プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -
シスター・マリア
11.ジャッジメント
クドリャフカの情報は検索をかけたらすぐに見つかった。
地面から生えた標識を追ってプラスチックの街を歩く事数分、今ガガの目の前には一人の男女が立っている。
噴水から噴き上がる水さえもがプラスチックで塗り固められた街の広場で着飾ったその二人は手を取り合い、まるでダンスの途中で
凍りついたかのように動きを止めていた。
他の建築物や人形たちと同じくプラスチック製で、天から注ぐ無機的な陽光を浴びて無言のまま佇んでいるそれは、光の加減によって
蝋のような光沢を放っていた。
ガガは緊張は押えて命令を口にする。
「ファイル展開」
「ファイルを展開します」
プラスチックの女が物憂げな微笑を相手の男性に向けたまま、機械音声で答えた。
「呼び出す情報を入力して下さい」
ちょっとの間顎に手を当てて思案に耽ると、ガガは最も気になっていた質問を口にする。
「クドリャフカのプロフィールは?」
「質問が抽象的過ぎて回答できません」
「クドリャフカ個人の情報をすべて出してよ」
言い直したガガに一瞥をくれる事さえなく、女は一本調子で説明を始めた。
「クドリャフカ=シネルニコヴァ…20××年4月10日生まれ、16歳。女。健康体。
身長159cm、体重44s、銀髪・黒眼。
北方領土出身、日系四世。被験体ナンバーDYY420938
20××年、稀なナイトメアウォーカー発動キーの持ち主として社が捕捉」
「ナイトメアウォーカー発動キー?」
説明の途中で口を挟んだガガに、ご丁寧にも彼女は説明を付け加えてくれた。
「自分の心に潜む影の部分、『悪夢』を抽出、具現化する事を可能とする極めて特殊なアクセス能力の持ち主…」
「アクセスって?」
「一般に言う所の『超能力』」
クドリャフカが超能力者?
ガガはナヴァルーニャの記憶で見た彼女の光景を思い出した。
確かにあの中で見たクドリャフカは、常人ならざる能力の持ち主だったようだが…
「じゃあ社が捕捉したってのは?」
「オシリス・クロニクル社はナイトメアウォーカーの発動実験・解明を根本的な目的として作られた組織。
全国からナイトメアウォーカー発動キーの持ち主を収拾する事は、その手段の一つ」
どういう事だろう。オシリス・クロニクル社は移植用の人造臓器で名を上げた医療器具メーカーの筈だ。
しかし話の先に興味はあっても、グズグズしていては現実世界の陽子が目を覚ましてしまう。
要点のみを聞き出してさっさと脱出せねば。
「それはもういい。クドリャフカが現在いる場所は?」
「クドリャフカ=シネルニコヴァは20××年11月21日、自分のクローン達と脱走計画を企て実行。
サイバーダイヴ能力を用いて精神体のみネット空間へ逃走、ボディはレベル3『スプートニク』に保存」
スプートニクというのはかつてはクドリャフカと同じ被験体の立場であったゴッドジャンキーズの頭領が脱走する際、破壊の限りを
尽くして埋まってしまい、以後施設ごと封鎖されているという社の地下施設の事だ。
つまり心の抜けたクドリャフカの体は施設と一緒に埋まってしまったのだろうか?
何という事だろう。クドリャフカにはもう戻るべき自分の体が存在しないのだ。
「じゃあクドリャフカの精神は?」
最後の希望にすがるガガに、女は淡々と衝撃的な事実を語った。
「逃亡したクドリャフカ=シネルニコヴァを当局は観測、データを収集する事と決定した。
ネット空間に逃れたクドリャフカ=シネルニコヴァは己の内側に生まれたナイトメアウォーカーを制御し切れず、暴走。
実体を持たない情報体のナイトメアウォーカーとして生まれたそれは、シスター・ヴェノムと名乗る。
クドリャフカ本人は現在行方不明…」
「シスター・ヴェノム!?」
クドリャフカからあの女が生まれた?
混乱しそうになる自分を静め、ガガは何とか考えをまとめようと必死に思案を巡らせた。
クドリャフカは自分の心に潜む影の部分をどうにかできる能力を持つ存在で、その能力が故に社に捕まりモルモットにされた。
どうにか社から精神のみネット空間に脱出したクドリャフカの心からは、そのナイトメアウォーカー…シスター・ヴェノムが生まれた。
要約すればこのようになるが、ガガにとっては放心してしまうような事実だった。
これは本当に現実なのか?
