プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -
シスター・マリア
15.罠
どんよりした空気は肌にまとわりつくように不快で、風の流れによって様々な臭いを運んでくる。
錆の臭い、血の臭い、プラスチックの臭い、腐った水の臭い ――…
菱上は防毒マスクとモニタが内臓されたヘルメットのフェイスガードを持ち上げると、指で眉の中に溜まった汗を拭った。
地上はもうクリスマス近くなのに地下へと続く通路は地熱のせいで蒸し風呂のように暑苦しい。
一同は慎重に慎重を重ねて前進を続けながら、緊張を途絶えさせる事なくスプートニクを目指していた。
通路の奥は湿った闇に閉ざされて暗く、巨大な生物の体内のようにそこら中にケーブルやパイプが這い回っている。
各兵士とインセクトロイドは暗視装置を通して得られる視覚を頼りに、それらに足を引っ掛けないよう気を使った。
所々破損して得体の知れない液体が漏れている場所もあれば、蒸気が噴き出している場所もある。
時々闇に火花が散る。切れた通路の電線が放電しているのだ。
圧し掛かってくるような恐ろしい静寂だった。体にまとわりついてくるような粘液質の闇。
一同の足音もほとんど響かず、音は暗黒に飲まれて消えてしまっているように思える。
本来はエレベーターが通るその通路はかなり広く、中途停止したそれから降りてすでに数十分は経過していた。
菱上が言うにはこの辺りは断線や破損が著しく、エレベーターでは入れないのだ。
彼らに先行して二人の兵士が斥候(偵察)に出ており、本隊に地形や状態などの情報を送ってくる。
また司令部から引っ張ってきたケーブルにより、一同は巴川らと連絡を取る事ができた。
『ああ、先に行ったヤツがスプートニクの入り口をめっけたらしいな』
ガガの乗るインセクトロイドに、菱上の声が届く。
どうやら情報は正しかったらしい。斥候はすでにスプートニクに到着しており、彼らを先取って確認を続けている。。
隊は基本的にインセクトロイドの周囲に歩兵がおり、後から歩いて行くような体形となっている。
何者かに攻撃を受けた際に歩兵がインセクトロイドを盾にする為だ。
菱上はガガの乗る最後尾のインセクトロイドの右端におり、その様子は搭乗席のモニタにも見て取れた。
もしも彼の声とその姿が見えなくなったらガガは不安と恐怖で精神に恐慌を来していたかも知れない。
『1980年代に『エイリアン2』って映画があってさ。見た事あるか?』
菱上は意味のある事からない事までしきりに話し掛けてきた。ガガの不安を取り除く為もあっただろうが、彼自身も怖いのだろう。
実際外を行く歩兵たちはヘルメットで表情は伺えないものの、皆緊張で強張っているように見えた。
『ここはソレに出てきた宇宙基地にそっくりだ…エイリアンの巣なんか無りゃいいがな』
彼は半分は冗談だが、残りの半分は本気でそう言っていた。
そこからしばらくはまた沈黙が続いた。ガガの前を行くインセクトロイドの後部のライトが心細げに揺れている。
不意に菱上が立ち止まると振り返った。と、同時にガガのインセクトロイドもゆっくりと停止する。
車とも電車とも違う独特の揺れのある乗り物のせいか、停止した後もしばらくガガは吐き気を堪えていた。
『ついたぜ。先に入った斥候の連中から連絡があるまでちっと待ってくれい』
斥候に出向いていたのは二人の男女だった。
オシリス・クロニクル社の能力重視主義は有名で、保健所とて性別による入隊を差別したりはしない。
二人はスーツを伝わって肌に染み込んでくる湿った空気に汗疹を沢山作りながら、、スプートニクと呼ばれた場所の斥候を
続けていた。
白い壁に殺風景な廊下。病院を更に重苦しくしたような雰囲気の場所だった。
壁から剥き出しのチューブや機械がそれを加速させている。
所々切れてはいるが天井の蛍光灯の半分ほどは生きており、二人共ヘルメットのモニタから暗視を解いていた。
