プワゾンドールズ
- ディスティニィ・チャイルド -






プリンセス オブ エストラ

2.エストラ王国のシェラハ





  もう少女に話しかけるのも飽きた頃、シュマリはたらふく酒と魚を詰め込んですっかり眠くなっていた。

 自分の体が酒樽になってしまったような気分だった。

 実際久し振りの酒に舌が溶け、もう一杯、もう一杯だけと言いながら結局一樽のほとんどを呑んでしまったのだ。

 真っ赤になった顔 ―― と言っても真っ白な毛皮で全然わからないけれど ―― に、冷たい夜風が気持ち良い。

 ほろ酔い気分で空を見上げたシュマリは道理で、と頷いた。天空には暗雲の蓋がなされ、恥ずかしがりやの月は顔を隠している。

 「雨が来るな、こりゃあ」

 黒くて湿った鼻を鳴らして彼は呟いた。

 膝の上に撒き散らした焼き魚の欠片を丁寧に払うと、立ち上がって思い切り伸びをする。

 普通の人間なら三日分くらいに値する量の魚だったが、シュマリはあっという間に巨体の中に収めてしまった。

  立ち込めた暗雲は海と空との境界線を不気味な闇のラインに変えており、穏やかな波もざわめき始めている。

 普通の人間なら何となく不安を掻き立てられるような光景だが、生憎と彼はそんなに繊細なハートは持っていない。

 ただ何となくそれを眺めながら『んあ』と呟いただけである。

 甲板で居眠りをしていて海に落ちた経験は数知れないので、おっくうだが鎌倉の入り口へと足を向ける。

 再びここで腰を下ろしたらもう、根っこが生えたみたいに眠気で動けなくなるに決まっている。

 のそのそと歩いている途中、彼は鎌倉の前で小さくなって震えているものの存在に気付き、そして思い出した。

 シュマリは最初、マントのフードをすっぽり被った少女が本当に濡れ鼠みたいに震えているので、泣いているのかと思った。

 しかしガチガチという歯の根が合わなくなっている音から察するにそうではないらしい。

 彼女が寒さで震えている、と気付いたのにはややあってからだった。

 彼の故郷ではこの気温ならば初夏くらい、長く容赦無い厳冬の間、死に絶えていたように静かな大地が明るく暖かくなる頃だ。

 ほんの半月だけだが木々は実をつけ、花が大地の化粧をする、シュマリの大好きな季節だった。

  一応焼き魚を何尾が与えてあるが、それらは手付かずのまま彼女の目の前に置かれていた。

 先ほどまで魚を焼くのに火を起こしていたのに、それに近寄って体を温める素振りも見せなかった。

 自分を恐れているのには間違いない。声をかけるのにはやや迷った。だから、

 「おう、入れや」

 と言う声が出たのは少し間があってからの事だった。

 少女は顔を上げたが想像通りやはり何も答えない。それはもう、うんざりするくらい繰り返した反応だった。

 のしのしと足音を立てて彼女に歩み寄ると、彼女は見る見る青ざめて蛇に追い詰められた蛙みたいに鎌倉の壁に貼り付く。

 「食ったりしねえって、お前みたいに痩せた奴なんざ」

 言葉の後半、うっかり本音が出た。

 慌てて口を紡ぐがどうせ通じちゃいない、と気付き、彼は彼女に手を伸ばした。

 そっと指先を伸ばす、などと言う洒落た動作ではない。荒波からアザラシを弾き出さんばかりのぶっきらぼうな出し方だった。

 彼女は益々壁に身を寄せた。いっそこの平らな壁と一体化したいとばかりに。

 ここまでされると流石にシュマリも次の手が思いつかなくなった。無理矢理引っ張り込んだら舌を噛んで自殺しそうだ。

 二人はその姿勢のまま石像みたいに硬直する。

  そんな時、シュマリの鼻先をぽつりと冷たい雫が打った。

 無意識のうちにそれを舌で舐め取ると、まあ多分それが舌なめずりのように見えたからだろうけれど、少女はいよいよ自分が

 あの焼き魚と同じ運命を辿るのだと悟ったらしい。

 絶望に腰を引っこ抜かれたのか、貼り付いていた壁を滑り落ちてぺたんとその場に座り込んでしまった。

 一方、シュマリは上空に視線を持ち上げて風の匂いに鼻を鳴らしていた。

 「こりゃ雷様が来るかもな」

 一応、脅しとして少女に言ったつもりだった。

 嫌になるくらい何も反応が無かったのでもう構ってられず、その硬直した体をマントごと拾い上げて鎌倉に入った。

 暴れなかったのは自分の運命を受け入れた証拠だろう。勿論シュマリは彼女をどうにかするつもりはない。

