プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -
ネモ
6.風の息
嬌声に満ち足りたこの空間の中で、隣の台座から放たれる冷たい威圧感のようなものをネモは感じていた。
それは観客から発せられる熱気や淀んだ感情などに混じって背にひしひしと這う。
『ザザッ… 昼も言ったがそいつは強敵だぞ。油断するな』
緊張を含んだ葉吹の声も何故か遠く聞こえる。
化粧を落としてすっぴんになったネモは速くも頬を伝う汗を拭い、気づかれないよう何気なく隣のランナーに視線を送った。
ネモよりいくらか、いやかなり背が高い。184か5と言ったところだろう。
艶のないグレーの髪をいくつかゴムや飾りで少しずつ束ねてレゲエミュージシャンのような髪型をしている。
しかししてその鼻と口は大きく顔から突き出ており彼が人間でない事を物語っていた。
行者のように胸の前で手を組み合わせ、気功の応用で息を吐いて氣の循環を落ち着ける際に覗く牙は凶悪な光を照り返している。
全身が薄青の硬い毛で覆われている事からネモよりもはるかに獣としての本質を受け継いでいる事がわかる。
『ピーガガガーーッ Hey ファッキンガイズ!準備はいいか、四戦目が始まるぜ!それじゃあ紹介行ってみよう!
順調に勝ち星を拾う小兎ちゃん、その姿に似合わないエゲツない関節技は今夜も相手をソッコーでイカせちまうのか!?
シャイニングボルト
チーム・ノーチラスより七戦六勝『閃電』ネモーーーッ!!』
破裂せんばかりの勢いで膨れ上がった歓声に、相変わらず慣れないまま一瞬身を竦ませそうになるのをこらえてネモがいつもの
アピールを観客に披露する。
『さーてさて続いては?おっと今夜は兎ちゃんが料理されちゃいそうだぜ、最近注目のランナーだ!チーム・フューチャーズより24戦全勝!
ブルーインパルス
気功の応用で繰り出される必殺の掌底の使い手、『蒼い稲妻』フェンリー・シェイ!』
呼ばれてフェンリー・シェイは初めて双眸を開いた。
途端に放つその瞳の凶悪な蒼い光はモニタを通して観客を戦慄させただろう。
この場にいるからこそ、彼は観客に何の疑いも持たれず存在している事ができる。
人間ではないのだ。ネモよりもはるかにその姿かたちは、人のそれとかけ離れている。
全身を覆う毛皮は会場のカクテル光線を浴びて透き通った光を反射していた。
フェンリーが再び腹の底から搾り出すように息を吐いた。
獰猛な牙からもれる吐息が周囲の淀んだ空気を蹴散らし、自分の空間を作り出しているようである。
そんな一種、周囲を制圧しているような威圧感を覚える選手なのだ。
彼は狼のビーステッドドールズであり、人間よりも獣としての遺伝子を大きく引き継いでいる狼男である。
確かに狼を直立させて頭部以外の上半身を人間のものと置き変えたら、おとぎ話に出てくるあの怪物とそっくりだ。
「そうビクつくな」
ネモの頭頂の耳が彼の口から漏れた言葉を拾ってピン、と立ち上がる。
彼女自身はビーステッドドールズと戦うのはこれが二度目である。
ネモのものと同じく軽装のバトルスーツの上からでもわかる隆々とした筋肉を巡る氣の流れを感じて、フェンリーは前方で口をあけている
トンネルに冷ややかな視線を送りながら静かに言った。
この怒声に満ちた空間で彼の言葉を拾えるのは彼のつけたマイクの受信機の相手とネモだけである。
「殺しはせんよ。子供など殺ったら寝覚めが悪いんでな」
若い男の声のようでもあるがやはり狼の口で人語を発するには若干無理がある。
妙なインセントネーションのかかる口調だったが、明らかにその内容にはネモへの蔑視が含まれていた。
自分に言われていると気づいたネモはわずかに逆上した。
一瞬頭を巡らせてこの憎たらしい相手にどう言い返してやろうかという事に脳細胞のすべてを使って答えを弾き出させ、ネモはできるだけ
嘲笑を込めて言ってやった。
「アンタの入院先には差し入れ持っていってあげるよ」
口調に僅かに乱れがあるのに、フェンリーは気づいていた。
