プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -






レディオガール
RADIO GIRL


10.チャンネルナンバー024&025


  果たして二人の目前にゆっくりとその身を闇から拭ったものは、何と形容すれば良かったのだろう。

 放心しそうになったパンハイマは口を半開きにしたままコンクリートに膝をついた。

 真っ白になった頭に僅かに膝が床とぶつかった音が響く。

 前方に倒れた鋼鉄の扉を踏みつけながら、耳障りで騒々しい金属音を放ってそれは四つの目で彼を見下ろした。

 そう、黒眼がちのつぶらな瞳が四つある。

 正確に言えば細くて白い少女の首は二股に別れており、それぞれに頭がついている。

 柔らかな茶の髪を三つ編みのお下げにして垂らしており首を振るごとに揺れるそれは愛らしく思えただろう。

 つま先から二つの頭頂までの全長はパンハイマの二倍はあるだろう、声が彼の頭上から聞こえたのはその為である。

 平たく説明すれば今パンハイマとイコンの目の前に立っているそれは双頭を持つ華奢な少女の上半身にヘビみたいに長い腰があり、

 その胴体は何かカマキリか昆虫のような下半身へとつながっている。

 下半身の長い胴には等間隔で合計四本の足が生えているが足自体は人間のサイズを変えたものだ。

 全身を多重のフリルがついた薄紫のワンピースに纏い、少女の上半身から生えた長大な片腕は豪華な装飾がされた巨大な鎌に

 なっていた。

 さっきからチリチリと余熱を発している左腕は二の腕から凶悪な鉄色の光を返す、一抱えもあるマシンガンになっている。

 まさに悪夢の産物だ。

 いや、悪夢でだってもっと控えめな怪物が登場するだろう。

 全身のシルエットは異形以外の何者でもないのに全体の服装や手足は可憐な少女のものなのだ、悪魔だって気まぐれでこんな

 生物を造りはしない。

  カマキリの下半身に纏ったスカートから覗く細い足首を数回交差させ、それは前進を開始した。
           ゼロトゥハイヴ?
 「これは何かしら、025?」
                 ゼロトゥフォア
 「これは何なのかしらねえ、024」

 それがお互いの頭部の名前なのか、二つの頭は語尾に数字をつけてお互いに質問のやり取りをしながら、虫でも見るかのような

 目つきでパンハイマとイコンを見下ろした。

 表情は石膏細工のごとく元から存在しないかのように硬かったが、その二つの顔は紛れもなくサチのものだった。

 顔だけでなく、声さえも。

 今パンハイマの目前に迫るナイトメアウォーカーはサチの顔と声だけを後付けした怪物だった。

 「退屈だわ。この人たちは虫のように真っ二つにしてしまいましょうよ、025」

 二人から見て右の少女の頭部がそう聞いた。

 「退屈ね。この人たちは虫のように真っ二つにしてしまいましょう、024」

 右とまったく同じ、双子のように生き写しの顔の左の少女の頭部がそう答える。

  オウム返しを繰り返すのと同時にパンハイマの目の前で、ナイトメアウォーカーの上体が持ち上がった。

 前足を伸ばして仰け反るとほんの一呼吸の動作で袖から覗く2mはありそうな鎌の刃を振り被る。

 「パンハイマ!」

 空気が唸った。

 イコンがパンハイマの耳元で叫んで正気を取り戻させていなければ相手の宣告した通り真っ二つになっていただろう、恐ろしい事に

 少年の背を紙一重で掠めた巨大な刃はコンクリートを紙のように切り裂いた。

 びゅっという空を切る音以外はほとんどさせずコンクリートを切断する切れ味を持っているのだ。

 慌ててその場から身を投げてかわしたパンハイマは、まだ信じられずにナイトメアウォーカーを見上げた。

 闇に包まれた地下駐車場の中、そこだけは明瞭な灯りが落ちているメインゲート前に浮かび上がる巨大な異影。

 この世の何とも似つかないその影は四つの足を使って器用に転身し二人に向き直った。

 「サチ…なのか?」

 錆びたように強張った声をやっと絞り出したパンハイマは、もう一度少女の名を呼んだ。

 「今は違うわ! 早く、逃げなきゃ」

 否定してイコンはその場から動こうとしないパンハイマの手を掴み、逃亡を促して必死に引っ張る。

 不意に動きを止めたナイトメアウォーカーを制し闇に第三者の靴音が現れ、イコンの記憶の中の特徴のあるそれと被った。

 イコンがしばしパンハイマの事を忘れ、闇の先に見入る。

 「『殉教』は達成された」

 闇が溶けて針金のように細い人影に変わった。

 何の感情も含まない声と共に現れたのは、白蝋の肌と首に編んだ長い髪をマフラーのように巻いた一人の男。

 いや、そもそも男なのだろうか?

