プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -
車ドロボウとお姫さま
4.お姫さまとお茶会
一組の男女を乗せた高級車が夜の街を疾走していた。
アウディという真紅の塗装を施された滴るような流線型を持つ美しい高級車である。
彼らが行く車通りの少ない通路は延々と街灯が灯されており、疾走する車内からはそれらは尾を引いて見えた。
遥か彼方に夜の暗黒にそびえるいくつもの塔が見て取れる。無機質な闇にぽつぽつと明かりが灯るビル街だ。
それらと共に無慈悲な月は街に横たわる道路を見下ろし、走る車一つ一つに何かを囁いているようだった。
冬の満月は夜空に開いた穴から光が差し込んでいるかのように輝いて見える。
月光には人を狂わせる力があると言うが、ソノはそう言えば自分が実家を出た晩も満月だった事を思い出した。
自分の子を嫌悪の対象としてしか受け取らず、口を開けばソノの無能さを愚痴る父親。ソノは十四年間彼の執拗な罵倒となじりに
耐えたが、その夜あるきっかけに長い間溜め込んでいたすべてのものを爆発させた。
父親が自分の仲間をクズ呼ばわりした事だと記憶しているが曖昧で、ソノ自身よく覚えていない。
両手の指の骨が砕けた事にも気付かず父親を虫の息になるまで殴った夜がソノが実家で過ごした最後の夜だ。
それ以来当時からチームのリーダーであった相田の工場に転がり込み、ずっとそこで暮らしている。
少年時代はともあれ、ソノは成長するにつれて自分が特別不幸な存在だとは思わなくなっていた。
この街の、ソノの仲間達の間ではこんな話は珍しくも何ともないからだ。
そしてその仲間の大多数が更正できぬまま転落の人生を歩み、失意と堕落の中で己の生き様のすべてを呪いながら死んで行く。
そうなって欲しくはないが現実的に大抵はそうなるものだとソノは誰に教えられる事もなく考えていた。
将来の夢を持っている友人はソノを含めてもほとんどいない。将来なんてものが想像できないからだ。
そしてそれは多分、幸せというものがいまいち実感できないからであろう。
ソノは自分にとって幸せとはどういうものだろうとハンドルを握りながら考えてみた。
まずはこよなく愛する几龍咆とポンコツのビートルがなくてはならない。それとその二つを置けるだけの駐車場のある家。
そして山のような財産。
それ以上は何も思い浮かばなかった。
やはり理解が及ばない。自分がそんな状況に放り込まれたとして、本当に幸せなのだろうか?
「ユンフィ」
「んー」
銀姫は助手席でダッシュボードを漁っていた。
その下では裏蓋が開かれ様々なコードが引っ張り出されており、そのいくつかには繋ぎ直された後がある。
キーを使わずにエンジンを始動させるテクニックのひとつで、現在彼らが乗るアウディはたった今失敬してきたばかりのものだ。
運転席のドアのキーにもこじ開けた痕跡があり、これらの技術はソノの得意技である。
「お前今、幸せか?」
金目の物を探していた彼女は手を休め、驚きと困惑が入り混じった表情をソノに向けた。
まったくの不意打ちたる質問を投げかけられた銀姫は茫然とソノを眺める。
薄暗い車内で口に咥えたペンライトの明かりを頼りにしていた彼女の横顔は半分が闇に塗り潰され、大きな陰影を作っていた。
「さあね。幸せかなあ…? 不幸じゃないと思うけど」
そう言って彼女はやや厚めの唇を笑みの形に歪め、顔の前にダッシュボードの中から見つけた財布を持ってくる。
このような物も彼らにとっては重要な副収入だ。
現金はそのまま着服し、カードや免許類は相田が高く買ってくれる。
「何でー?」
「あー。何でもねえ」
「不安になった? 自分がもしかしたら不幸なんじゃないかって」
笑い声を含んだ彼女の質問にどうだろう、とソノは自問した。
今、自分は幸せだとは思えない。だがそれならば不幸なのだろうか?