人の出入りがなくなって久しい割には妙に小奇麗な場所で、壁も床も顔が映り込むほどだ。
「気分の良いとこじゃないね」
T字路の影に身を隠しながら、隣に伸びている通路に銃の先端を僅かに覗かせて女が言う。
銃口の真横には小型のカメラがついており、その映像はグリップから彼女の手袋を通じてヘルメット内部に送られる。
顔を出さずに通路の奥を確認できるという訳だ。
「ヘンな場所だよな、何か…」
ヘルメット内のモニタを眺めていた男が答えた。
誰の姿も見えないし気配もないが、二人は本能的な勘のようなものでその雰囲気を察知していた。
自分たちに対して害意を持つものは必ずそういう臭いみたいなものがする。
「熱源反応無し、動体反応なし、音源反応なし、臭気反応なし。オールクリア」
モニタの各センサー反応を見て呟いた男が背負うバックパックからはケーブルが延び、それはずっと背後の扉へと消えている。
後続の本隊と連絡と取る為の有線だ。
通路からパッと飛び出した二人は小走りに更に奥へと向かった。
途中にある扉の前で足を止めると、男が周囲を警戒している間に女の方がコントロールパネルにかかる。
スプートニクではあらゆる事故を想定してすべての扉が非常に強固に作られている。
『食堂』という札が降りているここも例外でなく、装甲車で突っ込んでも開きそうにない大扉が沈黙を守っていた。
用意してきたカードキーを読み込ませると、扉が開くまでのほんの数秒間で女は男に合図をした。
男が開いた扉の影に隠れて彼女を援護すると、女は銃を肩付けして構えながら、扉が開いた瞬間雷光の勢いで踏み込む。
広い食堂には長いテーブルと椅子が乱雑に置かれているだけで、天井では切れかけた蛍光灯がチカチカと不安げに瞬いている。
女は素早く右手のカウンターの奥の厨房に目をやった。
影になっている所が多く判り辛いが、モニタの各種センサーには何者かがいる事を示す兆候は現れていない。
念を押して男にバックアップを続けさせながら、女は慎重に厨房の奥を隅々までを虱潰しに調べた。
「何にもねえよ。次行こうぜ」
似たような事はここに来るまでに数回している。
男が立ち去ろうと彼女に背を向けた瞬間、その肩を女が掴んだ。
「待ち」
男が振り向くと、女は壁に向かってしゃがみ込んでいた。
じっと壁を凝視しており、そこに走る小さな黒い傷痕のようなものに指を這わせている。
「何だ?」
「わからんけど」
彼女は無言のまま立ち上がると男に背を向かせ、荷物の中から小さなスプレーを取り出した。
「ルミノールスプレー?」
男は眉を寄せた。
ルミノールとは警察の鑑識などが使う薬物の事で血液と混合すると発光する為、血痕の有無などを調べる際に使われる。
例え血液を拭き取られた後でもこれを吹き掛ければ青白く輝いてくる筈だ。
「それァ高いんだぜ」
「あんたがカネ払ってるワケじゃないけど」
男の言葉にそう言い捨ててスプレーの頭を押し込むと、空気中に薄桃色の液体が噴霧される。
壁に浮かび上がったのは凄まじいものだった。
何か巨大な爪で人間を引き裂いて中身をブチまけたような事を示す、ほぼその壁一面に荒れ狂う青白い輝き。
驚愕に固まる男を尻目に、スプレー一缶をほぼ使い果たした女はもう一度壁の傷に指を這わした。
「やっぱ何かいるんだ。ここには」
傷痕は四つ、それぞれが獣の爪ように綺麗に横に並んでいる。
傷痕自体は小さいが恐らく壁に達した部分が浅かったのだろう、爪一本一本の間隔からしても確かに人間を真っ二つにできるだけ
巨大なものだった。
何者かが一振りで犠牲者を派手に解体したのだ。
だが骸が残っていない。例え肉が腐って無くなったとしても、骨さえも見当たらない。
「昔、その『何か』はここで誰かを殺した。そんで死体を消した」
「持って行ったんだろ?」
出口へ向かう途中、男の脇をすり抜けざまに彼女はぼそりと呟いた。
「…或いはこの場で食ったか」
