プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -






シスター・マリア

16.ケーブルワーム


  闇の中で何が起こっているのかわからず、ガガはただその場で竦み上がって震えているばかりだった。

 通信が何も入ってこない為に、ガガが得られる情報はこのモニタと集音マイクが拾う音声がすべてだ。

 怒号や部隊長の命令、銃声、爆音、何か金属が砕かれる音。

 それらすべてが一緒くたになってこの通路で反響を繰り返し、耳鳴りのように響いて淀んだ空気に満ちて行く。

 完全に不意を突かれたようで、兵士達は皆一様に浮き足立っているように見えた。

 ふとガガの乗っているインセクトロイドが何の予告もなしに大きく身震いをすると、モニタの中の光景が後方へと流れ出した。

 一列に並んだ他のインセクトロイドと共に後退を始めたのだ。

 おい!

 突然搭乗席のスピーカーから放たれた声が自分に向けられているものだと気づき、ガガはモニタに目をやった。

 ケーブルを繋ぎ直した菱上らしき兵士がこちらを見上げて何か叫んでいるようだ。

 攻撃を受けた、後退するぞ

 「攻撃?」

 思わず聞き返したガガに答える事なく、彼はまたケーブルを抜いてモニタの外へと消えてゆく。

 菱上は慌てた様子は見せなかったが、ガガには彼が神経を尖らせているのがわかった。



  時間はそれよりほんの数分前に戻る。

 本隊に先行してエレベーターへと続く通路を進んでいた斥候の二人は、複雑に入り組んだ交差点に差し掛かっていた。

 スプートニク並びに地下施設は敷地が広大な為に各エレベーターは電車のようにタイムテーブルに乗っ取って運行しており、

 移動者は時刻表を見て次のエレベーターの到着時間や行き先の階層を確認する。

 斥候が通りかかった場所は数本の路線が組み合わさった交差点で、あちこちに道が伸びている。

 現在スプートニクには稼動しているエレベーターはなく、闇に閉ざされたそこにあるものは朽ち果てた線路だけだった。

 時折半壊した大きなエレベーターボックスが転がっており、切れたコードが火花を吹いている。

 行きも通った場所だったが、二人は油断なく周囲への警戒を続けていた。

  闇に感情を蓋され二人は無駄口を忘れて押し黙っていたが、ここまで着いたところでようやく大きく溜息をついた。

 出口まで20mの地点を通過。問題なし

 安堵を込めて本隊と司令部に通信を送ると、男の方は様子を伺っていた横穴から離れた。

 ヘルメット内に映し出されている各種センサーに反応はない。

 「とにかく風呂とビールだ」

 男は心底うんざりだという表情を乗せた顔を、手の平で仰ぐ仕草をして見せた。

 「ジンマシンができそうだぜ。このスーツはどうにかならねえのか」

 何も答えずに前を小走りに進んでいた女が突然地面を蹴って立ち止まった為、彼女の背後を走っていた男はその背に

 突っ込みそうになる。

 つんのめりながら慌てて立ち止まった男の顔を、振り返った女はじっと覗き込んでいた。

 ヘルメットのシールドに阻まれてその表情をうかがい知る事はできないが、男には彼女が怒っているように思えた。

 「なん…何だよ。怒ってんのか?」

 「集音マイクの感度を最大にして。何か聞こえた」

 感情を押し殺した女の雰囲気に圧倒され、男は言われるままにヘルメット内のモニタへ視線入力でセンサーの一つの

 設定を変える。

 すぐに男の耳には機械を通して微細な音の情報が流れ込んできた。

 自分と相手のボディアーマーやスーツが触れ合う衣擦れの音や重苦しい空気の流れ、足の体重を移し変える際に踏んだ

 床が上げる軋みなどが耳腔へと運ばれ、渦巻いている。

 ずっと後方で僅かに響いている地鳴りのような音は本隊の発する雑音だろう。

 男は女に視線を移し変えた。『別に何もない』と言いたげに肩を竦めて見せる。

 女は口元に人差し指を持ってくるとそんな彼の仕草を制し、耳を済ませるよう側頭部に手をやって合図した。

  男が憮然として腰に手をやった時だった。

 最初は耳元で何かが擦れているのだと思ったが、濁った空気を震わせるそれは確かに別の異音だ。

 何か長いものを引き摺っているようなズルズルという音。

 暗黒に呑み込まれたこの世界でその音はあまりにも奇妙で不気味に響き、少しずつその場の雰囲気を支配してゆく。

 センサーの表示では音の発生源は右後方となっており、そして明らかにこちらの現地点に向かって接近しつつある。

  二人の間に青白い緊張の炎が走った刹那、女は男の肩越しに横穴から飛び出すものを見た。



  斥候と本隊の間、30mほどの空白の距離にそれは突如として姿を現した。

 本隊の先頭を切っていた兵士とその傍らの中隊長は、暗視装置を通して見える15mほど前方の壁から生えたものに

 気づいて足を止める。

 戦いを生業にする者の常として頭の中で警戒のスイッチが入り、隊長は後方の全隊に止まるよう合図して様子を窺った。

  それは右に口を開いた通路から顔を出しているようだった。

 細長く生白いそれは巨大な寄生虫のようにも見え、2mくらい体を乗り出して周囲をうかがうように忙しなく首を振っていたが

 すぐにひょいと穴の中へと首を引っ込める。

 地図によればあの通路の先はすぐ下へと直角に曲っており、更に地下へと続いている筈だった。

 「後続に連絡! 警戒態勢」

 中隊長の命令を受け、傍らの兵がインセクトロイドと有線で繋がっているマイクに声を張り上げる。

 先頭のインセクトロイドから後続の部隊へとライトの明滅によって情報が行き渡り、隊はすぐに動き出した。

 一匹の獣のような統一感の元に形を変え、一同は臨戦の体形へと移り変わる。

 00から58へ、S−26



  隊長から有線通信を受けた斥候の男はヘルメット内のモニタを睨んでいた。

 S−26とは彼らの隊だけが使う一種の暗号で、この場合は『敵を探れ』という意味だ。

 しかし斥候の背負う機械が搭載している各センサーは音を除いてすべて反応がない。熱源探知さえ沈黙を守っている。
          敵 正体不明
 58から00へ、HH−03