ソノはリャオに逢って以来、物思いに更ける時間が多くなっていた。
彼女は言う。自分の先見の能力は人を幸せにすべく神様がくれた力だと。
未来を知る事は幸せな事なのだろうか? 確かに株の変動も予測不可能な危険が迫る場所もわかってしまえば自分の立場は常時
安定したものとなるだろう。
だがソノは自分の未来が知りたいなどと思った事は一度もない。
それは恐らく来て欲しい未来も知りたい未来もないからだろうとソノは思った。
リャオの言う通り人の幸せと未来とが強く結びついているという事は何となくわかるのだが。
「俺は今、不幸か?」
「知んねーよ」
ソノの独り言に銀姫は素っ気無く答えて財布を懐に突っ込んだ。
盗んできた車は相田のスクラップ工場に裏口から運び込まれる。
まず何を置いてもやる事はナンバープレートを取り外して腐食酸の入ったバケツに放り込む事である。
いわゆるガサ入れ、つまり当局の踏み込みに会った際に盗難の決定的な証拠となるのがそれだからだ。
車体ナンバーを変えたり必要とあらば内装やカラーリング、タイヤなどを変更するのは相田の仕事で、それが済むと車はザ・ショップの
密輸入・密売を専門とするチームへと送られる。
今夜のアウディはとあるマンションの駐車場から頂いてきたもので、錠は簡単に破る事ができたがあまり品質が良くなかったらしく
相田は賃金を渋った。
消耗品の塊で出来たオモチャだとソノが言うように車は金食い虫で、特に一回のレースごとに様々なパーツを交換せねばならない几龍咆と
旧車であるが故に各パーツが希少なビートルを養って行くには今月中にもう二台か三台は盗まないと辛いだろう。
兎にも角にも今夜はもう休もうという事になり、ソノと銀姫は裏手のプレハブ小屋へと棒のようになった足を運んだ。
ドアを開けるとすぐに茶色い毛皮の塊が二人に駈け寄ってくる。
ドゥーシーボ
ミニチュアダックスフンドの2CVだ。ちなみに彼女(雌である)は捨て犬(本当に燃えないゴミの日にゴミ捨て場に捨てて
あった)でソノが拾ってきてからずっと世話をしている。
最近流行りのサイボーグドッグというやつで、充電さえしておけば半永久的に愛玩用として愛嬌を振り撒いてくれる。
断熱・防音を兼ねる白い壁に囲まれた彼の部屋は整然としており、銀姫のアパートに比べると遥かに片付いている。
本棚が三つありいずれも車情報誌や工学系の専門書、小説、いかがわしい雑誌などで埋め尽くされていた。
コンビニで買った食品で遅い夕食を済ませ、テレビを付けると二人はベッド兼ソファに並んで腰を下ろした。
足元では蹲った2CVが寝息を立てている。
何とは無しに他愛のない番組に眼を通しながら、銀姫は猫が甘えるみたいにソノに身を寄せていた。
彼女の明るいオレンジ色の髪に包まれた頭部はそっと彼の肩に置かれている。
その重みに心地良さを感じながら、ソノはどうして自分が彼女を恋人と認めることができないのかと考えていた。
チーム内では彼らが付き合っているというのは常識である。当の本人であるソノだけがそれに同調を示していない。
実際には彼女とはしょっちゅう寝ているし半ば同棲しているようなものなのだが。
「あのさ」
ソノの腕を取って自分の肩に回すと、彼の腕の中に収まりながら銀姫は笑顔を見せた。
照れたような笑い声がソノの耳をくすぐる。
「今は幸せかも」
彼女の細い体を抱き寄せながらソノはまた考えた。自分は今、幸せなのだろうか、と。
銀姫に聞こうと思ったが、身を翻した彼女は自分の上に跨ると自分の唇で彼の唇を塞いだのでそれは出来なかった。
翌日、午前中に一仕事済ませた後にソノは再びリャオの屋敷を訪れていた。
強化人間である彼女は一回の『占い(彼女自身がそう言っている)』ごとに約一週間の療養と体のメンテナンスが必要らしい。
それ以外には特に仕事もないので暇があれば何時でも来て欲しいと彼女は控えめな表現で言っていた。
ポンコツビートルを駐車場に置いて車を降りると、数十分前に彼から連絡を受けた前回と同じ使用人がソノを案内する。