斥候の報告を受けた中隊長と各小隊長(中隊は三つの小隊からなり、更に細かく分隊に分けられる)はしばらく議論していたが、
今現在の危険性は薄いと見て強行を決定した。
ガガのインセクトロイドのマイクからもその報告が発せられ、それが終わると同時に菱上が早速ガガに軽口を叩いた。
『怪物がいるかも知れないですとー! いよいよ冗談じゃなくなってきたなあ…』
菱上が身震いする様がモニタに映し出されている。
彼らのような端末にはスプートニクで行われた事件の詳細までは知らされていないのだろう。
『実験生物が生き残っているかも知れないので気をつけるように』程度の事しか知らされていないのかも、とガガは考えた。
ガガはインセクトロイドから降りるよう指示された。
脚立がない場所ではハッチに収納されているアルミでできた縄梯子のようなものを使って地上に降りねばならず、安定せずに
フラフラと揺れるそれはガガの小さな体を大いに翻弄する。
菱上に抱き抱えてもらってようやく地上に降り立ち、彼らはその場に残る僅かな歩哨を後にしてスプートニクに踏み入った。
どうやら司令部には無事ケーブルが届けられたらしく、中隊長はしきりに通信兵に打電を命じている。
施設内に散った兵士を除いて10人以下になった中隊は、ガガや通信兵など戦いが主でない者を取り囲むようにして隊列を
組んだ。
開かれている正面のゲートを潜ると、一同の鼻をサビと淀んだ瘴気を含む空気が出迎える。
入ってすぐの正面の壁に貼られた案内板には、このブロックの地図が表示されていた。
ここは居住区らしく、地図には食堂・売店・宿泊施設などが羅列されており、それらを通り抜けると研究施設の区域に入る。
中隊長はそれを一瞥した後、三方向に分かれている道から真ん中を選んで隊と共に進み始めた。
斥候からの報告で特に危険はないとわかっているので、先行の彼らのように身を隠す事も敵を探る事もしない。
ただしかなりの早足なので、背の低いガガは小走りに進まねばならなかった。
ふと、しんがりを務めていた菱上が他のメンバーに聞こえないよう、こっそりとガガに耳打ちする。
「面白い事教えてやろうか」
全然サイズが合わないヘルメットを被せられていたガガが振り向く。
ヘルメット内のモニタには目前の菱上とおぼしき兵がこちらを向いている様が映し出されていた。
「ここは数年前、正確には九年と十ヶ月前に封鎖されてる。
公表じゃ自家発電所の融合炉がメルトダウンして放射能が漏れた…とかなってるらしいけどな、勿論大嘘だ」
クドリャフカに続くナイトメアウォーカー発動キーの持ち主、クシミナカタの暴走の事だとガガは反射的に悟った。
彼はクドリャフカの遺伝子の一部をコピーして作られた完全な人造人間だとホノカグヅチに聞いた事を思い出す。
「ここで作ってたバケモンが制御から外れて暴れ回ったって噂だ。どんなソレかは知らねえけど。
…ところが、当時のオシリス・クロニクル社はスプートニクの研究員の救出には向かわなかった。
俺はその頃まだ入隊してなかったけどな。各階の隔壁を全部閉じてバケモンごと生き埋めにしちまったんだと…」
ふと、こちらをじっと見上げるガガに気づいて菱上は慌てて目を反らした。
「脅かすつもりはねえよ。俺だって気味悪くてよ…」
少し余計な事まで喋り過ぎたようだ。彼はそれ以後自戒したようで、無駄口は一切叩かなかった。
ガガが記憶している限りのスプートニクの全貌では居住区はここ一つだけで、あまり広くない為に僅かな人数でもすぐに
制圧できたようだ。
ガガが隊に守られながら目的地へ向かう途中も、あちこちで歩哨に立ったり忙しなく走り回る兵士の姿を見かけた。
やがてガガが連れて来られたのは、道路ニ車線分はありそうな広い廊下の片隅だった。
そこには地下施設のものと同じく真っ白な、強化プラスチック製の電話ボックスのようなものがある。
