プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -
シスター・マリア
9.侵入作戦
その日からミッドナイトパンプキン総出での準備が行われ、情報収集や必要な物資の調達、打ち合わせなどに一同は睡眠時間を
削る日が続いた。
あのオシリス・クロニクル社にハッキングをかけようと言うのだから、メンバーは時には足を棒にし、時にはカフェインで休息を求めて
悲鳴を上げる脳に喝を入れ、そして未練がましく愚痴をこぼす社長に檄を飛ばしつつ目まぐるしくその数日間は過ぎて行く。
幸いミス・シンデレラは独自の情報網を築き上げており、他所に漏れないルートから信頼できるデータをごっそり手に入れてきた。
主に内容はオシリス・クロニクル社の防衛網を手がけた警備会社『ネメシス』のもので、これらと前回の辛酸を舐めさせられた経験から
社のメインデータバンク『イシス』に到達するまでの経路を割り出す。
ミッドナイトパンプキンが前回オシリス・クロニクル社の侵入に失敗したのは約一年前。
恐らく現在も大きな変更はしていないだろうが、それは今までに一度も何者をも侵入できなかった事も意味している。
「世紀の情報泥棒か、とんだ間抜けか」
事務室でパソコンをいじりながら、ミス・シンデレラは溜息交じりに言った。
「ま、どっちにしろ俺達とミッドナイトパンプキンの名はあと百年くらいは残るだろうな」
五日が過ぎ、その日ミッドナイトパンプキンの面々とホノカグヅチ、イコンはビルの大部屋に集合していた。
いつだったかオフ会をやったその部屋の奥に降りているスクリーンと向かい合う様にパイプ椅子と折畳式の長いテーブルが並べられ、
上にクルミの淹れたハーブティーが添えてある。
最後にやってきたホノカグヅチは一番後ろの扉に近い席に腰を降ろしつつ、そのお茶に一瞥をくれてから唇を舐めた。
「アンタんとこのお茶が飲めるだけでも今日は来た甲斐があったな」
「そいつはどうも」
スクリーンの前に立っていたミス・シンデレラが皮肉めいた笑みを浮かべてそう答える。
この数日、サイバーダイヴ能力を酷使してひどい頭痛がしていたガガは(パソコンやテレビゲームを何時間もぶっ通しでやり過ぎた時の
ように、ガンガンするような痛さだと本人は述懐する)、ホノカグヅチの右手の隅の方に座っていた。
ミッドナイトパンプキンのメンバーは皆ジョークが好きな気のいい連中で、ようやくガガも彼らと打ち解けつつあった。
向こうも仲間として自分を認めてくれているのを感じると、つくづく人の繋がりの有り難さを感じる。
ちなみに今回の仕事を含め、ガガのクドリャフカを助けるという目的の元にかかった経費はすべて彼がミッドナイトパンプキンに
入った後の給料から引かれているらしい。
ミス・シンデレラの忠告ではもう、半年はタダ働きという所まで来ているようだ。
室内の椅子が九割方埋まった所で会議室のブラインドが下ろされ、陽光が遮られて部屋に薄闇が落ちる。
視力が失われると変わって嗅覚が敏感になり、ガガが鼻をひくつかせると僅かに室内に染み込んだ煙草の臭いがした。
「では諸君。一年前、我々にとっては最も暑い夏となった日のデータと今回掻き集めた情報からオシリス・クロニクル社のメインデータ
バンク、『イシス』までの道程をご案内しよう」
ミス・シンデレラが重々しく言うと、正面に合図を送った。
ロッコと呼ばれているミッドナイトパンプキンの中では社長(ミス・シンデレラ)に続いて年上の男が、部屋の中央でスクリーンと向き直って
いる投影機のスイッチを入れる。
現れた映像はオシリス・クロニクル社内部のもので、廊下を行き交う人々が映し出されていた。
バッグか何かにつけられた小型の隠しカメラの映像のようだ、画面は不自然に大きく揺れている。
「こいつは一年前に『ネメシス』の連中の挑戦を受けた時撮ったヤツだ。