「リャオ様はお庭にいらっしゃいます」
それだけ言い、彼は屋敷を横目にソノを駐車場とは反対側の庭園へと導いた。
プラチナスノウの咲き乱れる薔薇の庭園は迷路と化しており、使用人の背を追っていなければ迷ってしまいそうだった。
腕の良い庭師の手が行き届いていることは素人目にもわかる。
何となく不思議の国のアリスのハートの女王の城を思い出させる場所だ。今にもカードの兵隊が姿を現しそうである。
視界を緑色の壁に閉ざされている閉塞感からそんな空想が呼び覚まされるのだろう。
突如両側の垣根が途切れて開け、現れた庭園の一角に目的の少女は一人で居た。
四方を所々でプラチナスノウが無機質な銀色の花をつけた垣根の壁に閉ざされた小さな広場になっており、水の枯れた中央の
噴水には別種の薔薇がつたを伸ばして絡み付いている。
その側でリャオは車椅子に着いてテーブルを前に湯気の上がるカップを手にしており、澄み渡った空を呆けたように眺めている。
不思議な光景だった。
まるでリャオもがこの人の手によって作り出された、美しいが不自然な薔薇の花の一つのようだ。
熱を感じない人形のような少女は人の気配に天空に上げていた視線を戻し、ソノの姿を認めると遠慮がちに微笑んだ。
パジャマの上に彼女の体にはやや大きめの飾り気の無いロングコートを羽織った姿で、身を預けている車椅子は大半が木製の
アンティークな家具のような逸品だった。
細かい彫刻なども施されている様子を見ると、彼女の為に特別に作られたものなのだろう。
「こんにちは」
控えめな挨拶に思わずこちらも『ああ、こんにちは』と返しながら、ソノは彼女が薦めてくれた椅子へと向かった。
リャオがどぎまぎしているのはソノにも伝わってきた。
淹れてくれた紅茶に口を付けながら、彼女が他人と接するのに慣れていない事に確信を持つ。
彼女が用件を伺う前にソノは先に口を開いた。
「教えて欲しい事があんだけどな」
「えっ、うん、何…?」
「ああ。そうだな。教えて欲しいのは俺の知らない事だ」
「?」
落ちつきがないようにあちこちに漂わせていた彼女の視線が、ソノの目に固定される。
自分のやっている事はわかっているつもりだ。いきなり人の家に押しかけて自分の知らない事を教えろと言っている。
ソノも自分で自分の言っている事は理解が及ばなかった。それを教えろと言うのだから無茶苦茶である。
だが彼がリャオに求めているものはうまく口にできなかった。
「何でもいいんだ。教えてくれ、俺が知らない事ならなんでも」
両手の指を絡ませながらリャオは眉根を寄せ、困ったような顔を作る。
だがソノはカップを口に運びながら辛抱強く返事を待った。紅茶は芳醇な林檎の香りがするアップルティーだ。
その動作を見たリャオはふと思いついたように口を開く。
「あっ…私ね、アップルティーが好きだよ」
「お、そりゃ知らなかったな」
笑って見せた彼に対し、彼女も緊張を解いた様子だった。彼女も質問を口にする。
「花町さんは?」
「ん?」
「花町さんも、何か私の知らない事を教えて。私ばっかじゃずるいでしょ」
「ああ、そうか。そうだな、俺はビールが好きだな」
しばらく二人はお互いの知らない自分の事を語り合い、いくつかの共通点を見つけた。
右利きで一度は左利きの人を羨ましいと思った事がある。
子供の頃デパートで迷子になって呼び出され、同日に同じデパートにいたクラスメイトにそれがバレた。
体育の時間が嫌いだった。ある段数以上の跳び箱が飛べず逆上がりができない。
冬になって乾燥すると鼻の頭が乾く。
時に談笑し、或いは真剣な顔つきになりながら二人は最後の共通点を見出した。
それは二人とも両親については、幸せな家庭とはかけ離れていたという事。
「私のお父さんは」
ソノが自分の生い立ちを話し終えると、リャオは表情を曇らせて俯きがちになりながらぽつりと呟いた。
「私を車に轢かせたわ」
彼のティーカップを運ぶ手が止まる。
