プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -
レディオガール
RADIO GIRL
12.平坦な戦場へ
気を失ったままのサチの手からパンハイマの手の中の拳銃へと、その白い炎のようなエネルギーは脈々と流れ込んできた。
次第にそれは大きくなり波打つような圧倒的なパワーと内側から漏れ出し振り乱れる光球と化す。
疲労も恐怖もどこかに置き忘れてきてしまったかのごとく爆走し続けるナイトメアウォーカーに銃口を上げ、パンハイマは身を焦がす
焦燥を押さえて必死にエネルギーに振り回されないように両手で銃を支え正確に狙いをつける。
「あーッこんな事なら体重気にしないで食べたいモン食べとくべきだったわーっ!」
「じゃかあしい!」
頭を抱えて錯乱し、ぎゃあぎゃあ喚き出すミントを制した生須も平静を装ってはいるが表情の裏の絶望感は隠し切れていない。
しかし怒涛のごとく端末のキーを叩く指はそれでも衰えを見せず、か細い希望にすがる姿勢を崩そうとはしなかった。
冷や汗でぐっしょりになった顔を拭おうともせずに眼鏡の奥で瞳を忌々しげに細める。
「くそ…あと一分あれば」
画面に流れては消えていく膨大なデータを眺め、ようやく解析に成功していよいよパスワードの算出という時に。
通路の端に下ろされたイコンは黙ってパンハイマの行動を眺めていた。
小さな身体は恐怖と迫り来るナイトメアウォーカーの放つ熱でやはり冷や汗にまみれ、子猫のように小さく震えている。
もはやすべてが風前の灯と思われるこの状況では無理もないが、何故か彼女はパンハイマの行動に確信のようなものがあった。
かつてクシミナカタに聞いた事がある。
心にナイトメアウォーカーを持つ人間は必ずそれと表裏一体となる汚れなき真っ白な存在がいる。
どちらが欠けてもお互いは存在できず、またどちらかが存在する限り残りの片方も決して消える事はないと。
地獄の釜蓋が開かれんとする今、ナイトメアウォーカーが3m近くまで迫った時にパンハイマは一心に引き金を引いた。
少年の全身が薄くまとっていた光が銃口に収束し巨大な槍と化して発砲される。
バネのように跳ね上がった銃の凄まじい反動に耐え切れず、吹っ飛んだパンハイマは背後の生須に激突した。
青年と少年の短い悲鳴が同時に放たれる。
業火にまみれたナイトメアウォーカーの胸に一直線に突き刺さった槍は着弾地点で爆発的な光を放ち、鮮やかな切り口を残して
その半身を蒸発させた。
突然身体の半分が物理的にも感覚的にも消滅した事に気づいてナイトメアウォーカーは狂った脳裏で何が起きたか思考を巡らせた。
次の瞬間大気が震えるような絶叫を放ちながらも尚も全身を止めないその相手に、生須のロングコートに手をかけて立ち上がった
パンハイマが続け様に引き金を引く。
パワーのチャージが足りないのか初弾ほどの大きさはなかったが、それでも人間の腕くらいの太さの光の槍は残ったナイトメアウォーカーの
身体の大部分を消滅させるには充分すぎる威力だったようだ。
一層に強烈な断末魔の悲鳴を上げ、黒炭化した僅かな肉片を残して悪夢の落とし子は地上から完全に消え去った。
混沌の渦巻く闇の中で緩やかな堕落と惰眠に身を委ねてにいた少女は、手首に走る古傷の疼きを感じながら夢を見ていた。
―― 初めて手首を切ったのはいつだっただろう。
多分私はあの時、死にたくてカッターを手首に当てたんじゃなかった。
ただ自分の身体から血が流れれば、この世の中と自分を隔てる『壁』をどうにかできると思った。
私はこんなに傷ついている、痛みに耐えているって世の中に訴えたかったんだ。
『私は死にたいと思っている』と世の中に言えば、自分が無価値な存在でも許されるような気がした
――
血と鉛が入れ替わったような気だるさと無気力、浮揚感は心地良く、このまま瞳を閉じていれば眠るように消える事ができそうだった。
いつから、どのくらいの時間ここにいるのかもうわからない。
