プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -






シスター・マリア

18.長い夢


  《彼女》には意思があった。

 その身は半ば砕け最早己を持ち上げるだけの体力も気力も残ってはおらずとも、明確たる自我は《彼女》に根付いている。

 熱のこもらないすでにただの残骸と化した全身を持て余しながら、《彼女》は深い霧のかかった記憶の中から想い出を再生する

 作業を始めた。

 悠久の時間の中、不死の楔に捕らえられた《彼女》は死という安らぎさえ与えられず、もう何万回となくその想い出を繰り返し

 頭の中で思い描いては空想の世界に耽っていた。

  自分はクドリャフカという存在の遺伝子の一片から作られた人形だった。

 自分に自我があると知り与えられた名前を口の中で復唱できるようになった頃、この研究所で何かが起きた。

 《彼女》の想い出の海は、今尚その記憶を寸分も違わずに湛えている。

 爆発。暴走。銃声。金属が砕ける音。肉が飛び散る音。

 悲鳴。悲鳴。悲鳴。悲鳴。悲鳴。

  《彼女》にとってその事態は何ら興味の沸いてこない事だった。

 ただ穏やかな己の安眠を妨害された事に少しだけ腹が立った。

 どうせすぐに静かになるだろうと思い、再び夢の中へと落ちて行こうと瞼を落とす。

  すべてに置いて無視を決め込み甘い惰眠を貪る《彼女》が目覚めた時、辺りは随分静かになっていた。

 代わりにその鼻の奥を嗅いだ事のない奇妙な臭気がくすぐっている。

 錆びた鉄のような臭いと、何かが焦げたような臭い。

 すべてどうでもいい事だった。目覚めた瞬間に思った事は、次はどんな夢を楽しもうかと言う期待だった。

 再び眠りに落ちて行くべくシーツを引き寄せ、枕に顔を埋めた《彼女》はすぐに現実に引き戻された。

  ここからは余りよく覚えていない。

 白い服を着た人達数人が自分を使って地上への道を開こうとしていたらしい事は話を聞いて覚えている。

 彼らが自分を起こそうとしたその時、怠惰な《彼女》の心の内側で経験した事のないある感情が爆発した。

 恐ろしく凶暴で、脅迫的で、頭の中が真っ白になる業火のような感情だった。

 それは睡眠という快楽を邪魔された事に対する、焼け付くような怒りだった。


                        トゥアーリ
  《彼女》は自分につけられた名前が『皇帝』である事を思い出した。

 正確には何体か作られたトゥアーリ・シリーズの中の一体、個体名がアポロであるという事だ。

 しかしもうそれもどうでもいい事だった。ベッドの中で浅い眠りと気だるい目覚めをここで永久に繰り返し、覚醒時の想い出とも

 睡眠時の夢ともつかない柔らかな、そして果てる事なく続く空想の世界は《彼女》にとってこの上なく甘美なものなのだから。

 飽きることなく続くその世界を味わいながら、ふと《彼女》は目の前に映っている異物に気づいた。

 見なれた部屋に現れたそれは《彼女》の記憶の中のどれとも当てはまらない背格好をしており、かつて何度も見たものと

 比べると幾分小さいように思える。

 今の視界の中の物事さえ現実なのか妄想なのか区別がつかなかったが、《彼女》は彼に好奇心を覚えた。



  部屋に入ったガガの目を白い光が焼いた。

 目を瞬かせながらそれに慣れるのを待って、彼は中に踏み込んでゆく。

 最初は眼がおかしくなったのかと思った。視界のすべてが純白に満ちており、ほぼ一点の曇りもないのだ。

 部屋全体がぼーっと白く輝いているようで眼を凝らすとその中に走る僅かな線と影が見えた。

 真ん中に大きなベッドが置かれており、乱れたシーツの中で何かがうずくまっている。

 正方形をした部屋の中には他に何もなく、現実感というものがまるで感じられない。

  シーツの中で少女は静かに息づいていた。

 真っ白なシーツを抱いて枕に頭を埋めており、その髪も肌も部屋と同じく新雪のように白い。

 年齢はガガと同じ位だろうか。少し離れたら視界からこの少女のすべてが白の中に呑み込まれてしまうだろう。

 長い髪に隠れた彼女の顔を覗き込もうと身を屈めたガガは、ぎょっとして身を引いた。

 遠くからでは影になってわからなかったがベッドには渇いた黒い染みのような物が広がっている。

 安らかに寝息を立ててはいるが、彼女の左胸には手を突っ込めるくらいの大穴が穿たれていた。

 そこから溢れた血液がシーツを黒く染めたのだろうが、今は血も枯れ果てて穴から覗く肉も乾いて固まっている。

 しかしそれでいて尚彼女の寝息は静かに漏れているのだ。

 この矛盾にガガはしばらく混乱しかけたが、胸に穿たれた穴の中から何本もコードや機械の欠片のようなものが飛び出して

 いるのに気づく。

 そしてそのシーツからこぼれた左腕だ。

 人間を鷲掴みにできるほど巨大なそれは剥き出しの機械製で、五指はそれぞれ錆を吹いた刃になっている。

 彼女がもし直立すればこの指先は地面に届いてしまうだろう。

 人造人間だろうか? だとすればこの腕は何の為に?

