プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -
シスター・マリア
12.死刑執行
「以上から結論! …じゃなかった、判決!」
裁判長の着席している机に飛び上がると、シスター・ヴェノムはその上に腰を降ろして彼に代わり叫んだ。
ガガを見下しながら猫のように体を伸ばし、机の上で寝転がって片手を裁判長の首に回す。
所々セロファンテープで繋ぎとめられて再生した彼は、眉一つ動かさずガガに何ら感情が含まれない言葉を振り下ろした。
ジャッジメント・ギルティ
「判 決 ・ 有 罪! 被告人ガガを死刑に処す!」
その言葉が切れると同時に突然、ガガの背後で歓声が爆発した。
振り向いた先の傍聴席では発泡スチロールだったあの人形たちが血肉を持つ人間に変貌しており、裁判の結果に総立ちになって
熱狂的な支持を送っている。
その顔の一つ一つすべてにガガは見覚えがあった。
学校の教師、両親、小中高のクラスメイト達。
愕然とした彼の首に冷たい金属の感触が当たり、すぐにガチャリと錠がかかる音がした。
正面に向き直った先では、ガガに首枷を嵌めたシスター・ヴェノムが醜い笑みを見せていた。
「このサイバー空間ではすべてが移ろいの幻…そんな中で唯一絶対の制約を加えられるものがある」
彼女が鎖を引く手に力を込めると、ガガはつんのめって強制的に相手の目の前へと移動させられた。
息がかかるほど近くまで耳に口元を寄せ、シスター・ヴェノムはそっと囁く。その声に含まれる狂気にガガは背筋を凍らせた。
「それは『ルール』。私と君、二人で作ったルールはお互いどちらにも絶対破れない。
ここでのルールは何だと思う? …そう、『クドリャフカへの憎悪』。
君はこのルールを破れない。何故なら君は心の底で認めてしまっているから…」
ガガはその後すぐに自分の頬に触れた、恐ろしく冷たく柔らかいものが何かしばらくの間わからなかった。
脳が痺れる無数の針のような冷気が頬から染み込んできたかのごとく脳まで伝わってくる。
相手からの口付けだと理解できた瞬間にはもう、シスター・ヴェノムはゆっくりと顔を遠ざけてゆく。
「ゲームオーバー」
もう一度チュッと唇を鳴らしてウインクをすると、彼女は数歩下がって甲高く指を鳴らした。
「それでは死刑執行人の入場でーす! どうか盛大にお迎え下さーい!」
その言葉に傍聴席の歓声が一層膨れ上がる中、ガガの右手の壁の扉が開かれた。
扉の奥にあった何重もの鉄格子が持ち上がると、四角く切り取られた闇が顔を出す。
ガガはそこから滲み出してくる音が最初は何か、奥歯を軋る音のように思えた。
少しずつこちらに向かって大きくなってくるその音は、やがて大きなものを引き摺る音とぺたぺたという裸足で床を踏む小さな足音に
分割できる事がわかる。
絶望と恐怖に蒼白になったガガは両手と首に架せられた拘束から逃れようと、死に物狂いで暴れ回った。
たちまち手首と頸部にできた痣から出血し、鈍い苦痛が走ったが構わずに全霊を込めて鎖を引く。
ガガの口から漏れた僅かな悲鳴も鎖が振るわれる音も、すべて傍聴席の絶叫のような歓声に掻き消されて消えた。
足音と何かを引き摺る音は、いよいよ扉を目前にしているようだった。
狭い通路の中にそれらの音を不気味に響かせながら白日の下に現れたのは、想像をはるかに超えて華奢な存在で、片手を額に
当ててひさしを作り眩しそうに眼を細める動作を見せた。
セミロングに切り揃えた銀髪と漂白されたかのような肌、そして真っ白なワンピースのシャツから覗く四肢には血のように赤いな
染料で何か複雑な文様が念入りに施されていた。
抵抗を忘れてガガは芯が抜けたように、その場にがっくりと膝を付く。
顔からはあらゆる表情が失せ、ショックのあまり何ら感情を浮かび上がらせる事はなかった。
片手に本人の体躯よりもはるかに巨大な、乗用車くらいなら両断できそうな剣の柄を握り、裸足のままの彼女は前進を再会した。
重たげに剣の柄に両手を添えると、その細腕では到底動きそうにもない剣を物理法則に逆らい引き摺って行く。
