プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -
シスター・マリア
20.それは抜けない棘みたいに#2
部屋から足を踏み出したアザーの背後で扉は音も無く消滅してゆく。
そこはコンクリートに囲まれた廊下が縦横に走る三次元的な通路の片隅で、彼は力なく壁の一つに寄りかかった。
あちこちから飛び出した錆びたパイプがあても無く壁一面に迷走しており、彼の背にゴツゴツした冷たい金属の感触が走る。
押さえた片手の隙間から溢れ出た涙が、天井の裸電球の明かりを受けて水晶のように光を砕いた。
つた
無力感と失望は冷たいイバラの蔦と化してアザーを縛り付け、例えようのない苦痛を与える。
作り物の心が痛い。どうしようもなく、痛い。
クドリャフカを救う事はできず、結果としてガガを巻き込み、彼をも見返りのない犠牲にしてしまった。
小さく肩を震わせて低い嗚咽を漏らしながら絶望に打ち砕かれた彼は不意の気配を感じた。
しかしそれに向き合い対処できるほど、痛苦は引いてはないなかった。
最初は押し殺したような、小さな笑い声だった。
壁に挟まれた狭い通路で反響を繰り返す内にそれは少しずつ大きくなり、やがて高らかな哄笑となる。
「無力で無能で無意味…ってワケ? アンタの存在は」
顔を上げる事さえできないアザーの目の前の壁に背を預けながら、シスター・ヴェノムは必死に笑いの発作を抑えていた。
彼とは違う理由から浮かんだ涙を拭う眼からはあからさまな相手への嘲りを隠そうともしない。
心底楽しそうにあの、虫でも見下すかのような視線で打ちひしがれたアザーを笑っていた。
「クドリャフカの孤独を慰める為に生まれ、それはできず…今度は彼女を救う為に動き出し、それも適わなかった。
アンタが気付かなきゃならない事って何だと思う…?」
壁から離れたシスター・ヴェノムは上体を斜めにして屈め、床に釘付けられているアザーの顔を右下から覗き込んだ。
「『クドリャフカは救えない?』
『美少女シスター・ヴェノムさんの前では自分みたいな毛の生えた計算機野郎はムシケラ同然?』
ノンノンノン! 違うんだなー!
それはねアザー君、アンタはどうしようもなく無力だって事。
アンタは何もできない。何もこなせない。何の成果も出せない。
僅かな希望にすがって生きて、でもそれも結局できなくて、また失望する。それを永久に繰り返すだけの存在…
カワイソウ。何て可哀想な生き物。あ、生き物じゃないか」
氷の針と化して相手に突き刺さる言葉を切ると、彼女は口に含んでいた煙草の煙を彼の顔に吹き掛けた。
アザーは顔を覆ったまま動かない。
誰 か
「ママは何で貴方に『OTHER』って名前を与えたと思う?
貴方は誰の恋人にも、友人にも、敵にも、味方にもなれない。
アザー
いつまでも誰でもない『誰か』のままだから…」
また嘲笑が上がった。
踵を返して闇の中へと消えてゆくそれを聞きながら、アザーは彫像のように立ち尽くしていた。
「そうやって暗がりで子犬みたいに小さくなって泣いてな、ベイビー。
クドリャフカのボディを手に入れたら拾ってあげる、その時はアタシのペットにしてあげてもいいよ? アハハハハハ!」
ミス・シンデレラ達はゲートの一つの前で立ち往生していた。
コントロールパネルは無反応、こじ開けようにもビクともしない。
ここを通る以外スプートニクに続く道はなく、現在隊長である巴川の判断で指向性爆弾を使って扉ごと吹っ飛ばす準備が進められていた。
専門の隊員が粘土のような爆薬をドアに貼り付けている間、ミス・シンデレラはコントロールパネルのジャックにアクセスしてアザーの
呼び出しを繰り返していた。
どんなに言葉を送っても声は果てしない虚空に飲み込まれ、消えてゆくだけだ。
スピーカーからは雨が降っている時のようなノイズ音ばかりが漏れている。
「おい、アザー! どうした? 応答してくれ、おいって!」
「終わったぜ、離れな」
言葉を返したのは隊員の一人だった。
ミス・シンデレラが振り向くとすでに準備は終わっているようで、破片を受けないように他の隊員達は通路の影に身を隠している。
名残惜しげにコントロールパネルを眺めていたが彼はコードを抜き、隊員に促されて退避した。
さっきから何度かこのような呼び出しを行っていたがアザーからはまるで反応がない。
もしかしてすでにシスター・ヴェノムと交戦状態にあり、それ所ではないのだろうか。
彼の内側を少しずつ暗い影が覆い始めていた。『嫌な予感』というヤツだ。
「無事でいてくれよ…」
時々闇の彼方で水滴が落ちる、澄んだ音色が響いてくる。
何度も通路内で反響を繰り返すうちにそれはやがて空気を震わせるような、泣き声のような音に変わって行く。
その場で膝を抱いてうずくまっていたアザーの耳にもそれは届いていた。
彼は『絶望の淵』という場所の意味を知った。
データのみで構成された実体を持たない体には無気力が渦巻き、激しい心痛が胸を穿つ。
自分はこのまま消えてなくなればいい。
空気の中に溶けてしまえ!