向こうはコトの後に俺達に侵入しようとした際に使った或いは手に入れた情報のすべてを引き渡すよう言ってきたが、そっちの…
そう、そこだ。我らがパフ君が『コピーを取ってしまっておいたのをうっかり彼らに渡し忘れて』いたので、こうして情報は残っている」
真っ暗でほとんどわからなかったが、ガガの目の前の席にいた少年が頭を掻いている。
パフはガガと同い年の痩せた少年で、美術系の学校に通っておりミッドナイトパンプキンのペイントやロゴはほとんど彼が手がけていた。
「では本題に入ろう。
まずオシリス・クロニクル社だが、40階建てのビルで五階から屋上までは吹き抜けになっている。
その吹き抜けの中に…そうだな、オシリス・クロニクル社の建物が『ちくわ』でイシスはその穴の中を通ってる棒みたいなモンだ。
恐ろしく巨大で、性能も並外れている。もちろん防御システムもな。
イシスに情報を送る事はオシリス・クロニクル社のどの端末からでもできるが、情報を引き出すとなると厄介だ。
まずイシスにアクセスできる人間は社のお偉いさん三名、あの社お抱えの科学者十名、技術者五名の合計18人のみ。
それ以外のいかなる人間をもイシスは受け付けない。
イシスの防衛網は『貞操帯』って呼ばれてる。
まず彼女にアクセスできるのは五階からだけだが、エレベーターを五階に止めるにはコントロールパネルにカードを差し込む必要がある。
もちろん専用のヤツで、例の18人しか持ってない。
五階に止まったらすぐにエントランスホールがあり、デカい扉がある。こいつを通過するには五指の指紋+掌紋・声紋・網膜のパターンと
エレベーターで使ったカードが必要で、おまけに指紋照合の時に汗からDNAの一部まで調べられる。
門が開いたらイシスの端末まで続く廊下があるんだが…この階層一つがほとんどイシスの健康管理をする為のマシンでな。
ピーピング・ビー
複雑で結構歩かされるんだが、廊下には常に50匹前後の『告げ口蜂』がうろついてる」
ピーピング・ビー
告げ口蜂とはその名の通り、大きさも姿も蜂そっくりの警備ロボットだ。
小型ながら高性能なカメラを搭載しており、彼らのほんの1gほどの頭脳に記憶されていない人間を発見した場合は警報が作動する。
「25匹は定められたルートを一日中常にぐるぐる回っているが、残りの約25匹はランダムで行動するようになっている。
これは誰にも予測がつかん。乱数に乱数をかけたようなモンだ。
そいつらを掻い潜ってイシスの端末まで辿りついたら、今度は彼女のしてくる20ほどの質問に答えにゃならん。
こいつはその本人が打ち込んだ100問の中からランダムに提出されるらしいな、家族や身辺状況に関係する問題で、それが終わったら
ようやく本人と認定されて情報を引き出す事が可能になる。
ああ、いい忘れたが五階の床はすべて圧力感知式で、体重が記録されてる18人の誰かと一致しなきゃダメだ」
「体重ぅ?」
メンバーの一人、スィスィが手を上げる。
恐ろしく派手な金と銀の半々に染めた長髪に黒革のグッズで身を固めている、ミッドナイトパンプキン唯一の女性と思いきや実は
ニューハーフで、最初はガガを驚かせたものだった。
「そんなもん一定しないじゃないスか」
「例の18人は一ヵ月ごとに体重を社で調べられて貞操帯の情報を更新する事になっている。
ソレとプラスマイナス何パーセント以上の誤差があると警報が作動するってワケだな…まったく、イカつい処女だなイシスってのは。
他に何か質問は?」
「諦めた方がいいんじゃない?」
イコンの皮肉った声に、彼は溜息交じりの苦笑を浮かべた。
「仰る通りなんだよ。こっちが質問したいね、どうやって侵入しろって言うんだ?」
また別の少年、ジゼの手が上がった。
見た目も性格もどう見ても夜の繁華街をうろついている不良くさいが、気の弱さはガガと良い勝負である。
「クローンを作る方法があるんじゃないスか? ホラ、中国であった竜額社の侵入事件で…」
