プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -






レディオガール
RADIO GIRL


13.餓えた夢


  サチの勘違いを正すのに多大な努力を必要とした以外は満足な食事を終え、僅かに食休みを取った後に三人は後片付けに

 踏み切った。

 サチはもうこのままコタツで寝たいとダダをこねたが、文句を言いながらもイコンにならって食器を運んでいる。

 なんだかんだ言って良い娘だと内心サチに苦笑しながら、パンハイマが冷蔵庫に戻そうとペットボトルを運んでいる時だった。

 陶器の砕ける騒々しい音と短い悲鳴にサチとパンハイマが同時にキッチンに視線を向ける。

 彼が小走りに居間を抜けてキッチンに向かうと、イコンが爪先を押さえてキッチンに敷いてあるマットの上に座りこんでいる。

 その周囲には砕けた陶器の破片が散乱していた。彼女は先に洗い物をしていたのだが手を滑らせて食器を落としてしまったようだ。

 淡く電灯の光を返す生白い肌には真紅の線が一筋走っている。

 「落としちゃって…破片で切ったみたい」

 僅かに苦痛に眉を寄せるイコンの目の前に、どれどれと呟いてパンハイマが屈み込む。

 「ふむ。破片が残ったままになってたらマズかったけど。ま、大丈夫さ」

 彼女の細い足の甲を取って調べる彼に、イコンは おずおずと詫びた。

 「ごめんなさい」

 「いいさ。一個くらい」

 パンハイマは笑い、ひざまずいたまま何の忠告もなく彼女の足の甲の傷に口付けた。

 突然自分の傷口に舌を這わせるパンハイマの行動に、イコンの顔がたちまち朱を帯びる。

  振り払う事さえ忘れて全身の血液が逆流するような恥ずかしさに呆然としていた彼女の意識は、すぐに相手の悲鳴によって覚まされた。

 「調子ぶっこいて堂々と何やってんのよこの変態!」

 パンハイマの後頭部に押し付けたまだ充分に熱を保っている鍋を片手に、サチがイコンに手を貸して立たせる。

 後頭部を押さえながらうめいていたパンハイマが立ち上がり彼女の暴挙に猛然と抗議した。

 「ななな何て事するんだよお! ハゲになったらどうしてくれるんだ」

 「いっそハゲちゃえばいいじゃん、親子くらい年の離れた子に何てことすんのよ! ロリコン!」

 「誰がロリコンだ、大体年齢に関係なく女性ならすべて僕に平等に愛される権利があるだろうが」

 サチも実際にはイコンとそう年は離れていないのだがもちろんそんな事に気づいてはいない。

 眉を吊り上げていがみ合う二人を何とかイコンが仲裁し、この場はお開きになった。



  パンハイマ家の中でサチの自室として割り当てられているのは居住用の部屋の一角で、七畳ほどの洋室だ。

 元々は物置のようにパンハイマの私物がごちゃごちゃと置かれている部屋だったのだが不要なものは別室の書斎に移し、

 棚やベッドなど新たに運び込んだ家具によって占められている。

 居候の身なのでそう物は多くないが、ガラスケースの棚だけはきちんと並べられた化粧品で溢れ返っていた。

 とりわけ目に付くのが香水の類いで100種類は下らないだろう。パンハイマから搾取したあぶく銭で購入した品々である。

 サチは小さなちゃぶ台のようなテーブルの上に乗せた卓上鏡を睨みながらクリームを肌に塗っており、イコンはその背後で

 スケッチブックを手にペンを走らせている。

 しばらくはサチと彼女はここで寝食を共にする事になっており、ベッドで寝るか布団で寝るかは毎晩ジャンケンで決めていた。

 「むむむ。これはなかなか」

 化粧品について謎の感想を漏らすサチに、ふとパジャマに着替えたイコンが声をかけた。

 「私はいつまでもここにいていいの?」

 「良いんじゃない」

 鏡に映る彼女の表情を盗み見ながらもあっさり答えたサチに、イコンが不思議そうな顔をする。

 「何故そういつも気楽なの?」

 「…ああ、もしかしてアレ? 気にしてんの、自分がゴッド…えーとジャンキーズ? だったって事」

 予想以上に勘の鋭いサチの問い返しにイコンがぎくりと肩を震わせた。

 そんな彼女の様子を知ってか知らずか、イコンの言う通りサチは気楽な口調で続ける。

 「別に良いじゃん、叔父さんはああだしあたしも気にしてないしさ。イコンが道案内してくれたんでしょ? あいつらの基地で」

 「返って足を引っ張っていたかも」

 布団の上にぺたんと座り込んだ彼女に振り返り、サチは溜息を一つした。何故こうもマイナス志向なのだろう。

 「おかげで叔父さんもあたしも助かったんだから感謝してるって、余計なことまで考えないの。ところで病気の具合は?」

 突然の質問にきょとんとするイコンに、サチが自分のコメカミのあたりを人差し指で突付いて見せる。

 「あんたの頭の病気」

  イコンは視界の中にもう一人の自分が見えるという原因不明の奇妙な病気に悩まされている。

 パンハイマもサチに聞いてその事は知っており、精神科に行こうと言っているがイコンにはあまりその気がない。

 彼女はこれが自分のナイトメアウォーカーだと考えている。

 斬り捨てていった自分の感情から生まれた、自身を憎んで止まない憎悪の子。

 「さあ。どうかしら」

 スケッチブックに視線を戻し、休んでいた筆を再び走らせ人事のように答えたイコンもサチに劣らず気楽なように見える。

 けれどサチは知っている。一晩に何度も眼を覚まし、恐怖に小さくなって震えているイコンの姿を。

 まだ共同生活を始めて数日程度だがそんな彼女の姿を見るのはサチなりにやりきれない思いがある、だけどサチに何ができるだろう。

 彼女はイコンは優しい子だと思う。だからこそ憎悪を他人に向けられずに内側に溜め込んでしまい、結果としてその病気を患うハメに

 なったのだろう。

 元の持ち主に捨てられたストレイドールズであるイコンの孤独と憎悪はどのくらいのものなのだろう?

