プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -
ネモ
8.病
病院を脱走したのは我ながらマズいと思っている。
しかし葉吹やエミリーナは恐らくはエニクの凶行を目にしているだろう。
ならば僕を彼に会わせる事に何ら抵抗を示さないだろうか?
後先を考えない向こう見ずな行動だと自覚してはいたが帰ったらまた二人と一悶着ありそうだ。
ビルの上を飛び交い、いまだ僅かに残る胸の疼きを堪えながら寮の隣にそびえる『パレス』へと向かったのには理由がある。
古滝譲に助けを借りる為だ。
彼は外界との接点が少ないネモにとって数少ない外の世界と大きく通じている友人であり、尚且つ移動手段を持っている人間である。
古滝がパレスの存在するビルの地階付近に古めかしい乗用車を乗り付けているのをネモは知っている。
病院を抜け出してパレスへとやってきたのと同じ方法は危険が伴い過ぎる。足はどうしても必要なのだ。
今日古滝がパレスへ来ているかどうかだけははっきり言って賭けだったが、どうやらネモは今日は神様に好かれているらしい。
「で、何だ。そいつのとこへ行きたいワケか」
手に入ったばかりの筐体を愛撫するようにコントロールパネルを叩く古滝は不機嫌を隠そうともせずに言った。
顔はモニタに釘つけられ、口はしきりに放り込んだガムを咀嚼している。
一通り話しを聞きはしたが、すぐ右後方で立ち尽くすネモをあからさまに見ようともしない。
「エニクっつったらアレだろ。トリプルチャンプで三日くらい前、反則負けになったヤツだろ?」
デッドラインロードは神薙市では割と一般的にも浸透しているスポーツである。
ネット観戦のみのファンも多い。
「そう、彼」
「俺を足代わりに使おうってか? 待ちな小兎ちゃん、古滝譲は優しい男だがてめえの態度次第じゃイオナズンよりも激しく爆発するぞ」
ネモは一心に筐体に向かう古滝の後頭部を祈るような気持ちで見つめた。
いかに罵倒されようとも彼しか頼れる人間はいないのだ。
不安にすっかり寝てしまった兎の耳がぴく、と僅かに立ち上がる。
「面倒を頼んでるって事はわかってる。だけどエニクは普通じゃなかった…彼に会いたい」
俺が知るか、と怒鳴りつけたい己の内に沸き上がる熱塊を古滝は何とか堪えた。
せっかく新しい筐体が手に入り、都合よく対戦相手も現れたというのにこの好まざる展開。
すべてに置いて期待が外れた彼は苛立ちを隠せない。
「…まあ、お前にゃ何度も相手んなってもらった礼もある」
深く深呼吸し、なるべく怒りを抑えて絞り出した声にぱっとネモが表情を明るくする。
「ただし」
古滝は付け加えた。
「条件がある」
「何?」
立ち上がった古滝が筐体のコントロールパネルに手を置いた。
「こりゃあコレを作ってるメーカーの一人に譲ってもらったんだがそいつはお前の大ファンでな。
業界にゃ他にも結構いんだよ、その手のアレが。次の取引の時に強力な物件になる」
かくしてネモは生写真、サイン、愛用していたペンやハンカチなどの数点を渡す事を承諾しその引き換えに足を手に入れたのである。
色々な不満を感じないでもなかったが今はそんな事を気にしている場合ではない。
「で?どこに行けばエンカウントできるんだ」
「…あ」
使い古した感はあるがシックで趣味のいい軽自動車に乗り込んだ時、初めてネモは最も肝心な事に気づいた。
後部座席のネモに古滝が呆れて振り返る。
「お前…知らんのに俺に頼んだのか?!」
頭頂の兎の耳の先っぽを掴んで両の頬に引き寄せ、ネモが必死に脳裏の情報を巡らせる。
「名前はエニク・ド・パンセ、出身地は…わからない、けど多分日本人じゃなくて年齢は19…くらい、チーム『パステルデビル』所属で…
キラーエッジ
トリプルクラウン、ニックネームは『凶刃』…優しくてかっこよくてお喋り上手で目が細くて金髪で編んでてええと、あー、うー」
「アホか!」
のろけの混ざったどうでもいい事ばかり口にするネモを一喝し、古滝はキーを突っ込んだまま回転させずにケータイを取り出す。
「試合は俺も見た。多分病院じゃねえか?知り合いに聞いてみる」
「知り合い、って…」
基本的に闇討ちなどを警戒する為、チームは抱えているプレイヤーの所在地や入院している病院の情報は機密事項としている。
ネモのようにコートの下で密かに拳銃で武装している守衛が警備にあたる寮住まい以外の話だが。
後部座席のたわけを無視して古滝は慣れた手つきで親指を滑らせ、すぐに機体を耳にあてがった。
「よ、俺。…あー、ちょっと聞きたい事があってな。パステルデビルのエニクの現在地ってわかるか?」
いきなり本題に入った古滝にしばしネモは眼を剥いた。一体どこの知り合いなんだろう?