確か椅子に縛り付けられ、自分の額に押し当てられたクシミナカタの掌から凄まじい量の『電波』が流れ込んできたところまでは
覚えている。
安らかな怠惰の流れに身を任す事に抵抗し、サチは少しだけ記憶を手繰ってみる事にした。
『電波』に頭の中を引っ掻き回された彼女は激流のごとく渦巻くする他人の憎悪の最中でひと言だけ呟いた。
「何かも消えてなくなれ」と。
そのひと言でこの下らない世界のすべてが終わり、何もかもと決別できるのならならそれは安い注文だった。
それから随分長いこと激しい頭痛と悦楽が混じったような奇妙な感覚に翻弄されていたが、だけどたった一つこの世から消えて
欲しくないものがあるのに気づいた。
―― あたしはこの世のすべてがキライだけど。
あの人がこの世界を好きだって言うんなら…あたしも一緒に探したい。
貴方が好きなものがこの世界にあるのなら、あたしも貴方の他に好きなものを見つけたい
――
もやのかかっている視界に入っていたものがやっと白い天井だと理解できた。
寝過ぎた後のような全身の節々の痛さと胃からこみ上げる不快感に耐えながら、徐々に覚醒する意識を頼りに上体を起こす。
自慢の黒髪がボサボサだ。きっと顔も酷いものだろうとサチは思った。
患衣に着替えさせられているが点滴などは打たれておらず、全身に特に怪我がある訳でも痛む訳でもなかった。
何故こんなところにいるんだろうと必死に錆びついた頭脳を回転させるが、答えは一向に浮き上がってこなかった。
記憶はゴッドジャンキーズに囚われ虜となりイコンの部屋に案内された時点で途切れている。
彼女との会話の内容は断片的にしか浮かび上がってこずに、しばらくサチはぼーっとその場で呆けたように動きを止めていた。
そこは小奇麗な個人病室だった。カーテンの隙間からは柔らかな日差しが溢れており、鼻腔を消毒の臭いがくすぐった。
適度に効いた空調も心地よく、遠くから時折聞こえてくる風の音はあまりにも静かで眠気を誘う。
きっと天国という場所があればこんなところだろうが、サチが思い浮かべたのは故郷の星の風景だった。
安らかな雰囲気を楽しみながらふと隣で響く寝息に気づき、振り向いた先には一人の少年が椅子で仰け反り返って眠っていた。
服をまくった腕には包帯を巻き全身にも所々湿布やバンソウコウが貼られている。
日本人ではないが知っている叔父の顔ともどこか違う。しかしどこが違うのかどうしてもわからない。
無造作に束ねて背に垂らしたセミロングの金髪、細い鼻梁にまつ毛の長い少年だ。
不思議そうにサチがその顔を覗き込んでいた時、不意に彼の寝息が乱れうっすらと瞼が上がった。
「おおっ…と」
セーターの裾で眼をこすると、サチに気づいていないかのように大きく伸びをしてあくびを噛み殺す。
うっかり眠ってしまっていたのだろう。
首をコキコキ鳴らすその少年のつぶらな瞳を覗き込んだサチは、すぐにその特異性に気づいた。
黒目が磨き込まれた金属のようなメタルカラーの銀色をしているのだ。
そしてその視界に自分の姿が入っている筈なのに彼はまったく気づいていないようだった。
「ねえ」
「おお!?」
声をかけられて初めて少年はサチに向き直り、彼女と視線の噛み合わない瞳を大きく開いた。
「あんた誰よ?」
いぶかしげに聞いた彼女に一瞬動きを止めたが、すぐに彼は笑って片手で自分の顔の半分を覆って見せた。
「コレでもわからないかな?」
両目と鼻の頭あたりまで手に覆われたその顔と、記憶の中のいつもヘッドディスプレイをつけていた少年の顔とが今初めて
サチの中で一致した。
それは初めてサチが見たパンハイマの素顔だった。
彼女の予想を大幅に裏切り美形と言うか、どちらかと言えばどんぐり眼の女の子のような顔である。
パンハイマが成長を止めてしまってから視神経が機能しなくなり、機械的に増設した眼から新たに光を得ていたという事実を思い出す。
両方の眼球は義眼だ。実際今のパンハイマは音でしかサチの存在を知覚できていない。