 斥候の二人は手近なエレベーターの残骸の陰に身を隠すと、銃の先端に取り付けたカメラの映像を確認する。

 白く細いロープのような何かが顔を引っ込めてから何ら変化はない。沈黙と闇が周囲の支配を再開した。

 だがその間にも男の集音マイクは更に増加した、あの何かを引き摺るような音を拾い続けていた。

 何か巨大なものがあの横の通路の奥の縦穴を這い上がってきているようだった。

 ずるり、ずるりと言う音と共に沢山の足が蠢くような、ざわざわという不気味な音が加わる。

  敵の正体が掴めないという霞がかかった現状は全員の心に大きな不安という影を落とし、それはじわじわと焦燥へと

 変わって心を覆って行く。

 斥候の女は男が唾を飲む音を聞いた。

 それから一呼吸遅れて通路から何かが噴き出した。



  その『何か』が出現したという報せを受け、隊長の合図を受けて兵士の一人が照明弾を闇に打ち込む。

 破裂し、暗黒を切り裂いた不意の閃光の中で、闇の奥から這い出してきたそれはゆっくりと身をもたげて兵士達を歓迎した。

 芋虫だ。

 ドラム缶の四倍近い、乗用車くらいなら丸呑みにできそうなミミズのような生物が鎌首を上げて一同を見下ろしている。

 目も鼻もなく、生白く輝く全身の先端には巨大な円形の顎がくっついていた。

 それが開かれると口腔の内側の赤黒い肉がこぼれ、生物は相手を威嚇するように空気が漏れるような鳴き声を上げた。

 闇に飲まれてわかりにくいが、この生物は更に何千、何億という大量の腕くらいの太さの同じ生物が絡み合って一つの

 生体を組み上げているようだ。

 それら一匹一匹もまたウネウネと身をくねらせて動いている。

 その中から一匹が大きく宙へと伸びると、くるくると動き回り己の体を用いて何かの記号のようなものを描いた。

 それが終わると虫の一部はアーク灯のように輝いてそれを浮かび上がらせる。

 スマイルマークだった。

  隊は異形のその姿に凍りついた。

 芋虫はしばらくそんな彼らを嬲るかのように見下ろしていたが、突然別の行動に移る。

 己を構成するいくつかの小さな芋虫を触手のように伸ばしたのだ。

 弾丸のような勢いで放たれたそれらは闇を切り裂き、幾筋もの残像を残して隊へと迫った。

 「撃て!」

 いち早く恐慌から脱した隊長の声にビクッと身震いすると、兵士たちは弾かれたように我に戻って自動小銃の引き金に指を

 かける。

 闇に銃火の花が咲き、片っ端から触手を断ち切っていった。

 特に先頭のインセクトロイドの放つガトリングは凄まじく、銃弾の豪雨はあっという間に芋虫本体の面積を削り尽くす。

 弾に粉々に身を引き千切られる苦痛に悶え、芋虫は悲鳴を上げた。

 しかし銃を手にしていた兵たちは奇妙な感覚に捕われ、どうしても攻撃を止める事ができない。

 相手は確かに銃弾を浴びて絶命しつつあるかのようなのに、引き金にかけた指からはぬかに釘を打っているような

 手応えのなさだけが染み込んでくるのだ。

 芋虫はその体のほとんどを弾丸に持って行かれ、糸くずのように体組織を床に撒き散らしていた。

 だがおかしな事にその相手の輪郭は決して縮んでいないのだ。