中では人が一人腰掛けられるようになっており、テーブルと一体化したデスクトップパソコンが一つ置かれている。
一人の兵士が先ほどから何やらしきりにキーボードを叩いているが、画面には『ERROR』の文字が点滅し続けていた。
広大な地下施設には各所にこのようなナビゲーションコンピュータが置かれており、地図を見たり誰かに報告をしたりと言った
行動がどこでもできるようになっている。
そしてすべてのナビコンは地下のあらゆるシステムを司る最大のメインコンピューター、スプートニクのものへと繋がっている。
「どうだ?」
中隊長に声をかけられて手を休めると、ヘルメットをつけたままの兵士が振り向く。
他の兵たちは周囲に散ってあたりを警戒している。
コンフリクト
「ダメですね。内部衝突のせいで全然…メインと繋がっているとは思うんですけど」
「出番だぜ」
菱上に背を押されてつんのめりそうになりながらガガが一歩前に出た。
彼に手伝ってもらいながら顎のジョイントを一つずつ外してヘルメットを脱ぐと、それを菱上が預かる。
しばらく振りの外気は鉄とプラスチックの臭気を帯びて温く、気分の悪いものだった。
不快感に眉根を寄せるガガに菱上が続ける。
「欲しい情報は『スプートニクの自己健康診断結果データの最新バージョン』だ。
メインは防壁とカウンタープログラムが守ってる。お前が潜ったらIDとパスを送るからそいつで通りな…
このナビじゃメインにゃアクセスできねえが近場に情報を送るのなら可能だからな」
それ以上伝える事はないようだった。
時は満ちた。
椅子を立って退いた兵士の変わりに腰を降ろすと、髪を掻き揚げて首筋からコードと繋がった接続端子を引っ張り出す。
ナビコンのジャックホールはモニタのすぐ下にあった。
「24時間だけ待つ」
ガガがジャックホールに端子を摘んだ手を伸ばす際、中隊長は表情の伺えないヘルメット越しに言った。
「それ以上経っても自分の体に帰還しなかった場合、君は死亡したものと見なされる。
君の体は接続を解かずこのままここに放置する。ケーブルつきの通信機を置いていくから、もしも場合は連絡したまえ」
自分の事など微塵も気遣っていない軍隊式の通達に、ガガは脅えたように数度頷いただけだった。
恐らくシスター・ヴェノムはこの絶好の好機を見逃しはしない。
恐怖に身は強張り今にも胃液を戻しそうなくらいのストレスに圧迫されて、ガガは正直気が狂いそうだった。
痙攣したように震えて端子を持つ指が定まらず、しばし彼はジャックホールに差し込むのに手間取る。
横から伸びてきた手に、その手首を力強く握られた。
「ヤバくなったらケツまくって逃げてきな」
自分もヘルメットを外した菱上が蒸れて吹き出た汗を流しながら、人の良さそうな顔でニッと笑って見せる。
ガガの鼻がその汗の臭いにひくついた。
菱上は支えたガガの手をゆっくりとジャックホールに定めると、そこで手を離す。
不思議なことにガガの手の震えはもう止まっていた。
「いいか、今回時間は大して重要でもない。ゆっくり、慎重に、だ。
時間がどんなにかかっても成功さえすりゃいいワケよ、ヤバけりゃ戻って来ていい。別の方法を考える。
自分の安全を第一に考えろ。誰も一人犠牲にしてでもここを攻略しようだなんて思っちゃいねえ」
彼が何度も頷くと、菱上はガガの小さな背中を勇気付けるように数度叩いて持ち場に帰った。
ガガは菱上の激励と慰めに少しだけ気が楽になり、恐怖が遠のいたような気がした。
深呼吸を繰り返して全身に糊を塗ったような強張りを幾分か和らげると、ジャックホールに端子を差し込む。
バリアブルメタルが形状を変えて穴にぴったり重なると同時に意識を集中させ、ガガの意識は深い暗闇の中へ飲み込まれて
行った。
「子供の扱いがうまいな」
皮肉めいた隊長の言葉に、菱上は振り向きもせずに答えた。
「俺が教師になりそこねたって話はしましたっけ…? っていうか隊長が下手過ぎるんですよ」
