プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -
シスター・マリア
19.それは抜けない棘みたいに
このまま自分は死ねばいいと思った。
何もかもが痛くて苦しい世界。そしてそれは終わる事なく続く日常という世界。
毎日寝る時と同じようにガガはまた祈った。
お願いだから眼が覚めないでくれ、と。
ベッドからバネのように跳ね起きたガガの上腕でいくつも鋭い痛みが走った。
全身ぐっしょりと汗まみれになった体は冷たく、まるで自分のものとは思えない。
ただひたすら空気を貪りながら、彼はしばらく何も考えられないままその場で呆然と固まっていた。
痛みに気付いて腕を見るとテープで固定されていたいくつもの注射器が引っ剥がされている。
起きた時に無理矢理引っ張ったせいだろう、僅かに浮き上がる真っ赤な血液と苦痛はここが現実だと至らしめているようだ。
ガガは開いた両の掌を見た。
生白い指、裏側には血管の走った手の甲。
天井で輝く蛍光灯の元に翳して見ると、波打つ血液の流れが見えた。
ここは本当に現実なのだろうか?
そんな事をしばらく続けていたがゆるやかな時間は突然破られる。
どやどやと白衣姿の男たちが静寂を砕いて部屋に雪崩れ込んで来ると、ガガが身を預けていたベッドの周りに立って口々に
何かを議論し始めた。
全員胸にIDカードが降りており、『医局員』とか『医師』とか医の付く肩書きを持っているようだった。
ここは病院の病室なのだろうとガガは理解する。
突然始まったそれに理解が及ばず、ただその場で小さくなっている事しかできなかった彼に語り掛ける者がいた。
他の者と同じく白衣に身を包んだ医者らしき男だ。
男はまるでガガを珍しい機器を扱うかのように眺め回し、無機質に質問を口にした。
「自分の名前が言える?」
かがや さかえ
「か…加賀谷 栄」
鉛の詰まったような体では口を利くのも大儀だった。
「年齢は?」
「16」
「何があったか覚えている?」
矢次に注がれる質問に戸惑いながら答える内、ガガは最後の質問の回答に詰まった。
そう聞かれていても何を覚えているのか否かを聞いているのかわからない。
黙り込んだままでいると医者はガガを覗き込むのを止めて携帯端末を取り出し、ペンを走らせる。
しばらくその動作を続けていたが別の医師に何か言うと彼は部屋を出て行った。
説明役に交代された、さっきの男よりも幾分若い女医がベッドの隣の椅子に腰を下ろす。
「貴方はダイバーフォンの手術をした事があるわね?」
ガガは頷いた。
相手は言葉を選んでいるようで、考え込みながらしきりに右手の中のボールペンを弄んでいる。
逸らされていた彼女の視線がガガの目に戻ってくると説明が再開された。
「ダイバーフォンを埋め込む為の脳手術には欠陥があったの。
頭の中の一部分に届く筈の脳波を狂わせ、持ち主に長い長い夢を見せる…
貴方は程度が軽かったからラッキーだった」
「どういう…事?」
彼女はボールペンを手の中で振り回しながら、またしばらく考え込むような素振りを見せた。
言い難そうに漏れた言葉は非常な刃となってガガの胸を穿つ。
「その…貴方は色々なものを見たり聞いたしてきたかも知れない。こっちの時間で大体一ヶ月くらいかな?
