プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -
ネモ
2.キラーエッジ
散乱する書類や机に山のように詰まれたコンピューター機器など、散々な散らかりようを見せる室内。
薄暗い照明と室内に充満する湿った臭いが不快感を加速させる、葉吹とエミリーナが控えているコントロールルームである。
係員に連れられて扉を開いたネモをエミリーナは熱烈に歓迎してくれた。
「Oh my baby!ケガはない?」
「うん。大丈夫だよ」
あらん限りの力で彼女の抱擁を受けたネモが、その胸に押し潰されて一寸息が詰まりそうになりながら答える。
かすかにエミリーナのコロンの甘い花のような香りがした。
椅子に腰を下ろしたネモの腕を消毒するとエミリーナがその細い腕に手早く点滴注射を打つ。
急激に消耗したカロリーを補給する為の栄養摂取である。
さきほど死闘を繰り広げていた時のままの装備の上にローブを羽織ったネモは消耗し切ってぐったりしている。
面倒臭そうにのそのそと膝のプロテクターを外しながら、タオルで汗を拭いてくれるエミリーナに力なく微笑みかけた。
「関節に違和感は?」
「大丈夫。ないよ」
「何かあったら言ってね」
クーラーボックスからスポーツドリンクを取り出して栓を抜き、ネモに渡したエミリーナが気遣うように言った。
違法に製造されたとは言え基本的にはドールズであるネモに両親はいない。
こういう時、ネモはエミリーナの存在がとても嬉しい。
「葉吹。あんたも何か言ってやんなよ、あとネモのいるとこで煙草はやめて」
「ん。ああ。良くやったな」
エミリーナに促されて煙草を灰皿に押し付けると、部屋の片隅でモニタに食いついていた葉吹が振り返る。
葉吹にとっては最大限の賛美だったが、エミリーナはその言葉に不満そうに鼻を鳴らした。
ジャパニーズ
「日本人ってのは何よ、みんなそんなボキャブラリーに欠けるワケ?もっと何か気の効いたセリフの一つも出ないの?」
「はいはい素晴らしいですよ、私アナタの姿に感動して涙が止まりません」
もとからあまり良くない目つきを更に細めながら葉吹が投げやりにイヤミを言う。
ネモは思わず吹き出したがエミリーナは半ば呆れ返っていた。
この男を日本人の基本と考えるのは間違ってる、という事にようやく気づいて。
「人気もかなりのモンだ。スポンサーも大喜びだな」
彼がしきりに気にしているモニタの内容は、インターネットのザ・ショップが管理するデッドラインロードのHPである。
プレイヤーの詳細や人気の状況、実況中継や掛け率の他ここでチケットを購入して賭けに参加する事もできる。
無論デッドラインロードは非合法の賭博であり、ザ・ショップがあるサーバーと裏で提携して作られたこれは厳重なセキュリティに守られた
アンダーグラウンドのページだ。
神薙町のスラムと呼ばれる裏路地でザ・ショップの息のかかった非合法ソフトを売る店で手に入るディスクさえば誰でもアクセスする事ができる。
デッドラインロードはドールズの裏取引と並ぶザ・ショップの重要な産業であり、神薙市政とも深いつながりがある。
太く安定したパイプにより一晩で億以上のカネが動くこの暴力と叫喚に満ちたゲームは今神薙市の財源を支える柱となり得ていた。
消耗した体力を回復させようとする自律神経の働きのせいか、ネモがゆるい睡魔に身を委ねて瞳を閉じた時だった。
防音になっているこの部屋では観客のざわめきも遠く、定期的に聞こえてくるパソコンの機械音はむしろ落ち着きを誘った。
しかしすぐに抑揚のない男の声が彼女のひと時の安息を奪う。
「ネモ」
「寝かしてやんなって」
自分に机に戻ってイヤホンを耳に突っ込んだエミリーナが不平を漏らすが、無情にも葉吹は続けた。
ネモがうっすらと瞳を開く。疲労のせいで頭にもやがかかっているようだった。
「これからトリプルクラウンの試合が始まる。ナマで見とけ」
トリプルクラウンとはデッドラインロードのチャンピオンの事で、下からシングル・ダブル・トリプルクラウンと勝率によって上がってゆく。