 眼鏡の奥で光るガラス球のような瞳からは無機質以外の何の輝きも放っていない。

 「まだまだ課題は残ってはいるが大方こんなものだろう。良いデータになってくれた」

 クシミナカタはゆっくりと二人に両手を広げて見せた。

 動きを止めたナイトメアウォーカーは右の頭だけが振り返って彼に視線を送ったが、すぐに大して興味もなさそうに二人に向き直った。

 「彼女のボディをベースに『電波』の降臨、そして凝縮して異形体への変貌の促進…取れたデータは膨大だ。感謝の言葉もない」

 生気のない薄い唇を歪めてクシミナカタが笑って見せる。

 「貴様」

  たぎるような怒りにパンハイマが抜いた銃がカタカタと奮えていた。

 彼の反応に楽しげに微笑みを返し、クシミナカタは言葉を続けた。

 「人間とは個々が一つの隔絶された『部屋』の中に住んでおり、死ぬまでその『部屋』から出る事はできない。

 誰もがその『部屋』から出て孤独を解消しようと死ぬまで人はもがき続ける。

 人はどんなに悲しくても辛くても、その不幸の感情のすべてを他人と共感する事はできないだろう?

 ワタシを作った連中、『福音の大地』はその『部屋』の壁を取っ払ってしまう事が最終目的だった…

 結局うまくいったかどうかはワタシにはわからないけれど。

 しかし今その念願は適った。見たまえ」

 クシミナカタがナイトメアウォーカーに顎をしゃくって見せた。

 「アンテナを持つ人間は『部屋』に小さな窓を持つ。よって若干だが他人が決して『部屋』から出せない感情を拾う事ができる…

 窓を力任せで広げれば、見て通り。まあ『コンバータ』を初めから持っていてくれたのはさすがのワタシも驚いたが…」

 コンバータ? …初めから持っていた?