  サチが次の言葉を捜している間に不意にイコンが会話の流れを変えた。

 「パンハイマは誰にでも優しいの?」

 意外なしばらく考えた後に、

 「女の子には大体そうじゃない?」とサチ。

 そうなの、と答えてそれきり黙りこくってしまったイコンに対して、サチはむくむくと胸のうちに悪戯心が湧いて来るのを感じた。

 鏡を閉じて置くと相手を探るような眼で笑いながらイコンにとって最も意表をつく質問を口にする。

 「なによなによ、好きんなっちゃった?」

 「誰を?」

 いつもながら冷静さを装って答えたが、普段性格が真面目なだけにイコンは動揺すると明らかに態度に変化が見られる。

 妙に落ち着きを失った彼女に苦笑すると、もう寝ようと言ってサチは広げた私物をポーチに突っ込み始めた。



  ジャンケンで負けたので今日は布団だ。

 毛布にもぐりこみながら、サチは大きく一度溜息をついて目を閉じた。

 きっと故郷に帰ったらこんな何でもない事がずっと思い出として心に残るのだろう。

 そしてやがては忘れてしまう。

 胸に過る一抹の寂しさを感じながらゆっくりとサチは眠りに落ちていった。



  自炊を始めてから二日目の朝、一人の少年と二人の少女は地元のデパートへ買い物に赴いていた。

 商店街の真ん中にある七階建ての建物で、他の建造物に挟まれながら窮屈そうにその土地に居座っている。

 またも化粧品売り場でサチの買って買ってコールを受けてパンハイマはあからさまにうんざりした表情を隠そうともしなかった。

 彼女は両親が離婚目前という憂き目に合っているのだからとパンハイマが甘やかした分もあるだろうが、この果てる事なき物欲は

 どこから湧き上がってくるのだろう。

 パンハイマのマンションのサチの自室はもう彼女が買い集めた化粧品でいっぱいだ。とりわけ香水は大きく場所を占めている。

 彼女はそれほど化粧が濃いという訳でもないのにこんなに買い集めてどうする気なのか。

 「これからはお小遣いは一ヶ月に五千円だけ! 僕はもうお金はおろか舌も出しません」

 「えーっ!? お金持ちのクセに何でさー!」

 「あのねえ、若い頃からそうやって好き勝手に使い放題してると困るんだよ将来。色々と」

 「私はどうせこの星で将来が来る訳じゃないもん。ローズマリーに帰れば女王様なんだから!」

 「とにかくダメ」

 パンハイマは一喝したが尚もサチは食い下がり握った少年の手を離そうとしない。

 端から見ればまあ若い二人の微笑ましい喧嘩に見えない事もないが、実際の年齢の差は親子ほどもあるという事実を知る者は

 そうはいまい。

  来たついでに食品を買う前に色々と見て回ろうとパンハイマはサチとイコンの二人と別行動をしていたのだが、日用品を見て

 回ってから待ち合わせの時間まで暇を潰そうと喫茶店に向かう途中で、偶然にサチと化粧品売り場で会ってしまったのだ。

 イコンはサチとパンハイマの様子に苦笑し、長くなりそうだからと言い残して隣の本屋で雑誌を立ち読みしている。

  よりによって化粧品売り場で彼女と出会ってしまった己の運命を呪いながらパンハイマは幾度となくサチの言葉を否定し続けていた。

 膨れっ面をして見せる彼女は今日はデニムのパンツ姿で、深い茶のハーフコートに赤のハイネックのセーターで決めている。

 地味だがサチの素材が引き立つとも言えなくもないファッションだ。状況が状況でなければ誉め殺している所だが。

 ただしサイフの中味は空っぽだ。

 今まで買い与えた服を除いて別に小遣いは渡していたが彼女には計画性というものが少し足りない。

 「渡したお金の分だけ使っちゃうなんて考え方が猫並だよ、ちょっとは考えて使わなきゃダメ!」

 「五千円じゃ何にも買えないよお、叔父さんって親戚で一番お金持ってんじゃん? ね、お願い!ダイスキ!」

 両手でパンハイマの手を掴んでサチは懇願したが、彼はヘッドディスプレイに覆われた顔を相手に寄せるとダメ! ときっぱり言い放った。

 さしもの彼女もこれは効いたのか少年の声に小動物のように身を縮ませる。

 妙な浪費癖をつけてしまったのではエミコに逢わせる顔がないとばかりに強気の態度で押し切り、パンハイマは掴まれていた彼女の

 手を引いて無理矢理その場から離れようと足を進め始めた。

 「帰ったら星のお金でデパートごと買っちゃうから」

 「そうしてくれ。地球にいる間だけでも我慢を覚えてくんなきゃ」

 未練たらたらの視線でしばらく背後を恨めしそうに眺めていたが、やがてサチも彼から手を離すとパンハイマに合わせて歩み始めた。



  イコンは本屋の立ち読みに夢中になっており、待ち合わせの時間になったら行くからと言ってすぐに雑誌に視線を戻した。

 二人は待ち合わせ場所の喫茶店に入ると窓際の席に腰を降ろした。七階の窓から望む景色は素晴らしいと言いたいところだが、

 あいにく目前にあるのは向かいのマンションの窓ガラスばかりで淡い冬の陽光を照り返しているだけだ。

 それでも窓の外のビルの合間から見える神薙市の上空は夏とは比べ物にならないほど青く、鮮明だった。

 平日の午前のせいか客は少なく、店内は閑散としている。

 注文したカフェオレが届く前にサチはバックからさっきの化粧品売り場で詰め込んできた試供品を取り出して広げ、一人で悦に

 入りだした。

 「んんん。ゴージャズ」

 一つ一つを手に取っては楽しそうに眺める彼女に、パンハイマはあることをどう切り出そうかと迷っていた。

 「両親にはちゃんと連絡してるよね」

 「ロンモチ」(=『勿論』)