竜額社侵入事件とは、関係者の髪の毛から作り出したクローンの眼球と手を使って警備システムを騙した有名な事件だ。
ミス・シンデレラは頭を振って答えた。
「それは使えん。クローンの密造はリスクが高いし、オシリス・クロニクル社の一部の科学者、まあ多分例の18人もそうだろうが、
全員右の眼球に刻印が入ってるんだ。こいつは本人を示すバーコードみたいなモンで後付けしたモンだ、網膜を検査する時に
一致するかどうかも調べられるワケ。
第一どうやって最後のイシスの質問を突破する?」
もう何も声は上がらなかった。
闇に落ちた圧迫感を放つ沈黙が、一同に息苦しさを与える。
「失礼。ちょっと良いスかね」
お茶を飲むのに忙しそうだったホノカグヅチが顔を上げると、沈黙を破ってちらりとガガに視線を送った。
「ガガ君はサイバーダイヴ能力者なんで?」
「そうだが…なんで知ってる?」
停止した投影機が投げかける明かりを受け、スクリーンに己の影を投げかけていたミス・シンデレラが不思議そうな顔をする。
そう言えば地下駐車場でスマイルマークに襲われていた時も奇妙な事を言っていたのも思い出した。
「いや、私らのボス…クシミナカタ様はちょっとしたそういう力の持ち主でしてね。
詳しんスよ、特に彼みたく強い電波を出してるヤツの事にゃあね…ああ、そんで。本筋に戻ると、だ」
特にその件には触れようとせずに、彼は垂れ眼がちな目を正面に戻した。
「俺らが入ろうとするからダメなワケであって、その18人のウチの誰かに言って必要なモンだけ持ってきてもらえァいいんじゃないすか」
「洗脳でもすんのか?」
「その方法もねえでもねえんスけどね。どうしても不確実になる…」
ミス・シンデレラは冗談のつもりで言った事を相手が大真面目に答えたので一瞬、言葉に詰まった。
ゴッドジャンキーズは入団者に洗脳をかける事で有名だ。
「そこで、だ。ちょっとした反則をやらせてもらおうと…」
イコンがこちらを咎めるように睨んでいたが、彼は構わずに続けた。
「ガガ君に『誰か』になってもらう。こいつが一番確実だ」
それから更に二日間、彼らが忙殺されている最中。
同じ頃に広大なネット空間の片隅で、仕事に打ち込んでいる女がいた。
飛び交う情報を眺め、或いは手に取って吟味しながら持っているキャンバスを筆により色彩で埋め尽くしてゆく。
きちんとセットされた真っ青な髪を掻き揚げる仕草も時折混ぜて、女は木製の椅子に腰を降ろしていた。
喫茶店にあるような雰囲気のテーブルには紅茶が置かれ、湯気を上げている。
その香りを楽しみながら、彼女は休日を過ごすかのようにのんびりと絵を描き続けていた。
絵の内容は法廷のようだった。
判事、裁判官、原告、弁護士。ちぐはぐな情報を頼りに描いたのか、妙に欠けている部分が多い。
そして被告人の席に立っているのは、ガガだった。
俯きがちなせいか、長い前髪にほとんど表情が隠れてしまっている。
「も〜う誰にも…っ」
描き上げた絵にサインを入れると、シスター・ヴェノムはいつもの誰かを見下したような笑みを満足げに浮かべた。
「止められなーい!」
街は夜になると、昼とは違う顔を見せる。
ミス・シンデレラのビルの屋上からはその様がはっきりと見て取れた。
夕方から夜に移り変わる時間、迫り来る夕闇を迎えるかのように街には明かりが灯る。
貯水タンクの上でガガが目を閉じると、身を切るような冷たい空気に混ざって色々な香りが鼻腔を刺激した。
排気ガスに飲まれることなく色濃く混ざっているのはカレールウの香りだ。近所で夕食に作っているのだろう。
やや遠くに見えるマンションに目を凝らすと、小学生や背広姿の人たちが自宅の戸を開いているのが微かに見えた。
夕焼けのオレンジ色が瞬く間に夕闇に塗り潰されてゆき、そして街に夜が訪れる。
あの小さな明かりの一つ一つに人がいて、その暮らしがあって、人生がある。
世界はこんなに広くて街には明かりが満ち、みんなそれぞれの家へ帰ってゆく。
