プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -
シスター・マリア
3.真夜中のかぼちゃ
買い直したばかりのスニーカーを履いて、ガガは公園のベンチでぐったりと座り込んでいた。
もう昼を過ぎて午後を回っている。
コンビニの味気ないコンビーフサンドを齧りながら、彼は呆然と街を行く人々の姿を眺めていた。
真っ白なダウンジャケットも新しく買い直した。同じメーカーの同じサイズのものだ。
家から着てきたやつはホテルに置きっぱなしだ、今頃バッグと共に燃えカスとして事故現場から発見されているだろう。
―― やっぱり無理だったんだ。
様々な思考を押し退けて、胸の内には大きな無力感が広がりつつあった。
あらゆる希望を覆うその考えに気が重くなる。
帰ろう。それでまた気が遠くなるくらい下らない日常の中で生きていくしかないんだ。
誰かを助けるなんてやっぱりできないよ。
サンドイッチを飲み込むと、口の周りを手で拭って溜息をつく。
ここはガガが利用したラブホテルからやや離れた場所にある、街の中の小さな公園。
周囲には小さなビルがいくつかあり、昼休みを取って昼食を食べにゆく会社員やOLたちの姿もちらほらと見えた。
クドリャフカを助けに行けば、今度こそ自分の中の何かが変わると思っていた。
しかしまた結局わかりきっている事を思い知らされただけだったのだ。
すなわち『自分は何もできないんだ』と。
体中に鉛が詰まったような挫折の重圧に押し潰されそうだった。
もうこんな事は止めよう。また同じように失敗するだけだ。
そう決心して顔を上げると、視界の先の公園の中央に大きな時計が見えた。
文字盤の中に日にちまで表示されているタイプで、それを読み取った瞬間彼はふと思い出した事があった。
そしてそれは閃光のように彼の頭のもやを払った。
今日はインターネットのチャットで知り合った、お互いに顔も知らない友人の一人がオフ会を開く日だ。
確か彼は相当コンピューターに詳しく、その手の情報関係の仕事に就いていると言っていた。
彼に相談すれば何か道が開けるかも知れない。
場所はチャットで聞いたのを記憶しているし、電車を利用すればここからそう時間をかけずに行けるだろう。
素晴らしいアイデアだと最初は思ったが、すぐにまたガガにとって頭を抱える問題が発生した。
当然ながら逢えば相手に自分の姿を見せなければいけないのだ。
ガガはチビだと言う事と引っ込み思案な自分の性格に相当なコンプレックスを持っており、だからこそ人付き合いが極度に下手で苦手だった。
チャットではそんな自分が嘘かのようにお喋りな彼だが、だからこそチャットで知り合った人間と逢うのはかなりの精神的苦痛を伴う。
逢った相手に現実とネットとの自分のギャップにがっかりされるのが何よりも怖いのだ。
ガガはネットの世界で作り出した日常で押さえつけていた自分、言わば『良く見せた自分』ばかりが肥大化し過ぎていたのである。
今まで何度か行われたオフ会は何かと理由をつけて断ってきたが(おかげでそのチャットルームでは彼の真実の姿は一つの謎として度々
話題になる)、しかしクドリャフカの件は一人ではもうどうしようもない。
そういえばその彼とももう知り合って一年になる。
色々な悩みや話題を共にしてきたが、お互いに本名も顔も知らず一度も接触した事がないというのは妙な話だ。
ガガにとっては真剣な悩みだった。
チャットルームで常連として知り合った数人は恐らく確実に来るだろう。
彼はアレルギーのように人が集まるパーティ等を嫌う。
学校で味わってきた経験のせいか、周囲が楽しく談笑している中で一人だけ取り残されるという状況はガガにとって地獄の苦しみだった。
口下手で気が弱いなせいだ。そんな事はわかっている。
やはり家に帰って日常に戻ってしまった方が良いのではないだろうか、という考えが再び頭を巡り始める。
苦渋の決断だった。
あらゆる悲観的な考えを無理矢理ねじ伏せ(たと本人は思っている)、結局は会場に足を向ける事にした。
足取りは重く気乗りもしなかった。しかし他に方法は思いつかない。