 困惑するパンハイマを他所にナイトメアウォーカーは四つの眼で二人を見下ろしたまま、彼の説明にフンと鼻を鳴らしただけだった。

 どうも自分の生みの親と言えクシミナカタに忠誠を誓っている訳ではないらしい。

 「お喋りはもう充分よねえ、025」

 「お喋りはもう充分よ、024」

 ナイトメアウォーカーの二つの頭から発せられた、あからさまに不快感を含んだ二つの声が重なった。

 一応詫びる表情を作って見せてクシミナカタが答える。

 「済まなかったね。…ああ、そうそう、そっちの小さな子は殺さないでくれよ。ワタシの大切な恋人だ」

 クシミナカタと視線が噛み合い、イコンはビクンと一瞬体を震わせた。

 「ま、一応覚えておいてあげるけれどね、025」

 「期待はしない事よね、024」

 それぞれクシミナカタに振り向いた双頭が再び正面へと巡り、二人に視線を降ろす。

 その二つの表情に同時に冷笑が浮かんだ。

 「「YOU DIE!!」」

  双頭から発せられた重なった二つの声に逢わせてナイトメアウォーカーの上体が大きく仰け反り、制御を失った馬のように

 後ろ立ちになる。

 その笑みがはるか頭上に振り被った鎌と一緒に再び落ちてくるより早く、慌ててパンハイマはイコンの手を掴んで駆け出した。

 背中で唸りを上げた刃はコンクリートに巨大な半月型の傷跡を作ったに過ぎない。

 闇に溶け込み消えようとした二人の背を四つの眼で追い、ナイトメアウォーカーが鉄塊に包まれた左腕を持ち上げて照準を合わせる。

 腰を落として体勢を低くし、反動に備えると右側の少女の頭部が左の少女の頭部と声をかけ合う。

 「逃がさないわよ、025」

 右と同じく声を弾ませて左の頭部が楽しげに答えた。

 「逃がしませんとも、024」

 双頭がそれぞれの顔で片目を閉じて狙いをつけると、その腕のマシンガンがはちきれんばかりの勢いで騒音の連打を開始した。

 たちまちのうちに地下駐車場内は割れんばかりの騒音に満ち、更に反響が反響を呼んで耳が千切れそうな大音響へと発展する。

  怒涛のごとく連射された弾丸は豪雨と化して闇に紛れ込んだ二人に降りかかった。

 弾丸が命中して砕け散った床や壁のコンクリートの破片を浴び、たちまち露出している肌にいくつも裂傷を負う。

 片手で顔面を守りながらパンハイマはイコンの手を引きあらん限りの力で正面の角まで疾走した。

 今回ばかりは逃げ込んだ先に暗闇があった事が幸いしたらしく、一発も弾丸の直撃を受けずに何とか二人は角を曲って

 ナイトメアウォーカーの射界から逃れる事ができた。

 銃声が止んで再び重苦しい闇に沈黙が鎮座する。

 硝煙と銃の余熱で闇に浮かび上がるナイトメアウォーカーの姿が一瞬陽炎のように霞んだ。



  どうやら大きな破片を体のどこかに受けたらしい、イコンの足並みは著しく遅れていた。

 銃を懐に戻して彼女を両腕で抱き上げると、パンハイマは逃走を続けた。

 イコンの背に回した手にべったりと生暖かい液体が伝う。背に受けた傷が大きいようだ。

 幸い彼女は枯れ枝のように軽かったのでさして走行を阻害されはしなかったが、意識を失いかけているのはまずい。

 パンハイマにはこの地下駐車場の構造などまるでわからないのだ。

 「向こうに…非常階段が…」

 腕の中のイコンが力なく指差した方向に向かって必死に走る。

 彼女の呼吸は大きく乱れ瞳は朦朧とした輝きを放っていた。だがイコンはドールズだ、ちょっとやそっとで死ぬ事はないだろう。

 しかしイコンの傷の心配よりももっと気に病んでいた事が今、パンハイマの背で実現した。

 「「逃げられないよーーーだ!」」

 ステレオで放たれた声を追って、角からその巨体からは想像もつかない俊敏さで異形の影が姿を現す。

 ナイトメアウォーカーが再び腰を落として反動に備え、持ち上げた左腕の銃口が火を吹くのとパンハイマが右手の非常用階段の扉に

 飛び込むのはほぼ同時だった。

 乾いた音を立てて砕け散るコンクリートの破片を浴びながら、イコンを抱えたパンハイマの身は闇の中を二転三転した。

 他の通路と同じく点々とロウソクや時々生きている電灯がついているだけの薄明かりの中、上下に伸びるコンクリートの階段が見える。

 イコンを抱き起こしたパンハイマの背で銃声が止み、変わりに何か重いものがコンクリートを蹴る連続音が急ぎ足で近づいていた。

 一息つく間もなく跳ね起きた彼は慌てて地上を目指し階段を昇り始めた。

  ナイトメアウォーカーの足音は非常階段の入り口で止まり、すぐさまそこに逃げ込んだ二人の背に向けて鎌を振り上げる。

 入り口に対してほぼ平行に走った刃の残光はコンクリートと鉄の入り口を紙のように切り裂き、次の踊場まで昇り切ったパンハイマに

 冷や汗をかかせた。

 もうニ、三度刃を振るって入り口を広げ、身を滑り込ませようとしたがしかしすぐにナイトメアウォーカーはその場で足踏みせざるを