 しかし彼女を起こしたいという衝動は恐怖の前に挫かれ、ガガはそそくさとその場を後にした。






  一方、ミス・シンデレラ達も準備と捜索を終えてスプートニクの中へと足を踏み入れていた。

 前回襲撃を受けた場所までやってくると、油断なく索敵を行って周囲の安全を確認した後に縦穴を下る。

 ここからは非常用の階段を使って徒歩で降りる事になる。足場が狭すぎてインセクトロイドが使えないのだ。

 メンバーは巴川と菱上を含んだ10人ほどで、前回に比べるとやや少ない。

 ミス・シンデレラは早足で階段のタラップを踏んで進む彼らに息を切らして着いて行くのが精一杯だった。

 トランクは別の隊員が担いでくれているが、プロテクタースーツが予想以上に重い。

 「大丈夫か、オイ?」

 ミス・シンデレラの後方を走っていた最後尾の菱上が気遣わしげに聞くと、彼は振り向いて親指を立てて見せた。

 「毎日ジムに通ってっからな」

 「そりゃ健康的だ」

  途中端末があるごとにアザーの送信を試みたが、彼が言うにはどこも回線が切れているらしい。

 そんな調子で縦穴の中ほどまで来た時だった。

 有線で送られてくる斥候の報告を聞いていた巴川が立ち止まり、後続の面々に待機するように合図する。

 彼は年齢的にはもう体力のピークをとっくに過ぎているにも関わらず底知れぬスタミナの持ち主で、通信先の相手と会話する

 際にも息切れさえ見せない。

 しばらくヘルメットの内部で言葉を交わしていたが、それが終わると彼は踊り場の上で振り返った。

 「やはり隔壁が閉じている」

 これは事前の調査でわかっていた事だったが、念の為にもう一度調べさせたのだ。

 コントロールパネルを操作しても開く気配がない、と巴川は付け加えた。

 「随分遠回りになりますね」

 「まったくだ」

 隊員の言葉に溜息混じりに答え、巴川はヘルメット内に表示されている地図を確認する。

 「でもどこのどいつが?」

 斥候が戻ってくるのを待つ間、今度は菱上が口を開いた。

 「隔壁までいじってるってこた、ここのシステムをどうにかして操作してるって事ッスよね。

 どんな野郎がそんな芸当を?」

 巴川は答えを躊躇い、階段の一段に腰を下ろして呼吸を整えているミス・シンデレラを見た。

 彼はその視線に気づきはしたが何も言わない。

 「こっちが聞きたい」

 それだけ言って彼は話を打ち切った。


  地図によれば現在いる踊り場から行ける隣の階層から更に真下へ向かう経路があるらしい。

 斥候が戻ってくると今度は別の隊員が交代し、別のメンバーで構成される斥候が階層へと入って行く。

 扉は閉ざされていたがコントロールパネルの端末にアザーを繋いで錠を解いてもらった。

 扉に走っていたペイントに一同は疑問を浮かべはしたが、当然ながら何の答えも出ない。

 ただミス・シンデレラとアザーだけがシスター・ヴェノムの存在を明確に感じとっていた。

  彼らが踏み込んだ階層はしばらく行くとナビゲーションコンピューターがあり、そこはどうやら回線が無事なようで

 アザーをネットに送り込む事ができた。

 隊員が周囲を警戒している間、ミス・シンデレラは彼を送り際にナビコンへ通信機の端末を差して呼び止める。

 「すまなかったな。君がいてくれりゃ何とかなるだろ」