全部夢なの。貴方が会った人も、経験してきた物事も…一ヶ月前以降から今までの事は全部、夢だったの」
ダイバーフォンによる脳手術は脳に影響を及ぼす。
それは脳内の僅かなパルスを狂わせ人に夢を見させる。終わりの無い夢を。
大抵は眠ったまま目覚めなくなりそのまま衰弱して死んでしまうのだが、中には一部現実世界に生還できた者もいるらしい。
そしてガガはその一人だった。
この事が発覚しダイバーフォンは製造中止、現在販売元は被害者やその遺族らと裁判中だと言う。
病院で数日間かけて脳内のダイバーフォンを除去し、頭の中や全身を調べ尽くされた後にガガは迎えに来た両親らに
連れられ帰宅した。
何もかもが幕がかかったように非現実的だ。
両親は自分が無事だとわかった時、涙ながらにガガを抱き締めた。
ガガは別にどうでも良かった。服に涙を付けられるのが汚いと思った。
自分の部屋に戻ってきた。
相変わらず散らかりっぱなしで、奥の方に増設を繰り返したパソコンが居座っている。
病院も退屈だったが家も対して変わらなかった。
病気で長期休暇を取っていた通学が再開した。
行くのは血を吐くような苦痛だった。
戻って来たんだ、とガガは思った。
クドリャフカの救出。ミス・シンデレラという友人。最大の仇であるシスター・ヴェノム。
何もかもが夢だった。
戻された果てしなく続く日常という平坦な道はまた、ここから続いている。
この道は死ぬまで途切れる事はなく、歩く事を止めるには自ら死を受け入れる以外方法はない。
その日もまた朝は頭痛と吐き気で始まった。
まるで体と布団が鎖で繋がれているようだ。頭と体は重く、惰眠の快楽への欲求はは圧倒的な質量でガガに圧し掛かる。
サカエ、いい加減に起きなさい! という母親の怒鳴り声がドア越しに聞こえ、ますます頭痛を加速させた。
ガガは毛布の中に包まりながら夢を思い出した。
随分長い夢だったような気がするが、浮かび上がってくる光景は頭がはっきりしないせいでいまいち鮮明でない。
やらなければならない事があったような気がする。
確かに自分には何か目的と、それを達成する事に対する希望というものがあった筈だ。
いくら考えても答えは出て来ず、ガガは母親に毛布を引っ剥がされるまでずっと考え込んでいた。
取り込んだ冷えた空気に肺を刺されながら、のろのろと着替えを始める。
悴んだ耳が部屋の奥から何かを擦るような異音を拾った。
部屋の一番奥ではガガのパソコンがふんぞり返っており、彼を押し退けてこの部屋の主だとでも主張しているかのようだ。
朝の淡い陽光をカーテン越しに浴びたその機械の塊の中で、モニタが灰色に輝いていた。
画面には音もないまま一杯にノイズが走っている。
彼はボサボサの頭を掻いた。昨日はモニタのスイッチを付けっぱなしで寝てしまったんだろうか。
消しておこうと円形のスイッチに指を伸ばした時、混沌としたノイズの中が一瞬だけ渦を巻いた。
それは何かを形作ろうとしばらくもがいていたがすぐにまた灰色の嵐に飲まれて消えてゆく。
「?」
何事もなく再びノイズの走る画面を眺めながら、ガガは自分は寝ぼけているんだろうと思った。
モニタのスイッチを切ると、ヒステリックに叫ぶ母親にムカムカしながら中断していた着替えを再開した。
ダイバーフォンの除去手術を行ったあの日から一日過ぎるごとに、色々な事を忘れてゆくような気がする。
目覚めたばかりの頃はダイバーフォンを埋めこんだが故に見た夢の事をもっと覚えていた。
夢の中で出会った友人たち、色々な事件、危機、喜び…
自分は何かの目的でずっと帰宅せず、家を空けていた筈だ。
誰かを助ける為だったように記憶しているが、それが誰なのかどうしても思い出す事ができない。
おぼろに浮かび上がる顔の輪郭はとても柔らかで懐かしいもののように思える。
学生服姿の少年が一人、朝もやの立ち込める住宅街をとぼとぼと前進していた。
足取りは重く、視線は地面に貼り付いている。
駅まで向かう一直線の道乗りの途中、脇に反れる通路がある度にガガはそこを曲がりたいという衝動に駆られた。
この道が学校でない所へ続いているのならどこだって良い。別の場所へ行ってしまいたかった。
しかし一日休めば次の日の登校がもっと辛くなる事をガガは知っている。