しかし電話の向こう側からは否定的な言葉が返ってきた。古滝が細い眉を吊り上げて頭を掻く。
「ダメ? …だろうな」
「ちょっ、待って!」
声を張り上げるネモを片手で制し、古滝は続けた。
「ネモのサイン入り色紙というレアアイテムが手に入りそうなんだよなあ…キミの為に特別にキスマーク入れてもいいみたいよ?ん?」
え!?と動揺に耳をピンと起こしてネモが慌てて抗議しようとするが、古滝はニヤつきながらその厚い唇の前に人差し指を持ってくる。
もう一押しだ、と言う意味が込められたジェスチャーである。
電話の向こうの相手は明らかに揺れ動いている。義務か、己の欲望か。
古滝はこの男がネモの熱狂的な大ファンだと知っているのだ。
彼はトドメに出た。
「何なら下着も…ぐわ!?」
後部座席から雨のように降りかかるネモの拳から片手で身を守りながら慌てて古滝は落っことしそうになったケータイを掴み直す。
「待っ、ちょっ、グーはやめろグーは!おま、腕力強えんだから手加減…いでででででみ、耳、耳は止めろ!」
そうこうしている内に何とか相手に了解を取り、真っ赤になり歯を剥いて怒り狂うネモに両耳を思いっきり引っ張られながらようやく彼はエニクの
住所を手にする事ができた。
危うくファンが減りそうな物品の譲渡までが行われそうになったが、幸い今回はネモのサイン入り色紙キスマーク付きのみで済んだようだ。
ネモはまだ気づいていなかった。
最初はエニクと心が通じ合う事ができなくても、せめてその場所に近づければいいと思った。
だけど今はもう、彼を独占したいという気持ちが抑えきれなくなっている。
数十分後、顔中に引っ掻き傷を作った古滝と彼の服を借りて帽子を目深に被ったネモは市内の小さな病院にいた。
古滝は肩眉を吊り上げ、車内でひと言も口を聞いてくれなかったネモをちらりと見下ろした。
大人しい娘だと思っていたがここまで暴れるとは予想できなかったらしい。
すでに狭い待合室の中だが、休日にも関わらず閑散としている。
鼻腔を刺激する消毒の香りと眠気を誘うほどよく暖められた空間に呑気に心地良さを感じている古滝を尻目に、ネモは真っ先に受付の
看護婦に詰め寄った。
「エニクの病室は?」
いぶかしげにネモを見下ろし、ぱらぱらとノートをめくった中年の看護婦はすぐに視線を戻した。
視線には明らかにネモに対する不信感が含まれている。
「そういう方は入院なさっておりませんが」
「そんな…」
「ネモ」
身を乗り出さんばかりのネモを押し退け、カウンターに腕をかけた古滝がポケットからカードを取り出す。
正面から見据えられ、彼がどこに所属している者なのか看護婦は何となく理解したらしい。
受け取ったカードを機械に通し、モニタに出た反応からやっと今目の前にいる男が逆らってはいけない立場の人間だと理解する。
「失礼を。エニク・ド・パンセ様は二階の205室にいらっしゃいます」
その萎縮して強張った声が出終わるより早く、ネモは文字通り脱兎のごとく駆け出していた。
「俺らの事はオフレコで頼むぜ」
看護婦にそう忠告し古滝はあっという間に消えたその背を追う。
階段を上がり始める頃にはすでにネモの足音さえもが遠のき、病院の空気の中に溶けて消えていた。
随分ご執心だな、惚れてんのか?と的確な思案を巡らせて駆け上がった彼は廊下の突き当たりで白衣の男ともみ合っている彼女を見た。
壁は骨のように白く、廊下には細長い窓が続いている。
数個扉を横切ってその場にたどり着いた彼の一番最初の仕事はネモをなだめて抑える事だった。
「落ち着けコラ」
予想以上の力で抵抗を示すネモを羽交い絞めにし、古滝は若い医師に愛想笑いをした。
「どーも。シツケのなってない子で」
「放してよ!」
「やめろボケ、お前の行動力の限界値の高さは認めるが無謀さは感心しねえぞ」
腕の中で狂ったバネのように暴れ回るネモの後頭部に頭突きを一撃食らわせて大人しくさせると、ようやく彼女を戒めから逃がした。
その様子を見るとはなしに見ながら身だしなみを直し、片手を入れて手櫛でオールバックの髪型を整えた医師がネモをじっと見下ろした。
痩せ型で背が高い。175はあるだろうか?