「『眼』の方が結構破片や何かを浴びてたもんだから修理に出したんだ。ま、大した事ないから明日には治るさ。
君の体の方もまったく異常はないよ、今日の内に退院できるって」
彼が手にしている杖はヘッドディスプレイを使用する前まで使っていた盲人用のものだ。
「叔父さんが助けてくれたの?」
不意のサチの質問に、パンハイマは顎を掻きながら照れくさそうに笑った。
受けを考えて僕一人で行ったワケじゃあないけどね、とは言わないでおいたあたりがパンハイマである。
彼女は彼の無謀さに呆れると同時に胸に湧き上がる暖かさから、パンハイマが何時の間にかかけがえのない存在に
なっていた事を知った。
この人がいなかったら自分はどうなっていただろう。
閉ざされた闇の中でパンハイマは突然自分の胸の中に細い少女の身体が飛び込んできたのがわかった。
「解剖されて標本にされるとこだったんだから!宇宙人に人権はないんだからね」
喚きながらも肩を震わせて泣くサチをそっと抱く。
彼はようやく静かな日常が戻ってきたのを感じた
切り裂かれた肌の傷もそう深くはなく、パンハイマもしばらくは通院が続くだろうがとりあえずは大事には至らなかった。
一方サチは何ら怪我こそしなかったものの、パンハイマはオシリス・クロニクル社の付属病院で徹底的に彼女の全身を調べ尽くした。
ナイトメアウォーカーへの変貌を補助すべく体内に埋め込まれたという『コンバータ』を発見・摘出する為である。
CDに落としたレントゲン写真やスキャンの資料を見ながら、パンハイマはこのところ自宅のパソコンに食いつきっぱなしだった。
このような情報は本来プライバシーの問題から病院からは門外不出だが、自分はサチの主治医だと言って強引に持ち出したのだ。
しかし彼女の頭からつま先まで洗いざらいさらっても、パンハイマは何も発見できないでいた。
それにあまり意識しないようにはしていたが、クシミナカタが漏らした言葉の一つがしきりに気にかかる。
―― 『コンバータが元からあった』…ってのはどういう意味なんだ?
それに加えクシミナカタがまだ健在だと言う事も若干ながら不安を加速させていた。
しかしこれ以上はパンハイマの及ぶところではないだろう。気にはなるが後は生須達に任せて放っておくしかない。
修理から帰ってきた新品同様に輝かんばかりのヘッドディスプレイでモニタを睨みながら、パジャマのままの彼は何度目かの
溜息をつく。
僅かに顔にかかった金髪が吐息に揺れた。
「これは?」
白いハイネックのセーターの袖がにゅっと伸びてモニタの一部分を指差した。
どういう訳だかパンハイマの家で世話になる事になったイコンである。
といってもまあ彼の性格から言えば帰る家を失った少女を放り出したりはする筈がない。
白蝋の肌にも若干赤みが差し、彼女ももうゴッドジャンキーズだとは思われないだろう。喉の下の刺青はそのままだったが。
イコンの細い指は頭部のスキャンの脳底を指している。
「こりゃあ彼女が事故で作った血の塊だよ。脳の一番深いとこにあるだろ? 危なくって摘出できないんだ」
イコンにもコンバータがどんな形をしているかはわからないと言う。
二人はしきりに頭を捻っていたが玄関のドアが閉じる音に不意にモニタから視線を反らす。
「ただいまー」
コンビニに使いに出していたサチだ。
壁の向こうで彼女のパタパタと床を踏む足音を聞きながらパンハイマはCDのイジェクトボタンを押した。
「帰ってきたね。ご飯にしよう」
大きなソファの前のテーブルに買ってきた昼食を広げながらサチは早くも不満を垂れていた。
今日は珍しくデニムのスカート姿だ。
『コンバータ』の影響は特に精神や健康面には現れないようで、いつも通りサチはサチだ。
相変わらず生意気な娘で宇宙人だの何だの口走ってはいるが、イコンに対してはパンハイマの予想以上に気遣いを見せていた。
「毎日毎日コンビニかファミレスばっかじゃん、もっとマシなもん食べたいよ」