ネモが点滴を受けている事に気づいた葉吹が、彼女に一番手近なモニタの一つの向きを変えてコードの接続を変更する。
すぐに荒い画像の中に二人の人間がチューブの中で競う様が浮かび上がった。
ネモの試合が終わってからの三試合目だ。これが終わったら始まるらしい。
睡眠の欲求に逆らい薄目を開けながらぼーっとネモが画面を眺めるが、大して興味もなさそうだった。
『さーーてお待ちかね!本日のメイン・イベントォ!』
ネモでなくても耳を覆いたくなるような歓声の中、アナウンスはそれを告げた。
黒山の人だかりの観客のテンションも最高潮となり、熱気は嵐の海のように渦巻いている。
それらを一手に引き受けているのは、やはり台座の上の二人の黒い人影。
シェイクオブサンダー
『99戦79勝5分け、チーム・イグドラシルより『震電』フレスベルグ!対するは…』
一瞬静まり返った会場内に、誰かが唾を飲み込んで喉を鳴らした音が響く。
キラーエッジ
『104戦100勝1分け、トリプルクラウン!そのボードは狂える刃のごとし、『凶刃』エニーーーーーーーーーク!』
台座の上で割れんばかりに膨れ上がる歓声に答え、両腕を上げた一人の男。
先ほどネモと戦ったアックスにも増して重装備で、黒い強化繊維のスーツはところどころ同じく黒いプロテクターで膨れ上がっている。
両足のブーツは一つの板に固定されており、平たく言えばエンジンを装備したスケートボードのようなものだ。
デッドラインロードのプレイヤーは三種類おり、ランナー・スケーターとそして彼、エニクのようなボーダーが最後の一種である。
外殻とあいまってか周囲の空間を彼だけが支配しているような錯覚に陥るほど張り詰めた緊張感の持ち主だ。
フルフェイスのヘルメットの後頭部の下からは一本、結えた金髪が垂れている。エニクのトレードマークの編んだ長髪である。
画面を通してそのぴりぴりと肌を刺激する雰囲気に気づいてか、ネモが虚ろな目をもう少しだけ開いて椅子に深く座り直す。
「こいつは強えぞ」
別のモニタで様子を眺めていた葉吹が、一言だけそう言った。
モニタの向こうでスタートを告げるアナウンスが響き渡る。
コンクリートを削りながらスタートした二人のボーダーは、お互いのチューブを抜けて合流すると同時に火花が散るような戦闘を開始した。
ボーダーの特徴は両足を固定させている関係上の自由度の低さと重量にある。
スケーターと違いボードはそれなりの大きさがある為機関部の許容量が多くスピードはかなり出るのだが、当然その分重量が増す。
スタートダッシュの性能が低いのはボーダー最大の弱点だが今回は相手も同じくボーダーなのでそれはあまり気にならない。
蹴りが使えない以上彼らの戦闘で中心となるのは走りと手技だが、他のプレイヤーを恐怖で震撼させるボーダーの要因は他にある。
今現在エニクとフレスベルグが競っているのはいかに相手にダメージを与えるかの戦闘ではなく、あくまでも『それ』を行う為に最適な位置を
取り合う為の布石なのである。
せめぎあうようにお互い牽制し合いながら蛇行を続けるうち、フレスベルグは痺れを切らし初めていた。
そろそろ流れを変えなければ。
不意にチューブの右のカーブに沿って加速すると、彼は床と体が水平になった地点で壁を蹴った。
エニクは丁度彼と並び、反対側の場所に位置して走っている。その頭上に向かって背を向ける形でフレスベルグが跳ねた。
顔のすぐ側面でフレスベルグのボードが一瞬閃いたのをエニクは見ただろう。
空中で前傾するように畳んだ体を一気に開放し、仰け反るようにしてボーダーで相手を蹴り倒す技―ボーダー共通の必殺技、ソリッドキックである。
これはスケーターの蹴りの威力の比ではない。
彼らの蹴りが当たり所によっては必殺技になるのに大して、ボーダーのそれはプロテクターの上から防御しようとも容易く肉を千切り骨を砕く。
使用者とボードの重量に加えその淵につけられた超鋼金属オドラデククロム製のスパイクから繰り出されるソリッドキックは、頭に食らえば
ヘルメットの上からでも頭蓋骨が陥没するほどの驚異的な破壊力を発揮するのだ。