電車に乗る事数十分、二度の乗り換えの後たどり着いた都心の地下鉄の駅から地下街に降りる。
平日のせいか地下街はそれほど賑わいを見せておらず、人の姿はまばらだ。
地下街はあまり通りたくない場所の一つだった。
白いタイルが床に敷き詰められ、天井からは多くの照明が落ちており、地下でも陰鬱さは微塵も感じられない。
大体道路ニ車線分の広さの通路の両側にはきらびやかなショーウィンドウが軒を連ねている。
坂江町の地下街と言えば神薙市で一番賑わう場所だが、同時に犯罪の多発地区でもあった。
特に昼はともかく店のほとんどがシャッターを下ろす夜の地下街は、夜のニューヨーク並に危険だとネットで誰かに聞いた。
この街を仕切る様々なチームが夜な夜な小競り合いをしているのだと言う。
時々いかにもそんな感じの、ガラの悪い少年らなどが徒党を組んで闊歩していた。
なるべくそういう連中と眼を合わせないようにしながら、ガガは先を急いだ。
財布をポケットに突っ込んだままにしておいたのは正解だった。上着に入れていたらラブホテルの一室と一緒に灰と化していただろう。
しかし問題がない訳でもなく、この偽造クレジットカードはそろそろ捨てないとマズい。
同じカードを何度も使っていると知らず知らずのうちに手が回る。
特に犯罪に手を染めているという意識は彼にはなかったが、金銭的な問題が発生するというのは大きな痛手だった。
そんな事を考えながら地下街を歩いていると、突然ガガの胸元に伸びた手が彼の胸元を引っ掴んだ。
そのあまりの力によろけながら何事かと驚いて右上を見上げると、初老の背広姿のサラリーマンがガガを見下ろしている。
こめかみにガガと同じ、ダイバーフォンの接続端子が見えた。
他人というのはガガにとっていつだって怖いものだった。
そしてそれは今もそうだ。
突然の事の恐怖におののくガガを見下ろす、彼の眼がすっと細くなる。
「『クドリャフカ』には近づくな」
「!?」
相手の口からあくまで静かな声で飛び出した単語に、ガガが眼を剥く。
「ク…クドリャフカを…」
何とか絞り出したガガの震える疑問の声に男は目をしばたたかせ、彼を掴んでいる手の力を弱めた。
「話が長くなる。ちょっと待て」
彼は振り向くと、しばらく街を行く人々に視線を移した。
そして人並みの中に何かを見つけたのか、ガガから手を離すとまっすぐに一人の若い女性の元へと歩いて行った。
彼やガガと同じくダイバーフォンの端子を持つ彼女はOL風だった。
「失礼」
「えっ?」
歩いていた女が声をかけられて男に振り向いた瞬間、男はすでに手の中まで伸ばしていたダイバーフォンの端子を彼女のこめかみの
接続端子に突き刺した。
彼女の眼が瞬時に虚ろになり、やがてすぐにはっきりとした自我を持つ光を取り戻す。
入れ代わりに男の方は魂が抜けたようにその場に呆然と立ち尽くしていたが、すぐに気がついてしばらく周囲を不思議そうにキョロキョロと
見渡していた。
そして思い出したかのようにまた人並みの流れに加わり、その中に消えて行った。
今度は女がガガに向かって歩いてきた。
何か劇のようなものを見ているかのように、その光景に釘付けになっていた彼を女が見下ろす。
「同じ人間の中に10分以上はいられない。その人間の精神と自分が癒着して『乗り換え』ができなくなる」
スーツ姿の彼女は腕を組むと、片足に体重を以降させた。
「ナイトメアウォーカーとは会ったでしょ?」
「ナイト…?」
擦れた声で聞き返した彼に対し、すぐに彼女は『ああ』と頷いて言い直す。
「シスター・ヴェノムとか名乗ってるイカレ女。って言えばわかる?」
訳もわからないまま、どう答えていいかわからずガガは何度も頷いた。
「聞いて。クドリャフカには近づいてはダメ」
しばらくしてからようやくガガはまともな声で答えを返した。
「まっ…その、待って下さい、貴方は?」
「シスター・ヴェノムは『クドリャフカ』を守っているんじゃない。クドリャフカを檻に閉じ込めている。
彼女がヴェノムのママ。ママの心のありようによってそこから生まれたヴェノムは強大にもなるし消滅もする。