 「そんな他力本願な」

 アザーの苦笑が言葉と共に漏れた。

 と、同時にミス・シンデレラの被っていたヘルメットの内部モニタにアザーの姿が映し出される。

 彼はガガに聞いた通りの姿格好をしていた。

 いつか見たシスター・ヴェノムとまったく同じ顔をしていながら、不思議とあの邪悪さは感じられない。

 「嫌な予感がしたんだ。やっぱり僕も行かなくちゃって思ってね」

 「やっぱりここにヴェノムは着てるのか?」

 「うん。臭うよ、これはあの女の『電波』の臭いだ」

 アザーの表情が引き締まり、どこか彼方を睨んだ。

 「何とか隔壁を開けないのか?」

 「無理だよ。ここらへんのシステムは大半がロックされてる…多分ヴェノムがやったんだ。

 ちっちゃい扉とかまでは手が及んでないみたいだけど、おっきいヤツを開くのにはロックを解く時間がいる。三日くらい」

 そんなにかけていてはガガの安否に関わるだろう。

 シスター・ヴェノムに先手を打たれた訳だ。

 「僕はサイバースペースからガガを探す。君らは現実世界から頼むよ。

 何かあったらその辺のスピーカーから連絡するから…ああ、それと」

 「何だ?」

 「ヴェノムの事だけどさ。全部あの人達に話しちゃった方がいいんじゃないかな」

 これにはさしものミス・シンデレラも少し黙り込んだ。

 確かに敵の正体を知らされないまま彼らが攻撃を受け、死にでもしたらこちらの夢見が悪くなる。

 さりとてシスター・ヴェノムの事を説明するとしたら、こちらの目的がクドリャフカのボディの強奪だと晒す事になるのだ。

 しばらく腕を組んで考え込んでいたが、彼は苦渋の決断を口にした。

 「なるべく掻い摘んで話そう」

 「わかった。任せるよ、気をつけてね」

 「お互いにな」

  ミス・シンデレラが別れの言葉を口にしてコードを引き抜くと、待っていた菱上が彼を手招きした。

 「来てみな。面白いモンが見つかったぜ」

 彼に着いて行くとやがて大きな通路に出た。

 縦穴と直角に交わるエレベーターの通り道で、正面に開いた巨大な穴から上下に伸びる通路が見える。

 上はすでに闇に埋もれて何も見えず、すぐ下には一同の行く手を阻むあの隔壁があった。

  巨大な芋虫はその通路に静かに横たわっていた。

 力なく弛緩した全身を床に投げ打って転がっている様を隊のメンバーが調査に当たっている。

 間違いなく前回のメンバーを襲ったあの虫だろうが、今は死骸のように動かない。

 「タダのケーブルだぜ」

 メンバーの一人が虫を構成していた電線を一つ、引き抜いて見せる。

 「どいつがやったのか知らねえけどどんな手品を使ったんだ?」

 巴川が答えるより先にミス・シンデレラが口を開いた。

 「『電波』だよ」

 「電波ぁ?」

 彼は素っ頓狂な声を上げた相手と他の隊員一同にどう説明すべきか頭を回転させながら、出切る限りシスター・ヴェノムに

 ついての事を話し始める。

 質問を口にする隊員がいないでもなかったが、その際は『今は説明している時間はない』という文句が多いに役立った。

 とりあえずの所伝えたのはシスター・ヴェノムという存在と、彼女がネット空間からどうにかして現実世界に干渉し得る能力を

 持っており、そして格段に危険な性質の持ち主である事だけだ。