 最も、彼女がころころと美味しそうに太っていたとしたら、その時はわからなかったけれど。



  鎌倉の中は予想以上に広く、快適な作りとなっている。

 船底も入れれば普通の一軒家くらいの広さはあるし、扉も窓も全部閉じて閂を下ろせば台風が直撃したって水が漏って来たり

 しない。

 入ってすぐの部屋はトナカイの毛皮のカーペットが敷かれた部屋で、雑多なものが適当に置いてある。

 ここが居間やら作業室やら寝室やらを兼ねており、開閉式の煙突のついた暖炉もある。

 壁には灰色杖と釣り竿がかかっていて村の魔術師に貰った地図なんかも張ってあった。

  ムグミカ族はテーブルや椅子といったものを使わず、大抵は床に直接座って食事やら話やらをする。

 だから自宅に客人を招いた時は自分の座布団がいかに上等か? という事こそが彼らにとっては自慢の種だ。

 まあ人間が『良い木を使った椅子ですね』『わかりますか、この椅子はちょっとしたものでしてね。実はどこどこの山にしか生えない

 木から特別に作らせた…』という具合に会話するのと近いかも知れない。

 シュマリのものは村一番の織物師(と言うか村には一人しか織物師がいないのだが)が編んでくれた毛糸のもので、ふんだんに

 使われた色彩の中に彼がたった一人で大海蛇を仕留めた際の事が勇猛かつ繊細に描かれている。

 彼にとっては灰色杖と並ぶ宝物だったので、他人に使わせるのはちょっと癪だった。

 迷ったけれど結局は部屋の中央に無造作に敷いてあったそれの上に彼女の体を放り込む。

 彼の動作のどれにも言える事だが、少々手加減というものが出来ていない。増してや始めて会った人間という脆い存在が

 相手なのだから尚更だ。

 腰を打ってしばし悶絶する彼女に踵を返すと、鎧を外して自身は絨毯の上に直接腰を下ろす。

  落した窓の戸ごしに徐々に勢いを増して荒れ狂う雨と風の声が聞こえてくる。

 時々大気を切り裂く稲妻も狼の遠吠えみたいに聞こえてきた。

 風雨ががたがたと船を揺さぶるが、勿論この程度で沈むような木っ端船ではない。

 少なくともシュマリはそう思っていたので、ごろんと横になるととっとと眠る事にした。

 薄く開いた瞼の向こうでは自分の膝を抱いた少女が座布団の上で小さくなっている。その膝が細かく震えている事に気付き、

 シュマリは頭を掻いた。

 それはまあ、外に比べればこの部屋はずっと温かいし、雨も風も入って来ない。

 しかし人間という生き物はよっぽどヤワにできているらしい。

 暖炉に炎を入れようと思ったが、乾いている分の焚き木はすべて焼き魚を作るのに使ってしまっている。

 しばらく彼は意識を奪おうと頭の中に安らぎの雲を広げる睡魔と戦っていた。

 このまま眠りに落ちてしまえば、冷気で衰弱して行く彼女の哀れな姿は見ずに済む。

 最も明日の朝、更に悲惨な凍死体になっているかも知れないけれど。

 「しょうがねえなあ」

 溜息交じりに漏らすと、シュマリは酒気の残る重たい体に鞭打って立ち上がる。

 流石に少女も疲れ果てていたのか、寒さに縮こまりながらもこちらに気付く気配はない。

 うつらううつらと船を漕ぐ動作を見せている彼女を起こさぬよう、彼は忍び足を最大限に活かしてゆっくりとその小さな背中に

 回り込む。



   少女は骨まで染み込んできそうな冷気に、全身を纏う僅かな肉から見る見る熱が奪われて行く感覚に襲われていた。

 そいつらは彼女の故郷の砂漠を根城にしていた砂賊どものように抜かりがなく、奪えるものは何でも奪わねば気が済まぬ

 たぎるような欲望を持っていた。

 体温は紙を剥ぎ取るみたいに下がってゆく。

 あの白くて大きな怪物に服を引っ剥がされていた彼女はもう、あいつのマントしか身につけていなかった。

 空腹と寒さで痺れる頭の中で、忙しい両親が一緒に寝てくれた夜を思い出す。

 氷点下を割る砂漠の夜でも親の温もりほど心地良く、安心できるものはなかった。

 綿みたいに真っ白な息を吐き出しながらも、少女は意識が遠退くのを感じていた。

 手足の指先の感覚はとっくに外気に食われ、震えが止まらない体でも疲労が圧し掛かっていることには違いない。

 だが少女は唇を噛んで必死に自分の意識を肉体に繋ぎ止めた。

 あの怪物は寝たふりをしているんだ。私が眠ったらここぞとばかりに食らいついてくるに決まってる。

 長い船旅のせいで痩せ細ったこの体でも魚を食い飽きたあいつにとってはきっとご馳走だ。