親や教師に無断欠席の理由を問い詰められるのも苦痛だ。逃げ場所はどこにもなかった。
何度も溜息をつく内、電車は通う学校まであと一駅という所まで来ていていた。
その時、朝食を抜いてきたせいかひどくだるい体を持て余していたガガの脳裏に一つの記憶が甦る。
思い切って電車を乗り換えいくつか路線を乗り継いだ彼は、市内のとある高速道路沿いのビルにやってきていた。
黒ずんだ古い建物で色々な建物が立ち並ぶ街中に窮屈そうに建っている。
真 夜 中 の か ぼ ち ゃ
入り口の強化ガラスの扉には赤いスプレーで『MIDNIGHT PUMPKIN』と落書きがしてあった。
ガガは急に激しい動悸を覚えた。
何故かここに引き寄せられるようにやってきてしまったが、自分はここを知っている。知っている筈だった。
記憶にはまるで残っていないのに何故か眼球の奥に焼き付いているのだ。
ノブに手を伸ばして掴むと、その感触に再びガガの心の奥底は揺さぶられる。
一思いに引こうと腕に力を込めようとした時ドアは独りでに開き、反対に彼はノブに引っ張られてつんのめった。
慌てて手を離してニ、三歩後退すると、扉から何時の間にか現れたヘルメットを被った中年の男が顔を出している。
「おう、入っちゃダメだぜ」
軍手をつけた手でニキビ面を掻きながら男はそう言い、扉をくぐって外に出た。
「このビルぁ建て替えっからよ。溜まり場にしてたんなら気の毒だが」
「住んでた人は?」
思わず聞き返したガガを男は見下ろし、気味悪そうな顔をする。
「ヘンな事言うなよ。ここァずっと前から空き家だぜ」
腑に落ちない表情を浮かべながらも『そうですか』と言って彼はその場を離れた。
この建物の一階はどうやら駐車場がスペースの大部分を占めているようで、奥の方のその壁には色々な張り紙がしてある。
これから学校に行く気にもならず、その場でグズっていたガガはふとその張り紙に目を奪われた。
さっきの男が再び建物の中に消えたのを確認すると、壁に歩み寄って鼻先まである前髪を掻き揚げる。
排気ガスを浴びて薄汚れたその張り紙の数々の中にはいくつも奇妙なものが混ざっていた。
『気…て…これ…夢な…』
『ヴェノ…仕…罠…』
『奴…ハッキング…作り…世界…』
磁石に引かれるようにその文面に導かれたガガは視線で文字を追いながら壁に指を当て、排気ガスを落とそうと擦る。
すぐさま彼の指は真っ黒になったが、しかし長年に渡って堆積したもののようでちっとも汚れは落ちない。
数分もそんな作業を続ける内に、不意に彼の肩に手を置いた人物がいた。
「ゴメンねえ、仕事の邪魔だから出てってくんない?」
さっきの男と同じく安全ヘルメットをつけた工員だ。ガガがその場を退くと相手は張り紙を引っ剥がし始めた。
「壁の色塗り替えなきゃなんないんだわ。君、学校は?」
言葉に答える事なく、ガガは通りへと戻って行った。
その場を去り際に振り返って見た工員のヘルメットからは、青い髪が零れ落ちていた。
神薙市の中央街にはセントラルパークと呼ばれる地区がある。
地下鉄駅の地上部分に当たる建物をメイントとした大きな公園で、年中買い物客を相手に様々な屋台や露天が出ている賑やかな
場所だ。
アマチュアバンドが中央の舞台で演奏している事もあり、その日もいつかデビューを夢見る若者達がライブの準備に追われていた。
平日にも関わらず席は半分ほどが埋まっておりその一角にはガガの姿が見て取れる。
別に彼はこのバンドを知っているという訳でも聞きたい訳でもなかった。
ただ座る場所を探していたらたまたまここが目に入っただけだ。
制服姿のままのガガは自分はかなり目立つだろうと思ったがそうでもなく、結構席には女子高生の姿などが目に付く。
まだバンドが曲を始める前なので人の行き来が激しく、ガガの目の前や隣を若い娘達が頻繁に通り過ぎて行った。
隅の方で小さくなりながら彼はどうしようか頭を悩ませていた。
もう昼前だ。今から学校に行く気はしない。だからと行って無断で休めば家に連絡が行くだろう。
持ち前の優柔普段さでさっきからここでずっとうじうじと考え込んでいるのだった。
まだ溜息が出た。学校をサボるのは初めてだった。
日が当たる席のせいか温かく、隣の空いた席に着ていたダウンジャケットとバッグを置いて膝の上で頬杖を付く。
突然意味も無く空しくなった。僕は一体何をやっているんだろう。