毎日学校に行ったり退屈な日常を過ごしてきた自分が生きてきたものと同じ、唯一にして絶対の現実なのだろうか?
再び陽子の体に戻ったガガは、エレベーターで階下へと向かっていた。
何だか妙に疲れたような、重い気分だ。
クドリャフカに近づけば近づくほど、その存在は遠く思えてきてならない。
自分にはクドリャフカを助けてあげられるだけの力があると思っていたが、それはやはり思い上がりだったのかも知れない。
おまけに彼女の精神体の行方はわからないままだ。
ふと彼は大切な事を思い出し、懐からミス・シンデレラに渡された薄桃色の錠剤を三つ取り出し飲み下す。
水なしで噛まずに飲むのは難しかった。
これは飲んだ時から遡って半日分くらいの記憶が吹っ飛ぶ強烈な睡眠薬で、陽子は今日の事はほとんど忘れてしまうだろう。
ミス・シンデレラとの再会を忘れてもらう為の苦肉の策である。
極めて遅効性になるよう調整されており一時間以上してから効いてくる筈だが、彼女を無断欠勤にさせてしまう点では少々
心苦しかった。
『ガガ! 無事だったか』
突然耳に突っ込んだままだった通信機から、ミス・シンデレラの声が響く。
そう言えば脱いだハイヒールもポケットに入れたままなのに気づき、ガガは歩き難くなる事を覚悟でまた履き直した。
「まーね」
『収穫は?』
今見聞きしてきた事を洗いざらい相手に話すと、ミス・シンデレラも落胆を隠せないようだった。
『居場所はわからないままか…ボディは地下にあるっつったな?』
「うん。でも埋まっちゃったんじゃあ…」
『いーや、わからんぞ。レベル3には結構重要なモンが無事なまま眠ってるらしくてな、社も掘り出しを続けてるんだと』
「じゃあ!」
ようやく見えた一握の希望に、ガガがぱっと表情を明るくする。
『まだわからんがな。情報を集めてみよう』
ボディを確保しても精神がなければほとんど意味がないのだが、彼女を見つけた時に戻る体がないというのは困るだろう。
あとは中身だけだ。
しかしどうやって探したものかとガガが再び頭を悩ませている間にエレベーターが停止し、扉が開く。
彼が顔を上げると、その視界を数人の背広姿の男たちが黒く塗り潰していた
エレベーターを待っていたというふうではなく、明らかにガガを待ち構えていた様子だ。
彼らが手にしている小型の電気銃を見た時、ガガは総毛立った。
男たちの背後で一般の社員たちが何事かとこちらを眺めているのが見える。
「草園博士。大変に失礼ですが…」
垂らした手に握られている電気銃を何気なく握り締め、リーダー格らしき男が一歩前へ出る。
その動作はガガから平常心を奪うには充分な威圧と恐怖を含んでおり、彼は早くもパニックを起こしかけていた。
「イシスにアクセスするには責任者への報告が必要な筈ですが」
「わっ…わたっ…」
私は、と言おうとしてガガは舌がもつれた。
真っ青になりながらよたよたと後退し、背後の壁に張り付く。
『まさかバレたか!? くそっ』
ミス・シンデレラの激しい罵りの声もガガの耳には届かない。
恐らく報告がないままイシスにアクセスした場合はサイバーダイヴ能力者に乗っ取られているものと見なす、というシステムなのだろう。
ネメシスが陽炎回廊と重ねて張った二重の策に違いない。
これはイシスの貞操帯のシステムにばかり気を取られて気づかなかったミス・シンデレラにも落ち度はあるが、どちらにしろ陽子の体を
借りたガガがたったの10分で書類を提出するのもどの道不可能だった筈だ。
『エレベーターの非常用回線の接続端子があるだろ、合図したらそこに飛びつけ!』
相手の挙動は不審さが明らかだったのだろう、男たちは陽子の逃げ場を塞ぐようにしてエレベーターの扉の前を囲っている。
リーダー格がもう一歩踏み込み、エレベーターの中に一歩足を踏み入れた。
「任意で拘束させて頂きます。よろしいですね」
それはほとんど脅迫じみており、断る事など陽子本人にもできないような気がした。
『いいかガガ、いちにのさん、の『さん』で行くからな。いち、にの…』