 ガガとシスター・ヴェノム、そしてクドリャフカとの確執については何一つ喋っていない。

  言葉を切ると一同に先に進むことを促す彼に向かって最後に疑問を口にしたのは巴川だった。

 「待て」

 扉へ向かいかけたミス・シンデレラが振り返ると、巴川は組んでいた腕を解いた。

 「お前は何でそんな事まで知っている?」

 「今は説明している時間はない」

 何度も繰り返した言葉で切り抜けると、彼は他のメンバーに着いて通路を出て行った。






  ガガがスプートニクに入ってから約50時間が経過し、救助隊が複雑に絡み合った通路に阻まれてちっとも奥へ進めず

 苛立ちを募らせる頃、彼は耐え難い餓えに苛まれていた。

 恐らくここに取り残された職員達も同じ苦しみを味わったのだろう、各エリアをくまなく探し回っても食料の欠片さえ

 見つからない。

 冷凍庫で集めた氷をかじる以外に空腹を紛らわす方法と言えば、千切ったノートの欠片を噛み締める事くらいだった。

 食べるものを探して廊下をさ迷いながら、ガガはシスター・ヴェノムの目的についてある一つの結論に達していた。

 肉体と精神を切り離しネット空間に逃れれば例え飢え死に寸前でも死ぬ事はなくなる。

 心が抜け落ちている間は体は仮死状態になるからだ、情報体のみとなった精神は餓死や渇死といった生理的欲求の

 不全による死を受ける事はない。

 恐らくシスター・ヴェノムが自分をここに追い込み餓えを味あわせているのは、ネットにアクセスするよう仕向けているのだ。

 本当の目的は不明だが彼女はどうあっても自分の能力を最大限に発揮できるサイバースペースでケリを付けたいらしい。

 飢え死にするか、ネットでシスター・ヴェノムの牙にかかるか。

 今考えられる限りの選択肢は二つしかない。

  しばらくは冷凍庫の前でうずくまったまま時を過ごした。

 風呂に入ってないせいか体中が余す所無く痒い。伸びた爪に垢が詰まってたちまち真っ黒になった。

 最後に食べた食事の事を思い出す。

 確か自分で作ったトマトソースのパスタだった筈だ。クルミのものを見様見真似で調理したもので、丁度腹を透かせていた

 ミッドナイトパンプキンのメンバー達数人と一緒に食べた。

 面々の味に対する感想は様々だったが自分でも良くこんなにうまくできたと思った。

 もはや腹の虫も黙り、代わりに手持ち無沙汰になった胃液が胃自体を溶かす鈍い痛みが腹部に広がっている。

  エリア内を探る内にガガはいくつもの死体や人骨を見た。

 その中の、特に野ざらしとなった骨のいくつかには奇妙な痕跡が見て取れた。

 火であぶって脆くした後、ナイフで割って中の髄を抜き取った跡だ。

 何故かそのような痕跡のある死体はすべて一つの部屋に放りこまれていた。

 その時ガガの全身に走ったものは、身の毛もよだつような悪寒だった。転げるようにその部屋を後にした事を覚えている。

  事務室に置いてあったノートを漁る内に、やがて例の事故が起きた後に残されたと思われる記録が発見された。

 専門用語が多くガガにはほとんど理解できなかったが、その中に気になる一文があった。
  トゥアーリ
 『【皇帝】が作った死体を食うしかない』と。

 トゥアーリ。あの少女の事だろうか。だが彼女が作った死体とは?