ビタミン剤を色々取り出しながら栄養が偏るだの何だの言って彼女がソファに腰を降ろす。
確かに並べられた様々な食品は身体に良いとは言い難いものばかりだ。
パンハイマは仕事がある間はほとんど自宅に帰らない為、休暇中の食事はそれでも大して困りはしない。
社なら食堂があるし料理のできる知り合い(主に女性)も多いからだ、しかしさすがのパンハイマも毎日のこの食生活には辟易していた。
この大して年も違わない(ように見える)三人は大抵の家事は分担して行うという奇妙な共同生活をしていたが問題は調理の件だった。
「仕方ないだろ、誰も料理ができないんだから」
サチと向き合うようにカーペットに腰を降ろしてパンハイマが言い返した。
「あ、イコンお湯持ってきて」
サンドッチのビニールを剥きながら指図する彼女に今度はイコンが不満を漏らす。
「自分で持ってきなさいよ」
「居候が文句言わないの!」
「君が言うな」
おにぎりを齧りつつサチに突っ込みを入れながらも、パンハイマはこのままでは良くないと考えていた。
栄養が偏って病気になっては適わないし第一二人の少女の健康と美容を損ねるなどあってはならない事だ。
今後の事態について色々と案を巡らせながら、しかし何故か彼はこの生活を楽しんでいるようなところがあった。
窓から落ちる日差しは暖かく、前まで一人暮らしをしていたにしては物の多い彼の部屋に柔らかな陰影をつけている。
ただし結局修理を呼ぶのを先延ばしにしたままでパンハイマが割ったガラスの跡は段ボールを貼っただけになっていた。
ちなみにサチが叩き割ったトイレの窓も同様である。
「料理かあ」
家政婦でも雇おうかと思ったが、果たしてほとんど他人のような三人の男女が暮らすこの家に来てくれるものだろうか?
おまけに昼間から遊んでいるかダラダラしているばかりで誰一人として学校にも行っていない(パンハイマは別に良いのだが)。
よく考えてみればこれはかなり妙な三人組だと思ったがパンハイマは口に出さずにおいた。
「私お菓子ならちょっとだけ作れるわ」
意外な事を言いながらイコンが小型のポットを片手に戻ってきてサチの隣に気取った態度で腰を降ろす。
イコンは一番年下ながらサチに比べればはるかにしっかりした娘だった。
しかし彼女は彼女で時折世間知らずと言うかとんでもない事をやらかす少女でもあり、雨の日に家の中に吊るした洗濯物が乾かないと
言っては室内でたき火をして乾かそうとしたり、金銭感覚がムチャクチャだったりした(そもそも貨幣・紙幣の種類もよくわかっていなかった)。
ゴッドジャンキーズにいたせいだろうが世間の常識と若干ズレが見られるのだ、まあその辺はサチと補い合う形となっているのだが。
案外二人は喧嘩もなくやっているようでこれにはパンハイマも内心ほっとしていた。
「お菓子?誰に習ったのさ」
「クシミナカタよ」
弁当を開きながらいつものポーカーフェイスのまま、イコンはさらりととんでもない事を口にした。
一瞬サチとパンハイマが顔を見合わせる。先に口を開いたのは、ポットを持つ手を止めたサチだった。
「クシミナカタって…あの兄ちゃんが教えてくれたわけ?」
「ええ。そうよ」
イコンの言葉に二人が同時にほぼ同じ想像を巡らせる。
日曜日の午後、フリルのエプロンをつけたクシミナカタが広々としたキッチンで年端も行かない少女と一緒にクッキーを作る姿…
たちまちきょとんとしたイコンを除くその場の二人の笑い声がテーブルの上の食品を揺らしていった。
あちこちに山と積まれている漫画の中、薄闇にふと顔を上げたパンハイマは外に夕日が満ちている事に気づいた。
居住している部屋とは別にマンションの一回に借りている別室である。
彼が趣味で集めた膨大な量の書籍はすべてここに収められていた。
大半は彼の好む漫画であり暇を見つけては読みふけっている。
昼食後サチとイコンは服を買うなどと言ってふもとの商店街まで買い物に出かけており、家には彼一人だった。