ガガはその光景を高い場所から見下ろすのが好きだった。
上空で踊り狂う風は彼の羽織ったダウンジャケットを忙しなくはためかせ、前髪を流してその視界を遮る。
前髪から覗くガガの双眸は物憂げに細まっているようだった。
仕事は大半が終わり、残すは明日の実行のみとなっていた。相変わらずサイバーダイヴ能力の使い過ぎの頭痛は治まっていない。
頭痛を無視して脳内でダイバーフォンを起動させると、あるメールアドレスを打ち込んで本文に移る。
クドリャフカのアドレスだ。
深呼吸を繰り返して気分を落ち着かせると、声が詰まらないように咳払いをしてから言葉を口にして入力を開始した。
ガガはクドリャフカの事を知り過ぎたような気がしていた。
彼女は自分では想像もつかないような悲壮な経験をして生きてきたのだ。
どう慰めていいかわからないし、それに触れてもいけないような気もする。
だけど黙っている事がどうしてもできなかったのだ。
「あ…あの、またメールします。
…何か…ちょっとだけ、君の事を知っちゃって…えーと…」
これじゃまるでネットで知り合った相手に付きまとうサイバーストーカーだ。そう思って慌てて取り繕うがどうにもならず、諦めて取り消すと
最初からやり直す事にした。
今度は詰まらずにうまく言えた。
「こんばんわ。今、夜景を見てます。
クドリャフカさんが前言ってた事を思い出してました。
『夜の街は物凄く広くて明かりがたくさんあって、その一つ一つに人がいてみんなそこに帰っていく。
もしも貴方に帰る場所が…その明かりの中にないとしたら、こう考えて』」
赤くなった鼻を擦ると、ガガは夜景に視線を移した。
「『あの明かりのどれかに、自分の大好きなあの人がいるって。そう考えるとちょっと嬉しくならない?』ってやつ。
…僕は自分ん家にいても、いつもどこかに帰りたかった。何か…その…本当に『ただいま』って言える場所がなかった。
でも…この明かりのどこか一つに君がいるのなら…」
このままメールを送るかどうかまた迷ったが、最後に締め括ってガガは送信を実行した。
「シスター・マリアの再開を楽しみにしています。じゃあ、また…」
その日、いつもより早く目が覚めたガガは着替えた後に洗面所に向かっていた。
何時の間にかビルの構造にも慣れ、彼と同じくこの建物に寝泊りしているメンバー達と朝の挨拶を交わす。
ミッドナイトパンプキンのメンバーは一応全員自宅を持ってはいるが、仕事の都合や遊びなどで不定期にこのビルに宿泊していた。
ちなみにクルミの部屋がある最上階の階層だけは、夜中は階段・エレベーター共に電子ロックが降りて厳重に保護されている(これは
妹の身を案じてミス・シンデレラがつけたものらしい)。
食事も掃除も基本的に当番制で(給料を出せばクルミも手伝ってくれた)、色々問題はあるが共同生活はガガにとって楽しいものだった。
冷たい水で念入りに顔を洗うと、自然と気が引き締まってくる。
しかしそれと同時に不安で押し潰されそうな胸の鼓動が急速に速まってもくるのだった。
やや古く汚れや傷の目立つ鏡の中に、ミス・シンデレラがぬっと姿を現した。
いつもの渦巻き模様のパジャマの上にガウンを羽織っており、ボサボサに乱れた髪の頭を掻きながらガガの隣に並ぶ。
「あーおはよう」
「うん。おはよ」
彼に場所を譲って洗面台から退いたガガと挨拶を交わすと、うがいで喉を洗い流してからミス・シンデレラは鏡の中のガガを
覗き込んだ。
「いよいよだな」
何も言わずに頷く相手を見届けた後に、顔を洗おうと蛇口を捻ってほとばしる水柱を両手で受ける。
「クドリャフカか…君にとってどんな女なんだ?」
突然の質問に顔を拭いていたガガは答えに詰まった。
しばしの考えを要する質問だった。
「顔を合わせたこたないんだから恋人ってワケでもないだろうし、まあさしずめ君のアイドルってとこか?」
「…ちょっと違うかな」
「ほう」