前髪がかかった両の瞳からは何故か懐かしく感じられる青色の瞳が、暖かさを通さない光となってガガを見つめていた。
間違いなくナヴァルーニャの記憶の内で見たクドリャフカだ。
「さあ、怖がって。悲鳴を上げて見せてよ。
それとも満足かしら? この人に殺されるなら」
シスター・ヴェノムの声は歓声とは別のどこか遠く、霧の中から聞こえてくるかのように幽玄としている。
ガガには少なくともそう聞こえた。
「ホラホラ、もっともがかなきゃ。その鎖を外して逃げるのよ。
アッチの世界じゃあ今頃飛んでもない事になってるわ…速くコッチのソフトを破壊しないと向こうでハードが君のお友達を皆殺しに
しちゃうよ?」
そのセリフはガガは弾かれたように顔を上げる。
脳裏に数日前の悪夢が甦った。
「…?!」
「あっ…と。このお喋り口め!」
いかにも『口が滑った』というふうに冗談めかして軽く平手で自分の唇を叩くと、シスター・ヴェノムは裁判長の肩を掴んで引っ張った。
まるで紙のように外層が破れて散り散りになると、中から人間大の水槽が現れる。
中では様々な実行データを表す魚が泳ぎまわっていた。
あのスマイルマークの時と同じだ。ソフトがここにあるという事は今、現実世界ではシスター・ヴェノムが作り出したハードが暴れ回って
いるという事になる。
「さあ頑張れ! 見せてごらんよ、人間特有の『無駄な努力』ってヤツを!」
笑い声を含ませて落ちてきたシスター・ヴェノムの声に対して、ガガは初めて恐怖以外の感情を覚えた。
激しい怒りと、憎しみを。
一方、ゴッドジャンキーズの本拠地でも戦闘が始まっていた。
イコンとナヴァルーニャが遭遇した正体不明のスライムは応戦に現れたゴッドジャンキーズのメンバーを吸収しつつ、ミス・シンデレラらが
コントロールルームとして使用している部屋まで着々と迫っている。
彼らがアジトにしている地下駐車場は無理な増設や他の地下駐車場との連結を繰り返しており、メンバー以外では絶対に進路を
見失う事は確実にも関わらず、スライムは明確に最短距離の通路を進んでいた。
地下に放棄されたままの朽ち果てた乗用車の影から、激しい銃声と火薬の火花が上がる。
不気味に粘液質の体をうねらせながらスライムは銃弾を受けるものの、弾は内包する人形のパーツまで届く事なく停止しスライムの
一部となるのだった。
スライムはあのミス・シンデレラとガガを追い回したスマイルマークと同じくコードを引き摺っており、それは電話線と繋がっている。
ゴッドジャンキーズらはコードに攻撃を集中させてたみたもののそのコードも見た目と違いスライムと同じ物質でできているようで、
弾丸を吸収してしまう。
一通り重要な情報を手持ちのノートパソコンに移し、誘導されるままに脱出を試みるミッドナイトパンプキンのメンバーを見送りながら、
ホノカグヅチはダイバーフォンでしきりに戦線と連絡を取り合っていた。
「銃はダメか…火を使ってみな。もちっとそっちに人数やるわ。
それからな、何があってもクシミナカタ様の護衛だけは動かすんじゃねえぞ。もし狙いがそっちに移ったら連絡しろ」
空っぽになった部屋を見渡して誰もいない事を確認すると、席を立って出入り口へ向かう。
そこでは背広姿のミス・シンデレラが待っていた。
「あら? 行かないんで?」
「聞きたい事がある」
背を預けていた壁から身を離すと、彼は柳眉を寄せて腕を組んだ。
「ガガが相手にしてる『もの』はつまり、一体何なんだ?」
「後にして欲しいんスけどね」
ホノカグヅチは投げやりに言って頭を掻いたが、ミス・シンデレラは頑として引かない。
一歩も退きそうにない相手の様子に諦めたように溜息をつくと、ホノカグヅチは通路の奥を指差しながら歩き始めた。
「着いて来てくれりゃあ話しますがね。どうなったって知らねえスよ」
その頃、ゴッドジャンキーズのメンバーはスライムに立ち向かう手立てが尽きて立ち往生を強要されていた。
銃弾も火もまるで効果がなく、スライムは片っ端からゴッドジャンキーズのメンバーを吸収しながらひたすら通路を北へと進んでいる。
『ザ… イコン。まだか?』
「急かさないで」