 サチには専用の携帯電話を買って渡してある。

 本当に連絡しているかどうかはかなり怪しかったがパンハイマはサチを信じる事にしている。

 「…どこでそういう間違った日本語の使い方を覚えてくるのさ」

 「ママがいつも使ってんの」

 テーブルの上に広げた品々を眺めながら返事をするサチはあまり真面目に聞いていないようだが構わず彼は続けた。

 単刀直入に言うのはあまり得意ではない、まずは搦め手からだ。

 「君はずっとウチにいてもいいけどさ」

 なるべく彼女に余計なプレッシャーを感じさせないよう、慎重に言葉を選んでパンハイマが話し始める。

 「君ァそれでもいいのかい。サチって15歳だよね、高校行きたくないのか?」

 「べっつにー」

 大して興味もなさそうに言ってサチはマフラーを外し、ウェイトレスに差し出されたカフェオレに口をつけた。

 「別に今まで学校サボってたからって行けないこたないよ、夜学とか…」

 「学校キライ」

 あっさり言ってのけた彼女にパンハイマは内心頭を抱える。困った子だ。

 とは言えパンハイマとて十数年前には真面目に通学していた訳ではない。

 姉が非業の死を遂げるまで相当性格のひねくれていた彼は今更学校から学ぶものなどないとばかりにロクに学校に行ってなかったのだ。

 彼に説得力はまったくない。

 「毎日遊び回って寝て喰ってるだけじゃないか。君の人間性がダメんなっちゃうよ」

 「別にいいもん、ローズマリーに帰ればこの星の事なんかどうでも。女王様は地球のこと勉強する意味なんてないよ」

 これを言われるとどうしてもパンハイマはニの言葉に詰まってしまう。脳細胞を総動員しても的確な答えが見つからない。

 予想以上に手強い敵を前にコーヒーは手付かずのままだ。

 そう言えばパンハイマは彼女の手首に走る傷の理由もはっきりとは知らないし、そもそもエミコの娘だと言う事さえ最初は知らなかった。

 今となっては彼女の口から聞く方法はないのかも知れないが、サチはどんな絶望を味わってきたのだろう?