顔を洗い終えると、ミス・シンデレラはシェービングクリームを顎に吹き付け始めた。
その背を眺めていたガガの視線がふと伏せられる。
「聖母、、、かな」
シスター・マリア
「 聖 母 と来たか」
手にした髭剃りで顎をなぞるミス・シンデレラは、何故か鏡越しに見える彼の態度に楽しげだった。
「いいね、聖母を助けに行く男! おとぎ話のように実にロマンチックじゃあないか」
万端の用意を持して計画は発動した。
ガガ、ミス・シンデレラ、パフはスィスィの運転するワゴン車(レンタル)に乗ってオシリス・クロニクル社へ。
残りのメンバーはホノカグヅチが用意してくれた、ゴッドジャンキーズのアジトのコントロールルームへ向かった。
車内で念を押してミス・シンデレラが一通り作戦の流れを説明する。
レンタルカーは思ったより汚れており、やや潔癖症のあるスィスィはその内装に不満げなようだった。
「ってなワケでそういう流れで行くんだがな、それにしてもお前ら!」
説明を切り上げるとミス・シンデレラは後部座席から前の二人に声を荒げた。
「大人しめの格好して来いって言っただろうが!」
「大人しいじゃないすか」
助手席から振り返ったパフは緑色に染めた髪の毛をすべて逆立てており、耳といい鼻といい安全ピンやピアスが余すところなく
ジャラジャラと下がっている。
彼はこれをパンクルックと言い張るが、ミス・シンデレラは絶対に違うといつも口論をしていた。
「大人しいじゃんよ」
まるで遠足にでも向かっているかのような呑気な声を上げ、ハンドルを握ったままのスィスィがバックミラーに目をやる。
かなりのハスキーボイスと思えばまあ、彼女(と、しておく)の声は女性と思えない事もない。
こちらはいつもの黒革のジャンパー・パンツの上下、彼女自慢の金髪はバンダナでまとめられており、髪飾りで結えた一房の
銀髪だけがそこからこぼれて顔にかかっていた。
二人にしてみればいつもよりも抑えたつもりなのだろうが、ミス・シンデレラの隣に腰を降ろしていたガガには同じに見える。
「社長がそゆこと言っても説得力ないワケよ」
「ないっす」
ミス・シンデレラは一応背広にロングコートという、かなり無理をすれば会社員に見えなくもない格好だ。
ガガは白いダウンジャケットに白黒のカットソー、ジーパンといつものスタイルである。
「やかましい。パフ、せめてピアスは外しとけ」
「『下半身』のヤツは全部外して来たッスけど」
「お前がナニにつけてるソレの事じゃない、顔のヤツだ!」
大丈夫なのかなあ。
一人黙りこくっていたガガの胸に走った一抹の不安を、誰が知っただろう。
オシリス・クロニクル社の近郊で車を止めると、一同は目的の人物の登場を待った。
ガガが数日前のホノカグヅチの言葉を思い出す。
「ガガ君に『誰か』になってもらう。こいつが一番確実だ」
「どういう事だ?」
眉間に縦皺を寄せたミス・シンデレラに、彼は不得意な説明で大体こんな意味のような事を言った。
サイバーダイヴ能力者は他人の精神を乗っ取って、脳にデバイスを持つ人間の体をジャックできると言うのだ。
ただし能力者自身がその相手の人間性にかなり左右される上に、10分以上ジャックを続けるとお互いの精神が融合して元に
戻れなくなるばかりか二人とも心が崩壊してしまうらしい。
「ま、確かにこいつァ諸刃の剣ってヤツでかなり危険だ。
だけどこれほど堂々と情報だけ盗める方法もねえぜ…なんつったって誰にも怪しまれねえからな。
サイバーダイヴ能力はまだ一般に認知されてねえし」
「ガガ」
ちらりとこちらを見たミス・シンデレラに対し、ガガは返事に詰まった。
心が崩壊するという事は廃人と化すという事だ。
しかし他に方法があるのだろうか? 少なくともイシスの貞操帯は普通にやって破れるものではない。
気が付けば部屋中の視線がこちらに集中している中、ガガはゆっくりと頷いたのだった。
「来た」