だけど奴の本当の目的はわからない。明確な人格を持ってしまったあいつには欲求がある。何かに対する激しい渇望が。
あいつが異常なまでに自分の名前やロゴに拘るのは、あいつは自身に自我が存在しているって事を証明したいから。
…とにかく、クドリャフカに近づけば君は死ぬ」
「?」
まくし立てる相手の言葉の内容が半分も理解できないガガに対し、女はポケットからペンを取り出すとキャップを外した。
「でも、もし。もしそれでも貴方が彼女を助けてくれるって言うなら…」
強張っていたガガの手を取ると、女はペンで彼の手の甲にペン先を走らせた。
相手が書き終えた後に自分に書かれた文字と数字と記号の羅列にガガが眼をやると、女は感情のこもらない一本調子な声で続ける。
ガガはほとんど機械と会話しているような感覚だった。
「クドリャフカのメールアドレス」
「!」
それだけ言い残すと女は彼に背を向け、人並みに飲み込まれてゆく。
呆然と見送る彼の視界に、遠くでまた女が呼び止めた誰かにダイバーフォンの端末を突き刺しているのが見えた。
クドリャフカという存在に歩み寄ろうとすればするほど、本当に妙な事ばかり起きる。
またガガはこれが夢なんじゃないかという感覚に捕われたが、しかし手の甲には確かにメールアドレスが残っていた。
さっき起きたばかりの出来事に考えを巡らせるうちに、ようやくガガは会場までたどり着いた。
最初彼はどこかファミリーレストランなどでオフ会が行われるかと思っていた。
しかし指定の住所までやって来ると、街中で目の前に立ちはだかっていたのは黒ずんだ大きなビルだ。
築20年かそれ以上は経過しているだろう、すぐ隣に高速道路が走っているせいか排気ガスで汚れがひどい。
何だか荒廃したムードがぷんぷんする。
恐らく商社ビルか何かだったと思われるが、とにかく住所はここで間違いない。
一階は駐車場になっているようで、四駆の大きなバギーと普通の乗用車が停車されている。。
真 夜 中 の か ぼ ち ゃ
入り口まで来てみると、所々ヒビの走ったガラスの扉にはスプレー缶で『MIDNIGHT PUMPKIN』と落書きがしてあった。
その上に黄色い張り紙がしてあり、『メモリージャックスオフ会会場 お越しの方は中へどうぞ 五階でやってます』とマジックペンで書いてある。
メモリージャックスとはガガの出入りしているチャットサイトの事だ。
ここまで来てまだガガは迷っていた。彼は事前に行くという事を誰にも伝えていないし、やはりどうしても抵抗があるのだ。
頭を振って何とか自分を奮い立たせると、扉を開けてビルの中へといざ入り込む。
コンクリートに四方を囲まれた建物の中の空気はひんやりと澄んでいる。
入ってすぐ行ったところにエレベーターがあった。『↑』を押すとほんの一呼吸分だけの時間を置いて扉が開く。
中に入ると五階を押し、しばらくエレベーター特有の不快感を味わうと、扉上部の表示が五階で停止した。
エレベーターから降りて廊下に立つと、すぐ目の前の壁に矢印の書かれた張り紙があった。
会場の場所を示しているのだろう。
矢印を辿って建物を奥へと進んで行く。
薄汚れた壁には手の込んだペイントアートがいくつも散りばめられており、暴走する鋼鉄のかぼちゃの馬車に乗って両手のマシンガンを
乱射しているセクシーなシンデレラの姿のものが特に目立った。
すぐに『会場』という張り紙のあるドアにたどり着いた。
頭上の表札は元ある文字の上にペンキ塗って消し、新たに気取った文字で『パーティールーム』と書かれている。
薄いドアを通して聞こえてくるマイクを通しているらしき女性の声に、ガガは再び心臓を鷲づかみにされるような気分を味わった。
人に逢うという事ほど、彼にとってロクでもない思い出として残る事の連続だった記憶はない。
今でも思い出すだけで心が黒い影に覆われそうな、嫌な思いばかりだ。
クドリャフカの為だと何度も自分に言い聞かせて喝を入れると、全身全霊の勇気を絞り出してノブを掴み、回転させる。
なるべく遅れてやってきたせいで注目を浴びないよう、気づかれないようにそっと開けて中へ入った。