ミス・シンデレラの言葉にガガは恐怖で縮こまりながらも頷くと、視線をエレベーターのコントロールパネルに固定する。
緊張感がこの狭いエレベーターの個室を支配し、見る見る空気を張り詰めさせた。
目の前の男に続いて他の男たちもエレベーター内に足を踏み入れた瞬間、ミス・シンデレラの声高な合図がガガの耳腔に響く。
『さん!』
ガガが前身に体重をかけてコントロールパネルに駆け寄るのと同時に、周囲に薄暗い闇が圧し掛かった。
照明がすべて落ちたのだ。
エントランスの窓から差す弱い冬の陽光はそれでも一階全体を充分に照らしていたが、奥の方にあったエレベーターの中までは
至らずほとんど真っ暗になってしまっている。
一瞬の事に判断が送れた男らを突き飛ばすと、ガガはうなじから抜いた接続端子をコントロールパネルに突っ込んだ。
社の照明管理に侵入したミス・シンデレラ達が、ほんの一瞬だけ一階すべてとエレベーター内の明かりを奪ったのだ。
数秒ですぐにすべて戻ったがその時男たちがエレベーターの中に見たものは、接続端子をジャックホールに突っ込んだまま
ぐったりと倒れている陽子の姿だけだった。
枯れかけた植物の香りを含んだ空気を風が運んでくる。
鼻腔をくすぐるその香りに、ガガは気だるげに重い瞼を開いた。
視界一杯に太股くらいの高さの稲穂が満ち、風に身を踊らせている。
太陽の熱をいっぱいに含んだ暖かい地面から立ち上がった瞬間、彼は眩暈を覚えるほど広大な空間に投げ出された。
太陽のない空には一面の青。高く深い色が地平線を越えて続いている。
ガガは見渡す限りの稲穂畑の真ん中で目を覚ましたようだった。
風に稲穂が擦れ合う心地良い音色ばかりが、この180度続く無限の世界から沈黙を拒否して支配していた。
どうやらネット空間に逃げおおせたようだ。
「ミス・シンデレラ?」
『うまくいったみたいだな』
どこからともなく返事はきた。
『君のボディはゴッドジャンキーズの基地にある。今から言う通りの道を辿ってくりゃあ帰れるぞ、お疲れさん』
「うん」
短い間ではあったが他人の体にいたせいか、どうも四肢がおぼつかない。
見慣れた自分の体をあちこち見下ろしてから、ガガはよろよろと地平線に向き直る。
道順を告げるミス・シンデレラに従いいくらか歩くと、やがて稲穂の海を割って伸びる土のむき出した道へとたどり着いた。
踏み固められた土の上を彼方へと歩き出したガガの足を、クドリャフカについての疑問が重くさせた。
事の推移をまとめてみれば、クドリャフカは社から脱走した後にダイバーラジオのホームチャンネル『シスター・マリア』を作り、
放送していたのだろう。
あたかも自分が現実世界に実在するかのように振る舞い、偽造の情報を用いてサーバーに登録したのだ。
それは戻るべき肉体を無くし、ネット空間を彷徨う亡霊となった彼女の気晴らしだったのかも知れない。
風に稲穂が踊る音に、自分の爪先が土を掻く音が混ざっていた。
「どんなに傷つき傷つけられても、人は愛する事を止められない」
不意にその中に柔らかい女の声が含まれる。そよ風が囁くように優しく、薄いヴェールのように。
しかしその声に潜む内なる狂気と悪意を知っていたガガは戦慄に凍りついた。
「!」
「愛とはこの世で最も単純にして複雑な方程式。
そこには人間の内なる心のすべてが絡み合う…裏も、表も」
ガガの視界の中には誰もいない。
稲穂畑を見回した後に慌てて振り向いた時、その女は忽然と姿を現していた。
青い髪に切れ長の瞳、細い鼻筋に頬には青い涙のペイント。
痩身にスーツをまとった彼女の胸には、あのスマイルマークのバッヂがつけられていた。
彼女はひらひらと舞う真っ白なクロスをかけたテーブルにつき、深い蒼の縁取りがされたティーカップを鼻先に寄せて、まるでずっと
前からそこにいたかのように香りを楽しんでいる。
「シスター・ヴェノム…」
「愛とエゴとは表裏一体なのだよ、ガガ君。わかるかな?」
眼を剥いたガガに対してシスター・ヴェノムは僅かに笑って見せると、紅茶に口を付けた。
乾いた舌に潤いを与えた後にソーサーにカップを置く。