もう涙を拭う作業は放棄していた。
どうせ枯れる事なく溢れてくるのだから。
もうどのくらいここでこうしているだろう? 不意にアザーは目の前に下りた自分の前髪が僅かに震えるのを感じた。
もう何に対しても動く気力を持ち合わせなかった体に僅かに緊張が走る。
ネット空間が振動しているのだ。どこかで何かのデータが動いているのがわかる。
両腕の中にうずめていた顔を上げると、アザーは石と化した関節に鞭打って立ち上がった。
袖で涙を拭えるだけ拭うと今まで背を預けていた壁に右の掌を押し当て、左右に動かす。
ガラスの曇りを拭うかのような動作の通り、手の通ったコンクリートの壁の一部が消えて別の映像を映し出した。
それはスプートニクのどこか倉庫らしかった。ちなみにこの映像は監視カメラのものである。
インセクトロイドをずっと小型にしたような、人間の腰くらいの高さしかない機械の蜘蛛が壁のジョイントの前に一列にぶら下がっている。
テイザー
警備ロボットか何かだろう、前足の二本はそれぞれガトリングガンと電気銃になっていた。
長い時間の中で忘れ去られた彼らは突如悠久の静寂を破り、体内のモーターを作動させて目覚めの声を上げる。
壁と繋がっている腹のジョイントを引き抜いて次々と床に降り立ち、体に積もった埃を撒き散らして出入り口へと殺到し始めた。
映像を映し出すモニタとなった壁に鼻を押し付けるようにして見入りながら、アザーは必死に何が起こっているのか理解しようとした。。
暴走にしては出来すぎている。シスター・ヴェノムがやったと見て間違いないだろうが、しかし何の為に?
ミス・シンデレラ達の部隊の足止めに使うか、それとも…
導き出された恐らくは確実に正解しているであろう答えにアザーはわなないた。
「あの女…!」
壁に押し当てた彼の片手がずるりと溶け、半ばコンクリートと融合する。
眼を閉じて意識を集中させると、モニタの中でまだジョイントと繋がっていたいくつかの蜘蛛が突如、弾けた。
バグを走らせて起動を妨害したのだ。眠っていたものやすでに活動を始めていたものもかなりの数がその爆発に巻き込まれたが、
それでもすでに部屋を後にした蜘蛛は百体を下らないだろう。
シスター・ヴェノムが現実世界に干渉を始めた目的は多分、ガガのボディを破壊する事だ。
肉体を破壊すれば万一監禁されている精神が抜け出したとしても帰る場所はない。
まだどこかに警備ロボットの保管庫が残っているかも知れない。妨害せねば!
「僕は無力じゃない…」
呪文のようにアザーはそう呟いていた。
「無力なもんか…!」
小走りに通路を進みながら斥候からの報告を聞いていた巴川の声に緊張が篭った。
「警備どもが群れてどこかへ向かっているらしい」
オートガードマン
「機械化番人が?」
ミス・シンデレラの背後を走る菱上に巴川が頷く。
「神無崎の言う例のソレがどうにかして動かしてんですかね」
「だろうな」
彼はシスター・ヴェノムの事を言っているのだろう。
ミス・シンデレラも内心そう考えていた。しかしだとしたら目的は?