 もしもこの研究所各所に穿たれている爪の跡が、あの少女が作ったものだとしたら。

 そしてその死体を…恐らくはここの職員だろうが、食料の難に苛まれた彼らはもしかして人間を…

  餓えという本能を余儀なく抑圧された人間の行為にガガは戦慄した。

 そして今自分は彼らと近い状態になる。

 もちろん人の肉など食う気はないし、ここにある死体はほとんどがカサカサに渇いて食べられたものではない。

 ガガは出口のない考えをまたも巡らせた。

 このままここで餓死の危機に晒されながら救助を待つか、ネット空間に潜ってシスター・ヴェノムの餌食になるか。

 飢え死にするギリギリまで待つつもりだったがもはや苦痛は耐え難く、意識も朦朧としかけている。

  ガガは立ち上がって耳の下あたりに手をやると、ほぼ無意識にコードと繋がっている端子を引き出した。

 目の前には冷凍庫のコントロールパネルがありネットに接続する為のジャックホールが口を開けている。

 そこに伸ばそうとした手をはっと止め、今自分がしようとしている事に気づくとガガは己に言い聞かせた。

 「落ち着け」

 あの女の目的はこれだ。罠に決まってる。

 しかし手は言う事を聞かなかった。

 餓えという耐え難い苦痛から逃れようと端子を摘んだ指は伸び、ジャックホールと重なる。

 戦えばいい。

 半ば自暴自棄になったガガはそう考えていた。

 どのみちいつかどこかで行う事となったであろうシスター・ヴェノムとの決着が今になっただけだ。

 罠でも何でも突っ込んでってやる。

  端子が形を変えてホールにしっかりと固定されると、ガガは精神を飛ばすべく眼を閉じて集中を始めた。

 失神すると同時に倒れないようにあらかじめコントロールパネルの下に腰を下ろし、無理の無い姿勢で壁に背を預ける。

 すぐに全身が温いゼリーに包まれたような奇妙な浮遊感に飲み込まれ、意識が拡散していった。



  瞼を開いたガガの眼に最初に入ってきたものは得体の知れない物質でできた、あの研究所の壁だった。

 次に自分の両手に視線を落とすと、いつもと代わり無い自分の生白い指があった。

 次第に覚醒してくる意識を凝らし現状を掴もうと辺りを見回す。

 廊下と温くよどんだ空気、硬い床と壁の感触。天井では切れかけた電球が気が違ったように瞬いていた。

 何もかも同じだった。

 確かにネットへ飛んだ筈だったのに、元の体に戻っている。

 このコントロールパネルの先は断線していたのかも知れない。

 全身に違和感がない事を確かめて溜息を一つつくとガガは立ち上がり、別のコントロールパネルを探そうと廊下の奥に

 向き直った。

  ガガの向けた視線の先で、その女は影のように存在していた。

 ゆっくりと口から紫煙を吐くとその煙は彼女の頭上で天使のような輪となって青い髪にかかる。

 しばらくそんな様子を楽しんでいたようだが、彼女はもう一度煙草を口につけてからガガに振り向いた。

 藍のマニキュアに彩られた細い指は煙草を乗せたまま退屈そうにしなを作っており、この薄闇の中で異様なまでに白蝋の

 ごとく輝いている。

 「現実って残酷だわ」

 ブラックフォーマルのタイトなドレスに身を包んだ蒼い髪の女。

 スレンダーな体格にぴったりと収まったそれは、溜息のように漏れる声とあいまって非現実的なまでに彼女に似合って見えた。

 まるで悪夢を支配する夜の女王のように。

 「現実は夢とは違う。いつか覚める、なんて事がないもの。

 終わりの無い日常の中、貴方はどんな夢を見て来たの…?」

 シスター・ヴェノムは凍り付いているガガにゆっくりと向き直った。

 彼女は確かにその場に存在していた。

 床の上に立ち、煙草を燻らせ、声を発し、息をしていた。

 彼女にとってはたった一つにして絶対の制約、『ネット空間のみの存在』という現実を捻じ曲げてそこに立っていた。

  それが当然とばかりに依然としていたシスター・ヴェノムがふと体重を預けていた壁から離れる。

 その背後の闇からフッと抜け出た白い影が、もつれながらよたよたと灯りの元に現れた。

 シスター・ヴェノムは後ろ手に手錠をかけられ、猿ぐつわを噛まされたその銀髪の少女の肩に手を回す。

 顔にかかるゆるくウェーブした髪を払ってやりながら、彼女は少女に印すようにゆっくりとガガを指差した。

 「嬉しいお客さんが来てるよ、クドリャフカ」

 戒めを受けたままのクドリャフカは狂ったようにもがきながら、蛇を目前にした鼠のように恐怖に凍った視線を送っていた。

 その先に自分があるのだと気づくには、混乱に叩き込まれたガガでは少し時間がかかった。

 何故、今、ここに彼女が?