「お父さんとお母さんが私を…えっとね、私、立って歩けなかったの。
体が、えーと…筋肉が硬くなっちゃう病気で、誰かに支えてもらっても体が全然動かなかった。
手術にお金、かかるし」
先ほど聞いた話では彼女がこうして車椅子に頼っている理由は、車との接触・衝突による衝撃に耐えられるよう筋肉や内臓を
強化手術した影響で関節の可動範囲が狭まったからだと言う。
だがリャオはユアンの援助によってその体を得る前から立って歩く事さえできなかったのだ。
「うん。お父さんもお母さんも何にも言わなかったけど、私わかってた。『私は不良品なんだな』って。
全然私のこと好きじゃないみたいだった。だけど私、いつだったか車に轢かれたの。
大したことなかったけど、車に轢かれた私に二人とも優しくしてくれたよ。だから私、何度も自分から車に轢かれた」
「もういい」
ソノはこちらが自分の辛い生い立ちを話した事から、彼女が義務感で自分の心の傷に鞭打って話を続けているのだと考えた。
しかしリャオはソノが遮ったのにも少し頷いただけで話を続けた。
「最初がいつだったかわからないけど、私が車に轢かれるごとに言う色んな事が必ず当たるってお父さんは気付いたの。
天気とかあの犯人が捕まるニュースがやるとか、ほんとにちょっとした事だったんだけどね。
それからお父さんは、私を車通りの多い道でわざと轢かれさせたの。
自分で轢く事もあった。その時に使ってたのが『ジュジュ』なの。
競馬とかでちょっと儲けてるくらいなら良かったけど、その内ユアンが仕切ってる危ない賭場とかにも出るようになって…」
「もういい、わかった」
自分の傷を押さえながら話しているようなリャオにいたたまれなくなり、ソノは今度こそ話を中断させようと強い口調になった。
言いながらも彼女の一言を頭の中で反芻する。ジュジュ…几龍咆の事だ。
「アレだ、必ず的中させるお前の親父さんにユアンはイカサマの疑いをかけた…親父さんはお前の事を吐いた。違うか?」
パジャマの袖で潤んだ目元を拭い、数回小さく頷いた彼女にソノはハンカチを差し出した。
これは仕事で車の指紋を拭き取る時に使っているもので、本当は車のボディを磨くキルトなのだが綺麗に洗濯してあるのだから
ハンカチと言い張っても構うまい。
消え入りそうな声でありがとう、と呟き、それを受け取ったリャオは目元を押さえた。
彼女の父親の事は気になったがこれ以上聞くのは気が引けた。
もしかしたらもうユアン達に亡き者にされているのかも知れない。
少なくともソノが悪魔のようなあの彼の立場ならそうするだろう、リャオの秘密を知る者なのだ。そして恐らくは同じく母親も。
目頭を押さえたまましゃっくりを上げる彼女を前に、ソノは気まずい空気を打開しようと必死に考えを巡らせた。
こんな状況は前にも経験がある。浮気の疑惑をかけられたソノが銀姫と大喧嘩をして、彼女を泣かせてしまった時だ。
あの時は『俺ら、最初からちゃんと付き合ってたワケじゃねえだろ!』の一言がまずかった。
ニの轍を踏まぬよう、ソノは慎重に選んだ言葉を口にする。
「泣くなよ。俺ァ…」
「私ね、誰かに必要だって思ってて欲しかった」
彼の言葉にリャオは自分の言葉を重ねた。
「轢かれてもお父さんに必要とされてるならそれで良かった。私、だから…」
「俺はお前が必要かもな」
ソノの一言に今度は彼女が言葉を切り、驚いたように泣き腫らした目の顔を上げた。
その視線の先で彼はニッと笑って見せる。
「逆上がりができねえ奴が一人でも多くこの世にいてくれねえと、俺の肩身が狭いだろ」
きょとんとしていた彼女の表情から、雲が晴れるように笑みが広がって行く。
声を立てて笑う彼女と別れの挨拶を交わすと、ソノは席を立った。
車に向かう途中、ソノは人差し指と中指を立てて額に当てていた。
何故、彼女には未来を知る力が生まれたのだろう。
そしてリャオはどんな車に轢かれても未来を得る事ができた筈だ。ユアンが几龍咆で彼女を轢かせる事に固執する理由は?