双眼鏡を覗き込んでいたミス・シンデレラの言葉に、他の三人が外に視線を注ぐ。
出勤する社員たちが忙しなく交差する朝の街の中、目的のその人物はいた。
ホノカグヅチによればなるべくガガの精神と相性の良い人物を選ばなければ、ジャックしていられる時間に余裕がなくなるらしい。
その結果選ばれたのがあの一人だ。
イシスにアクセスできる十人の科学者の内には三人、『三博士』と呼ばれている天才が含まれている。
彼らは社内でも屈指の力の持ち主でかなりのワガママが通じるらしい。
まずハンス・パンハイマ博士だ。15歳の時に成長を止めてしまったが現在は37歳、西洋人なのでこれは除外。
日本人でない以上ガガとは基本的な言語が合わないので、精神面でも色々なところで問題が起こる。
次がネク・ホワリー博士、こちらは脳にデバイスがないのでやはり除外。
残りが最後の一人、今スィスィが手にしている資料に記載されている女性だ。
「草園陽子、27歳。三博士の一人で様々な博士号を持ち、医師免許もあり。専門は神経系統、ドールズの開発も行った。
ダイバーフォンの手術経験有り、男好きで夜遊びが趣味の不良博士。
男性のタイプはアル・パチーノ、お気に入りは『セントオブウーマン 夢の香り』のフランク中佐。
付き合ってる男性は今はなしのフリー(未確認)…」
車内に緊張が高まる中、資料を読み上げるスィスィの呑気な声だけが響くが、誰も聞いていないようだ。
ガガが窓際のミス・シンデレラ越しに捕えたのは、信号待ちで交差点の前に立っているその本人だった。
立ち込める朝霧の中にまるで幽玄のように佇んでおり、艶やかな黒髪をポニーテールにしている大人の魅力の漂う美女で、遠目にも
わかるナチョラルな色香の持ち主だ。
眠たげな顔で煙草を口にしていて、表情には朝の気だるさが満ちている。
「あれ…社長。彼女、資料だと車持ってるらしいけど」
スィスィの手元を覗き込んでいたパフの質問に、ミス・シンデレラは目標から目を離さないまま答える。
「ああ。昨日ロッコに頼んでパンクさせといた」
「ひでェ」
「後で修理屋のサービス券を送っとくさ。スィスィ、出してくれ」
彼女の確認を終え、いよいよ一同は作戦に出るべく行動を開始した。
草園陽子は胃の底からこみ上げてくる不快感に耐えていた。
アルコールに対する強さは自分では中程度だと思っているが、どうも自分は洋酒のアルコールに弱いらしい。
彼女はさる好きな映画に出てくる酒『ジャック・ダニエル』をたまに飲むのだが、翌日には決まってこういう目に会う。
胃薬を三種類ほどミックスして飲んでいたがいまだに効いてくる気配はなく、陽子は額に浮いた変な汗を手で拭った。
ロクな日じゃなかった。
せっかくの土曜日なのに二日酔いは最悪だし、車はパンクしているし、会社に行けば今日中には絶対に終わらないであろう仕事が
山積みになっている。
どっかの男前が突然私をさらってくれないかしらと半ば現実逃避に陥りながら煙草を咥え直すと、信号を確認して道路を渡る。
この界隈には大きな会社がそびえ、その下の合間を縫って走る道路の車の流れも24時間途切れる事はない。
彼女は研究に没頭するのは好きだが、毎日同じ風景の同じ道を通って同じ場所に通うというのは学生時代から苦手なままだった。
同じ光景ばかり毎日見ていると、何だか自分が工場のコンベアの上を流れる部品のようでこっちの思考まで停止してきそうだ。
よって彼女は学生時代からいつも通学・通勤の道路で『誰か私をさらいに来ないかしら?』などと考えるのである。
近道をしようと大通りから反れた脇道に入ると、すぐそこまで迫ったオシリス・クロニクル社の巨大な姿が目に入った。
この道は比較的小さなビルが並ぶ場所で、それらの社員を相手にする飲み屋などもちらほら見られる。
ここもさっきまで通っていた道と同じく、無機質なコンクリートと同じくらい生気のない顔色をしたサラリーマン達で溢れていた。