「俺らを迎え撃ちに来るんならわかるけど、一体どこに向かって?」
巴川が答えるより先に周囲の警戒に神経を尖らせていた別の隊員が叫んだ。
「センサー反応! 三時の方向から無数の熱源体です!」
「警戒体制!」
巴川の一喝が響くと隊員らはたちまちのうちに隊形を変え、ぼんやりしていたミス・シンデレラは菱上に腕を引っ張られて通路の影に
放り込まれた。
彼らが進んでいた通路は道路の一車線分ほどの割合広い通路で、両脇にはいくつも横道や扉が並んでいる。
この地下施設ではどこにでも見られる殺風景な通路だ。
右手に伸びる大きな通路の影に潜み、一同は息を殺して敵を待った。
索敵を仕事とする隊員が銃の先端を少しだけ通路に出して様子を窺う。
何が起こっているのか知ろうと自分の肩越しにひょいと顔を出したミス・シンデレラを菱上が押し返す。
「顔出すなよ、死ぬぜ」
彼と彼を警護する役目の菱上は、通路の影に貼り付いている一同からやや離れた奥の場所に押しやられていた。
「何が来るんだ?」
「番犬どもさ。スプートニクのオートガードマンどもは電力残量が少なくなると自分で充電するように作ってあったからなァ…
バッテリー自体の寿命が尽きて死んだヤツも多いだろうけどまだ殆どは」
菱上の言葉に何か羽音のようなものが被さった。『保健所』のメンバーが使う、消音機を組み込んだマシンガンの音だ。
彼らの使う銃の声はキュイイイイ、と言う小さな高い音が連続的に放たれる。
ほの暗い闇に銃火が上がり、金属の砕ける音が耳を貫く。
これらの光景は監視カメラを目としたアザーにも見えていた。
恐らくシスター・ヴェノムはオートガードマンの幾らかをミス・シンデレラ達の妨害に向かわせておいたのだろう。
接続から離れた彼らはオフラインに切り替わり己の判断で行動している為、もうバグを走らせる事は不可能だ。
止めるのならば物理的に破壊して停止させるしかないのだがオートガードマンの大半はシスター・ヴェノムに乗っ取られている上、
もはやこの地下施設に他にアザーに操れる戦闘用の機体は存在しなかった。
こんな時あの女ならば適当なものに電波を送り込んで兵器に変える事ができるだろう。
しかしアザーはその能力を持ち合わせていなかった。
「どうすればいい…?!」
ぽたぽたと地面に落ちる冷や汗を拭い、ネット空間のアザーは必死に考えを巡らせた。
脳裏ではあの女の嘲笑う声が聞こえてくる。『お前は無力だ』と。
しばらくぼんやりと白い天井を眺めていたガガは、ようやく自らの覚醒に気付いた。
最近こんな妙な感覚にしばしば囚われ、翻弄される事がある。
自分はもうとっくに死んでいて、ここにいる自分はあらかじめ自分に何かあった際の為に必要な人格の情報のみをネットに
転写しておいた予備の自分なんではなかろうか。
だとすれば『本当の自分』とか『精神』とかは果たしてどこで線引きされるべきなのだろう。人間の自我の価値は?
そんな無意味な事をしばらく考え込んでいたが、すぐにバカバカしくなってガガはベッドを降りた。
あれから万年床を廃して二段ベットを部屋に導入しており、一段目は様々な機器で埋もれている。
他を見渡せば全体的に綺麗に片付いた部屋で、窓から差し込む朝日が柔らかく白い壁を浮かび上がらせていた。
陽光に眼を貫かれる。心地良い刺激だった。
クローゼットから適当な服を取り出すとパジャマを脱ぎ捨てて着替える。
部屋に脱ぎ散らかされた服はガガが部屋を留守にしている間にきちんと洗濯され、畳まれて元の場所に戻る事になっている。
部屋を出て廊下を進むとテーブルに朝食が用意されていた。
前までならば朝はすこぶる気分が悪く食事は喉を通らなかったが、最近は体の調子も悪くない。
白米を味噌汁で掻き込んで慌しく食事を済ませるとガガは席を立った。
食事は常にここに用意される事になっているが、別に食べなくてもどうと言う事はなかった。
廊下を戻る途中ジャンパーを取り出して羽織り、玄関に入って履き潰したスニーカーに足を通す。
スチール製のドアを押し開いた瞬間、視界いっぱいに冬の空が雪崩込んできた。
雲一つない恐ろしく澄んだ青が果てしない空の彼方まで続いている。
河川を挟んだ向こう側の景色はビル街が広がっており、地平線を凹凸に切り抜いていた。
冷えた空気を胸一杯に取り込みながらガガは大きく深呼吸をする。
古びたコンクリートの床を踏み締めながら屋上のスペースを横断すると、柵の所に一人の少女が腰掛けていた。
彼女に話しかける時はいつもどきどきする。
だけどそれは苦痛ではなくて、ガガの心を捕えて話さない魅惑の鼓動だった。
「クドリャフカ」