几龍咆はジュジュと呼ばれていた頃にはまだ彼女の父親の所有物だった。
恐らくは彼からユアンへと渡り、ドラウプニルと名を変えたのだろうが…
見送りの使用人がソノが考え事をしながら車の中に乗り込もうとした際、不意に口を開いた。
「ユアン様からの言付けが御座います。後ほどお電話にてお知らせしようと存じておりましたが、せっかくなのでここで」
「ああ。何だ?」
車に乗り込み、窓を開いたソノがいぶかしむような表情で返事をする。
どうせロクな事じゃあるまいと考えている顔だ。
「明後日の夜、午後七時に『キャノンボール』を行って欲しいとの事です」
「あァ? 何であの野郎の命令で!」
口調を荒げるソノにも相手は少しも動じず、ただ少しだけ困惑したような顔を見せた。
「さあ…そこまでは。今夜にもユアン様からそちらにご連絡が行くと思いますが」
やっぱりロクな事じゃなかった。
ソノは内心そう漏らし、アクセルを踏み込んだ。
その日の夜、ユアンから直接来た電話は確かにソノの予感の通りだった。
「実はネ、一対一でやって欲しいのがいるんだに」
「そこまでする義理はねえ!」
「ま、ま、ま。そう言うと思ってこちらで物件を用意したにょーん」
イライラさせる間延びした口調でユアンはそう勿体つけた。
受話器の向こう側にいる彼の小生意気な表情が想像できるようで、ソノの苛立ちを加速させる。
「リャオに会ってきたんだって? ふーん、まあいいんだけどネ。会うのは自由だぴょん。
そこでネ、こちらでは彼女の秘密を君に教えちゃおう」
「何だと?」
「たーだーし! 今言ったキャノンボールに出て相手に勝ってくんなきゃイヤよ?
相手は百狼会ってな寄せ集めのヤクザどものチンピラ組織さ、そっから一人君と同じ走り屋が来る。
そいつをブッ千切りでへこませて頂戴な」
「何だそりゃ? 何でそんな事になったんだ?」
「ま、取引で色々揉めてて白黒スパーンと決めるのにキャノンボールで決めちまえって事になってサ。
内容は君には関係ないコトよん、どうすんの。やるの? やんないの?」
しばらく二人の遣り取りが停止する。
ソノはソファの上であぐらを崩すと、左手の人差し指と中指を額に当てた。
「ああ、やってやる。で、リャオの秘密って何だよ?」
「それは…」
何時に無く真剣な口調へと変わった少年の声に、思わずソノも息を呑む。
「ひみちゅ☆だぴょーーーん!」
ソノの激しい苛立ちを残してそこで電話は切れた。
夜とは恐ろしいものである。
誰しも幼い頃は闇を恐れ、成長してみたところで根源的な暗黒への恐怖は薄れることはない。
人は火を手に入れた時から夜の闇を払い、光で世界のすべてを埋め尽くそうと生きてきた。
夜とは怪物である。
それは人を食らいその心を押し潰す強大なる歯車だ。
誰もが心の底に持つ闇は普段は蓋が成されていようとも、隙間から染み込んだ夜気はいとも簡単にそれを呼び覚ます呼び水となる。
夜の坂江町はここそこできらびやかなネオンと残像を残す車のヘッドライト、街灯、そして星を散らばせたようなビル明かりに満ちて
いたが、それは人圧倒的な闇に抵抗する人間の脆い盾のようだった。
街の一角、都内のとある場所で彼らは対峙していた。
そこはビルの合間に大きくスペースを取った駐車場で、車の姿はまばらだが二台の大きなトレーラーが同じ方向に鼻先を向けて
停車している。
その二つに挟まれる形で数人がお互いにお互いを見据えていた。
一方は所々にプロテクタの入ったツナギを着たソノと相田、それにロッキングチェアーズの配下の背広姿の男。
もう一方は鋭い空気を霧散させている、ヤクザな風貌の男たちである。
街灯が落とすくすんだオレンジ色の光を受けて彼らは一言も発さぬまま連絡を待っていた。
ここにはいないお互いのリーダーの命令を、だ。もっともソノはユアンを自分のリーダーとは認めていないが。
同じくそう考えている相田が重苦しい空気の中、ぼそりとソノに話しかけた。
「中央の野郎だ」
相田はソノの肩に手を回し、彼に寄りかかるような姿勢になって対面にいる男たちを視線で指した。
向こうもこちらの動向を探ってか中央にいるソノから視線を外そうとしない。