 精神分析は専門外だが医者としては何となくわかる。

 居場所のなさに苛まれ、どこか逃げ込む所が必要で空想の中でだけの故郷を作り出してしまったという彼女の孤独。

 もしかしたら事故で脳内に血腫を作った事は彼女にとって良い事だったのかも知れない。

 結果的に寿命を縮める結末になりそうではあるが今のサチは毎日がとても楽しそうだ。

 だからと言って放っておくのは危険だが手術はもっと危険だ、成功・失敗を問わず多大な障害を残す可能性が高いし下手をすれば

 死ぬ事だってある。

 しかももし治療に成功し何の障害も残らなかったとしても、サチの恋焦がれる故郷は永久に消滅してしまうのだ。

 決して明るくない未来に表情を翳らせる少年に、何も知らない彼女はふと顔を上げて眉根を寄せた。

 「どしたの」

 「ああ、何でもないよ」

 慌てて笑みを作りながらパンハイマは冷めかけたコーヒーにスプーンを突っ込んだ。

 まずは彼女の両親と直接話さなければ。現状を伝え判断を仰がねばならない。

 彼女の隙を突いてこっそり携帯の番号を盗み見る方法がないでもないが、もしバレて失踪でもされては問題だ。

 サチはパンハイマにあらゆる意味で裏切られたと理解するだろう。

 何せ彼女は地球人にその正体を隠して住まう宇宙人なのだから。

  様々な思考が絡み合って頭痛がしてきそうだ。ふと彼はコーヒーから顔を上げて視線を正面にやった。

 窓際の席で彼と向かい合って腰掛けているサチが隣のマンションの窓ガラスが照り返す光を浴び、光のベールに包まれて見えた。

 その姿に眼を奪われ、パンハイマの胸を満たした胸を締め付けられるような感情は何なのだろう。

 恐らくはこの子を失いたくないという切なる思いなのだろう、彼は機械の眼を通して映る光景をひどく愛おしく感じた。

 ―― そうだ。希望がないワケじゃあないんだ。

 はっと我に返り、パンハイマは自分に言い聞かせた。

 手術が成功し、もし彼女の故郷―プラネット・ローズマリーが記憶から消えてなくなってしまったとしても。

 願わくばサチがパンハイマに何らかの好意的な感情を持ってさえいれば、パンハイマが次なる彼女の故郷になれるだろう。

 「何笑ってんのさ」

 自分に降りかかっている視線に気づいて再びサチが怪訝そうに口を聞く。

 「ああ。いや、何でもないよ」

 「さっきから何よ、ラリってんの?」

 「ほんとにいちいち言い方が失礼だなあ君は」

 パンハイマは窓の外のあまり面白くもない景色に目を移した。

 今日もいい天気だ。ここ一帯は神薙市の中でも交通量が多いところだが冬場は空気が澄んでいるせいで空が透き通って見える。

 ほんのしばらく呆然と窓の外を眺めていたパンハイマが、突然ぎょっとして反対側に振り向いた。

 「?」

 眉根を寄せるサチを他所に、彼の視線はカフェオレのお代わりを注ぎにきたウェイトレスに釘付けになっている。