 床にはもう芋虫の組織が雪のごとく降り積もっているというのに、虫からは一向にのたうつ力が失せようとしない。

 衝撃による落盤の可能性を考えて今回彼らは重火器を持ち込んでおらず、彼らは焦りを募らせた。

  しばらくは隊の攻撃に身を委ねていた芋虫は突如、身をもたげて溜め込んでいたバネを正面に向かって一気に開放する。

 尚も銃弾を浴びながら四体のインセクトロイドの頭上を飛び越えた所で、その顎の軌道が大幅に落ちた。

 限界まで広げられた芋虫の口腔がガガの目前にあるモニタいっぱいに覆い被さる。

 彼の乗るインセクトロイドの真正面に齧り付いたのだ、恐慌を来したガガは思わず両腕で顔を覆った。

 唾液でぬらぬらと輝く口腔内は赤黒い肉に包まれており、闇の底へと続いている喉の奥が凄まじい鳴き声を放たんと膨れ上がる

 様相をモニタは鮮明に映し出していた。

  闇に芋虫の咆哮が上がる。

 装甲を施されたインセクトロイドの表層を容易く穿ち、丸く並んだ恐ろしく巨大な牙はがっちりと相手の体を捕えた。

 インセクトロイドへ駆けつけた菱上は、踏ん張ったその六つの足が引き摺られて床を滑るのを見た。

 自動操縦装置の判断でインセクトロイドは必死に床にしがみ付くものの力の差は明らかで、八本の足は力負けしたものから

 順番に床から引き剥がされてゆく。

 中隊は芋虫を中ほどから断ち切ってガガを救おうとしたが、火線を一点に集中させていくら撃ち込んでも芋虫の体はスポンジの

 ように銃弾を飲み干した。

  菱上がマスクを外すと、声の限りにインセクトロイドに叫ぶ。

 「機体の外に逃げろ、ベルトを外してハッチのハンドルを右に回せ!」

 今にも芋虫の顎に噛み砕かれんばかりに軋みを上げる機体の中でガガはパニックを起こしていた。

 恐怖と混乱に正常な判断力を失い、シートベルトのバックルにかけた指が滑ってジョイントを解く事もできない。

 ガガを助けるべくインセクトロイドに這い上がろうと菱上が踏み込んだ瞬間、ガガを乗せた機体は糸が切れた凧のように虚空へ

 跳ね上がった。

 芋虫に引っ張られ、ガガの機体はすぐ前方に位置していたインセクトロイドに一度ぶつかって装甲の破片を撒き散らす。

 頭をぶん殴られたような衝撃を受けた刹那、ガガは失神していた。

 インセクトロイドを咥えたまま驚くほど俊敏に芋虫は後退し、現れた場所である横穴へと機体を引きずり込んでゆく。

 機体が消え失せた後、過ぎ去った一瞬の出来事に呆然とする隊の周囲には再び沈黙と重苦しい闇が落ちた。






 「帰還しろ」

 通信機に向けられた巴川のその言葉を聞いた瞬間、ミス・シンデレラは椅子を跳ね除けて立ち上がった。

 「何だと!?」

 形相を変えて詰め寄ってくるミス・シンデレラに一瞥を送り、巴川はモニタの一つに視線を移す。

 ワイヤーフレームで表示されたスプートニクの地図で、隊の現在地は明滅する赤い点で表示されている。

 「ガガ君が飲み込まれたのは報告によればこの通路だ」

 彼は中隊が行きと帰りに利用した『ライカ』と名づけられている通路の横穴を指差した。

 途中でほぼ直角に曲って地底へと続いているそれは、地下施設の最も深い場所と繋がっている。