部屋の中はかなりの広さがあり、寒々しいコンクリートに覆われた景色を打ち消そうとそこら中にペイントアートが施してある。
オフ会にしては大仰なパーティらしい飾り付けがしてあり、部屋の中央には折り畳み式の長いテーブルを組み合せて、一つの大きなテーブルに
してある。それが合計三つあり、各々のテーブルクロスの上では様々な料理が湯気を上げていた。
出席者は100人ほどで、テーブルの周囲のパイプ椅子に腰を降ろしている。
どう考えてもメモリージャックスの常連たちにしては数が多過ぎる、別のチャットールームのメンバーも集まっているのだろうか。
丁度パーティは始まったばかりのようで、出席者一同は一様に正面を向いていた。
その視線の先ではマイクを握った、恐らくはガガとはあまり年齢の変わらないプラチナブロンドの髪の少女が司会を務めている。
「ま、そんな訳で挨拶はこのくらいにしておきましょう」
一瞬ガガの方をチラリと見はしたが、そう締め括って彼女はにっこり笑って見せると、片手を三つあるうちの中央のテーブルの上座に向けた。
そこには大きな肘掛付きの回転椅子に腰掛け、全員に背を見せて窓の外の光景を眺めている人影が見える。
「こちらが毎度のオフ会の仕切りをしたがる、考えがないのに行動力のある最も迷惑な男…」
数人が彼女の弁舌に堪えきれずに吹き出す。
人前、それもこんな多くの人数の前で快活に話せる少女にガガは羨望を覚えた。
そして視線を椅子の男の後姿に移す。窓から差し込む陽光が金髪で光を砕いていた。
「ミス・シンデレラでーーす!」
くるりと椅子を回転させると、ミス・シンデレラは両手をいっぱいに開いて拍手と野次に答えた。
「ようこそ皆さん! ご出席感謝致します、どうか楽しいひと時を」
軽い挨拶を済ませ、細い唇で客たちにチュッと投げキッスを送って見せる。
こみ上げてくる不安にガガは愕然とした。
友人が毎回オフ会の仕切りをやっているとは聞いていたが、まさか彼が…
二十歳の頭といった所であろうミス・シンデレラは冷たい美貌とでも言うべき端正さを持つ、女装させたらミスコンにでも潜り込めそうな
美形だった。
しかしその容貌とは裏腹にどこかおどけた、明朗で飄々とした三枚目のような雰囲気を持つ男だ。
おまけに甘い仮面を被せた顔と腰までありそうな艶やかなストレートの金髪、まともなのはそれだけで首から下はかなり普通でない。
彼の正面からきっちり体の右半分はぱりっとしたタキシードだが、左半分は過剰なフリルのついたフレアスカートの黒いドレスになっている。
二つの繋ぎ目はそういうデザインなのか、目立つ大きく野太い糸が荒い目で繋ぎ合わせていた。
そう言えばチャットで話した所によれば、ミス・シンデレラは自分が服装倒錯者である事を自負していた。
ガガはてっきり冗談だとばかり思っていたが。
「さーてさて取りあえずは自己紹介と行こうか。毎回出席してくれる愛すべき暇人の方々はともかく、今日が初めてという方もいらっしゃるだろう」
よく通る声でミス・シンデレラが話す度、口からこぼれた真っ白な歯が光を弾く。
「初めての方はどうぞ自己紹介を。手元を」
一同の視線がテーブルに注ぐ。
料理や食器類に紛れて無機質なプラスチックの冷たい雰囲気を放つ、小さなタブレット(ペン型マウス)が置かれている。
「クルミ」
ミス・シンデレラが合図をすると、クルミと呼ばれた司会者の少女が頷いてから説明を続ける。
「皆さまの手元にタブレットが御座いますね? では次はどうぞケーキをご覧下さい」
一同の視線が目の前の、小型のウェディングケーキと言ってもいいくらいの大きさを持つケーキに移ったのを確かめると、クルミが床を這う
コードと繋がったスイッチを押す。
すると各所のケーキからホイップクリームを押し退けて、中から30m四方くらいのテレビモニタが八方に顔を出した。
客から驚きの声が上がるのにミス・シンデレラが満足そうに笑みを浮かべる。
モニタは装着していたワイパーで画面についたクリームを退け、一瞬のノイズを置いてすぐに点いた。
「どうぞ、お初の方はペンで画面に自己紹介を。ハンドルネームをお忘れなく」