「さっき首根っこんとこを撫でてんのが見えた。多分あの野郎が相手で、シンクロシステムの端子も持ってる」
ソノは唇に乗せていた煙草を指に移すとその男を睨むように眺め回した。
ガン
彼らの流儀で言う『眼をつける』というヤツである。
相手は白い手袋をつけた上に正装をしており、きちんと撫でつけた髪といい一見するとホテルのボーイのような身なりだ。
ユアンの話では前職がとある役人のお抱えシークレットサービスで運転手を兼職しており、様々な理由から掃いて捨てるほどの
組織や個人・同僚から命を狙われていた彼の命をその操縦テクニックで何度も救ったという。
現在はザ・ショップの一角を占めるヤクザの組織、百狼会の若き会長・九灯芹人の運転手を務めているらしい。
四十代前半と言ったところだろう、全身から漲る自信があからさまにソノをチンピラ風情、と蔑視しているのがわかる。
しばらく二人の視線は火花を散らさんばかりの氷の炎と化してせめぎ合っていたが、不意にかけられた言葉に中断された。
「ユアンさんだ。準備を始めろとさ」
ロッキングチェアーズの黒服はそう言い、自分が耳に当てていたケータイをソノと相田の二人に見せる。
向かい側には同じような光景があった。同時に連絡が行ったのだろう。
トレーラーの後部に向かう途中、先ほどまで睨み合っていた男が抑揚のない声をかけてきた。
とうかわ
「俺は塔河という」
「花町苑生」
無愛想に名乗りを返したソノに塔河は唇の端を吊り上げた。
「俺ァこの仕事に命をかけている」
「遊びでやってるガキにゃあ負けません、ってか」
「まあそういうこったな」
さらりと言ってのけると代わる代わる両手の手袋の端を引っ張って手に馴染ませるような動作を見せる。
「てめェもシンクロシステムを搭載した車の持ち主だそうだな。
宝の持ち腐れって言葉の意味を教えてやるよ、ガキ」
「そりゃどーも。んじゃ浅学ながらこちらもお教えしよう」
「豚に真珠、か?」
ソノはちっちっと、と舌を鳴らして指を降った。
「『亀さんにフェラーリ』だ」
不敵に笑ったソノはそれ以上何も言わず、舌打ちする相手を尻目にトレーラーに乗り込んだ。
照明の設けられた内部では几龍咆は憂いを秘めた錆びの美貌を放っていた。
心なしか彼も今夜の決闘を前に打ち震えているように思える。ソノは美しい直線を描くフロントにそっと指を這わせた。
先に乗り込んでいた相田は腕を組みながら彼を眺めていたが、やがて重い口を開いた。
「ムチャすんなよ」
「負けやしねえよ。任せとけ」
不安げな様子の相田の腹部に軽く拳を当てると、ソノは几龍咆に乗り込んだ。
彼は何故か今夜に限ってソノの側に居る、と言って同行している。
ふと、立っていた相田がバランスを崩してよろめく。窓がないのでわからないがトレーラーが走り出したのだ。
几龍咆のボンネットに片腕を置いた彼はしばらく沈鬱な表情を溶かさなかった。
ソノはパワーウィンドウを下ろして身を乗り出し、もう一度あっけらかんとした声を出す。
こんなに浮かない相田は始めて見る姿だった。
「平気だってばよ」
「だといいんだがな。やな予感がする」
『ザッ はーいこちらユンフィですぅ。大変退屈ですぅ』
不意に耳に突っ込んだ通信機から聞こえてくる能天気な声にソノは眉根を寄せた。
彼女は都内のとあるビルの一室を借りてオペレーターの任に就いている。
「あー。そりゃ良かったな」
『それよりさ、東名って今結構混んでるよ? ホントにあんなトコでできんの?』
今夜彼らが行うキャノンボールは常日頃に行われるものとは少し違う。
トレーラーで運ばれた東名高速と呼ばれる高速道路の中途から始まりそこを逆走して料金所を突破、市内のゴールを目指すという
狂気のレースである。
一晩数十万という市内の高級ホテルの一室でユアンと九灯芹人はそれぞれの部下を背後に、中継で送られてくるモニタの画像に
見入っていた。
九灯に目配せし、再びモニタに戻ったユアンの笑みはより凶暴なものへと少しずつ変質してゆく。
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