ネモは表層とは裏腹にフェンリーの容姿を怖れていたのである。もちろんそれを自分でも認めはしなかったが。
「ペティグリーチュムはトップブリーダーも推奨らしいから、きっとすぐに良くなるだろうし?」
「…」
簡易ヘルメットをかぶってゴーグルをつけたネモは口を歪めて笑って見せた。我ながら可愛くない笑い方だと思った。
フェンリーの表情が凍ると同時にアナウンスがゲームの開始準備を告げる。
二つの、この巨大な暴力装置の為に生まれた子達が観客の声援を受けながらスターティングブロックについて視線をトンネルの奥底に送る。
全身を縮めたバネに変えたネモにピアス型通信機の向こうから葉吹が不平を垂れた。
『バカ!フューチャーズと関係が険悪になったらどうすんだ!』
「だってあいつが先に言ったんだもん」
子供のような理屈を言い返しながらしかし、ネモはまだ心のどこかでフェンリーの放つ威圧を拭い切れないでいた。
今まで戦ったどんな相手とも違うプレッシャーである。
フェンリーと対峙している左半身だけが苦痛のない針で刺されているような冷たい空気を感じるのだ。
『昼間教えた通りだ、そいつは合気道と気功をミックスしたような戦い方をしやがる。
相手の攻撃を受け流してから無防備になった胴に掌底を入れてくる。食らったら最悪内臓破裂、良くても肋骨くらい砕けるぞ』
葉吹の忠告は上の空だった。
ネモは一瞬、一時間前の事を思い出していたのである。
この地下の会場のどこかでエニクは恐らくはネモの戦い振りを見ているだろう。
そう思うと急にフェンリーの威圧感が気にならなくなった。恥ずかしい戦い様は見せられない。
ここでの勝利もきっとあの人に近づく道の第一歩に繋がるだろう。
むしろ対峙していたフェンリーの方がネモの小さな体のどこからこんなに、というくらいの開放された気迫を感じた。
フェンリーが口の端を歪めて小さく笑ったのには観客は気づいただろうか。
…ただのガキではないか。
彼のネモのものより数倍膨れ上がった、しかししなやかな筋肉は期待に震えていた。
『Go!』
アナウンスが観客の歓声を貫いて響いた。
1500mの死線の幕は今切って落とされたのである。
と、同時に瞬時に二つの稲妻が前方に引き絞った矢のごとく霞んで消えた。
体重の差でネモが一馬身リードしてその背にフェンリーを捕え、二人の両足が空気を切る連続的な音がコンクリートに囲まれたチューブの
中に木霊を始める。
コンクリートに埋め込まれたいくつもの照明が尾を引いて背後に流れて行く。
ネモは身体にみなぎる力とそれを思う存分開放できるこの瞬間の快楽に打ち震えた。
今だけは人間でも兎でも男でも女でもない中途半端な自分のすべてが思うままの自分になる。
『しばらくは様子を見てけ』
慎重に慎重を重ねて忠告する葉吹の声は強張っている。
ブルーインパルス
この蒼い稲妻に負けた相手は重症を負う事で有名だ。再起不能になったプレイヤーも何人かいる。
自分のかつての姿とフェンリーが重なるようだった。
フェンリーは走行するネモの背後に影となってぴったりくっついている。
その連続して響くコンクリートを蹴る音が一瞬だけ大きくなったと思った瞬間、不意にネモの背後の気配が薄れた。
背に流れていった風の圧力のわずかばかりの変化とネモの兎の耳がフェンリーが跳ねたことを伝えた。
コンクリートを蹴った音からどのくらいバネをきかせたか瞬時に算出したネモは相手が天井に向かって跳んだ事を知る。
腕で頭上のコンクリートに飛びつき一瞬で再び跳ねて僕の背に、来る。
デッドラインロードは超高速のチェス。先が読めなければ勝利は一生腕の中をすり抜け続ける。
100キロ近くで走行しながらネモは身体を右方に流し、めいっぱいの力でコンクリートを蹴ってその場から離脱した。
右へ跳ねたのだ。
今相手はネモのいた場所に攻撃をすかしている筈、右足で迫ってきた壁を蹴ったネモは白い稲妻のごとくフェンリーのいるべき位置へと
帰還すべく再び跳ねた。
突き出した左足の蹴りは威力はそうはなくとも相手を転倒させるくらいの威力は発揮する。
蹴りはネモが着地して再び走行を開始するまで空を切った。
誰もいない。
!?