 得なくなった。

 3m近いその巨体では例え入り口を広げても非常用階段のスペースに入る事ができないのである。

 二つの顔が憎々しげに歯噛みすると、左腕だけを階段の踊場に突っ込んで銃口を頭上に向ける。

 再び銃弾が豪雨と化して二人に降り注いだが、しかし遮蔽物が多い上に狙いがつけられないのでどうしても命中率は下がる。

 「逃がしたわ、何て腹立たしいの!」

 「逃がしたわね、何て腹立たしいのかしら!」

 全身を掠めてゆく銃弾にヒヤヒヤしながらパンハイマが三階層分階段を踏んだ頃、銃声はまさしく雨が止むようにして消えた。

 少年が恐る恐る階段の柵から身を乗り出して階下を見下ろしてみてもすでにあの影はどこにもいない。

  ようやく一息ついてイコンを降ろし、踊場のコンクリートに腰を降ろすとせき止められていた疲れがどっと全身に押し寄せた。

 顔の汗を拭ってイコンを横向きに寝かせ、生須から受け取った医療キットを取り出して広げる。

 パンハイマの少年の顔がみるみる医者としての理知的なものに変貌を遂げた。

 彼女の純白の羽のように薄いドレスは無残にもボロボロに破け、イコン自身の鮮血を受けて真紅に染まっている。

 「ゴメン、責任は取るから貰い手がなくなったらいつでもお嫁に来てくれ」

 彼女が体に巻きつけていたベルトを外して軽口を叩きながら詫びると、パンハイマは一思いにドレスを力任せに引っ張って破いた。

 露出した少女の背の肌は息を呑むほど白く、艶かしい。

 そこに突き刺さっている人差し指の先くらいの大きさの血塗れの破片を確認してピンセットを取り出す。

 幸い他に大きな傷はないが、これは今摘出しておいた方がいいだろう。

 「ところで君は何故ゴッドジャンキーズから寝返ったんだ? もうちょっと詳しく聞かせて欲しいね。…動かないで」

 手馴れた手つきでイコンの柔肌に大きく食い込んでいるコンクリートの破片を摘み、慎重に取り出す。

 肩で息をしていた彼女の呼吸が苦痛に悶えて不意に大きく乱れた。

 可能な限り押さえ込んだ短い悲鳴が薄闇の中に木霊する。

 「浅くて良かった、もう少し潜ってたら切開するハメになってたよ。

 だけどこんなとこじゃあロクに消毒もできないな、出たら病院に行かないと」

 止血剤を押し付けて彼女の胴に包帯を巻くと水筒の水で手の血を洗って一口含む。

 「…クシミナカタはもう一人の私を『捨てろ』と言った」

 荒れた呼吸に混じってイコンが呟いた。

 「?」

 「サチは『助けてあげて』と言った。…思いつく理由は、それだけ」

 「もう一人の?」

 「なんでもないわ」

 パンハイマの質問をはぐらかし、イコンは自力で上体を起こした。

 ふと彼女が質問を返す。

 「何故貴方は私を助けてくれたの?」

 「そりゃあ」

 パンハイマはイコンに水筒を渡しながらさも当然だと言わんばかりに答えた。

 「美少女の死はこの世の大きな損失だからさ」

 持ち前の明るさでそんな事を言って彼は笑ってみせた。



  一方、ナイトメアウォーカーとて階下の駐車場で手をこまねいていた訳ではない。

 非常用階段の入り口から後退し、足元に転がっていた乗用車の残骸に二つの視線を落とす。

 長い年月のうちに赤サビに侵食されてただの鉄クズになっているそれに彼女らは別の使用価値を見出したようだ。

 左手の銃口をその鉄塊に向けると、銃身の右後方に装着されていた弾層が機械的に前方に控えてあった別の弾層と入れ替わる。

 使用する弾丸を交換したのだ。ガキンと言う金属音と共に新たに装着された弾層を以って銃身は闇に吠えた。

 乗用車の残骸に降りかかった銃弾の嵐は一秒ほどで止み鉄塊に生えたいくつもの透明な細長い突起を認めてナイトメアウォーカーは

 目を細めた。

 「「行きなさい。我らが子ら」」

 彼女が放った銃弾は注射器であり、サビを吹いた鉄の表面に突き刺さると中の水銀のような液体を鉄塊に自動的に注入させた。

 ギシギシと不平そうな音を漏らしながら残骸は注射器を受けた各所で急速にねじれ、膨張し、少しずつ人型へと変貌してゆく。

  今、成型を終えて靴音も高らかに闇の中のコンクリートに降り立ったのは女だった。

 針金のように異様に細い四肢に胴、尼僧のようななりだがフワリとした袖や大きくスリットの入ったスカートはどこか猥雑で俗物的だ。

 ハイヒールのブーツの音を立ててナイトメウォーカーの前にひざまずいたのは合計四人、いずれも鉄塊だった頃の面影など微塵もない。

 青く深い瞳はよどみ、何も見てはいなかったが彼女達は確固たる意志を持っていた。

 自分の親たるナイトメアウォーカーに絶対服従という鋼鉄の意志を。



  イコンに肩を貸して階段を上がっている時、ふとパンハイマは生須たちのことが気にかかった。

 あの男の事だからそう簡単に死んでいるという事はないだろうがミントは大丈夫なのだろうか?