特に問題もなくガガがネットにアクセスを開始したとの報告を受け、巴川は顎を撫でて答えた。
「よーし、いいぞ。順調だ」
通信機を担当しているオペレーターの横に立ち、送られてくるモニタの中の情報を眺める。
その視線が一つの画像に釘付けになった。あの巨大な爪痕とルミノールスプレーにより浮かび上がった凄まじい血痕だ。
「これは…?」
オペレーターの声も届かぬまま、巴川は眉を寄せた。
―― ナイトメアウォーカー。どれほどの物なのか…? ――
モニタに張り付いているそんな巴川を、ミス・シンデレラは瞳に青白い炎を灯しながら視線を注いでいた。
睨み殺そうとしているのかと思えるほど強烈な暗さと憎悪を秘めた眼だ。
彼は特に確証はないまま、何となくこの男が自分たちのオシリス・クロニクル社侵入作戦を見破ったのではないかと考えていた。
二度に渡って辛酸を舐めさせられるとは…
「いや」
ふと、腰を降ろしていたテーブルの上で足を組替える。視線は巴川の広い背を貫いたままだ。
誰にも聞き取れられないまま彼の呟きは、吐いた煙草の煙のように消えてゆく。
「これで三度目か…」
ガガの鼻腔を濃厚な植物の臭いが蹂躙していた。
頭が痛くなるようなその香りに脳を煮られ、ガガはぐったりしたまま目を覚ます。
目前にあったのは深く暗い緑色で、やがて立ち上がって見るとそれは脛の半ばまで生い茂っている葉だとわかった。
ネット空間の視覚的な光景はサイバーダイヴ能力者のガガの精神状態や回線自体の状況も関係してくるが、今目の前に
果てしなく広がっている光景は経験した事のないものだった。
脛の高さまである葉は地上に咲き乱れている巨大な赤い花のものだ。
大輪の花弁を持ちラフレシアのように茎が短く、ほぼ直接地上に生えている。
中央にあるのは牙がずらりと並んだ円形の口だった。しきりにもぐもぐと何かを咀嚼しているような動作をしている。
そこは葡萄園のようでもあり、ガガの頭上では骨組みに巻きついたつる状の植物がびっしりと天に蓋をしている。
一刺しの陽光を逃す隙間もないほどのそこから実として生っているのは生物の臓器だ。
肺、心臓などはビクビクと鼓動としているし、胃から吐き出される液体は地上の植物に注いで煙を上げる。
植物群の色は総じて暗く、どこまでも続いている。ガガが見る限りでも180度その葡萄園は続いていた。
悪夢のような光景にガガはたじろいだ。
時折ガラス細工のように透き通った羽を持つ大きな蝶が、輝く光の粒のような燐粉を撒き散らしながらガガの鼻先を
横切って行く。
足元には白い箱にリボンのついた場違いなプレゼントの箱が落ちていた。
リボンを解いて蓋を開くと、底にはシンプルなデザインの大きな鍵が置かれている。
これが恐らくメインコンピューターへのパスワードとIDなのだろう。
なるべく足元の花を踏みつけように気を使いながら、ガガは勇気を振り絞ってこの狂った幻想の世界を進み始めた。
ガガの軽い息遣いと葉を踏み分ける以外の音はほとんどしない。
耳が痛くなるような静寂に飲み込まれ、ガガは不安と恐怖に闇雲に駆け出したくなる衝動を抑えるのに必至だった。
彼の全身はすでに新型のプロクシに包まれており、光を吸収する真っ黒なパジャマのような服に身を包んでいる。
現実世界の鎧と一緒でプロクシが強力であればあるほど重く体の動きが鈍くなるが、命には変えられない。
幸いこの世界では肉体的疲労を感じる事はなかったが、メインコンピュータへ向かって小一時間ほど歩き詰めると
精神的疲労は耐え難いものとなっていた。
周囲には相変わらず臓器の実とグロテスクな足元の花が無数に広がっている。
蝶は行き場を求めて彷徨い、ふらふらとその植物の合間を縫って飛び回っていた。
もう10分ほど歩くと臓器の実は失せ、代わりに太いロープで首を吊っている素っ裸の人体が目につくようになった。
石膏の置物のように異様な白さの肌をしたそれは頭に布袋を被されており、顔を伺い知る事はできない。