戦線からやや離れた場所で、イコンはしきりに入ってくるホノカグヅチの言葉にイラつきながらも一心に壁に筆を走らせていた。
深い蒼の線は狂ったように壁に走り初めは混沌としていたものの、やがてそれは少しずつ形となってゆく。
「久牢はこんな時に何やってんのよ?!」
『朝から例の娘を捕まえに行ってんだろ。急げよ、もうそこまで来てんだろ?』
「急かさないでって言ってるでしょう! …できた」
絵の具の雫を散らして筆を置くと、イコンは数歩離れて自分の作品に見入った。
今にも動き出しそうな躍動感溢れる双頭の狼の絵で、その反面絵柄から溢れるような禍々しさに満ちている。
ノイズアンドノイジー
「『雑 音 鏡 界』を使うわ。クシミナカタに連絡を」
「大体は君の想像通り。私はクドリャフカの激しい憎悪から生まれたナイトメアウォーカー…
シスター・ヴェノムは自分で付けた名前に過ぎない」
壇に腰を降ろしたまま、彼女はゆっくりと煙草を燻らせた。
唇から漏れた紫煙が空中にもやのように広がり、滲んで消えてゆく。
「外界へ逃れたクドリャフカは、ネット空間を通じて見える世界の賑わいに常に焦がれていた。
しかしそれは手を伸ばしても決して届かない蜃気楼。街のすべてが精神体のみの彼女にとってあまりにも遠すぎた…
虚構であるクドリャフカはどうやっても触れられない。
人にも、心にも、街にも…すべてがモニタを通して見えるだけの、まるでおとぎ話のような憧れの世界。
クドリャフカは渇望した。世界と人の暖かさを」
物憂げに瞳を細めたシスター・ヴェノムが自分の身の上の事のようにゆるゆると語り続ける間、ガガのすぐ隣にまでやってきた
クドリャフカは人形のようにその場に佇んでいた。
ガガは彼女が自分を助けてくれる事を期待したが、クドリャフカは凍り付いたように動かない。
仮面のような無表情のみを張り付かせ、浅く呼吸を繰り返していた。
「大抵ナイトメアウォーカーが生まれるのには共通した状況がある。
自他への凄まじい憎悪だ」
ホノカグヅチらが戦線近くまでやってくると、さっきまでは壁に反射して闇の奥から聞こえてきたに過ぎなかった銃声が、もうすぐそこまで
迫っている事が感じられた。
絶え間なく続く銃声やコンクリートを蹴る足音、それに混ざってスライムが移動するずるり、ずるりという不気味な湿った音が響いている。
しかし不思議と悲鳴は聞こえて来なかった事から、ミス・シンデレラはゴッドジャンキーズが下部組織の人員に洗脳をかけて人形のように
扱っているという噂を思い出していた。
そんな彼の嫌悪感に気づく事なく、ホノカグヅチは話を続ける。
「やり場のない怒りから逃れる為に能力者は自分の中に別の人格を作っちまう…憎しみを受け持つ為だけの、な。
ナイトメアウォーカーってのは発動キーを持つ人間の人格の一つなんだ。
そして能力者は原理は不明だがそいつを物理的に具現化できる。ガガ君を今も追い回してんのはつまり、そのソレってワケだな」
「つまりクドリャフカは多重人格で、自分とか他人とかとにかく憎しみを持っている人格の一つを現実的に生み出せると?」
「ちょ〜っとだけ違うんスけどね…ま、そう言う風に理解しといて下さい」
到底信じ難い話だったが、ミス・シンデレラとしてもあのスマイルマークを見ているのだ。
無理矢理自分を納得させると、先へと進むホノカグヅチの背を追う事に集中する。
途中、何度もコンクリートの上に転がる何かの残骸のようなものを見た。
切り口に焦げたような跡を残しバラバラになっている人間の四肢で、その多くはもはや原型を留めていない。
黒服から露出する白蝋の肌は不気味にただれ、焼けていた。
生々しい光景に息を呑むミス・シンデレラに振り返ると、ホノカグヅチはまた溜息をついた。
「そろそろ逃げた方がいいッスよ。これから戦闘だし」
「悪いがそうする」
相手の申し出を受けてあっさりと引き下がると、ミス・シンデレラは今来た道へと向き直る。
その鼻先を、何かが激しい金属音を上げて霞めて行った。
ミス・シンデレラの鼻をツンとするような錆びた鉄の腐臭が通り過ぎ、真下から跳ね上がったそれは彼の頭上を越えて背後に落ちる。