不意に笑い声が聞こえた。
目をやった二つ前の座席で、二組の女の子たちがこちらを見て何か笑っている。
急速に心を覆う暗い影に激しい焦りと動悸に与えられ、ガガはどうしていいのかわからなくなった。
気のせいだと自分に必死に言い聞かせる。
いつもの事だ。電車の中でも教室でも、街でも。
どこかで笑い声が上がるとそれは自分のどこかが変で、周りが笑っているような妄想に襲われる。
一人でいるのは平気だ。彼は人のいる場所のほうがよっぽど怖い。
逃げ出そうと立ち上がった彼の耳元に突然、熱い吐息がかかった。
彼のすぐ背後は通路になっており、驚いて身を横に退けながら振り返った彼の視線のすぐ先には少女の顔があった。
制服姿で女子高生風の彼女は固まっているガガを他所に、息が漏れるように言う。
「これは夢」
「?」
意味が飲み込めず呆けたような顔をする彼に構わず彼女はそのまま人波に紛れ、消えて行った。
前で上がった笑い声にビクッと体を震わせて向き直ると、さっき自分を笑っていた(ように思える)女子高生の二人がこちらを
見ながらガガに聞こえるように囁き合っている。
「ここは夢の世界」
「終わらない夢の国」
またガガの耳元で囁いた通行人がいた。今度は若いサラリーマンだった。
「現実の君はここにはいない」
えもいえぬ恐怖に支配されて立ち竦み、去って行く相手に聞き返そうとガガは思わず向き直った。
出しかけた声が喉まで出かかった時、スピーカーから発せられた大音量が彼の声を覆いその恐慌の空間をぶち破る。
バンドが演奏を始めたようだ。
何もかもが元通りの機能に戻っており、二人の女子高生らは前を向いて嬌声を上げていた。
頭を振って席を立ったガガは、荷物を手にしてその場を後にした。
ステージではボーカルらしき青い髪の女が愛の言葉を囁いている。
背で遠ざかって行くバンドの音楽を聴きながら、ガガはどこで時間を潰そうか考えを巡らせた。
セントラルパークは延々と続く大きな二つの道路に挟まれたスペースにある長大な公園で、果てしなく横に広い。
あまり部屋から出ない彼にとって特に詳しい場所でもないが、一応は地元だ。迷子になる事はない。
ビラ配りの差し出すポケットティッシュや紙切れを断り切れずに受け取りながら、ガガはあても無く歩道を進んだ。
前方で交差点により公園が一時遮断されている場所で、歩いてきた人影に気付いて道を譲るべく脇に退く。
すると何故か相手はその場に立ち止まり、彼の正面に立ってじっとこちらを観察し始めた。
ガガの地面に向けられた視線が最初に拾ったものは彼女の古ぼけたスニーカーで、次に深い青色のロングスカートから覗く
雪よりも尚白い足首に移る。
ロングコートを羽織った全身からようやく顔に辿り着く頃、相手は煙草の煙と一緒に意外そうな声を出した。
「あーら。ウチの制服だ」
大きな瞳の乗った顔に人懐こい笑顔を浮かばせた彼女は厚い唇を撫で、指に挟んでいた煙草をまた口に戻す。
未成年に違いないにも関わらず堂々としたものだった。
「悪い子だな。サボりかい」
自分の事は棚に置いたその質問の答えに詰まったガガは相手の顔が直視できず、ちらりと前髪の隙間から様子を窺った。
彼女はストレートパーマをかけた短い銀髪をオールバックにしており、年齢は自分とさほど変わらないように思える。
背の高さがあまり変わらない事は救いだった。
「盟和の生徒でしょ? え、何年?」
「一年…だけど」
口の中でもごもごと答えた彼を彼女は面白そうに見物しているが、不思議と嫌味な雰囲気は感じられない。
「一年? 同じかあ、ちょっと見覚えないわあ。クラスどこよ」
「D」
「えー隣じゃん。アタシ知ってる? Cの」
煙草を持った手の親指を立てて自分を指差す彼女の顔を一瞬だけ盗み見たが、ガガの記憶の中に当てはまるものはない。
自分のクラスの人間ともまったく喋らないのに別のクラスの生徒など知っている訳がない。
ガガは顔を上げ、次の言葉に窮した自分に苦笑する彼女の顔をもう一度しっかりと覗き込んでみた。
顔立ちはあまり日本人と変わらないように思えるが両眼の色素が薄く、ほとんど茶に近い色をしている。
どこか微妙に日本人離れしているのだ。日本語の扱いも長けたもので、その流暢さは下手をしたら日本人よりも滑らかだ。