手にしていた漫画を置いてソファの上から起き上がりながら、相変わらずパジャマのままのパンハイマは紅の明かりを浴びて
大きく伸びをした。
強張った全身の筋肉がほぐされ肩が僅かに軽くなる。
機械的な視覚の持ち主たる彼にとって眼の疲れとは無縁なものだったが、数十年経っても癖で目頭を押さえてしまう。
姉さんに良く言われたっけ、暗いところで本を読むなって。
思い出の中でしか逢えない人の言葉を思い出しながらパンハイマは居間に向かった。
一度靴を履いてマンションの通路に出てから、正面の扉を通って居住している部屋に入る。
玄関にすぐ入ったところではでは無言のままギガントが控えていた。
居間に進むとベランダの窓から半分枯れた藪が見え、その100mほど遠くに夕焼けに赤く染まった道路が見えた。
人気の無い建売住宅の中を通る一本道を歩いている二つの人影を確認し、眼を見開いてヘッドディスプレイのズームを駆使すると
二人の少女達が見えた。背の低い片方はあまり似合わない男物のジャンパーを羽織っている。
サチは最近自分のものを買ったからこっちはイコンだろう。
二人とも手荷物を持ちながら何やら隣の相手と楽しげに談笑しているようだ。
そう言えばイコンの本来の素顔は優しいものだった。
ゴッドジャンキーズにいた頃はいつも何かそれを押し殺していたように見える。
窓に腕を当てながら、そんな二人の様子を見てパンハイマは何故かひどく嬉しい自分に気づいた。
この家に自分以外の誰かが帰ってくると言う事が嬉しい。
パンハイマに知り合いは多かったが一人暮らしは長いもので、日本に来てから15年近い年月をこの家で一人で過ごしていた。
結婚しようと思わなかった訳ではないし、実際そうしたいほど好きな女性は過去に一人いた。
だが彼はもちろんわかっていた。相手が自分を好きだという感情は決して恋愛感情ではないということを。
話し上手な顔の良い少年だから一緒に遊んでくれてるだけだ。
きっとパンハイマが結婚の事など打ち明けても笑って相手にしなかっただろう。
彼はこの孤独が自分が受けた、自然の摂理に逆らった罰だと思っていた。
二人がパンハイマの視界から消え、しばらくしてからただいまという声が玄関から二つした。
両方とも買い物帰りの興奮からか心なし浮かれているようだ。
暖房を入れながら何を買ったのか、いやその前にいくら使ったのか聞き出さなければとパンハイマは二人を出迎えに身を翻した。
今だけは自分に罰を与えた神に祈らずにはいられない。
この幸せな時間が、日々が、どうかゆっくり流れますように。
ただいまという言葉の次にサチは手荷物をテーブルにどさりと置いた。
白いビニール袋が木製の台の上に乗せられ形を崩す。
パンハイマはその中味の野菜や調味料などを手に取ってまじまじと眺めながら、次に視線をサチに移した。
「何だいこりゃ」
「イコンと話したんだけどさ。外食もいいけどやっぱ何か作って食べないと体に悪いと思って」
マフラーと上着を外してソファの上に置きながら彼女はイコンに『ねー?』と同意を求めた。
ソファに沈み込み早速自分の手荷物を解いていたイコンが頷いて微笑みかける。
「ええ。サチの言う通りよ、女の子にはもう少し思いやりのあるものを食べさせてね」
「そりゃそうだけどさあ」
腰に手を当てて困った表情をするパンハイマの心中を察し、サチは袋の中から色々取り出して見せた。
隣に立った少女がまとう芳香が微かに彼の鼻腔に届いた。薄いが甘い、菫の花のような香りだ。
「また新しい香水を? ホントに好きだなあ」
「『ラブテロリズム』の新しいヤツだよ。でまあ色々話したワケよ、何だったら簡単に作れて栄養あるかなーって。その結果」
ごそごそと食材を押し退けながら取り出したのは一つの小さな土鍋だった。百円均一で売っているやつだ。
「テキトーな物を入れて喰える『鍋』という事になりました」
誇らしげに土鍋を見せびらかす彼女にパンハイマができたのと言えば、ああ、そうなのと曖昧に頷く事だけだった。