首を吊っているものだけでなく、足や手首などの場合もあったし、下半身がぶっつりと切れてなくなっているものもある。
皆不気味に痙攣を続けており、時々布袋に阻まれた呻き声も漏れていた。
竦んで動けなくなりそうな体に鞭打ってガガは前へと進む。
それからしばらく歩くと、葡萄園の彼方に鉄柵で囲まれたものが見え始めた。
駆け寄って見るとガガの身長の3倍はありそうな高い鉄柵で円形に覆われた空間があり、中では小さな丘くらいある巨大な
生物がゆっくりと寝息を立てている。
長い首に大きな角、口からこぼれ落ちる巨大な牙を持つそれは竜だった。
真っ白な鱗を持つ、おとぎ話に出てくるような美しい竜。
まるでこの悪夢の世界に閉じ込められたかのようにそれは柵の中に押し込まれており、息を呑むほど美しい流線型を描く
その姿には目を見張るものがある。
柵の回りをぐるっと回ると、ガガは大きな錠と鎖の下りた門を発見した。
ポケットに突っ込んであった鍵で開錠すると、ぐるぐるに巻かれていた鎖を解いて地面の上に投げ捨てる。
ガガが足を踏み入れると竜の寝息が一瞬止まり、彼は物憂げに大きな瞼を持ち上げた。
狭い敷地の中に竜は体を丸めて窮屈そうに閉じこもっており、ガガにはほとんど足の踏み場もない。
彼は頭を動かす事はなく、黒い大きな瞳だけでガガの小さな姿を眺めた。
ガガも必然的に竜を見つめ返す。この狂った世界の中でも、この竜だけは何故か心の休まる存在だ。
「『スプートニクの自己健康診断結果データの最新バージョン』が欲しい」
菱上に言われた通りの言葉を口にすると、竜は寝息のような呼吸を続けながら口を動かす事なく答えた。
「ロード中…ロード完了。ダウンロードしますか?」
無機質な相手の声に頷くと、ガガは左腕と一体化している小さなノートパソコンを開いた。
モニタ上で見る見る内にガガの情報保存の許容範囲のメーターが減ってゆく。かなり大きなデータのようだ。
ガガが焦ってダウンロードを中断しようかと思った頃、許容範囲ギリギリで上昇は停止した。
目的を果たしそのまま回れ右をして帰ろうと思ったが、ふとガガの中に別の欲求が現れた。
改めて竜の瞳を覗き込むと、唾を飲み込んでから恐る恐る質問を口にする。
「クドリャフカ=シネルニコヴァのボディはどこにある?」
竜は僅かに目を細めた。心なしかこちらの心の内側を探っているようにも見えた。
「ロード中…」
今度のロードは長く、数呼吸分の間が開いた後に竜は情報を開示した。
空中に何物にも支えられていない、半透明のセロファン用紙のようなものがガガの目前に浮かび上がる。
そこをいくつもの線が駆け巡り、あっという間にスプートニクの地図となった。
ガガがアクセスを行った居住区から更に地下へ向かった場所、研究媒体を保存する倉庫の最奥部を赤い円が囲っている。
そして恐らくこの場合、研究媒体とはナイトメアウォーカー発動キーを持つ人間か或いはそこから作られたクローンなのだろう。
クドリャフカのボディは何故か他から隔絶された、球状の保管庫に収まっているようだった。
地図には『セイスクリッド・スフィア』という表示が出ている。
「セイスクリッド…?」
「クドリャフカ=シネルニコヴァは類い稀なるナイトメアウォーカー発動キーの持ち主であり、非常に貴重とされた。
よって社はクドリャフカ=シネルニコヴァの精神がネットに逃れた後も保管を決定。
二度と再びかつての事故を起こさぬ為に厳重に封印され、現在も生命維持装置は問題なく作動中…」
淡々とした説明を聞きながらガガはクドリャフカのボディが無事に残っているという事実にようやく安堵の吐息を吐いた。
後はどうにかしてこの肉体を手に入れ、地下から運び出さねばならない。
しかし当然ながら別の問題が発生するのだ。オシリス・クロニクル社はクドリャフカのボディをよほど惜しいと思っているらしい。
そんな貴重なものをあっさり自分たちに引き渡すだろうか?