司会者に促されて、数人がおずおずと身を乗り出してタッチパネルの画面にペンを走らせた。
その間にミス・シンデレラは遅れてきた珍客に気づき、眉を上げて苦笑を浮かべると無言のまま座るように示す。
ガガがどうしようか迷っている間に初顔見せのメンバーがペン入力を終えようかという瞬間、すぐにケーキの中から新たにバネに押されて勢い
良く飛び出してきた黒い塊が、ケーキのクリームをモニタの入力者に飛び散らせた。
驚いた彼/彼女の顔にべっとりとクリームが付着した瞬間、それを飛ばしたデジタルカメラのレンズが開いてパシャッと各所でフラッシュが上がる。
ケーキの各モニタにはクリームを顔にいっぱいつけて驚いている新参者の滑稽な姿を、彼ら自身の紹介文つきでありありと映し出した。
これはミス・シンデレラのオフ会で毎回行われるちょっとしたイタズラで、知らずにやってきた者は必ずクリームで化粧した顔を晒す事になる。
常連たちはとばっちりを受けないように、なるべくケーキから顔を離して顔を腕やペーパーナプキンで隠していた。
どっと笑い声が上がり、拍手や野次が沸く。
心の底から楽しそうに笑っていたミス・シンデレラが、動きのないままのガガに再び視線を移した。
美しい流線を描く細い顎をひとしきり撫でると、『ふむ』と頷いてから立ち上がる。
「君は初めてだよな? 遅刻なんかしたりしてどうした、俺に土産を買ってたんなら許すがな」
立ち上がった彼の姿すべてを視界に収めるには、客たちは少々後ろに下がらねばならなかった。
身長187か8はあるだろう。
ガガは自分に話し掛けられているのだとわかってぎょっとした。
こちらに集まってくる客たちの視線にすぐに心臓が悲鳴を上げる。
ミス・シンデレラの話っぷりや態度はすべてチャットと同じものだった。しかしガガはそんな器を持ち合わせていない。
ここがチャットルームだったら冗談を織り交ぜて軽く受け流す所だが、仮想現実の仮面がない今のガガはあまりにも脆弱な存在だった。
どうやら相手は彼をガガだと気づいていない。
ミス・シンデレラはカツカツと足音を立ててガガの元へと歩いてきた。
左足はハイヒール、右足は革靴。上げ底されているのか、二つで不思議と爪先と踵の高さは揃っている。
「残念。女の子なら遅刻を理由にキスをさせる理由ができたんだがな、ハンドルネームは?」
ふふっとガガを見下ろす彼から笑い声が漏れた。
実際そうではないのだろうが、ガガは自分の無様な姿を笑われたようでひどく心が軋んだ。
それでもこちらに注ぐ視線の中で黙っていれば、もっと客たちに非難の目で見られるだろう。
どのくらいの大きさなのか自分でもわからないほど、ガガはか細い声で口にした。
「ガガ」
その言葉を拾った瞬間、ミス・シンデレラの端正な表情から笑みが消え、すぐに驚いたような笑いになって戻ってきた。
「君が? 驚いた」
何気ないその一言は、暗い衝撃と化してガガの心に重く圧し掛かった。
やはりチャットの自分とリアルの自分のあまりの格差に、がっかりされたのだろうか。
「諸君」
そんなガガを知ってか知らずか、片手を彼の肩に乗せてミス・シンデレラは振り返ると、大仰な仕草で片手を広げた。
「ガガ君だ」
拍手が起こったが、少なくともガガを知っているメンバーは全員が意外そうな声を出した。
チャットの中では恐ろしく饒舌で冗談のうまい少年だったが、目の前の彼はネズミのように小さくなっている。
ガガは前髪に遮られた前方の光景をあまり見たくなかった。
きっとその先には自分に失望している人々の光景があると思っていたから。
しばらくは各々が自由に席を立ち、談笑するフリータイムが続いた。
ガガは空いていたテーブルの隅の椅子に一人で腰を降ろしていたが、誰かに話し掛けられるのを恐れていた。
話をすれば一瞬で化けの皮が剥がれる。
今の彼にとって話し掛けてきた相手に本当は暗い奴だとか、喋らない奴だとか思われる事は死ぬより辛い。
そう思われるのが嫌だったからこそ、今日までオフ会にはまったく出席してこなかったのだ。
出席者は他のメンバーと楽しげに話しているようだった。