今日も元気な娘だと何となく考える。
「しかし鍋って…君、こりゃあ…」
少年が野菜の中に埋もれていた甘栗やピザの生地、フグ、生クリームや干しサボテンの輪切りなどに視線を落とす。
付き合いや自主的に日本の料理は何回か食べたが、少なくとも彼が食した鍋料理の中にこのような品は入っていなかった筈だ。
その中の一つ、水袋に入った生きたフグ丸ごと一匹を手に取ってサチが堂々と言い放った。
「入れるのよ」
「入れるな! どういう鍋だ!? そもそもフグは素人が料理しちゃいけないの、どこでそんなモン買ってきた!」
「熱帯魚屋」
「だからどういう頭の捻り方したら熱帯魚屋で夕飯の食品を買おうとかどこからそういう考えがこの娘は」
髪を掻きむしって激昂するパンハイマに彼女は胸を張って言い返す。
「何でよ? あたしママの実家で食べたけどこういうもん色々入ってたもん」
エミコ君、君は娘にどんなものを食わせてたんだ? とパンハイマが頭の中に瞬間的に浮かんだ知り合いをなじる。
そんな彼を他所にサチは片手で前髪を掻き揚げながら眉根を寄せて記憶を巡らせ、一つの単語に行き着いた。
「えーと何つったっけ、ママは『ヤミナベ』とか言ってたけど」
サチの考えの過ちを正す気力は残っていなかったので、三人は日もとっぷり暮れた頃夕食の仕度をする事にした。
パンハイマはどのような経過でサチの母親たるエミコが自分の娘に闇鍋などを食わせようとしたかそのあたりが非常に気になったが、
とりあえずこの疑問は他所に置いておく。
エプロンなどなかったのでバスタオルに紐をガムテープを固定し、即席の前垂れを作って装着。
戦場を前にした兵卒のような心境で肩を並べて三人はキッチンに赴いた。
ほとんど使われていなかったキッチンは狭いが身体の小さい三人には充分な広さだ。
念入りに手を洗ったところで一行は早速つまづいた。
「何からすればいいの?」
頭に三角巾を巻いたサチが極めてストレートにパンハイマに聞いた。彼女はイコンと彼に挟まれる形の位置に陣取っている。
「何って…えーと」
医者の性分としてパンハイマはとりあえず術前の事を考えてみた。
普通手術の前は手を肘のあたりまで専用の液体石鹸で丹念で洗う。
不潔な身体だと細菌により患者に二次感染が起こるからだ。
一切のものに手を触れないように助手に術衣の背中側の紐を締めてもらい、処置をした患者のいる手術室へ…
「僕ァ虫垂炎を人前でアツベと口に出して呼ぶのが夢だったんだ」
妄想の世界に旅立った彼の言葉に理解が及ばず、眉を跳ね上げるサチの隣でイコンが悠然と答えた。
「まずは食品を洗うの、野菜は切ってね。それと鍋って言ったら出し汁を作らないとダメでしょ?」
「「おお」」
サチとパンハイマの羨望の混ざった声が重なる。さすがはまったくの素人の二人とは違うようだ。
「これからは『料理の別人』と呼ばせてもらおう」
「叔父さんそれを言うなら『料理の鉄芯』」
「…『料理の鉄人』でしょ」
イコンの呆れたような冷ややかな突っ込みで二人のやり取りはそれでお開きとなった。
何だか中学生の調理実習のような状況となってきたが、多少は料理の心得のあるイコンのおかげでそうムチャクチャな事にはならなかった。
パンハイマは食材を切るのを一時司令塔となったイコンに任され彼女とサチの二人が出し汁を担当する事となった。
彼が洗い終えた野菜の皮を剥こうとポケットから冷たい光を弾く金属の棒をいくつも取り出し、手元に並べ始める。
水滴の跳んだ台所に置かれてそれらがガチャガチャと耳障りな金属音を放つ。
丁寧にその金属の棒を洗う彼の手元に視線を落としたサチがぎょっとして声を上げた。
大小様々なその棒は、先端が鋭利な刃となって僅かに反り返っている。
「叔父さんソレってメスじゃないの!?」
「ああ、包丁がないからさ」
こともなげに刃に指を当てながらパンハイマが片手で額の汗を拭う。そう言えばキッチンに長時間立つなんてどのくらいぶりだろう?