 恐らく長さは200か250mはあるだろう。不幸にも最下部に直結している縦穴だったのだ。

 「残念だがこの高さから落ちては・…」

 「ふざけるな、ガガを見捨てる気か」

 金髪を振り乱して歯を剥き出すとミス・シンデレラは巴川の襟首を引っ掴んだ。

 ぐいと自分の元へと引き寄せ、血走った眼で相手を睨みつける。半ば正気を失ったような瞳だった。

 「救助を向かわせろ!」

 「このルートは調査が済んでいない。兵の命を預かる以上、安全の保障もなしに人員は送れん!

 犠牲を増やしたいのか」

 巴川も臆する事なく、ミス・シンデレラと同じ位の気迫を込めて怒鳴り返す。

 「犠牲だと? そうなったと決め付けるのか!?」

 しばし二人の間で噛み合った視線が火花を上げる。

 お互いの心に燃え盛る、冷たい炎のやり取りがほんの数秒続いた。

 「隊の再編成と調査・準備に8時間貰おう。救助はそれからだ」

 「…」

 その答えを受け取った後もミス・シンデレラはしばらく相手に憎悪の視線を注いでいたが、すぐに踵を返して椅子に戻った。



  三時間ほどで一通りの指令他の仕事を済ませた巴川は、オペレーターの気遣いで外の空気を吸っていた。

 オシリス・クロニクル社一階の裏口から外へ出ると、広大な駐車場の一角まで足を運ぶ。

 外気はつんと冷え込んでおり、背広から露出している皮膚を針のように刺激した。

 駐車場の隅には街灯の元に浮かび上がっているベンチがあり、そこに腰を降ろすと煙草を取り出して火を入れる。

 ネクタイを緩めて澄んだ闇に紫煙を吐いていると、その煙から滲み出てくるかのように出現した男がいた。

 夜の闇の中ではまた一段と金髪が映えて見えるミス・シンデレラだ。

 降り注ぐ街灯の明かりを受けて金髪はその無機的な光を砕き、玉のように周囲に散らしている。

 しかしその端正な顔に乗っている表情は激しい憎悪を込めたものだった。

  その姿を見遣った巴川は、しばらくかける言葉を迷っているような素振りを見せたが、結局胸のポケットから煙草の箱を

 取り出し、一本を彼に向かって差し出した。

 「煙草は?」

 「髪に臭いをつけたくない」

 前髪を掻き揚げて巴川の申し出を素っ気無く断ると、ミス・シンデレラは彼に釘付けていた眼を細めた。

 「私がこの任を請け負っている事が不満かね…?」

 「いいや。アンタの経歴は大したモンだ…元軍人だそうじゃないか」

 巴川は煙を吐き出し、できるだけ嫌味にならないようにふっと鼻で笑った。

 「よく調べたね。…じゃあわかってしまったのかな?」

 「わかったとも。アンタに負けたあの日から、汚い手まで使って巴川 大の事はすべて調べ尽くしたからな」

 語尾を吐き捨てたミス・シンデレラに対して巴川はもう一度笑った。

 柔和な顔に浮かぶ表情は柔らかな笑みだったが、その底知れぬ奥では別の感情が渦巻いていた。

 「軍人だったのは確かだがアンタは傭兵だった。家じゃ優しい父親でいい夫だった。

 26歳の時に参加した中南米の戦場…政府軍の兵士として、だったな。

 捕えた捕虜の少女を拷問した後に強姦して殺したそうじゃないか…?