 高鳴る鼓動を押さえ、油の切れた玩具のように錆びついた動きでゆっくりとパンハイマが再び窓に向き直った。

  ガラスに映っているのはサチと彼、そしてテーブルを挟んで見えるウェイトレス。

 しかし法則に反して映りこんでいるウェイトレスだけは線対称の姿をしていない。

 虚像は実像よりはるかに長身で乳白色の編んだ髪をマフラーのように首に巻きつけていた。

 その半分透けた身体をもつ、背後の背景とほぼ一体化している虚像が眼鏡の奥でニィとパンハイマに笑って見せる。

 「自分でも呆れるね。ワタシはここまで執念深い男だったかな?」

 そのガラスの中の男の唇が小さく動いたが、声がしたのはパンハイマの後頭部からだった。

 女の声だ。振り返った彼の視線の先では死魚の眼をしたウェイトレスの若い女性がそう呟いていた。

 異様な生白さの顔色とその下の喉に刻まれている奇妙な円形の刺青が瞬間的にパンハイマの目を捕え、焼きつかせる。

 彼が咄嗟にサチの手を掴んで立ち上がるよりも早くその女は幾条もの光の帯へと分解し、ガラスの向こうでまったく同じ行動を

 しているクシミナカタの虚像が分解した光の帯とガラスの表面で交錯する。

 勘弁してくれと悪態をついたパンハイマの前で再び光の帯は融合し、クシミナカタの姿へと成型した。

 今虚像と実像が入れ代わったのである。

 カツンとエナメル質の黒い光を照り返す靴で一歩踏み出し彼はもう一度微笑んで見せた。

 実像と入れ代わりにガラスに映り込んだ虚構の世界へと送られたウェイトレスがまったく同じように笑う。

 無機質に上塗りしただけの、その下には何の感情も存在しない笑みだった。

 「苦労もあったが我々の悲願は遂に達成された」

 そう言ってうやうやしく頭を垂れる。サチと初めて逢った時と同じように極めて無機質に、貴族的に。

 動作はどれを取っても優美と言っていいが、軋みと歯車の音が聞こえそうな機械感だけはいなめない。

 「なら勝手にやっててくれ、何で僕らに自慢しに来るんだよ!」

 騒々しく椅子を蹴り倒して立ち上がったパンハイマが慌てふためいてそんな事を口走る。

 ふとクシミナカタは眼鏡をかけ直し、端麗な顔に苦悩するような表情を作って見せた。

 「ワタシには征服とか、富とか…そういう欲望があまりない。というか最初からなかったんだけれど。

 生まれる時に頭に刷り込まれたのがたった一つの概念、『ナイトメアウォーカーであれ』という事だけ。

 サチ君」

 突然名指しにされた彼女がビクンと震える。

 そんな彼女の様子を楽しげに眺めてクシミナカタは手を持ち上げ、自分の顔の前まで持ってきた。

 針金のように細い指がかすかに鼓動している。

 「不躾な言い方で済まないが単刀直入に言えば君の脳内にある『コンバータ』が欲しい。

 どこの誰が作ったものかは知らないがそいつの性能はワタシの体内のものよりはるかに高性能でね。

 前回は摘出する暇もないまま『殉教』を行ってしまったが」

 脳内だって?