一様に朝から疲れたような顔をしているその連中を見ると、『やれやれ』という気分になってくる。
久々の通勤ラッシュに揉まれてきたせいか、やや遅れているようだ。手首のロレックスにちらりと目をやると、ハイヒールを
響かせながら早足になる。
「草園博士」
ビルとビルの継ぎ目の、路地の入り口の前を通り過ぎた時だった。
そこから急に名を呼ばれ、数歩後退するとその暗がりの中を覗き込む。
「?」
「やっぱりそうだ」
朝の寒冷な空気が闇を研ぎ澄ませるその奥で、長身の男がにこやかに笑いながら手を振っていた。
影にほとんどその身を飲まれてはいるが、長いストレートの金髪が身にまとっている背広の肩にこぼれているのがわかる。
眉根を寄せて困ったような笑顔をしながら、陽子は必死に記憶を巡らせた。
「えーと…どこのどなた様?」
お 宅
「俺ですよホラ、一年前の夏に『ネメシス』の挑戦を受けてオシリス・クロニクル社の防衛網に挑んだ、ミッドナイトパンプキンの…」
ピーンと陽子の脳裏に一人の青年の姿がよぎる。
髪が伸びたせいで印象が変わっているが、確かに記憶の片隅に残っている顔と一致した。
かんなさき
「あぁ、あのリーダーの…神無崎くん、だっけ? イイ男だったから憶えてるわあ」
「そいつァどーも。今からご出勤で…どわぁ!?」
路地から出て来ようとしたミス・シンデレラが、足元にあったダンボール箱に足を引っ掛けて派手に転倒する。
一瞬呆気に取られていたが、爆笑しそうになるのを必死に堪えて陽子は彼に駆け寄った。
「なーにやってんのさ。大丈夫?」
地面に手持ちのアタッシュケースを置いて屈み込むと、陽子はミス・シンデレラに手を差し出した。
その細い手を借りて立ち上がるような素振りを見せたミス・シンデレラが、済まなそうな顔で口にする。
「本当にすいません。今度奢りますから」
「えー? いいよ、別に…それより私をさらってくんないかなあ」
相手の言葉に笑って見せた陽子は、当然ながらミス・シンデレラの謝罪の意味を勘違いした。
「そのつもりです」
陽子と繋がったミス・シンデレラの右手を覆っている黒い手袋には、各所に小さな金属球が埋め込まれている。
彼が少し握る力を込めた瞬間、その金属球がスタンガンのように青白い電撃を放って陽子の肢体を駆け抜けた。
スタングローブと呼ばれる手袋型の特殊なスタンガンで、このような騙まし討ちの際に役立つ代物だ。
力を失いぐったりと倒れ込みそうになった彼女の体を慌てて支えると、ミス・シンデレラはすぐに路地の奥へと走り出した。
予想以上に彼女の体は重く、すまないと思いつつも荷物のように肩に担いで狭い路地を進む。
路地の出口に止めてある車に陽子を押し込むと、通行人に怪しまれないうちにすぐにドアを閉めて車を出させる。
「パフ、中を調べろ」
彼女のアタッシュケースを助手席の少年に押し付けると、ミス・シンデレラは自分の膝の上に乗せた美女のうなじのあたりを
まさぐり始めた。
こめかみにないのを見ると、彼女はうなじに接続端子を設けていると確信していたからだ。
「調べろって何をさ?」
陽子のポケットからアタッシュケースのキーを取り出し、それも眉を顰めるパフも渡す。
「社員カードとイシスにアクセスするのに必要なカードだ。指紋を残すな」
「っていうか彼女の体を調べる役を俺に譲ってくんない?」
「要求は却下する」
やがてミス・シンデレラは彼女のうなじに這わせていた指から、人間の皮膚ならぬ感触を感じた。
そこからコードと繋がっているダイバーフォンの接続端子を摘んで引っ張り出すと、隣の席で固まっていたガガに差し出す。
「限界は10分だ。忘れるなよ」
目の前で展開している、彼らが人を一人さらって来たという現状に興奮を隠し切れなかったガガが慌てて頷いた。
こめかみからダイバーフォンの接続端子を取り出し、ミス・シンデレラの手の中のものと接続する。
これからこの見知らぬ美女の体に入ると言うのは、彼にとって別の妙な興奮だった。