「人を愛する時、人はまた己の内側で凄まじいエゴイズムが渦巻いている事を知らない。
それを否定したい妄想野郎が『純愛』なんて言うワガママな夢を作り出した…
君はどうかな、ガガ君?」
いきなり名指しにされてビクッと身震いした相手を楽しげに見遣り、シスター・ヴェノムは組んでいた足を解いて立ち上がった。
「お前はっ…何なんだ!?」
絞り出したガガの言葉に少しだけ眼を細めた彼女は、無言のまま彼に背を向けて数歩道を進む。
「そう」
芝居がかった動作で両腕を軽く開いて胸を広げると、シスター・ヴェノムは何かの合図に甲高く指を鳴らした。
顔だけ振り返った彼女の歪んだ口元がその肩越しに覗く。
「そいつが問題なのさ」
次の瞬間起こった物事は、何もかもが唐突だった。
地平線から転がってきたいくつもの巨大な巻紙が視界の地面すべてを白い床で敷き尽くし、次にガガの目前から両手いっぱい分
くらいの幅の柵が生える。
そこからやや前方に人間の身長くらいある壇が床から伸びてくると、置かれていた椅子から風船が膨らむみたいに黒いローブのような
服を羽織った男たちが現れ、咳払いを一つした。
振り向くと何時の間にか背後には傍聴席が出来上がっており、様々な服を纏った発泡スチロールの人形が腰を降ろしていた。
ガガはテレビで見た事がある。これは裁判所の風景だ。
慌てて逃げようと身を翻した時、ガガは両手首の冷たい感触に阻まれて前へつんのめった。
何時の間にか目の前の柵と自分の両手首が手錠で繋がれている。
渾身の力を込めて鎖を引き千切ろうとしたが、それは無駄な努力だった。
「はいはい静粛に!」
ちょっとガガの視界から外れていた隙にあっという間に着替えたシスター・ヴェノムが、澄ました表情で彼の行動を咎める。
灰色のスーツにタイトなスカート姿で、眼鏡の奥では愉悦と嗜虐が燃え盛っていた。
「開廷」
ガガの真正面、裁判長の席に腰を降ろしていた男が重々しく口を開いて幕開けを告げる。
何が起こっているのかわからずただ立ち尽くしていたガガの頭上から、機械で合成したようなその声は降ってきた。
「当法廷に置いて偽証は許されざる罪として扱われる。
誓え。真実のみを口にするとな」
一方、ミス・シンデレラ達は突然連絡の途絶えたガガの消息を追っていた。
マウスで画面上にポインタを走らせながら、ミス・シンデレラは嫌な汗が滲み出てくるのを堪えきれない。
まさかあの女が?
「あーっとっとっと…こいつァちっとマズい事になりましたねェ」
何時の間にか彼の隣の席に座り、パソコンと向き合っていたホノカグヅチが呑気な声を出した。
彼の髪に覆われたこめかみから伸びている接続端子が目前のパソコンと繋がっている。
相手の態度に何か含まれるものがあるような気がして、ミス・シンデレラは手を休めずに質問を口にした。
「何かわかるのか?」
ホノカグヅチの瞼は閉じられていたが、表情はどことなく遠くを見ているように感じられた。
「俺ァ頭ん中にちょっとしたモンが入ってましてね…『電波』ってヤツを受信できるようにできてんです。
ま、クシミナカタ様や何かに比べれりゃァそりゃ微々たるモンですが。
感じるんですよ、こっからァビシビシね」
「『電波』?」
相手の質問に唇を尖らせると、ホノカグヅチは頭を掻いた。
「…まあ、何つーか…質問すんのが非常にめんどくさいんスけど…とにかく、見つかったって事スよ。
あのスマイルマークを操ってたヤツだ」
「シスター・ヴェノムにか?! くそっ! どうすればいい?」
頭を抱えてキーボードを叩いた彼に、ホノカグヅチはにやりと笑って見せる。
「重要な情報をノーパソにDLするよう全員に言ってくれねえスかね。
…来るぜ。こっちにも」
ゴッドジャンキーズの本拠地は廃棄された地下駐車場だ。
各所にロウソクが立ててある他は天井に切れかけた電球が僅かにあるのみで、それ以外の照明はない。
その幽玄のように灯り揺らめく明かりの中、イコンの薄布のような衣服は真夜中の蜃気楼のごとく風に舞っていた。
小さな靴がコンクリートを踏み行く音ばかりが、この非現実じみた暗黒に響いている。