 駆け寄ってきたサチの手を握りながら、相手の問いかけにパンハイマは再び自身の中の疑惑が膨張するのを感じた。

 今回の一連の出来事とクシミナカタの言動、そしてサチの三つには僅かに食い違う部分があるのだ。

 クシミナカタはまるでサチが元から『コンバータ』、つまりナイトメアウォーカーを創造するのに必要な器官が存在している

 かのごとく言う。

 サチは自身を宇宙人だと言い、それは頭蓋骨の内側にできた血の塊が脳を圧迫しているから起こる現象だ。

 一体何が正しくて謝っているのか判断する方法は何もない。

 「…まあ、口で言っても無駄なんだろうがね。『コンバータ』は取ってしまえば持ち主は死んでしまうのだから」

 クシミナカタの錆びついた声に、パンハイマの背後に隠れたサチが彼の上着をぎゅっと握った。

 相手は今回はサチを生け捕りにするつもりはないらしい。総毛立つような緊張感にパンハイマは懐の拳銃の重みを確かめる。

 誰か味方がいないかと周囲を見回したが、この時彼はやっと耳が痛くなるような静寂に気づいた。

 騒音や人の会話といった類いの物音が何もしない、雑然としたデパートの中は場違いな沈黙に抱かれて異様な洞窟のようだった。

 見ればウェイトレスや他の買い物客たちはほんの数秒前までしていた行動を止め、その場で硬直している。

 さながら時間が凍りついたように世界は動きと暖かさを失っていた。

 「『雑音鏡界』の応用能力だよ。自分の夢に他人を取り込んでしまうドールズの話を知らないかね?」

 ドールズのマテリアルタイプ、RICOの事だとパンハイマは瞬間的に悟った。

 氷でできた微笑みを浮かべたままカッと広げたクシミナカタの掌に鬼火のような白い光が渦巻き始める。

 「ここは夢の世界だがワタシは望むままに現実世界の人間をここへ飲み込む事ができる、サチ君から得たデータの成果だよ。

 『攻性餓夢』などと呼んでいるがね。さあ、お喋りは止めにしてそろそろ踊ろうじゃないか!」

 クラッカーを! と叫んでクシミナカタが指を弾くと、途端に周囲の木偶と化した元は人間だった者たちの身体が風船のように膨れ、

 千切れ飛んだ。

 その中から放たれたもうもうと上がる甘い香りのスモークと色とりどりの紙吹雪の中、クシミナカタの手に渦巻いていた大量の光の帯は

 彼の身体のすべてを覆う。

  全身を駆け抜ける恐怖にもめげず、パンハイマはサチの手を取って喫茶店の出入り口へと走り出した。

 スモークの中からゆっくりとシルエットを現した、かつてクシミナカタだったものが口の端を大きく歪める。異形の笑みだった。

 「音楽を」

 追おうともせずに放たれた彼の異様に透き通った声と同時に、クラッカーと化して弾けた以外の人間たちはその姿を変え始めた。

 筋肉は大きくねじれ形を変えて肉と一体化した楽器へと変わり、服装は漆黒のタキシードへと塗り替えられる。

 老若男女の区別なく急造のオーケストラは誰が指揮するでもなくおもちゃのオルゴールのように自動的に柔らかい音を奏で始めた。

 場違いに静かで壮麗だが、しかしたっぷりとクシミナカタの狂性を含んだ音楽は凍りついたこの世界にゆったり満ちてゆく。

 恍惚と空気に含まれる音楽という快楽の分子を楽しみながら、彼は腕を一振りしてスモークを払った。

 とっくにパンハイマたちの姿は見えなくなっていたがそんな事は気にも止めなかった。