 それ以来、日本に帰ってきてからも奴隷の子を買っちゃあ家族にも知れず隠れ家で『趣味』に没頭してたらしいな。

 七年前に実の息子に液体窒素弾を食らって顔の半分と左腕を消失…顔を変え、戸籍を買って巴川 大となる」

 ミス・シンデレラが不意に、何気なく腰に当てていた右手を下ろした。
                                              あきら
 「俺の知る限り最悪の変態でロリコン野郎だ、巴川 大…いいや、神無崎 明良はな」

 黙りこくって相手の言葉を聞いていた巴川は、突如として肩を揺らして笑い始める。

 喉の奥から漏れるようなその笑い声は、もう少しでミス・シンデレラの逆上の引き金を引いてしまうところだった。
                                                  あらた
 「正直、バレるとは思っていなかった…随分頭の切れる男に育ったじゃあないか、新?」

 「貴様が親父だということが俺の人生最大の汚点だ」

 視線は正面の暗い駐車場に向けたまま、しかし巴川は視界の隅で注意をミス・シンデレラの右腕に集中させていた。

 彼の右腕に内臓されたランチャーは今でも存在しているだろう。そうだと思わせる確信が彼にはあった。

 「握手の時に左腕を出したな」

 ポケットから携帯式の灰皿を取り出すと、そこに灰を落として巴川は左手を掲げた。

 「武器を内臓した手が塞がるのは怖かったか…?」

 ミス・シンデレラは今すぐにでもこの男を亡き者にしたいという衝動を必死に堪えた。

 彼はこちらの武器である右腕をチラつかせてはいるが、実はこれは威嚇としてほとんど意味はない。

 何故なら巴川はミス・シンデレラが撃てない事を知っている。今巴川が死ねば、ガガを救出できる人物はいなくなるのだ。

 「貴様、どういうつもりだ…一年前はミッドナイトパンプキンのリーダーが俺と知って挑戦状を叩きつけてきたのか?」

 「なに、俺の息子がどれほど成長したのか見たかっただけだ」

 彼はさらりとそう言って退ける父親と巴川 大として再会した際の場景を思い出す。

 態度や仕草から確かにある男を思い出さずにはいられなかったが、『そんな訳ない』と自分に言い聞かせてミス・シンデレラは

 その可能性を打ち消してきた。

 ところが彼が言う『汚い手』を使ってすべての真実を知った時、ミス・シンデレラの中で困惑は確信に変わる。

 そして決して消える事のなかった記憶から憎悪の炎は再び燃え上がったのだ。
  エ リ
 「枝理は? 元気か」

 「母さんの名を呼ぶな。何様のつもりだ」

 「一応今でも送金はしてるんだがなあ」

  ミス・シンデレラは血が滲むくらいの力で右手の拳を握り締めた。

 すべての判断を放棄して発砲したくなる欲求は爆発寸前だったが、ガガの事を考えて何とか自分を抑え込む。

 殺す為にずっと追って来た男が今、目の前にいるにも関わらず、手を出せないもどかしさに気が狂いそうだった。

  不完全燃焼を起こしている息子を眺めながら微笑を浮かべて巴川はベンチを立った。

 時計を見て時間を確認すると、社の裏口へと向かう。

 ミス・シンデレラの脇を通り過ぎ際、巴川は囁いた。

 「クルミの代用品を作ったそうじゃないか」

 その名はミス・シンデレラにとって禁忌だった。

 今クルミの事を考えるとガガの緊急事態が頭の中から煙のように消えそうで、彼は必死にその記憶をねじ伏せていたのだ。

 辛うじて理性を保ってはいたが、すでにミス・シンデレラは導火線の尽きかけた爆弾だった。

 「お前はやはり俺の息子だ。…代わりがあれば何でもいいのさ」

 煙草を灰皿に詰めてポケットに戻し、巴川は闇の中へと呑まれてゆく。