全身にまとった蒼く理知的な空気が彼の雰囲気を天才性のそれに変えていた。
後頭部を押さえてうめいていたネモが彼の鋭い視線に気づいて顔を上げる。
「ビーステッド・ドールズか?見るのは初めてだ」
彼はそのひと言で帽子を取り落とした事にやっと気づいたネモに対する感想を終え、次に追求が始まった。
「この病室の患者に何か用でも?面会謝絶なんだがね」
「担当医の人ですか?」
「ま、そんな所だ。医者になると見ず知らずの知り合いや親戚が増えてね、彼もその一人だが」
自嘲気味に笑ったが、医師は決して自分に気を許していない事はネモにもわかった。
今すぐこの男を張り倒してでも退けて部屋に入りたい自分を何とか押さえ、ネモは努めて慎重に話し始めた。
「具合はどうなんですか?」
「部外者に詳しい事は言えん。医者には患者のプライバシーを守る義務がある…ああ、ひょっとして」
言いかけて医師は一瞬沈黙し、瞳を閉じてしばし考えを巡らせた。
「君がネモか?」
「そう…だけど」
メディアに出るのが仕事なのだから名前を知られているのが特に不思議ではないが、『君が』とは?
「自己紹介が遅れたな…ああ、悪いが複雑な訳あってフルネームを名乗る事はできん。鹿島だ」
「警戒するこたないですよ。ザ・ショップ兵器開発部の古滝譲です」
いぶかしげに鹿島と名乗った医師の口を軽くさせようと古滝が初めて口を開いた。
どうやら今回の件に興味が湧いてきたらしい。
古滝の自己紹介に鹿島とネモが同時に彼に視線を注いだ。ザ・ショップ!?
時には日が昇っている間中パレスにこもってアーケードゲームに興じているこの男が?
「どうやらこの子はその部屋ん中で転がってる男に惚れてるようで。お互い面識もあるし会わせてやっちゃくれませんかね」
未だ古滝の身分に動揺を隠し切れない鹿島に、彼はネモの肩に手を置いて不敵に笑って見せた。
こういう時自分が無力な子供だと言う事をネモはイヤというほど思い知らされる。
逆らってはマズいと感じたのかネモに同情したのか、いかなる感情も鹿島から読み取る事はできなかったが若い医師は苦渋に満ちた表情で
重く言葉を発した。
「悪いがネモ君、君にしか話せん。エニクもまあ君に話すのなら怒りはしないだろう」
「はいはい。消えろって事ざんすね」
内心舌打ちしながらもあっさり背を向けた古滝を見送り、鹿島は壁に背を預けた。
二人きりになった狭い廊下は何故か果てがないように広くなったような錯覚に陥る。
「君は人に良く見られたいという欲求は?」
「?」
「経験はないか?第一印象を良くしようとして相手に対し無理に振舞ってしまったような事は。
返ってその結果後で相手に嫌われたんじゃあないかと悩んだり…」
20代も後半というところの若い医師は目を細めた。
ネモはかすかにその瞳に哀れみのようなものを感じた。
「過去を洗ってみたがエニクという男は人の倍その欲求が大きく、しかし気の弱い奴だったらしいな。
人に会って嫌われる事を何よりも怖れ、とにかく自分を良く見せたくて仕方なかったんだろう。
…一日の半分を自室で今日はあの人に嫌われただの何だのと悶々とする日々行き着いた果てにあったのがコレだ」
鹿島がポケットに手を突っ込み、指にひっかけて取り出したのは銀光を跳ね返す銃器のようなものだった。
銃口から僅かに針が生えているのが見えた。
「3年くらい前に帝都製薬が発売した奇跡の性格改善薬『ハートリペア』。あらゆる鬱病に決定的に効果があるとされて開発者が偉人扱いされたり
したがものの半年で販売・製造中止になり帝都製薬の重役の首がほとんどすげ変わる事態となった。何故か?」
そういえばネットで見た事がある。ネモは全身に走る悪寒を感じた。
「副作用?」
「正解だ」
手の中の抗菌処理金属の節くれを眺めて鹿島は続けた。
「毎日服用を続けていると早い人間ならば一ヶ月程度で効果が現れ始めた。
人間は脳内麻薬という物質を分泌する事で恐怖や安心を司っているのだが、ハートリペアはこの機能を正常なものに戻す効果がある。
鬱というものは脳内麻薬の分泌量の異常から起こると言われているからな。
しかし使用し続けると脳内麻薬の分泌量が狂って恐怖をまったく感じなくなったり、逆に過度の恐怖に駆られて支離滅裂な行動を起こす。