 空間に穴を穿ち現実世界への帰還に必要な出口を作れるのはこの世界でたった一人、自分のみなのだから。

 獲物を追う興奮とこれから始まる猟奇劇への期待にその身を大きく震わせるとクシミナカタは猛然と追跡を開始した。



  一方、パンハイマ達は行けども行けども途切れない時間の凍りついた世界に閉口していた。

 「イコンは大丈夫かな」

 さっきから気になっていた質問をサチが言うが、パンハイマはわからないとしか答えようがなかった。

 エレベーターは動かない。咄嗟に隣の階段を駆け下り始めた二人は黙々と段を蹴る。

 ギガントは連れてきてあったが呼んでも一向に来ない所を見ると、この夢の世界へは呼ばれていないのだろう。

 必死になって打開策を巡らせるパンハイマの正面に何度目かのガラス張りの壁が現れた。

 各階層をつなぐ階段の踊場に設けられているもので、非常時には消防署のはしご車が伸ばしたはしごに乗れるよう開閉式になっている。

 突然その外の風景を何かが覆った。

 発する光に思わず顔を手で覆ったパンハイマがかろうじて瞳に捕えたものは、何か光でできた蝶のような形をしたものだった。

 立ち止まってしまった二人にそれはにっこり微笑みかけたようだ。

 パンハイマが正体を確認しようとヘッドディスプレイの明度を下げて手を退け視線に捕える。

 正確には蝶ではなかった。青白いエネルギーでできた蝶の羽根を持つ人型の『何か』だった。

 その姿は全体として美しい流線型をしており、まとう輝きは神々しくさえあった。

 羽根からしきりに周囲の空気に放っている燐粉のような光の粒は蛍のように淡く、まさに夢のような光景。

 しかししてその人型の頭部の顔は、紛れもなく忌まわしい記憶とともにパンハイマの記憶に焼き付いている。クシミナカタだ。

 羽根と同じく白く輝くエネルギー体へと変貌を遂げた彼の周囲には糸のような光の帯が大量にまとわりつくように浮かんで回っている。

 その糸が驚愕に固まる二人の目の前でクシミナカタの右腕に絡みつき、成型を開始して見る見るうちに巨大な槍になった。

 飛び退く暇も防ぐ方法もない。パンハイマは咄嗟にサチを抱いて守り自ら槍の一撃を脇腹に受ける事を受け入れた。

 クシミナカタのエネルギーの槍はガラス張りの壁を粉々に粉砕し、斬撃の線上にかかったコンクリートの壁さえも紙のように千切り

 飛ばして二人に猛然と襲い掛かった。

 一瞬脇腹に炸裂した衝撃に骨が砕ける音を聞きながらガラスやコンクリートの破片を浴びたパンハイマは重力が失われたのを感じた。

 他の物体を容易く破る槍は何故か彼の身体には軽傷を与えただけで、その身は槍に残り建物の外の虚空へと投げ出されたのである。

 クシミナカタは羽ばたきながら空中でその結果をいぶかしんだが、二人がピンチなのには何ら変わりはない。

 浮遊感は刹那的なものですぐに終わり、身体は遠くに見えた風景がぐるりと回転すると同時に猛然と落下を開始した。

 天地の区別もつかなくなった二人は耳の奥で空気の狼と化して猛り狂う風圧に頭痛を覚え、更に混乱が正常な判断を不可能にする。

 パンハイマは聞こえた悲鳴が自分のものなのか腕に抱いたサチのものなのかわからなかった。

 ただ何となく羽根があればいいのになというような事を脳裏で呆然と考えていた。




















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