 ミス・シンデレラはその背を視線で追い、衝動的にバッと右手を持ち上げる。

 ランチャーの起動は難しい事ではない。すでに体の一部となっているそれは、頭の中で意識のスイッチを入れればいいだけだ。

 しかしコツコツという巴川の靴音が消えるまで、遂に彼はそのスイッチに触れる事はなかった。

 噛んだ唇から血が滲み、震えるミス・シンデレラの唇を伝う。

 「畜生…!」






  ガガは夜、眠る時が嬉しかった。

 繰り返し訪れる『今日』という日から永久に別れを告げる事ができる瞬間。

 しかし同時に明日が来るという絶望は耐えがたいものだった。

 目覚める度に思う。何故、朝は来るのだろう。

 何故、夢はいつか醒めてしまうのだろう。

 学校に行かなくてはならず、人と話すという苦痛をまた味合わされ、自分の弱さと劣等感に押し潰されそうになる『今日』がまた

 始まる。

 またその『今日』が始まると思うと、どうしようもない息苦しさと虚脱感に瞼を持ち上げる勇気さえも持てなくなる。

  だからガガは気がついた後もしばらく瞳を開くことはなかった。

 うるさい母親の声も無粋な目覚し時計の音も聞こえてこない。

 差し込んだ忌々しい朝日が瞼越しに目を焼く事もなかった。

 ―― もう少しだけ眠ろう。もう少しだけ ――

 惰眠の誘惑にすべてを投げ捨て、ガガはゆるゆると快楽を貪った。

 金属がひしゃげるような、低い不気味な音がその眠りからガガを無情な現実に叩き込む。

 短い夢から覚めたガガは今ようやくここが自室でない事を思い出した。

 小さな体を複雑なシートベルトに固定されたガガは重い瞼を精一杯の精神力を振り絞って持ち上げ、真正面のモニタに

 まぶしげに眼をやる。

 モニタを通して見る外の様子は真っ暗でほとんど何もわからない。

 ただ底知れぬ闇だけが彼方まで広がっていた。

 隣のモニタには現在のインセクトロイドの状態を示す図形が現れており、危険を示す警告音がひっきりなしに鳴っている。

 表示されているワイヤーフレームのインセクトロイドには八本あるうちの足が五本、赤く染まっていた。

 恐らく状態異常を示すものなのだろう。足の半分以上が使えなくなっているということだろうか。

 「菱上さん」

 恐る恐る声を出してみたが、答える者は誰もいない。

 声は闇の虚空に呑まれて消えた。

  素人目にも機体の歩行は不可能だ。ガガは外に出てみようとシートベルトのバックルに指をかけた。

 と、同時に始めて自分の平衡感覚に狂いがあることを知る。

 寝起きのせいでただ頭がフラフラしているのだと思っていたが、どうも重力が働いている方向が変だ。

 ベルト以上に体が椅子に押し付けられているような圧迫を感じる。

 インセクトロイドは鼻先を天に向け、垂直に立っているような状態となっているようだった。

  何とかベルトを外して戒めから逃れると、狭い機内で体の向きを変えてハッチのハンドルを右に回す。

 握力のないガガには相当固いもので、シートの上にひざまづくとガガは両腕に渾身の力を注いだ。

 ガガの行動に答えるかのように、彼を眠りから呼び覚ましたあの音が再び発せられる。

 物凄い力に金属が歪む不気味な音が機内に響き渡った。

 身を竦めてガガが動きを止めると、インセクトロイドはガクンと大きく身震いをする。

 しばらくそれが続いて音が消えた後も、ガガは得体の知れない恐怖にしばらく体が凍り付いて動かなかった。

 何故かはわからないが、体の中を静かで冷たい電撃のように駆け巡るようなものがある。

 『この場所にいてはならない』と本能が告げている。

 焦りながらハンドルにもう一度手をかけると、目いっぱいの力を込めた。