私の記憶に残っている中で一番派手だったのはハイオクをかけて着火したバイクと身体でガソリンスタンドに突っ込んだ男の事件だな」
苦痛に対しても死に対しても、残された者が悲しむ事に対してさえも恐怖が消えるというのはそういう事だ。
この事件で自殺や発狂、殺人などに駆られた人間などは200人にも及ぶという。
ネモは声を放った。自覚はなかったが黒い霧のように広がる恐怖と不安に強張り、震えていた。
「エニクは?」
「ハートリペアはそれでも一部の地下工場で作り続けられた。仕切っていたのはザ・ショップだ。
帝都製薬でこの薬の調合に一番深く関わりあっていた男は逃亡したそうだ…もちろんザ・ショップの連中が匿っていたんだがな」
「エニクは!?」
精神がバラバラになりそうな不安を抱え、自分の声を遮ろうとするネモをしかし鹿島は無視し話を続けた。
「その男は工場やマニュアルと一緒に彼に恨みを持つ男によって爆破された。ハートリペアの在庫はもうほとんどない」
彼の抑揚のない声はネモの恐怖を加速させている事に本人は気づかない。
壁から離れて鹿島は泣きそうになって硬直するネモを見下ろした。
「ハートリペアは水に溶いてこの注射器で動脈に送ると通常服用するよりもはるかに速く効果を発揮する。
エニクがやっていたのはこの方法だ、首筋にいくつも注射の跡がなかったかね?
…はっきり言うが彼がハートリペアを使う時は決まって試合前だった。アイドルとして舞台に立つ時のみの仮面だったんだ。
ところがネモくん、君がデビューした頃から注射する回数が飛躍的に増えているのだよ。偶然かな?」
黒く細い、しかし異様に鋭いその瞳に囚われたネモは胸の内に広がる動揺を感じ初めていた。
「私の勝手な推測だがエニクは君の事を少なからず想っていたのだろう。
…ま、好きな相手に最高の自分を見せたいという気持ちはわからんでもないがね。
明るくて楽しい、一緒にいたいと思えるヤツ。それを演じる為にエニクは仮面をかぶった。
だが結果として過度の投与によりエニクは今死にかけている。
助手によれば重度の鬱病だそうだ、クスリの使用で病状が以前よりはるかに悪化している。
このままハートリペアの使用を続ければ助からん」
絶望の淵とはここの事だろうか?
こんな状況でなければ今ネモはエニクと両思いという事を知り嬉しさで胸がいっぱいになっていただろう。
エニクはネモに会う為に薬物の使用を増やしていたのだ。彼女にまったく責任がないと言えるだろうか。
「エニクに…」
消え入りそうな声が本当に消えるよりも速く、不意に病室の扉が開いた。
カーテンを閉め切った暗い部屋の闇から抜け出してきたのは長身の若い女性だ。
鹿島と同じく白衣に身を包んでいる。
「どうだね?」
「自己嫌悪の只中ですわ。『いい自分』を作りすぎた報いのすべてが今、彼に降りかかっているんです」
うつむいているネモに気づいた彼女が目を見開いて鹿島に誰ですか?と瞳で聞く。
この場で彼の『鹿島』が偽名だという事を知っているのは彼女だけだ。
「ネモ君だ」
ひと言ですべてを理解した彼女が震えているネモに上体を折って顔を寄せる。
冷たい雰囲気のキツそうな女性だったが、笑みは柔らかだった。
ネモのすっかり倒れてしまった小刻みに震える兎の耳が哀れみを増長させる。
「大丈夫。きっと助かるわ」
「あー、面会は遠慮してくれたまえ。今エニクは人に見られたくない自分のすべてをさらけ出している。
恋焦がれている君にその姿を見られたら自殺しかねん」
「先生!」
思い遣りの足りない鹿島のセリフに彼女がキッと睨んだ。
「あ…ああ、すまん。先に行ってるぞ」
そそくさと逃れるように消えた鹿島を後に二人は取り残されたようだった。
女医は向き直って視線を合わせようとしないネモの頭を抱いた。
こんな場面は何度も見た。絶望は痛いほどわかるが、自分にできる事は何もない。
だからせめて今、その孤独が僅かでも和らぐように。
「世の中はひどいでしょう?現実は今、貴方から大切なものを根こそぎ奪おうとしている。
無力な私達ができる事は何だと思う?」
ネモを抱いた胸の中から返事はない。
「それは希望を絶対に捨てない事。それが無慈悲で残酷な現実に対してできる唯一の、生きている人間の最大の抵抗なの」
小さな手が自分の白衣を掴むのがわかった。
低い嗚咽と可能な限り抑え込んだすすり泣く声はしばらく無機質な病院の廊下に響いていた。