつあるのだろう。
リャオは荒げた呼吸を整えながら苦悩するソノを眺めていたが、やはり彼女自身も信じて貰えるとは思っていなかったのだろう。
高鳴る胸を押さえて言葉を付け加えた。
「ロッキング・チェアーズの最大の収入源。
ユアンは私を使って色々な人に未来を売っているの…このお屋敷もそのお金で立てたんだよ」
これはソノの疑いを晴らすのに僅かばかりの効果を発した。
顔を上げた彼の視線の先でリャオは弱々しく微笑む。
花がそよぐ風を受けて揺れるような儚い笑顔だった。
「今は無理でも、すぐ信じる事になっちゃうよ」
『几龍咆』『ドラウプニル』『ジュジュ』という三つの名で呼ばれる車、それに轢かれる事で未来の情報を得る少女、そして気紛れな悪魔ユアン。
この三つの要素がソノの今後の運命を大きく変えて行くことになる。
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