イコンのいつもの不機嫌そうな表情は相変わらずで、慣れた道を歩いて行く。
彼女はホノカグヅチに呼ばれてコントロールルームへ向かう途中だった。
彼女はあの男を好意的に思っていない。この組織内での地位は向こうの方がやや上だったが、命令に従うのは屈辱的だった。
粗野でいい加減な態度が嫌いだったし、何故あんな得体の知れない連中を招いたかも理解できない。
ムカムカしながら一層表情の不機嫌さを濃厚にして、何度目かの角を曲った時だった。
闇の奥でその暗黒に溶け込んでいる少女の姿をイコンは見る事ができた。
その両眼は特別製で闇でもものを見る事が可能だ。彼女はドールズだった。
「ナヴァルーニャ?」
名を呼ばれても喪服姿の相手はぴくりとも動かなかった。
壁と向き合いそこに手を置いたまま、まるで壁から染み出してくる音を聞き取るかのように瞼を閉じている。
「何をしているの」
イコンが駆け寄ってきてようやく彼女は瞳を開いた。
ヴェールに覆われた表情は暗く、いつにも増して眼窩は窪んでいる。
壁の非常用回線のジャックホールに突っ込んでいた接続端子を抜くと、ナヴァールニャは何の前置きもなく言った。
「来る」
「えっ?」
唐突な相手の言葉に思わず聞き返した彼女の体を、ナヴァルーニャはありったけの力を込めて突き飛ばした。
相手の暴挙に抵抗する間もなく床に転がったイコンの鼻先を、細い水音と共に何かが霞めて行く。
その液体がイコンの体を押したナヴァルーニャの伸びた右腕にかかると同時に、その部位から白煙が上がる。
肉が焼ける音にナヴァルーニャの小さな悲鳴が重なった。
「ナヴァルーニャ!」
一連の出来事にイコンが慌てて立ち上がろうとするより早く、ナヴァルーニャが素早く彼女を抱き起こした。
イコンが手を借りて立ち上がると、ナヴァルーニャが押えていたその右腕の傷に眼を見開く。
焦げ落ちたような淵を見せる服の穴から覗いている、未だブスブスと煙を上げているその傷跡からは赤黒い肉が剥き出しになっていた。
「溶けてる…」
その薄蒼の液体は非常用回線の電話線からほとばしっていた。
最初は水漏れみたいにちょろちょろと流れていたが、少しずつ勢いが増してやがてはバルブが壊れた蛇口のように噴き出し始める。
イコン達はその水流の中に混ざっていくつも真っ白な物体が出てくるのを見た。
石膏のような質感を持つ人形の手足で、大きさは丁度人間と同じ位ある。
時折その中に、ゆらゆらと水流に踊るものがまとわりついた部品も出てきた。人形の頭部だ。
それらは拡散する事なく床の一箇所で固まり、すぐに見上げるほど巨大な物体と化す。
イコンがナヴァルーニャの手を掴んで走り出すと、その何かもアメーバのように二人の背を追い始めた。
「何あれ!?」
イコンに手を引かれて走りながら、ナヴァルーニャは彼女に不可解な答えを返した。
「…クドリャフカの臭いがする…」
「え!?」
物憂げなオレンジと蒼が入り混じったような、夕暮れ時の空の色の液体のその塊は忙しなく形を変化させながら移動している。
中では頭部・上半身・下半身そしてバラバラの手足に別れた人形の部品が無数に浮かんでおり、どれも細く繊細で少女を象った
ものらしかった。
頭部はすべて作りが違う。髪や瞳の色、顔つきのすべてが異なっている。
そのスライムが内包する頭部の顔は、一様にイコン達の背に視線を降り注いでいた。
身動きを封じられたガガの目の前で、彼の意思はまったくの無視の元に事は進んでいた。
顔を上げて裁判長の顔を見上げた時、ガガは始めて彼がどこも見ていない事に気づいた。
双眸はガラス球のようで何ら意思の光を持っていない。
彼だけでなく背後の傍聴席や隣の原告側、壇にいる面々もすべてマネキンのような存在感のなさを放っている。
その中で得意の饒舌を披露するシスター・ヴェノムの姿は殊更異様で威圧を放っており、道化のようにに思えた。
「では原告側は被告の容疑を」
「はい、裁判長」
ゆっくりと煙草を燻らせていた彼女が裁判長に呼ばれると、腰を降ろしていた机から飛び降りてツカツカとガガの目の前まで来る。