声に出ない驚愕をネモは表情に表した。
鋭敏なネモの耳は確かに音の強さからフェンリーのジャンプの高さを正確に割り出していた筈だ。
着地した瞬間の無防備な体勢をせざるを得なかったネモの背後で衝撃が爆発した。
モニタに映し出された映像を見た観客たちは見ただろう、先行するネモの背に掌底を炸裂させた蒼い狼を。
事前の研究から彼はネモの柔らかな毛に包まれた頭頂の耳が相手の行動を正確に察知する為のアンテナだという事を知っていた。
気功の応用で走行中自分の体重の中心核をほんの一時的にだけ移行させて足音を変え、ネモに自分が飛んだと錯覚させたのである。
自分のアンテナに絶大な信頼を寄せていたが故に、口を開いたフェンリーの恐るべき罠にネモはまんまと飛び込んでしまったのだ。
しかし胸に勝利の陶酔を抱かせるには少し速く、また彼は内心驚愕を隠せなかった。
まさか己の必殺の掌底を背に受けたにも関わらず、そのインパクトの瞬間前方に飛び込むように跳ねて威力を殺すとは。
事実、ダメージにより崩れたバランスを何とか戻したネモは若干のブレを残しながらも彼の前方で立ち直ったではないか。
彼の掌底はデッドラインロードでは最も厚い装甲を持つボーダーの前面装甲をその下の肉と骨ごと粉砕することができる。
直撃すれば紙を剥ぐようにあっさりネモは命を取られていただろう。
鼻腔を満たす風の中にフェンリーは確かに流れていく空気とは別のニオイを感じた。
――面白い。やはりタダのガキじゃあないな。
乱杭歯をむき出して凄惨な笑みを浮かべたフェンリーが愉しんだのは、これから始まる死闘のニオイだった。
『効いたか?』
ネモの失策を追及しようとせず葉吹はまずそう言った。
足音を変えたのは葉吹にもわかった。コントロールルームには余計な雑音は何も入ってこないからだ。
騙されてる、とわかった時にはもう遅かった。
人間の反射神経では獣の血を継ぐ彼らの領域には及ばない。
ネモは走りながら片手で左胸を抑えていた。
全身がバラバラに砕けそうな苦痛に耐えているのある。
それは背中で爆発してすぐに心臓へ到達し、一瞬その鼓動を止めたかと思えるほどの激しい重さのある衝撃だった。
転倒しなかったのが不思議なくらいだ。
同じ方向へ走行している以上攻撃力に加算されるのはフェンリー自身の腕の力のみ、しかも走っているという不安定な体勢からだ。
よもやこれほどの威力とは。改めてネモは対峙しているのが強敵だという事に肌で感じた。
前に跳ねて衝撃を殺したのはほとんど本能的な勘に過ぎない。次はタイミングが合うかどうか。
『落ち着いて行け。打撃だけがそいつの武器じゃない事を忘れるな』
風圧を受けてすぐに流れていく葉吹の言葉を頭に入れながらネモは頭の中身を総動員して戦略を組み直していた。
恐らく相手は一撃必殺を狙ってくるだろう。
そして文字通りそれは受ければ一撃でネモの命を奪いかねない強烈なものである。
焦燥と恐怖は正常な判断力を曇らせる。
葉吹も今危惧しているのはネモが焦って自滅的な行動を取らないかという最悪のパターンだ。
ぎり、と煙草のフィルタを噛みながら自分の睨んでいるモニタの前に乗っている物体に目をやった。
外部とコードでつながった、開閉可能な透明なプラスチックケースの中には握り拳くらいの大きさの赤い丸いスイッチがある。
彼らデッドラインロードの関係者が『タオル』と呼ぶスイッチ―つまりギブアップを宣言するスイッチである。
押せばその時点で自らのチームの選手は負けとなり試合は中断するが、どのチームも使用頻度は想像以上に多い。
デッドラインロードが暴力とスピードのエクスタシーを求めて作られた巨大な暴力機械である以上、それにさらされるプレイヤーは
最も危険な立場にありまた百戦錬磨のプレイヤーは何にも変えがたい至高の存在だからだ。
失えば損失は図り知れない。
ヤバくなれば葉吹は躊躇を介入させずすぐにでも押すつもりだった。
いかにネモの「天賦の才能を信じていたとしても今回は少し経験が足りなかった事を嘆いた。
「葉吹、ネモの心音が乱れてる。脈も…」
久し振りに聞くエミリーナの緊迫した声も葉吹の心を揺り動かした。
次にあの掌底の直撃を食らえばネモは死ぬかも知れない。
数回移動と位置の入れ替えを繰り返すがフェンリーは積極的には攻撃してこなかった。
絶好の角度とチャンスを探しているという事はネモにもわかる。
相手は時折思い出したようにとってつけたような攻撃を放つが囮なのは明白だ。
反撃を試みた瞬間その掌底はネモの薄い胸に突き刺さっているだろう。
狡猾な狼は待っているのだ。
相手が焦りと恐怖で行動に破綻を来すのを。