騒々しい金属音が背後で響く中、ミス・シンデレラは排水溝の蓋を吹っ飛ばして床から湧き上がってきたものに表情を引きつらせた。
「ジーザス」
蒼色のスライムは内包している人形の部品と共に噴水のように噴き上がり、みるみる床に溜まってゆく。
異変に気づいて戻ってきたホノカグヅチはその光景に少しも慌てた様子を見せなかったが、ダイバーフォン越しに体内回線で語りかける
声には僅かな焦りがあるように思えた。
『おい。何やってる? こっちにもいるぞ』
「わかりません。こちらも何か縮んだように思えたのですが…」
「分裂したってか」
走りながら吐き捨てるように呟くと、呆然と立ち尽くしているミス・シンデレラを通路の先へと押しやる。
一通り増殖の停止したスライムは体を伸ばして柱のように高くなると、内包している人形の頭部を用いて一斉に二人を見下ろした。
年齢も髪型もまちまちの少女達はこちらを嘲っているように思える。
恐らく配水管を伝って体の半分だけをこちらへ流し込んできたのだろう。
本体と同じくコードが繋がっており、恐らくこれを使ってネット空間からシスター・ヴェノムより情報を受け取っている筈だ。
「器用な真似しやがって」
彼が身構えると同時にスライムは波のようにうねり、空中でカーテンのように広がって相手に圧し掛かった。
ホノカグヅチが飛び退いた場所へと覆い被さり、コンクリートの床に衝突してスライムは激しく飛沫を撒き散らす。
彼はそれを浴びないように両手で顔を守りながら、そのまま勢いをつけて5mほど後退した。
と、同時にロングコートに突っ込んだ両腕がリングを掴んで戻って来る。
流れるような動作で、ほぼ同時にその腕が霞んだ。
ホノカグヅチが放った直径60cmほどのリングは彼の手を離れてすぐに光輪と化し、どのような構造なのか唸りを上げて加速する。
ドボッと言う何とも表現し難い、泥の中に突っ込んだような湿った音を立てて二つのリングはスライムに突き刺さり、粘液を引き千切って
その体内を通り抜けてゆく。
リングは正確にスライム内部の人形の頭部を貫いており、中では真っ二つになったそれがゆらゆらと泳いでいた。
スライムの体を避けて戻ってきたリングをキャッチすると、ホノカグヅチは得意げに笑って見せる。
彼の指先に触れる瞬間に光輪の光は失せて切断力を失い、ただの輪となった。
絹の手袋に包まれた妙に細い指先でゆっくりと輪の表面をなぞり、腰を落として構え直す。
「ヒュー! 俺ってカッコイー」
寝言を漏らす彼を前に、スライムは再び沸き立った。
残った人形の頭部は相変わらず無表情を張り付かせていたが、その粘液質な表面は僅かにわななき、憤怒に燃えているようだった。
今、ガガの目前で銀髪の少女は軽々と剣を持ち上げて見せた。
それは剣というには巨大過ぎた。
分厚く無骨で、ほとんど一枚の長大な鉄板に柄をつけただけような武器。
掲げられたその剣は大きく影を落とし、ガガとクドリャフカ、そしてシスター・ヴェノムを包み込む。
『殺せ! 殺せ!』
今や傍聴席の声は爆発寸前なまでに高まり、異様な悪意の熱気がチリチリとガガの皮膚を刺激をした。
渦を巻く憎悪の叫びの中、ひたすらその言葉だけが連呼される。
『殺せ! 殺せ!』
「盛り上がってきたところで行きましょうかね、スパーンと!」
クドリャフカの一歩前へ踏み込んだ爪先が地面を割って僅かに沈み込む。
不気味な軋みを立てて剣は更に引かれ、彼女は剣を最大限まで振り被った。
「クドリャフカは何を憎んでいたんだと思う? 私は何の憎悪から生まれたんだと思う?」
どこから出したのか多彩なフルーツの乗ったドリンクを片手に、ストローから口を離すとシスター・ヴェノムは冷笑を浮かべて
ガガに聞いた。
この女の歪んだ笑みは何度も見る羽目となってきたが、ガガは今回の中には特別な感情が含まれているように思えた。
あまりの恐怖に真っ白になりかけた頭の中では、最後に残った欠片ほどの理性が叫んでいる。
クドリャフカがこんな所にいる筈がない。
後ろの席の連中も目の前のクドリャフカも、全部あいつが作った幻影だ!