この地図をダウンロードしたかったがもう脳内には余裕がない。
できる限り記憶して竜に背を向けると、ガガは色々な事を考えながら今来た道を引き返し始めた。
ガガの闇に飲まれて消えてゆく背に、竜はいつまでも気だるげな視線を注いでいた。
内心いつシスター・ヴェノムが襲い掛かってくるのかガガは肝を潰していたのだが不思議と帰り道では異変は起こらず、
返ってガガを疑心暗鬼にさせた。
自分の体に戻ってきたガガに一番最初に気づいたのは菱上だった。
顔を上げると彼が自分を覗き込んでいるのに気づく。
ナビコンから接続端子を引き抜いて立ち上がったガガに、ヘルメットを取った菱上は真っ先に質問を浴びせ掛けてきた。
「早かったな。どうだ?」
「大丈夫」
現実世界に戻ると同時に噴出してきた汗を拭い、ガガは何とか彼に笑って見せた。
「持って帰ってきた」
「良くやった!」
菱上が彼の背中を叩いて一頻り褒め称えた後、一同は来た道を引き返し始めた。
各所にはケーブルを引いた監視カメラや集音マイクが置かれており、次に来る時まで人間に代わってここを見張っていてくれる。
梯子を伝ってインセクトロイドに乗る際、ハッチをくぐりながらガガは菱上にずっと気になっていた質問をした。
「次にここに来るのはいつなんですか?」
「さあな。持って帰った情報を解析した後だと思う」
そう言って地上からガガを見上げていた菱上が、背後の別のインセクトロイドに振り返った。
兵士達がスプートニクの居住区から発見できた僅かな情報基体などを箱に詰め込み、トランクに運び込んでいる。
その間にも何人かの兵士が歩哨に立ち、周囲を警戒していた。
「その時に僕も?」
「ああ、同行してもらうかも知れんけど…まあ先のこたわからんよ」
彼自身もあまりよく知らないのだろう。投げやりにそう言うと自分も作業を手伝いに行ってしまった。
ハッチを自分で閉じて複雑なベルトのバックルを組み合わせながら、ガガは必死に考えを巡らせていた。
社はクドリャフカの体を見つけ出せば必ず同じ実験をするだろう。
何とかして彼女の体を先に手に入れ、社に気づかれないよう持ち出さねば。
ガガは色々と考えてみたが、何一つとして現実的な名案が思い浮かばない。
とりあえず今日の所はこれで探索は終わりなのだ。
地上に出てからミス・シンデレラに相談するまでこの案は保留にする事にした。
粗方持ち出してきた荷物を詰め込んだようで、中隊は隊列を組み直すと地上に向けて帰還を開始する。
通路が狭く一列に並んだインセクトロイドらの隊列の方向転換は不可能なので、今度は来る時に先頭だったものが最後尾と
なっていた。ガガはそれに乗り換えている。
帰り道も先に斥候を送っているので時間がかかると菱上が説明してくれた。
『そうそう、斥候のヤツに聞いた話なんだけどな』
特に危険なこともなく家路に付く事ができたせいか、菱上は饒舌さを取り戻した。
ガガは安心したような態度の彼の声を聞きながら、何となく小学校の頃聞いた『家に着くまでが遠足』という標語を思い出す。
『食堂にデカい爪痕があったってよ…引っ掻き傷みたいなヤツな。
ルミノール使ったら血液をブチまけた跡がくっきり出てきたらしい。まあ人間のかドールズのかわかんねえんだけど。
ちょっとだけ調べたんだけど、居住区だけでもその爪の跡が三つ四つ見つかったと。
血液のサンプルは持ち帰ったから帰って調べてみりゃ』
語尾を言いかけた菱上の動きが止まった。
目に見えて緊張感を高めながら通路の奥、隊の先頭の方にじっと視線を送っている。
ガガがモニタに目を凝らすと、闇の奥で一番先頭のインセクトロイドの後部ランプがチカチカと明滅している。
何かを知らせるように不規則に点滅したそれが終わると、菱上は邪魔そうにしていた銃を構え直す。
無線が使えない地下では、あのライトが後続に情報を伝える為の信号になっていたらしい。
各隊員やインセクトロイドと有線ケーブルを繋ぐとムチャクチャに絡まってしまうからだろう。
『何もすんじゃねえぞ』
それだけ言い残すと彼はヘルメットのケーブルを引き抜き、慌しく前方の闇の中へと消えて行った。
暗黒の中の淀んだ空気がピンと張り詰める。
不安に心臓が破裂しそうになるガガの耳を、闇の彼方から響いた激しい銃声と金属が断ち切られる音が貫いた。