逃げる事もできずに強張るガガを両腕を組んで見下ろすと、シスター・ヴェノムは蒼いルージュを引いた唇を歪めてあからさまに
見下したような笑みを作って見せた。
中指で眼鏡を押し上げて位置を直すと、くるりと彼に背を向けて裁判長に向き直る。
「彼の容疑はこのシスター・ヴェノムをコケにしてくれた他、様々な機関への不法アクセスやハッキング、情報泥棒、それに
うら若き女子へのストーキング行為や異常な妄想を抱くなど多岐に渡りますが…」
覚えがある事から無い事まで一通り述べた後に、彼女はもう一度ガガの目の前までやってきた。
両膝を揃えて上体を降り、目の高さを相手と合わせて鼻先を近づける。
むっとするような相手の香水の香りがガガの鼻腔に満ちた。
「気づいてる? いいや、気づいてる筈だね」
相手から逃れようと思いっきり身を引いたガガに迫ったシスター・ヴェノムは、囁くように語り掛ける。
彼女はまるでこの瞬間を待っていたかのように凶暴な悪意に満ちており、持ってきたプロキシを使う事さえ忘れてただ恐怖に
振り回されるばかりのガガを嬲る快楽に恍惚としていた。
「君はクドリャフカが好き。それは認めなきゃダメ…だけどその『好き』はちょっとヘン。
それは引き篭もりの中坊がチャットで知り合った顔も知らない娘に恋するようなモンさ。
君が好きなクドリャフカは、君に都合のいい妄想で作り上げた君の頭の中にしかいないクドリャフカなの。
現実の彼女はどう? ガガ君が見ないようにしている本当の彼女は、君と比べてどうなの?」
片頬に触れた相手の指先の冷たさに、ガガはぞくりと身震いした。
「姉妹を殺され自身も帰る場所を失っても尚、クドリャフカは前を見続ける事のできる女の子だった。
明るくて、前向きで、優しくて…くぅー、イイ子だわぁ」
彼女は眼鏡を押し上げると胸のポケットからハンカチを取り出して、わざとらしく眼窩に押し当てて見せる。
そして、声のトーンが落ちた。
「でも君は引き篭もりで人と話すのが苦手でお友達がいなくてチビで童貞で無力で後ろ向きなどうしようもないガキじゃない。
何をやってもうまくいかなくて価値なんか一個もなくて、明日消えてなくなったって誰も困らないような存在じゃない。
そう、そんな一生日が当たらない場所で生きてそーなダンゴムシ野郎の眼にはまるで彼女は聖母のように映った。
わかる、わかるわぁ。
けどね」
ちーんと鼻をかんでからハンカチをしまった時、そこにあった彼女の表情からはありありと蔑みと見せかけだけの哀れみが
読み取れた。
ガガはそこに弱者を嬲る事にのみ自分のリアリティを見出す者の雰囲気を嗅いだ。
学校で何度も出会ってきた存在の臭いだ。
「君の為にはっきり言うわ。
ガガ君、君はクドリャフカを愛しながらも内心じゃあぶっ殺して犯っちまいたいくらいに彼女を妬んでいる筈。
『前向き』『明るい性格』『人と普通に話す』『鬱の克服』『強さ』『努力』…ぜーんぶ君が欲しくて欲しくて仕方なかったもの。
悔しいよねぇ。クドリャフカはそれをみんな持っているんだもの…」
何か言おうとして、ガガの喉の奥で空気が鳴った。
何も言えなかった。
「貴方はクドリャフカの存在が許せない。
自分と対極にいる彼女という太陽は、君の中の『決まり事』では許してはいけないもの。
貴方、本当にクドリャフカを助けたかったの?
本当はぶっ壊すつもりでここまで来たんじゃないの?」
違うと言え!
頭の中で今まで恐怖におののいてばかりだった別の自分が、突然狂ったように必死に叫び出した。
否定しなければならなかった。何故かはわからないが、これだけは絶対に否定しなければ自分という存在が積み上げた積み木を
崩すみたいに崩壊してしまいそうな気がする。
だけど声が出ない。
喉がヒリヒリするし、胸を鎖で締め付けられているような激しい動悸を感じる。
ガガは今、心の内側をシスター・ヴェノムに掴み出されてさらされていた。
気づかないように必死の思いで今日まで秘めていた事を、あの女はあっさりと看破したのだ。