「ね、暇でしょ? 遊びに行かない?」
煙草を地面に捨てて踏み消す彼女の不意の提言にガガは頭の中が真っ白になった。
こういう誘いを受けた事がないだけにどう反応していいかわからず、しどろもどろになるばかりだ。
クドリャフカはこちらの答えを待っていてくれるようで、じっと視線をこっちに送っている。
それに無視できない圧力を感じた彼は結局断る事ができず、首を縦に振った。
彼女はクドリャフカ=シネルニコヴァと名乗った。
黙り込んだままほとんど喋らず笑う事さえあまりなかったガガの態度をクドリャフカは少しも気にするふうがなかった。
非常に明るくお喋りで、よく笑う娘だった。
彼女は北方領土の出身でロシア人だが日本人の血統も多く入っており、日本語が達者なのはそのせいだと言う。
二人ともほとんど所持金もないのに(ガガは偽造カードを持っていたが)デパートを見て回ったりする内、少年の胸には
経験した事のない不思議な感情が淡く浮き上がってきた。
それはどうしようも捕らえ所がなく実態の掴めない霞のようなものながら、確かにガガの胸を大きく締め付けつつある。
パソコン機器の売り場までやってくると、クドリャフカは眉根を寄せて展示品のノートパソコンのキーをいじり始めた。
「あーサカエ君、こういうのわかるぅ? アタシん家にもあるんだけど全然わかんないんだわー」
「うん。まあ…」
「え、得意?」
屈ませていた上体を戻すと彼女は尊敬の眼差しでガガの顔をじっと覗き込んだ。
どぎまぎしながら視線を逸らし、詰まりながら彼は続けた。
「ちょっとだけ」
「今度ウチ来て見てくんないかな。壊れてんのかもわからんし」
女の子の家に行く?
これもまたガガにとっては経験のない事だ。
「お、ゲーム見てこ。ゲーム」
ソフト売り場に向かい始めたクドリャフカに着いて行こうとした時、ガガの傍らでバヂッと電気が弾ける音がした。
驚いてさっきまで彼女がいじくり回していたパソコンに眼をやると、モニタにノイズが走っている。
壊したかな?
彼が慌てて反応を見ようとキーボードに指を置いた時だった。
最初は荒れ狂う灰色の砂嵐のようだったノイズは徐々に秩序を得て流れを作り、やがてそれは人型となる。
どちらかと言えば『人型に見えなくもない』という程度のものだったがガガは不思議と引き付けられた。
性別も年齢もわからない人型はモニタに詰め寄り、上半身をガガに向かって乗り出した。
今にも画面を突き破って飛び出さんばかりの勢いで迫ると、ひどく掠れてノイズ音の混ざった声を発する。
『ザザザザ… ガガ! やっとアクセ ザザザ 出来た、僕だよ、アザー
…ザッザザザ… 気付いてくれ、これはヴェノムの作っ ザザ―
思い出せ、本当の君はスプートニ ザザッ』
「あークソ! まーたイカレやがって」
不意に頭上から落ちてきたうんざりしたような声にガガが振り返ると、スーツ姿の店員が腰に手を当てていた。
女性店員はガガを押し退けるとパソコンのスイッチを切り、コードを外して持ち去って行く。
「あーボク、ゴメンだわ。コレ調子悪いのよ、製品はそんなこたないから誰にも言わないでね」
彼の脇を通り抜け際そう言った彼女に声をかけようとしたガガの耳に、クドリャフカの呼ぶ声が入った。
「何やってんの?」
「う…うん。別に」
クドリャフカのいるソフト売り場に小走りに向かう途中、ガガは振り返ってパソコンを手にした店員を見た。
彼女は髪を蛍光色の蒼に染めており、襟にアレンジされたスマイルマークのバッヂを付けていた。
街に夕闇が迫る頃、二人はセントラルパークの地下街への入り口がある辺りで足を休めていた。
夕方辺りから家路を急ぐ人々でこの界隈は溢れ、同時に夜の顔が現れ始める時間でもある。
日中は陽光を避けて身を休めている獰猛な獣達が獲物を求めて徘徊を始めるのだ。
セントラルパークの周辺や夜の地下街は警察の手がほとんど及ばない犯罪多発地区で、昼間とはまったく違うデンジャーな
雰囲気を見せる。
気の早い街灯があちこちで明かりを灯す中で彼らは通路沿いのベンチに腰を下ろしていた。
「あー疲れた」
ガガにまったく遠慮せずに煙草に火を入れ、ゆっくりと紫煙を吐きながらクドリャフカは宙に視線をさ迷わせた。
彼はぐったりとベンチに身を沈めている彼女の顔を何とはなしに眺めていたが、彼女が視線に気付いてこちらを向いたので