 そして何故彼女は自分を恐れているのだろう。

 「―――! ―――!」

 シスター・ヴェノムの腕を振り解こうと暴れる彼女は、必死に声にならない悲鳴を上げていた。

 何としてもこの場から逃れようと死に物狂いで身をよじっている。

  シスター・ヴェノムが不意に細い顎をしゃくり、ガガの右手の中を指した。

 ガガの視線がその場に落ちると同時に手が抜けるような重量が右腕にかかる。

 その手の中には見覚えの無い、黒く、そして凶暴に蛍光灯の光を照り返す金属製のものが握られていた。

 拳銃だった。

 ガガがそれを確認するのを見届けると、シスター・ヴェノムは煙草を捨てて黒い口紅を引いた唇をゆっくりと吊り上げる。

 身を屈めてクドリャフカの顔と自分の顔が平行になる場所まで低くすると、その上下の唇の間から這い出た蛭のように

 ぬめった舌を一杯に伸ばした。

 舌の表面にはあのスマイルマークがいっぱいにペイントされていた。

 「ベイビー。思い出して、貴方は何なの?」

 凄惨な笑みが更に歪み、その声はガガの心臓を締め付ける鎖となる。

 「貴方、クドリャフカと比べてどう? お喋りが上手?」

 「やめろ」

 ガガは耳を押さえて拳銃を投げ捨てようとしたが、銃は掌に貼りついて離れない。

 ただ相手の言葉が脳を鐘のように叩く地獄の音響に感じられ、否定の言葉を搾り出す。

 「勉強ができる?」

 「やめろ!」

 「顔が良い? 運動ができる?」

 「やめろ…やめろ…」

 「前向きに物事が考えられる? 鬱を克服できる? 将来の事とか決まってる?

 貴方は人間の平均値から見てどう?」

 「やめろォオ!」

 気が触れたように叫ぶガガを眺めていたシスター・ヴェノムの目が針のように細くなる。

 「クドリャフカはどう思っているのかな?」

 彼女がクドリャフカの後頭部に手を回すと、細い指を這わせて猿ぐつわの結び目を解く。

 シスター・ヴェノムの片腕に捕らえられたままクドリャフカは関を切ったように喚き散らした。

 「近寄らないでっ…」

 その一言がガガの心を粉砕した。

 「変態! 私を殺す気だったんでしょ、最初っから…消えてよ、バカ!

 あんたなんか…」

 相手の口から漏れる罵倒に耐え切れずに、両手で顔を覆った彼の指の隙間から見えた世界は何だったのだろう。

 これは現実なのだろうか。それとも夢?

 悪い夢に限って覚めないことをガガは知っている。

 そしてその悪い夢が『現実』という最悪の悪夢であることも知っている。

 だが彼は改めて祈った。これは夢だ、と。

 「死ねばいい!」

 銃声が彼女の語尾を掻き消した。

 舞い上がる硝煙の幕がかかったガガの視界の向こうで、その声の主は華が散るように床に崩れ落ちて行く。

  顔に付着したクドリャフカの血液を指で拭い取ると、それを舌で舐め取りながらシスター・ヴェノムはガガを指差した。

 「enjoy your happy dream!」

 闇の中に溶けてなくなったシスター・ヴェノムを除き、その場には血を噴いて倒れたクドリャフカとガガだけが残される。

  何が起きたのか、自分が何をしたのかガガにはまるで理解できなかった。

 目の前のクドリャフカの口から漏れる言葉が、これ以上自分に向けていられたくなかった。

 想像を絶する精神的な軋轢から逃れようと引き金を引いた。

 ただ、クドリャフカに否定されたくなかったのだ。それだけだった。

 頭の中でもしもこんな事になったらどうしようと何度も考えはしたが、こんな結果だけは望んでいなかった筈なのだ。

 自分はまた受け入れて貰えなかった。

 学校でも、今まで生きてきた中でも、そして今クドリャフカにも。

  燃え尽きて灰のようになったガガはその場に倒れ込むと、最後の灯火が失せたように目の前のすべてが暗転した。






















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