呼びかけに少女は咥えていた煙草を口から離し、花が風にそよぐように振り向いた。
美しい微笑と共に茶目っ気たっぷりに尖らせた口から煙を吐き出して見せる。
カーク ビー バジバーイチェ
「ハァイ、サカエ。ご 機 嫌 い か が ?」
スパシーバ ハラショー
「元気だよ。ありがと」
「よくできました!」
小さくパチパチと手を叩いて彼の努力を称えるとクドリャフカは柵から飛び降りた。
彼女は事あるごとに母国語で話しかけて来る。
恐らく何を言われているのかわからずに戸惑うガガの様子を楽しんでいたのだろう。
その内にガガも段々と彼女に聞いたり自分で調べたりして、僅かではあるが理解できるようになっていた。
ここは何かもが穏やかに流れてゆく世界。
時間と空間はあってないようなもので、彼に悠久の安息を提供してくれる。
クドリャフカと雑談を交わす一時は甘く柔らかな瞬間だった。
会話が途切れた時、ガガはふと腰掛けていた柵の上で視線を街の彼方に移した。
風の音に混ざって僅かに川のうねりが聞こえてくる。
他に音を発するものは何もなく、ふとすればクドリャフカの息遣いさえ聞き取れそうだった。
飲み込まれてしまいそうな、静寂の世界。
「僕は何をやってたんだろう」
「え?」
変な顔をするクドリャフカにガガは視線を地平線に向けたまま微笑した。
「何だか長い間、痛い夢を見ていたような気がする…あの夢の中じゃ何かもが苦痛だったんだ。
僕はみんながやってる事を真似しようと必死だった」
「みんながやってる事…?」
珍しく長話をする彼に対し、クドリャフカは興味深げにガガの顔を覗き込む。
「うん。何て言うか…嫌な事があってもすぐ笑って忘れちゃったり。人に相談したりさ。
そういうのが全然できなかった。ちょっとした嫌な事がどうしても忘れられないんだ。
後から思い出しちゃ『今ならこうするのに』『あの時こうしておけば良かったのに』って考えちゃって…
毎日頭痛がしてた。『何で僕はこんななんだろう』って…わっ」
突然背中に発した柔らかい抵抗に押され、柵の上から果てしない虚空につんのめった彼の表情が不意に驚きに変わった。
慌ててバランスを取ろうと柵を掴んでいた両手に力を込めたが、それよりも速く背伸びをしたクドリャフカの細い両腕がガガの
首を抱き込む。
「比べては駄目」
耳にかかる吐息は少年の意識を焼け付かせた。
ガガの背後に抱き付いたクドリャフカは彼と同じ地平線を眺めながら、囁くように語りかける。
「誰かと自分を比べたってそれは無駄な事なの。何でかわかる…?
君の価値は君にしかない。今はわからないかも知れないけれど、誰かと自分と比べるのを止めた時…」
ガガを抱くクドリャフカの腕の力が増した。
「君はきっと自分の価値に気付く。それが自信を持つという事」
「…」
首に回された彼女の腕をそっと握ると彼は目を閉じた。
「そうかな。よくわかんないけど…」
願わずにはいられなかった。このまま時間が止まればいい、と。
胸を満たす底知れない安らぎにガガは我を忘れた。
突如として放たれた、ビシッという鼓膜を貫くような高い音が静寂を砕く。
視線の先の街の彼方に二人は斜めに走る線を認めた。
最初は眼に髪がかかっているのかと思ったが、いくら前髪を掻き揚げても眼をこすってもそれは消えない。
天空から地上に向けて、その線は無造作な雷のように中空を走っているのだ。
もう一度あの高い音がすると今度は線は所々で交差点を作りながら、空に縦横に広がってゆく。
空にヒビが入っている。
石を投げつけたガラスのように亀裂を走らせ、世界をその腕の内に取り込まんと一斉に手を伸ばしていた。
「何、あれ…」
呆気に取られるクドリャフカの声を耳元で聞きながら、ガガは反射的に感じた。
空間が震動し、皮膚にピリピリするような感覚が生じている。
誰かが外部からこのサイバースペースに手を加えているのだ。
指向性爆弾によって穿たれた通路の壁の穴をいくつかくぐると、そこには数十分前に見たものと同じ装置が鎮座していた。
狭い部屋に窮屈そうにでんと陣取っている巨大な柱だ。大人五人が手を繋げばやっとぐるりと取り囲む事ができるだろう。
中には彼らには理解する事さえできないあらゆる機器が詰まっており、上部では冷却装置が無機的な唸り声を上げていた。
表面には黒いペイントで『No.11』とあり、爆発物の担当者が手早く指示を出してその物体に発破を仕掛ける。
今度のものは指向性ではなく、純粋に物体を根こそぎに吹き飛ばすある意味一番わかりやすい爆弾だ。
「急げ!」
通路で他の隊員と共にオートガードマンに応戦している巴川が叫ぶ。