慌ててそっぽを向く。
クドリャフカはそんな彼の様子に笑いながら首を傾げた。
「どしたの?」
「別に何にも」
しばらく沈黙が落ちた。
ガガは自分があまり喋らないせいで彼女が気を悪くしたと思い、頭の中で必死に言葉を探す。
『今日は楽しかった?』
『趣味は何?』
考えても考えてもそれを口に出すだけの勇気が搾り出せない。
彼が苦悩しているのを知ってか知らずか、彼女の方が先に口を開いた。
「アタシくらいチビの男の子ってあんま見たことなかったけど」
その言葉に変な顔をして自分を見たガガに思わず吹き出しながらクドリャフカは慌てて否定の仕草を見せる。
「あーバカにしてんじゃないよ? え、何よ、傷ついた?」
「別に」
なるべく心に受けた傷を隠そうと何気なく答えた相手の雰囲気を悟ったのだろう、彼女は気まずそうに頭を掻いて眉根を寄せた。
「アタシは好きだけどな」
「?」
こちらを向き直したガガの隙を突いて、クドリャフカは片手で彼の前髪を持ち上げる。
オールバックになるようにそのまま頭部に押さえ付け、何の予告もなしに突然彼に向かって身を屈めた。
ちゅっと甘い音を立てて額に受けた柔らかい感触が何だったのか理解できず、ガガは額を両手で抑えたまま呆然とする。
その視線の先には笑顔があった。夕焼けを受けてオレンジ色に染まりつつあるこの世の何よりも美しい、彼女の笑顔が。
「あんたの背が低いとこ。じゃあね」
しばらく彼は風のように走り去ったクドリャフカの姿を魂が抜けたような表情で眺めていた。
帰宅してひとしきり親との問答があった後、ガガはすぐに部屋に引っ込んで布団に潜った。
ろくに干していない煎餅のようなそれに身を横たえながら、その指は繰り返し額の一部分を撫でている。
妙に体が火照って体が熱い。胸がどきどきした。
何がどうなっているのかわからない。クドリャフカの事も、自分の心に起きつつある異変も。
自分の傍に『誰か』がいるという事はそれだけでガガにとって苦痛だった。
『誰か』はいつも自分を笑い、蔑み、自分を邪魔なものとして扱う。
だからガガは誰かが嫌いだった。例え誰であろうと会うのが嫌で部屋に引き篭もっていた。
どうしようもない奴だと思われたくないから。もう嫌な気分にされるのもするのも嫌だから。
頭の中がぐちゃぐちゃになって一向に考えはまとまらなかったが、ただ一つだけ言える事があった。
ガガはあの娘を好きになっていた。
意識が深い闇の中へ落ちて行く。
粘っこいそれは少年を更に奥へと引きずり込み、抱擁しようとその意識の全体に触手を伸ばして包んだ。
さっきまではちゃんと布団の中で起きていたような気がする。ガガは自分は今、夢を見ているんだと思った。
暖かい海の中に浮かんでいるような、奇妙だが心地良い感覚に精神を支配されつつある。
その中に身を委ねようと力を抜いた彼に、不躾にも騒ぎ立てる音があった。
それは男の声だった。ガガは最初父親が自分を起こしに来たのだと思い、気分を悪くした。
きっと現実世界では帰宅した彼の父が、自分に夕食を摂らせる為に起こしにかかっているのだろう。
この安静と静寂を邪魔される事にガガは激しい憤りを感じた。
『ガガ! ガガ!』
目覚まし時計のように喚き立てるその声には覚えがある。ただし父親の声ではない。
第一彼の父親は自分の事をハンドルネームで呼んだりはしなかった。
名残惜しげにガガは惰眠から抜け出し、覚醒すべく瞼を持ち上げる。
まず最初に感じたのは腕の中の冷たい感触だった。
決して布団や毛布の類ではなく、それは柔らかく甘い香りがした。
ガガは自分がどこかの部屋の片隅で、その何かを抱き締めながら妙に柔らかい壁を背にして座りこんでいる事を知った。
瞼は重く体はぐったりとだるい。
虚ろにさ迷う瞳はやがて部屋の一点にある黒い人影に行き着く。
「ガガ! 良かった、成功だ」
黒い背広に身を包んだ細身の男は悲願の表情を浮かべ、眼に溜まった涙を拭った。
ガガは彼の名前を記憶の海から探り当てて口にする。
「アザー」
「そうだよ、僕だ。覚えてるんだね?」
「うん…」
胸に手を当てて動悸を押さえ、真っ赤になった眼でアザーは嬉しそうに微笑した。
「アッチの世界…えーとつまり、ここは君が夢の中で見ている夢の…だから、ええと。
ややこしいなあ、最初から話すよ?