そしてじわじわと彼の期待はその端を見せ始めたのである。
背について回る影、フェンリーから逃れようと不意にネモが走行速度を上げた。
たちまちのうち120キロ近くまで上がった速度にしかし狼は確実についてきている。
彼は風圧をものともせず立ち上がり相手の位置を探る耳を確認した。
糸がついているようについてくる背後のフェンリーを感じながら今度はネモが右に跳ねた。
と、右手の壁につくと同時に彼女の姿が霞んだ。
再びコンクリートを蹴って左の壁に飛んだのである。同じくして天井、そして床へ。
相手を霍乱する為のランナーの移動方法の一つで、『ノミ』と呼ばれるものである。
もうネモの頭の中には相手から逃れる事しかない。恐怖と焦りが判断力を曇らせている。
その予想が的中したのだろう、ぴったりその背にくっついて行くフェンリーは再び歯を剥いて笑った。
軽やかに床について再び走り出したネモは再び右へと跳ねた。行動がパターン化していることに気づいていないのだろうか。
―チャンスだ。
フェンリーが再びコンクリートを蹴る。
しかしその足は音を拒否し、まったくの無音のまま蒼い狼は空中へと踊った。
再び気功を利用して足音を消滅させたのだ。
今まで自分の足音がついてくる事を感じていたネモは突然消えたそれに気づき、相手の姿が消えたような錯覚に陥る。
先回りした左の壁で口を空けた狼が待っているとも知らずに。
殺すつもりはないが再起不能になってもらう。
フェンリーは心中でネモに詫びると壁を蹴って空中でネモを迎撃する態勢を取った。
大きく振り被った右腕に満ちる氣は相手にもとの形を留めている事を決して許しはしない。
反対側で壁を蹴った兎と狼は空中でXを描く途中の中間、重なり合う部分のごとく向かい合った。
反撃するにも避けるにもネモにはもう手遅れだ。
一瞬陽炎のように揺らめいた狼の豪腕は、身を捻って自ら真正面からその掌底を受けたネモの胸に炸裂した。
何故、自ら最もダメージの大きい正面を?
それ以前に掌に妙な手応えを感じたフェンリーの本能が激しく警鐘を鳴らす。
何かがおかしい。
ネモは空中で攻撃を受けるとほぼ同時にその両手で持ってフェンリーの腕をありったけの力で掴むと、次は両足でその腕を股に挟んだ。
喉の奥から漏れた熱い固まり―自らの血液が目の前の大きな彼の手を染める。
意識を失わない自分が不思議だった。
肋骨にヒビくらい入っている筈だ。
その程度で済んだのは掌底を受ける瞬間に身を仰け反らして衝撃をまたも逃したからである。
読まれていた!?バカな!
フェンリーが驚愕のあまり蒼い瞳を剥く。
「デッドラインロードは超高速のチェス。君が読んだのは僕に攻撃を当てるまで」
唇を伝う血をそのままにネモは苦痛を堪えて言葉を口にした。
「僕が読んだのは君が攻撃を当てる事、そして当ててから」
胸に抱き抱えたフェンリーの腕をそのままに、それを股に挟んだ足をフェンリーの胸の上に乗せてネモと彼は落下した。
相手の背から落ちて衝撃をフェンリーに一任するとネモは100キロ近い速度で身体を削る牙と化したコンクリートに自らの背を押し付けた。
そのまま身を仰け反らせるようにしてフェンリーの肩を本来なら絶対に曲がらない方向にねじ込む。
腕ひしぎ逆十字。格闘技の世界では基本にして単純、そして強烈な威力を発揮する相手の肩を破壊する関節技である。
ネモは恐怖に煽られ逃走すると見せかけてフェンリーが必殺の一撃を放つタイミングを待っていたのである。
もっとも、衝撃を逃がすタイミングが合わなければネモは致命傷を受けていたかも知れない。まさに背水の陣だったのだ。
何故、フェンリーの虚構の足音を見破ったのか。
彼女の頭頂の耳にはあれから一度だってフェンリーの足音など聞いてはいなかった。
拾っていたのは風の流れと向き、そして空気の動きである。
彼女が足音以外の要因から相手の位置を弾き出す事ができると考えなかったのがこの男の最大の誤算だった。
プロテクタをつけているとはいえ摩擦熱はネモの背にじわじわと迫ってくる。
相手と組み合ってコンクリートを滑りながら、フェンリーの太い腕を抱きこんだネモの胸は奥でぎしぎし軋む音を立てる。
苦痛に持って行かれそうな意識を手放さずにいられたのは脳裏に浮かんだ金髪の少年の姿だった。
エニクのところへ行くんだ。
ネモがこの時瞬間的に発揮した筋力は常識的なものではなかっただろう。
それでもまだ残った腕で逃れようともがくフェンリーに脱出を許さずついにはその腕を奪ったのだから。
ボギョ、という湿った音が抱き込んだ相手の腕の中を伝わり透き通るように聞こえたのがわかった。
同時に狼の低く短い悲鳴も。