見とれてしまうほど鮮やかな手つきでほとんど空を切るかのごとく音もなく皮を剥いでゆく彼に、サチが不安そうに聞いた。
「新品だよねえソレ?」
あえて普段野菜と同じ位日常的に何を切っていたかという質問は喉の奥へ押し留めておく。
「おいしく食事をする為にそれは聞かない方がいい」
「どういう意味よ!?」
「嘘だよ、冗談さ。新品だよ」
いつだったか病院でポケットに突っ込んだまま忘れてた物だという事は黙っておこうと胸に決め、パンハイマは手元に集中した。
洗ったのだから特に問題はないと彼自身は思っている。
幸いサチは何故パンハイマの自宅に新品のメスがあるのかという事までは考えが及ばなかったらしく、大人しく自分の担当に戻ったようだ。
ふとパンハイマはイコンを談笑しながら危なっかしい手つきで調理をするサチの横顔を盗み見た。
よく笑う娘だ。彼女の思考の外で深刻な問題を抱えているとは到底思えない、咲き盛る夏の花のような笑顔だった。
考えてもどうにもならないとわかっていても、パンハイマには悩みが尽きない。
禁を破る事になるがやはり親に連絡した方がいい。手遅れになってからでは遅いのだ。
あまりあてにならない決心を胸に決め、パンハイマは視線を手元に戻した。
不意にこの感情は親の代理としてだろうか、それとも男としてだろうかという考えがよぎったがすぐにそれも忘れてしまった。
かくして今、和室のコタツの上にはガスコンロに乗った鍋がぐつぐつと湯気を上げながら煮立っていた。
隣のボールには後から追加できるよう色々な食品が乗っている。
このコンロもサチが買ってきたものだ、理解不能なものまで買ってきた事を除けば気が効いている。
これは味噌で煮込む石狩鍋というタイプのもので、漂うまろやかな香りにパンハイマが唾を飲み込む。
「やあどうなる事かと思ったがこれはなかなか」
運んできたお椀を台に置き、ごそごそとコタツに入り込んだ彼が思わず笑みをこぼした。
先ほどから腹が不平を垂れている、黙らすのには丁度いい腹具合になってきた。
「余りは冷蔵庫に入れておいたけれどほとんど空っぽなのね。いつも何を食べていたの?」
「ほんっとーに毎日毎日外食かインスタントだったんだよ。イコンが想像してたのは『しょっちゅう外食かコンビニ』でしょ?
前までのウチは『毎日外食かコンビニ』なのよ」
「悪かったな」
同時にコタツに入ってきた二人にパンハイマが漏らす。
サチは化粧を落としてパジャマに着替えている。イコンはそのままだがあまり気にしている風はない。
和室は今の隣にある部屋でコタツ以外にはほぼ何もなく、壁にパンハイマの故郷の風景の写真がかけてあるだけだ。
畳にはパンハイマの仕事で使うプラスチックのファイル等がいくつか積んであったが、サチが事前に無造作に押し入れに放り込んでおいた。
頂きます、と手を合わせようとした彼を向かい側に座っていたサチが制した。
「待って。電気消さなきゃあ」
「電気って…いいかい、君のママが食べさせてくれた鍋は極めて特殊な部類に入るんだよ。普通はそのまま食べるの」
パンハイマの説明にサチがきょとんとして聞き返す。
「悪魔を合成すんじゃないの?」
「いやだから一体君はエミコ君に何を食わされたんだ!
闇鍋を一般的な鍋だと間違えていた事に理解は及んだが何故そこで悪魔が出てくる!?」