君はスプートニクのマップをDLしたろ? ヴェノムの罠はあそこから始まってたんだ!
調べてみたんだけどあの女、あのデータを自作のウイルスと置き換えてたみたいなんだ。
それを自分の脳に入れちゃった君は少しずつ精神を蝕まれてたんだ、今までの記憶を改ざんされるように…
ネットにアクセスしたらウイルスは一気に発症し、君に電子的な夢を見せた! 君が撃ったクドリャフカはニセモノなんだよ!
あの世界だって全部あの女が作った夢なんだ!
僕は何とかその世界に介入しようとしたんだけどさ、無理矢理侵入すると君の精神ごと崩壊するように作ってあったんだ。
だから今まで断片的に繰り返してきたんだけど、その世界で君が眠ったから…夢として通信を送る事ができたんだよ。
送れるのは会話だけだ、姿は見えるけど僕は君を直接助け出す事はできない。これ以上の情報は送れないんだ…」
一気にまくし立てるアザーから視線を落とし、ガガは何故か彼の足元を見ていた。
その相手の様子に何故かアザーは不気味な不安を覚えたが、構わずに続ける。
「この世界から覚醒するのに必要なのは『認識』だ、それは言葉にすれば完了する!
いい、よく聞いてよ、『これは夢だ』って言えば全部…」
「知ってたよ」
ガガのくぐもった声に言葉を遮られ、アザーの動きが固まった。
「全部知ってた。これは夢なんだって。現実の僕はスプートニクにいる」
「じゃあ…」
「でももういいんだ」
溜息が出るようなその言葉にガガは腕の中のものを引き寄せた。
それは胸から止めど無く血液を吹き出すクドリャフカの死体だった。
彼女を背から抱き、胴に両手を回して支えながらガガはこの部屋で気だるそうに腰を下ろしている。
部屋は床を含めた壁一面が固いスポンジのようなものが入ったクリーム色のクッションで覆われており、刑務所や精神病棟などで
囚人が暴れても怪我をしないように設計されたものだ。
柔らかい床を伝うクドリャフカの真紅の血は伸び、やがてアザーの靴を濡らす。
「僕は現実に帰っても、本物のクドリャフカできっと同じ事をする…
ここは檻なんだ。僕がここにいれば誰も彼女を殺したりしない」
「バカ言うな! じゃあ現実世界のクドリャフカはほったらかしでいいのか!?」
「もういいんだ!」
珍しく声を荒げたガガにアザーは思わず身を震わせた。
「僕はクドリャフカを許せない…彼女が僕のものでないという事、それが当然の世の中も、何も出来ない自分もうんざりだ!
僕はもうどこにも行かない。ずっとここにいるんだ…もう痛いのはイヤなんだ…」
アザーはそれ以上は何も言わなかった。
血の足跡をつけながら鋼鉄でできた扉へ向かうと、そのノブを掴んでもう一度振り返る。
瞳に浮かんだ感情には哀れみが濃かったが、それ以上に自分に対する無力感が満ちていた。
「…臆病者!」
罵倒を呟いたアザーが扉の向こうに消え、再び部屋には虚無が満ちた。