 「貴方、大丈夫なの?」

 そんな事を考えていた彼にあまり心配そうとは言えない口調でイコンが声をかけてきた。

 パンハイマは大きな怪我を負っていないとは言え細かな傷は無数に作っているし、体力の消耗が激しい。

 そして何よりサチの事が大きく彼の心にのしかかっていた。

 「大丈夫さ、ってかっこよく言いたいとこだけど」

 闇の落ちた非常用階段にはもうずっと彼の息遣いしか聞こえていなかった。

 「サチを元に戻す方法はないのか?」

 肩に食い込む防弾ベストを捨ててしまいたい衝動に幾度となく駆られたが、何とか押さえ込んでいた。

 装甲の重みで足がガクガクする。

 「私が聞いた限りの話では、『アンテナ』を持つ人間自体がナイトメウォーカーに変わると…私の絵や久牢の髪牢みたく、後から

 『電波』の補充が必要な能力と違って無限に自分自身で電波を充填し続けられるの。

 そうね、放っておいても自身で充電できる電池みたいなものかしら?

 だけど『アンテナ』の持ち主が殉教、つまりナイトメアウォーカーに変わるには別に必要なものがあるって…」

 「ヤツの言ってた『コンバータ』ってヤツかい?」

 「多分それだと思う。殉教には『電波』を受信して一時的に溜め込み、増幅させる部分が絶対に必要なの。

 だけどクシミナカタは元からそれを頭の中に持っていたみたいだけど、サチは普通の人間なんでしょ?