こういう場所に来るとガガのアレルギーが発生する。
あの笑い声を上げて楽しそうに話している人達の輪の中にはどうしても入れない。
入れないのは自分が普通じゃないからだ。
ガガは自分が普通じゃないという事を、自分を特別な人間だと思い込む事で無理矢理に無視してきた。
みんなが楽しいと思う事をせせら笑う振りをするのは、自分が特別だから。
「ね」
突然声をかけられてオレンジジュースのストローを咥えていたガガは、口の中身を吐き出しそうになった。
顔を上げた先にはにんまりと笑った若い女性の顔と、数人の男女の姿があった。
丸顔で色白の彼女は、肩で切り揃えた髪を撫で付けながら遠慮がちに聞いてきた。
「ガガでしょ?」
「そう…だけど…」
明らかにビビっている彼の心境を他所に、彼女ら一同は感嘆を漏らしながら頷いた。
「意っ外だわー、15歳なんつってたけど絶対嘘だと思ってた。アタシ誰かわかんない?」
「…」
答えに詰まる少年を前に、彼女ら一同は適当に空いている椅子に腰を降ろす。
包囲されて逃げ場がなくなり、ガガは益々縮こまった。
「キナコよ。そっちがまりもんでKOR、ピーシス、ハヤト君」
呼ばれたそれぞれが挨拶をして見せる。
全員ガガとは夜更けまでチャットで話し込んだことのある、気の知れた知り合い達だった。
ただし顔を見るのは初めてだ。いずれもガガの予想を裏切っている。
特にピーシスと名乗る彼は話し振りからしてもっと老けているような気がしていたが、目の前にいるのはガガとほぼ同年代の少年だった。
それからガガは色々な質問をされたが、ほとんど声が詰まって返事をする事もできなかった。
人と話す時に起きる彼の持病だ。喉の奥が詰まったようになり、頭の中真っ白になってどうしても何を話していいかわからない。
一同の話が途切れてふと静寂が落ちると、それは全員が自分に何か言葉を求めているように思って更に焦ってしまう。
この静寂はガガにとって永遠とも思える地獄だった。
ガガが人と話す事を最大の弱点とする理由の一つだ。
最初は物珍しげにガガに話し掛けていた彼女らも、彼があまり口を動かさないせいか(人と目を合わせようともしなかった)少しずつ興味は
仲間内の会話へと移っていった。
キナコとまりもんが女子大生で最近就職が決まった事、KORが金融業界で見聞きした話、ハヤトのフラレた話。
いつもチャットで話しているような事ばかりだったが、口はキーボードの上の指ほど動いてくれなかった。
時々みんな話し掛けてはくれたが、ガガにとってはそこにいる事すら苦痛だった。
長く感じた数時間が終わり、外は少しずつ闇が支配しつつあった。
暗くならないうちに帰る組と居酒屋に寄って二次会を開く組とに別れて、とりあえず今回はお開きとなったようだ。
テーブルには喰い散らかされた跡が残り、巨大なケーキはクリームをあちこちに残した中身を晒して、骨格やモニタとデジカメのユニット部分が
露出していた。
血液に鉛が混じったような精神的を疲労を堪え、ガガはミス・シンデレラを目で追って必死に話し掛けるチャンスを探す。
頼れるのは彼だけだ。そして今日を逃せば恐らくチャンスはない。
ミス・シンデレラは残った仲間達と何やら談笑しているようだった。
ガガはそれが終わるのをパーティルームの入り口で辛抱強く待つ。
一頻り飲みに街へ繰り出す仲間達と話し込んでいたミス・シンデレラは、彼らに紛れて一緒に出口へと向かってきた。
ガガは嫌な予感で胸が押し潰されそうだった。
そして伸ばしたガガの腕を希望がすり抜けてゆくように、ミス・シンデレラは彼に気づかずそのまま仲間達と去って行った。
一緒に街へ飲みに行ったのだろう。
彼の鼻先を通り過ぎて行った瞬間、何も言えなかった自分のふがいなさに鬱の感情が爆発しそうだった。
話し掛ければいいのだ。
しかしガガにはその話し掛けるという行動がどうしてもできない。
数人の仲間らと楽しげに談笑する彼は、恐ろしく遠い世界の住人のように思えた。絶対に自分には踏み込めない場所の人のように。
ガガはまた溜息をついた。
今日になって何度目の溜息だろう。