どこに受けても決定打となり得るこの攻撃こそがボーダー最大の武器であり、他のプレイヤーが恐れる脅威である。
しかししてフレスベルグの放ったソリッドキックは容易く掻い潜られ、身を伏せたエニクはその足元をすり抜けて移動していた。
反対側の傾斜に着地、というよりは空中でそこを蹴ったフレスベルグは虎のごとく再びエニクに飛び掛った。
今度は相手と体が向き合っている関係上両足を前に突き出すように再びボードを浴びせ掛ける。
誰の目にも初弾がフェイント、今放ったこのニ波目が本命のように見えたがエニクの思考はそこまで及んでいたらしい。
沈んだエニクの上半身は飛び越えていったフレスベルグのボードをやりすごしていた。
フレスベルグが着地した場所は、エニクのすぐ左隣だった。
ここまでがフレスベルグの行った『移動』だと誰が想像できただろう。
二度のソリッドキックは相手の行動を制限する為の駒に過ぎない。
かくして今彼は隣に身を沈めた姿勢のエニクを捕え、着地と同時にその右腕はムチのように唸りを上げてエニクの顔面に襲い掛かった。
腰を捻って放った、すくい上げるような裏拳である。
この程度でヘルメットまでは破壊できはしないが衝撃により激しく揺さ振られた頭は脳震盪を起こす。
おお、と観客から歓声が上がろうとした瞬間だった。
腕が空を薙ぐ感触と同時にエニクの全身が霞み、消えたのをフレスベルグは見た。
困惑と驚愕は同時にやってきた。
次の瞬間自分の無防備な側頭部にエニクのボードが炸裂していたのだ。
今相手に言葉が伝わるのならば、エニクはこう叫んでいただろう。
『甘いね!』
実際ヘルメットの中ではそう漏らしていた。
一瞬の屈伸で前方に頭から飛び込むようにして裏拳を飛び越すと、そのままエニクは前方のフレスベルグのボードに着地していたのである。
まさか自分のボードの、ブーツを固定するロックのすぐ手前の僅かなスペースにエニクが片腕で逆立ちしているとはさしものフレスベルグにも
予想がつかない自体だった。
時速90キロ近く出ている中で風圧をものともせず、エニクはその場で身を捻りボードをプロペラのように回転させてフレスベルグの顎を捕えたのだ。
常識の範疇を超えた運動神経とバランス感覚である。
転倒してコンクリートの上に胴体を躍らせた時もまだ、フレスベルグは自分の身に何が起きたか理解できなかっただろう。
着地したエニクは余裕たっぷりに勝利の舞台に向かって疾走を開始した。
今や完全に覚醒し、食い入るようにモニタを睨んでいるネモに葉吹が苦笑を漏らした。
「興味があるか」
「強いね」
声には賞賛以上に憧憬が込められていた。
「ああ。最強だ」
目を細めた葉吹の声にも惜しみない賞賛が含まれている。
モニタには舞台に到着したエニクがヘルメットを外し、観客に答えている場面が浮かび上がっている。
エミリーナが口笛を吹いた。
「わお。美形じゃない?…ちょっとファニーだけど」
後半の言葉を言わせたのは、先ほどの張り詰めていた緊張感が嘘のようなエニクの浮かれようだった。
糸のように細い目が特徴的な金髪の似合う18、9の少年だ。顎も唇も同じく細いが、浮かべている笑みは確かにファニーである。
観客に答えて短いブレイクダンスを披露した後、エニクはいきなり観客席にダイブした。
彼に賭けた観客たちに胴上げされ、フレスベルグにかけた客が怒りに任せて彼に殴りかかろうとする。
もみくちゃにされながらもエニクは何故かこの上なく楽しそうに至福の笑みを浮かべていた。
「…何、この人?」
呆れ笑いを堪えきれずに、モニタに目をやったままネモが葉吹に聞く。
「こういうヤツなのさ。目立ちたくって仕方ないんだよ」
スタンガンを装備した係員がなだれ込むまで騒ぎはヒートアップしっぱなしだった。
闇の中に一つだけ、大きく不自然なまでの光が満ちている場所がある。
神薙市の東に位置する歓楽街であり、その場を仕切るマフィアの名を取って『ザ・ショップ』とも呼ばれる場所だ。
まさにスラムのような場所で日常犯罪が絶えない場所であり、潜伏中の犯罪者も星の数ほど存在する。
地下組織ザ・ショップの勢力圏内だがその下部組織は仲たがいが絶えず治安の悪さは神薙市随一である。