絶望に憔悴し、もはや悲鳴も上がらない相手を前にシスター・ヴェノムは満足げにジュースを口に含んだ。
「それはこの『世界』のすべてに対する底無しの憎しみ。
引き篭もり野郎がテレビの向こうに見える、愛だの希望だのに満ちた世の中を否定するのと同じようなモンさ…
憧れていた世界はどうやっても絶対手に入らない。それを理解し切った時、彼女の憧憬は憎悪に変わった。
『こんな世界なくなっちゃえ!』
『こんな世界消えてなくなればいい!』
そのクドリャフカの悲鳴が私の産声だった」
僅かに彼女の視線が遠のく。
そしてその視線はすぐにガガに戻ってきた。
「君と似てないかしら、ガガ君? …っと、お喋りし過ぎたかな」
言い終えてから細い手首に巻かれた時計に目をやると、シスター・ヴェノムは右手を天に向けて高々と持ち上げた。
その手が降ろされるのが何の合図なのかは容易に想像がつく。
「YOU DIE」
ガガは誰かの名前を呼ぼうとした。
両親、クドリャフカ、ミス・シンデレラ。誰でもいい。助けて欲しかった。
しかしここにガガに手を差し伸べてくれる者は誰もいない。
この状況は今まで生きてきた彼の人生と何もかもまるで一緒だ。学校とも、社会とも。
シスター・ヴェノムの腕が降り、手首をひねって立てた親指がぐるりと下を向く。
ガガの頭上で金属が唸る音が響いた。
ホノカグヅチらは苦戦を強いられていた。
あれから何度も光輪をスライムに食らわせてはいたが、怪物は一向に衰える事なく疲れを知らないかのように迫ってくる。
イコンとホノカグヅチはそれぞれ分離した別々のスライムを相手にしており、今やその二つから挟み撃ちを受けて手詰まりに
なりつつあった。
舞台はこのブロックと別のブロックとを繋ぐ地下駐車場同士の連結地点で、約100mほどの長さがある通路だ。
スライムはゴッドジャンキーズらのあらゆる攻撃を跳ね除け、遂に双方から彼らを追い詰めたのだった。
スライムは時間を追う事に膨れ上がっているように思える。
二つとも現在分裂前よりも一回りほど巨大化しており、どうやって生えたのか内包する人形の部品も増えていた。
「参ったねどーも」
頭を掻きながらホノカグヅチは緊張とは無縁な表情で呟いた。
水平に掲げた両手には六つほどのリングを回転させており、目の前に迫り来るスライムに投げつけようと隙を伺っている。
「クシミナカタ様にご援助頂いた方がいいんじゃねえ?
このままじゃ俺ら全員アイスクリームみたいにあいつに溶かされちまうぞ」
「クシミナカタは今瞑想の途中でしょう。動けないわ」
コンクリートの床に筆を走らせていたイコンが吐き捨てるように応える。
描き切った後に絵から数歩下がると、彼女は両の掌をそれに向けて意識を集中させた。
すでに退路を塞がれて逃げる事もできなくなり、生き残ったゴッドジャンキーズの僅かな戦闘員に紛れていたミス・シンデレラは、
彼女の白い指先にまとわりつく蒼い燐光を見た。
最初はか細かったそれは徐々に力強さを増し、やがて強大な光となって地下の闇を払う。
光は床に描かれた絵に移ってゆき、その輪郭をなぞってゆく。
やがてほんの数秒で輪郭のすべてに光が行き届き、絵がオーロラのように浮かび上がった瞬間、光と共にその絵は上へと
せり上がった。
二次元から三次元的な存在へと移り変わるそれは隆々とした筋肉に三つの頭部を持つ、雄牛の倍近く巨大な蒼い狼だった。
現実離れした光景に今更ながらに腑抜けのようになるミス・シンデレラの目の前で、絵より今生まれ出でたばかりの獣は高く
咆哮を上げる。
「行きなさい!」
イコンが指差したスライムに向かって、狼は蒼い風のように突進してゆく。
一方、ホノカグヅチらはスライムの片割れの足止めに躍起になっていた。
時々相手が飛ばしてくるスライムの体の一部を受けないよう気を使いながら、残存のありったけの火器をぶち込む。