 二回転ほどさせると抵抗が緩んで後は比較的簡単に回す事ができ、軽く押すとインセクトロイドの右の横っ腹についている

 それは重い音を立てて開かれた。

  錆と腐食の臭いがガガの鼻を見舞った。

 さっきまでいたスプートニクの地下施設よりも遥かに臭気の濃度が高い。

 ハッチの隙間から顔を出した彼の視線はいきおい下に向けられた。

 よどんだ空気がごうごうと音を立てながら風の牙となって吹き上がっており、ガガの長い前髪を大きく持ち上げる。

 下を見下ろしたガガの視線の先には何もなかった。

 エレベーターの縦穴の途中らしかったが底は見えず、果てしない虚空がどこまでも続いている。

 身を乗り出してインセクトロイドの鼻先を窺うと、壁を走るパイプに引っかかっている機体の足が見えた。

 ガガのインセクトロイドはあの虫に引きずり込まれた後にこの縦穴を落下し、この場所に引っかかっていたのだった。

 幸い虫の姿はもう見えなかったが、半壊したパイプとインセクトロイドの脚部はギシギシと嫌な音を立てて今にも引き千切れそうだ。

  ガガの額に浮いた冷や汗を風が押し上げた。

 恐怖に頭の中が真っ白になりそうになるのを堪え、必死に考えを巡らす。

 このままではどう考えても落ちるのは時間の問題だ。

 ハッチから見渡せる限りの周囲を確認すると、インセクトロイドが引っかかっている場所のすぐ隣に鉄の梯子が見えた。

 エレベーターが使えない緊急時に使用するものだろう。

 飛び移れない距離ではなかったが、ガガが纏っているボディアーマーの重量がそれを不可能にしている。

 なるべく機体の脚部に負荷をかけないように、ガガは慎重に鎧のジョイントを外し始めた。

 細心の注意を払ってそっと外したパーツをシートの上に積み、上下ともぶかぶかの黒い軍服だけになると、ハッチに足をかけて

 バネを溜め込む。

 下は見ないように努力した。もしも落ちれば壁に投げつけたトマトみたいになるのは明白だ。

 壁沿いに伸びている梯子との距離は目測で1m半ほど。

 普段はなんてことない距離だが、コンテニューなしという事実はこの隙間を試練に変えている。

 何度も深呼吸をして破裂しそうになる心臓を静めようとするが、一向に決心は固まらない。

 そんな具合にガガが何時までもグズグズしている時だった。

 バキンという金属が弾ける高らかな音と共に足場が沈み込み、視界の中で光景が頭上へ持ち上がる。

 全身が浮遊感に呑まれる瞬間ガガは考えることを止めて軸足を蹴り、宙に飛んだ。

 伸ばした右手の中に固い感触を感じると、それに慌ててしがみ付く。

 ガガが離れると同時に虚空へ放り込まれたインセクトロイドはくるくると錐揉みしながら眼下の闇に包み込まれ、消えて行った。



  飛びついた梯子は所々錆が浮いてはいるものの頑丈で、その安定感は幾分かガガを安心させた。

 しばらくは高ぶった緊張が引かず、梯子にくっついたままガガは荒く呼吸を繰り返す。

 落ち着きを取り戻してパイプを掴み直した時、遥か下から機械が砕け散る破砕音が響いてきた。

 縦穴の底に落下したインセクトロイドが粉砕したのだろう。

 とりあえずは機体と運命を共にする事を逃れた事を実感し、ガガは改めて胸を撫で下ろした。

 周囲を確認する余裕ができた彼は辺りを見回してみたが、まったく覚えのない場所だった。

 彼の乗るインセクトロイドが虫に噛み付かれて穴に引き込まれた辺りで記憶は途切れている。

 不安に震え、心細さに涙が出そうだったが、ガガはとにかく地上を目指して梯子を登り始めた。
















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