 体のどこかに埋め込まれるかどうかしたのかも…だけど『最初から持っていた』っていうのは一体」

 不意にパンハイマが足を止め、イコンに向かって自分の口の前に人差し指を立てて見せた。

 静かにしろというジェスチャーだ。

 「?」

 耳を澄ませてパンハイマは聴覚に神経を集中させた。

 暗闇に点々とロウソクが灯っているだけの世界は沈黙だけが支配している。

 その闇の奥でカツンカツンというコンクリートを等間隔で蹴る足音はやがてイコンの耳にも入ってきた。

 「足音?」

 「見つかったかな」

 さっと顔色を変えるとあわててパンハイマはイコンを抱え上げた。

  階段を駆け上がるその背で何者かの足音が聞こえてくる感覚が狭まったのがわかった、相手も感づかれた事を知ったのだろう。

 忙しなく聞こえてくる足音は幾重にも反響を繰り返し何人いるかは予測できない。

 逃れようと必死になり次の踊場にたどり着いた二人をコンクリートの壁が阻んだ。

 後から埋め立てられてできた壁だ、行きの際にも見た。

 「何でそこらじゅう通路が封鎖してあるのさ! クシミナカタは迷路マニアか!?」

 「知らないわよ」

 焦燥に駆られて怒鳴ったパンハイマに、その腕の中でイコンは人事のように答えた。

 そんなやりとりをしながら脇の駐車場に出るドアを見つけてノブを掴んだ時だった。

  背後の階段を駆け上がってくる影が跳ねたのが見えた。

 猫のように人間では到底追いつかない敏捷性で階段を蹴ると空中に身を躍らせ、壁を蹴って再び二人に向かって相手は鷹のごとく

 飛び掛った。

 イコンを抱いていたせいでどうしても反応が遅れ、背に相手の伸ばした足を受けパンハイマは錆びた扉ごと駐車場のスペースへと

 吹き飛ばされる。

 別々にコンクリートに転がりながらパンハイマは一瞬呼吸が止まり、激しく咳き込んだ。

 それでも何とか銃を抜いて立ち上がり、彼は扉の付近で彫像のように構えたまま微動だにしない女を確認する。

 尼僧のような格好だが格闘戦に備えてだろう、スカートには大きくスリットが入っていた。

 四肢も胴も針金のように細いが白兵戦の構えを解かない相手からはまったく隙が見られない。

 「ゴッドジャンキーズのメンバーか?」

 油断なく銃口を向けながら倒れたイコンに歩み寄り、抱き起こして彼女に聞く。

 蹴られた背が鈍く痛んだ。

 「違うわ。刺青がないもの」

 自力で起き上がった彼女の言う通り、露出している喉にはあの円形の刺青がない。

 ただ異様な白さの肌が闇に浮かび上がっているだけだ。

 何の予告もなく突然相手は動き出した。

 ハイヒールのブーツなのに信じられないくらいの速さでダッシュをかけると、パンハイマの目前で身を翻す。

 一回転した胴から繰り出される右足が旋風と化して屈んだパンハイマの顎に炸裂するより早く、その胸が小さく弾けた。

 パンハイマが撃ち込んだ弾丸だ。

 女は悲鳴も上げずに空中で枝が折れるように上体を反らしてコンクリートに落ち、ゼンマイが切れた玩具のように動かなくなった。

 相手が死んだと確信するとイコンを抱き上げ、パンハイマは再び彼女の指示の元闇の中を走り出した。

 「なんだったんだ?」

 彼の疑問にイコンが答えるより早く前方の闇からカツンカツンという単調なリズムの靴音が響いた。

 階段で聞いたものと同じだ、あわてて立ち止まったパンハイマに対して反転して走れとイコンが指示する。

 「別の道が?」

 「車専用のエレベーターがあるの、多分動くわ」

 逃げる訳ではないが今はとにかく生須たちと合流せねば。

 もはやナイトメアウォーカーはパンハイマにどうにかできる相手ではない。

 「イコン、サチを元に戻す方法は!?」

 中断されていた質問を繰り返しながら彼は必死にコンクリートを蹴った。

 予想通り背後の相手は凄まじい速さで闇を駆け抜け、追跡してくる。

 「『コンバータ』を壊すか『電波』の受信を遮断するか、あとは本人の気分次第よ!」

 「気分だぁ?!」

 「鬱な時って聞く事見るもの全部悪い方へ悪い方へ考えちゃうでしょ?!

 ナイトメアウォーカーに殉教するにはマイナスの感情、つまり鬱の『電波』を大量に拾わなきゃならないの!

 その為に手早くお手軽に『アンテナ』の感度を良くするには本人の精神状態を鬱に傾けておけば…」

  彼女の言葉が切れるより早く視界に現れたのは、サビを吹いた黄色い巨大な扉だった。

 上下に開く機械式のもので脇にはライトの元照らされている小さなコントロールパネルがついている。

 パンハイマは現在いる階層が地下19階だと初めて知った。

 「地下11階を押して、それ以上は上に行かないわ!」

 イコンを降ろしてコントロールパネルに走り寄ろうとした時、不意に背後で駆けていた足音が減った。

 反射的にパンハイマがイコンの頭を押さえて無理矢理伏せさせる。

 二人のすぐ頭上で二人の女が放った飛び蹴りが通り抜け、エレベーターの壁に炸裂して耳障りな響きを放った。

 パンハイマがイコンの腕を掴んで扉から後退し、慌てて銃を構えて対峙する。

 体勢を立て直した女二人はさっき撃ったものも含めて背丈も顔つきも不気味なまでに似通っていた。

 エレベーターの扉を守るように左右対称になって構えた二人の女に向かって、パンハイマが引き金に指をかけた時だった。

 扉の真ん中からほぼ水平に銀光が一閃した。

 闇に走ったその閃きを理解するより早く、二人の女の上半身はゆっくりと腰からずれてコンクリートに落ちた。

 もう数回銀の閃光が走り、消えると同時に扉は滑らかな切れ口の元バラバラと積み木のように瓦解する。

 「あらら? 当たったと思ったら相手を間違えちゃったわ、025」

 「あらら? 当たったと思ったのに相手を間違えちゃったわね、024」

 イコンとパンハイアが身を強張らせ次第に表情に絶望が広がる。

 砂煙の中ゆっくりと身を乗り出すその巨大な異形の影が破壊と絶望の運び手だと知って。























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