ネオンが満ちる街の一角に、冷えた空気の中に白煙が立ち上っていた。
地下のデッドラインロードの会場へと続く関係者専用の出入り口だ。
万一の場合に備えて幾層にも隔壁やシャッターが完備され、壁に埋め込まれた100個以上の監視カメラは通路を睨んでいる。
凍りつくような夜気は吐いた息を白く変えて立ち上らせた。
葉吹とエミリーナに挟まれるようにしてネモは幾分軽くなった足を運んでいた。
出入り口を抜けてしばらく歩くとやがてポツポツと街灯がついているだけの寂しい道に出る。
時折車が車道を走り抜けて行くが、ここは街の明かりもざわめきも遠かった。
「ねー、前から思ってたんだけどさ。何でこんな駐車場が遠いワケ?」
「もうちょい勝ちを重ねれば近い場所に止められんだよ。それまでは我慢だ」
ブラジル出身のエミリーナがロングコートをぴったりと合わせながら震えているが、ダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだ葉吹は
平然と答える。
街灯に照らされて彼の銀髪が光の粒を砕いていた。
エミリーナは同意を求めるように隣を歩いているネモに視線を送った。
「日本人って鈍感なんじゃない?ねえ、ネモ」
「僕がもうちょっと頑張るまで待ってね」
ネモは笑って彼女の背をさすってやった。
「勝ち進めばそれなりにカネも入る。寮を出て豪邸に住めるぞ。新しい車も買える」
「アタシはとりあえずもっとあったかいコートが欲しいよ」
「僕は犬が飼いたいな。ゴールデンレトリバーかハスキー」
三人が各々の欲望を口にしている時、ネモは被った帽子の下の兎の耳から足音を聞いた。
ネモの耳は微妙な足音の違いを聞き分ける事ができ、その耳が自分たち三人以外の人間が近づいてきている事を告げている。
声をかけられるより速く、ネモは振り返っていた。
「Hey!」
注がれる街灯の光を浴びながら、石畳を踏んで一人の男が走ってくる。
金髪が光を照り返しているのが見えた。
「…エニクじゃねえか?アレ」
葉吹が闇の向こうに目を細めた。
確かに三人の前まで来て立ち止まり、しばらく息を整えた後顔を上げた彼はエニクだった。
下はGパン、黒いトレーナーに革ジャンを羽織っている。妙に黒の似合う少年だ。
糸のように細い目をめいっぱい広げるとエニクは人懐っこい笑顔を浮かべた。
「どーも。試合見たよ、やるね」
「…」
きょとんとしているネモの脇をエミリーナが肘でつついた。
「アンタに言ってんのよ」
「えっ、あ、うん。ありがと」
彼女に促されて、誉められてるのかどうかはわからないが返事に困ったネモはとりあえずエニクに礼を言った
さっきモニタの中で知った相手と実際に話すのは変な感じだった。
「一人で来たのか?」
ポケットから両手を出した葉吹が不躾に言う。
闇討ちを警戒しているのである。
「チームの連中と一緒さ。そこに車ァ待たせてんだ、窓からちょっと見えたもんでね」
今にも殺気を開放しそうな葉吹を知ってか知らずかエニクがにんまりと笑って答える。狐のような笑い方だった。
エニクはすぐにネモに視線を戻すとポケットから手を出し、拳を突き出した。
「ファンになったぜぇ、最近どいつもこいつも同じようなスタイルのヤツばっかでさ。関節技だろ?アレ。誰に習ったんだ?」
一気にまくし立てるエニクに圧倒されながらもネモはどきまぎしていた。エニクは知り合いの誰とも違うタイプの男だ。
ネモがおずおずと左手を葉吹に向ける。
「葉吹に」
タイラント
「葉吹?葉吹って『暴帝』の…」
見る見るうちにエニクが興味を注ぐ対象がネモから葉吹に移ると同時に、後方から闇を裂いてクラクションが響いた。
「あ、んじゃまたな。近い内に」
ウインクをすると転身したエニクは闇の中に滲むように姿を消した。
すぐにタイヤがアスファルトを削る音が聞こえてそれもやがて消えた。
「何の用だったのかな」
その姿を見送っていたエミリーナが呆然とつぶやく。
「変な人だね」
笑いを漏らしたネモはエニクに対して前回と同じ感想を言った。
何だか妙な親しみを覚える男の子だと思った。