その更に通路の奥のナビゲーションコンピューターに端子を差していたミス・シンデレラはその様子に不安げだった。
「今やってるヤツのナンバーは?」
彼の問いかけに、隊から離れてただ一人彼のガードに当たっていた菱上が答える。
「ああ。11だぜ」
「11だ。次は?」
ミス・シンデレラがそう伝えた相手は菱上ではない。ネット空間上のアザーだ。
ヘルメット内のモニターの中でアザーは考え込むような素振りを見せた。
「退路の途中にあるのはあとNo.2と4と7、あと12かな。うーん…」
「おい。本当にガガは平気なんだろうな?」
眉根を寄せて顎に手をやった彼がミス・シンデレラの口調に表情を曇らせた。
スプートニクのサイバースペースは一つのメインデータバンクと並列に繋いだ12のサブバンクから成る。
何か事故が起きた際に一度に破壊されない為にサブバンクは施設の各所にバラバラに設置されており、彼らはオートガードマンから
撤退する道すがらそれを破壊する策に出ていた。
シスター・ヴェノムの行動範囲を制限しようと言うのだ。
データの回収が目的なのにデータバンクを破壊しては意味がない、と巴川は反対したがサブバンクは基本的にメインデータバンクの
補助にあたりサイバースペースの拡大が機能のすべてだ。
つまりデータその他はすべてメインデータバンクにあり、サブを破壊してもデータ自体は無事だとアザーは言う。
ミス・シンデレラの心配はサイバースペースに取り残されたガガの安否で、このような手荒な方法をして彼は無事なのだろうか。
しかしその質問にアザーは曖昧にしか答えていない。
今、ガガの精神はサイバースペースと癒着している。データバンクを破壊していけば彼ごと消えてなくなるのも時間の問題だ。
それを回避する方法はたった一つ、ガガが今いる世界を夢だと認めて自分のボディへ帰ること。
これは彼の命を賭けた目覚めの儀式なのだ。
アザーとてできればこんな方法は避けたかった。
目覚めるかあの世界で果てるかというこの二者択一は残酷なものであると彼も気付いている。
だが、他に方法は?
「大丈夫さ」
無理矢理微笑を作ってアザーはミス・シンデレラに嘘を付いた。
「急いでくれ。もう三つか四つ、サブバンクを破壊すればサイバースペースは消滅するとまでは行かないけど大きく傾く」
「どいつもこいつも急げ急げって、もう聞き飽きたよ」
相手の真意には気付く事なく、ミス・シンデレラは端子を抜いた。
すぐに背後で隊員が叫ぶ声が響く。
「爆破する、退け!」
一方、現実世界の事情を知らないガガは訳もわからないままクドリャフカと共に逃げ惑っていた。
亀裂はどんどん大きくなり、空を覆って行く。
まるでプラネタリウムの天井にヒビが入っているかのようだ。
クドリャフカの手を引いたガガは今にも崩れ落ちそうなその天蓋の元、あても無く疾走していた。
「どうなってんの!?」
戸惑う少女の問いに彼は何も答えない。
道路からは人影も動くものもすべてが消えて失せ、不気味な沈黙が落ちていた。
ただ頭上の天空からみしっ、みしっという自重への抵抗が消えかけて軋む音が落ちて来る。
世界が崩壊する悲鳴だ。
二人はまだ比較的ヒビの少ない空の元へ行こうとひたすら道路を駆けた。
一瞬、空の片隅が膨らんだ。
網の目のように広がった亀裂に更に不可が圧し掛かり、空の破片がぱらぱらと落下してくる。
空の軋む音にクドリャフカが短く悲鳴を上げた。
これで衝撃は三度目だ。次はもう持たないかも知れない。
息を切らせ心臓が破裂せんばかりになった頃、二人は川を横断する橋の上までやってきていた。
中ほどまで来た辺りでクドリャフカがその場にへたり込んでしまった為、ガガも一休みしようとその場に腰を下ろす。
汗で額に貼りつく前髪を掻き揚げ、二人は空を見上げた。
この辺りまでは亀裂は来ていない。
橋の柵越しに見える彼方のくすんだ空は蜘蛛の巣が貼ったようになっており、時折きらきらと輝く空の破片が落ちていた。
破片の抜け落ちた場所からは闇が漏れている。
ジグソーパズルのピースが足りない部分みたいにそこだけ風景が抜け落ちており、奇妙な風景と化していた。
しばらく二人は無言のままコンクリートの上で呼吸を整えた。
洗い息遣い以外には何も聞こえない。川の流れさえも停止している、まるで停止させたビデオの映像のように。
サブバンクが破壊された事によりあちこちで世界の流れが機能不全を起こしているのだ。
ガガにとってあまり重要度が高くない人々が消えたのもそのせいだろう。
「どうなってんのさ…」
茫然自失としていたクドリャフカがぽつりと呟いた。
「これがニュースでやってた『世界の終わり』ってヤツ?