幸い敵はかなりの鈍足だったが、双方のスライムの間隙はもう50mもない。
「袋のネズミってワケかい。あーあ、ロクでもねえ死に方になりそうだなあ」
ぼやくホノカグヅチを見下ろしていたスライムの内部で変化が起きた。
それまで気まぐれにスライムの内部を漂っていた人形の部品が、一つの意思の元次々と組み上がってゆく。
あっという間に完成したそれは横に寝かせたL字型をしており、長辺の先端部分には穴が開いていた。
そしてそれはスライムの内部から迫り出し、外気に顔を出す。
「何だぁ?」
ミス・シンデレラの疑問の声を背後に聞きながら、ホノカグヅチは僅かに眉をひそめた。
部品を組み上げて作られたそれは拳銃にそっくりな形をしている。ご丁寧にも引き金もついていた。
その何かはややスライムから身を乗り出すと動きを止め、グリップにあたる部分のみがスライムに包まれている状態となる。
ホノカグヅチが銃口の先へと視線を送ると、すぐに反対側で奮戦中の双頭の狼と噛み合った。
「イコン!」
迷わず叫んだ彼の声に彼女が振り向いた瞬間、スライムは人間の拳の形となり、人形の部品により作り出した拳銃の引き金を
人差し指にあたるもので絞り込む。
奇妙な銃声と共に銃口から発射されたのは猛烈な勢いの水柱で、液体の刃と化したそれは狼の背に食らいついた。
断末魔の悲鳴を上げて狼はあっという間に溶解し、生まれた時と同じく跡形もなく消え去ってゆく。
「水鉄砲ってワケかい」
苦々しげに言うホノカグヅチを嘲笑うかのようにスライムは銃口を彼に向けた。
彼らが噴射から逃げ回っている間、ミス・シンデレラは音もなく倒れ込んだイコンを抱き起こしていた。
狼が消滅すると同時に糸が切れたように力尽きたのだ。
「大丈夫…まだ」
弱々しげに浅い呼吸を繰り返しながら、イコンは彼の手を跳ね除けて立ち上がる。
額には汗が光り、彼女の細い体からはほとんど力が抜け落ちていた。
目から生気がなくなりかけている。今日一日で二体ものの絵の怪物を作り出した事により、憔悴し切っているのだ。
「ガガは何やってんだ…」
苛立ちを隠せないままミス・シンデレラは自分の手を逃れたイコンの肩を掴んだ。
彼女は尚も怪物を作り出そうと、力の入らない手に握らせた筆を床に走らせている。
「離してよ」
彼の手を振り解こうとしたイコンの目前で、生気のない瞳が浮かんでいた。
スライムから伸びた触手の中に浮かぶ頭部が、深い青色を通り越して彼女に何の感情も篭もらない視線を送っていた。
絵に気を取られていて気づかないうちにスライムは目と鼻の先まで接近していたのだ。
放心したように固まった彼女の肩に置いていた手を思いっきり引いて無理矢理伏せさすと、ミス・シンデレラは制止させるように
右手を開いて相手に向けた。
その行動を嘲笑するようにスライムは内部から体液を組み上げ、相手に圧し掛かろうと噴き上がる。
僅かな機械音がし、圧縮空気が撃ち出される音がそれに続いた。
哀れな犠牲者を飲み込もうと広がったスライムは空中で動きを止め、体表の一部から発生した氷塊に猛烈な勢いで体を
侵食されてゆく。
所々薄く脆い部分は自重を支えきれず、パキパキと澄んだ音を立てて粉々に砕け散った。
「ふう」
片手でイコンを抱き抱えて後退するミス・シンデレラの右腕は各パーツに別れて開き、僅かに内部の機械部分を露出させていた。
少し力を込めると彼の腕は見る見る元の形に組み合わされ、戻ってゆく。
ミス・シンデレラが腕に仕込んでいた液体窒素弾を受け、スライムはしばし声もなく苦痛にのたうった。
しかし完全に活動を停止させるには至らず、すぐに使えなくなった部分を斬り捨てて再びその体はうねり始める。
「貴方…サイボーグだったの?」
朦朧とした意識の中でイコンが辛うじてそう聞くと、彼は口の端を吊り上げて皮肉っぽく笑って見せた。
「言っとくけどこの顔とプロポーションは生身のままだぜ?」