もうあの日から30日間も経ったの?」
ガガは何も答えない。
彼方で空が歪んだ。
ガラスが破裂するような凄まじい音が大地を揺るがし、衝撃波が二人の髪を震わせた。
そして崩壊が始まった。
地平線のあたりから徐々に空は砕け散り、破片を雨の様に降らせながら二人のいる方へと向かってくる。
落ちた破片は大地を砕き、それさえも粉々に砕いて奈落へと落としていった。
皮を剥かれたように破片の下からは底知れない闇が漏れ出し、世界を唐突な夜の闇のように覆い始める。
すべてが砕け散ってゆく轟音は不思議なほど澄んでおり、琴を弾くような繊細さを思わせた。
端から世界は失われてゆく。
闇の腕は圧倒的に長く強大で、あらゆる物体を飲み込んでゆく。
二人はその前に哀しいほど無力だった。
「逃げなきゃ」
立ち上がろうとコンクリートに手をついたガガに、突然クドリャフカが抱き付いた。
「待って!」
駆け出そうとしていたガガは出鼻を挫かれ、あやうく転倒しそうになりながら彼女を抱き止めた。
ガガの胸の中に顔を突っ込んだ彼女は雨に濡れた子猫みたいに震えている。
眼の端に涙が浮かんでいるがこぼれてはいない。精一杯堪えているのだろう。
「お願い、一緒にいて…サカエ、私を抱いていて。これが世界の終わりって言うなら」
クドリャフカは彼を息ができないくらいきつく抱き締め、いつもの気丈さからは想像できない涙声を搾り出した。
「私と一緒にいて…お願い…」
ガガの中で激しい葛藤が渦巻く。
ふとすれば消えてしまいそうな、儚い花のような彼女を抱き締めたいという感情を別の何かが制した。
ガガは彼女の手を引いて走っている間、クドリャフカの言葉をずっと考えていた。
―― 自分と他人を比べても、それは無駄な事。君の価値は君にしかない。
他人と自分を比べるのを止めた時、君はきっと君の価値に気付く…――
いや、これは今目の前にいるクドリャフカの言葉ではない。
現実世界のダイバーラジオ『シスター・マリア』で聞いたものだ。
それは自分の弱さを認めろ、という事だ。
どこかで読んだ事がある。強さとは弱さに徹する事で生まれると。
あの頃は理解できなかったが、今なら意味がわかる。
自分があんなにクドリャフカへの嫉妬という憎悪に燃えていたのは多分、自分の弱さを彼女への憎しみに置き換えていたのだ。
己の弱さから顔を背ける為には、劣等感を紛らわす為には、どうしても誰かを生贄にせねば気が済まなかった。
自分のせいじゃない。自分が弱いのは自分のせいじゃない。
そう自分に言い聞かせているうちに、何時の間にか自分の持っていないものを持っている彼女に憎悪していた。
脆く、痛がりで、弱いくせに他人のものばかり妬む自分自身の内側にようやく気付いたのだ。
小さなクドリャフカの肩を抱くと、そっと自分の体から引き離す。
世界の崩壊はすぐそこにまで迫っており、粉砕した破片の飛沫が髪にかかった。
ここを抜け出せばまた毎日のように自分の無力さに苛まれる日々が始まるだろう。
だけどきっと生きていく道はある筈だ。クドリャフカはそう教えてくれた。
「これは…」
場違いに柔らかい冬の陽光を受けて雪のように輝くそれを浴びながら、彼は彼女の涙を指で拭う。
「夢だ」