 私が『すうっ』って寝息を立てた時、あいつは背後に回って私の首筋に噛み付いてる。

 それともこのまま寝かせて凍死させるのかな。そのまま保存食になるもの。

 寒さで歯を鳴らす合間に少女はそう自分に言い聞かせ、必死に襲い来る睡魔の撃退を試みた。

  それでも無意識のうちに瞼が下りていたらしい。

 視界が上下から狭まってきている事にも気付かず、首の振りは段々大きくなってきた。

 彼女は背中に熱を持った柔らかい感触が覆い被さってくるのを感じていた。

 夢だと思った。それとも嵐の夜を白熊と流氷の船でさ迷う、そちらの方が夢なのだろうか。

 柔らかい感触がすっかり自分の全身を包むと、少女は自分のうなじに当たる吐息に気付いて何とか顔を持ち上げた。

 それが最初は何なのかわからなかった。今まである程度距離を取っていたものが突然目の前にあったので、視覚が恐慌を

 来したのかも知れない。

 少女は自分が身動きできない事を知った。もはや感覚の痺れた四肢は巨大な一つの枷みたいなものに捕われている。

 悲鳴が出なかったのは喉が乾いていたのと、寒すぎたせいと、それと怪物が自分に背中から抱き着いていたせいだ。

 暴れる気力さえ奮い出せない。安息があるのならば、それがもうあいつの腹の中でも構わないと思った。

 少女は神の名を心の中で叫ぶと、唇を噛んで自らに牙が穿たれる瞬間を待った。

 身を引き裂くような苦痛が寒さで感覚の薄れた肉に生じてくれる事だけが救いだった。

 きっと痛みを感じる暇もないだろう。

 しばらくそんな時間が続く。外では相も変わらず嵐が餓えた獣のように吠えている。

  じんわりと暖かい熊の毛皮は少しずつ少女の体に熱を取り戻させた。

 それと同時に、彼女は心にできた大きな不安と絶望の氷の塊もが溶けて流れ出して行く事を感じていた。

 髪を揺らしてそっと上を見上げると、熊もこちらも見下ろしていた。

 彼女は見た。確かに見た、彼が大きな黒い目を細めて笑ったのを。

 もう何が何だかわからなかった。長い苦しい旅のせいで何もかもに疲弊し切っていた少女の心は、彼に抱き着いて

 泣けと命じた。

 それに妄信的に従う事しかできなかった彼女は、彼の毛皮にしがみ付くと、小さな子供みたいに泣き喚く。

 少女は確かにそこに親の体温と同じ熱を感じていた。







  海上に朝が来る。
 カーペット・シー
 絨毯海の大海原にも朝日は惜しみなく光の恩寵を分け与え、砕けた波の欠片がそれを受けて輝いている。

 昨日の嵐を無かった事にしようとしているかのごとく、今日も嫌になる程果てしなく続く空と海の狭間を、カモメが沢山

 飛んでいた。

 猫みたいな鳴き声を上げながら、彼らは住処としている流氷の上で見なれない人影が動いている事に先ほどから

 注意を払っていた。

 見慣れた白いでかいやつに比べると申し訳無くなるくらい小さく、何だか全体的に色が黒っぽい。

 甲板で服を並べたり畳んだりしていたようだが、しばらくしてからそれを身につけて彼女は鎌倉の中へと入って行った。



  鎌倉の中ではその、白いでかいやつが惰眠を貪っていた。

 船乗りの朝は早いのが常識だが、前夜に幾分ラム酒を呑み過ぎたらしいシュマリは、もう少し、もう少しだけと誰に言って

 いるのか不明なままの弁解をむにゃむにゃと口にしながら、敷物の上に横になっている。

 その眼がぱちりと開いた。

 しばらく真っ白な天井をきょろきょろと眺めていたが、やがて胸元を掻きむしりながらむくりと巨体が起き上がる。

 シュマリはその掻きむしっている胸と腕の中が空っぽなことにようやく気付いた。

 思い余って海に飛び込んだりしてなきゃいいだがな、などと縁起でもない事を考えながら鎧を着けると、彼は鎌倉の扉を

 開いて外に出た。

 しばし、いっぱいに満ち溢れた朝日に眼を射抜かれて視力を失う。

 白銀の閃光に包まれたその中にはやがて一つの輪郭が現れ、柔らかい曲線を辿って人型となった。

 彼女が昨日までとは打って変わって頑なな表情を溶かし、柔らかく微笑んでいた為、シュマリはそれが誰だかわかるのに

 やや時間がかかった。

 「おはようございます」

 「んあ」

 向こうから声をかけられたので、驚いたシュマリは挨拶を返すことも忘れて唸った。

 軽く下げた頭を戻すと少女は潮風に持って行かれそうになる髪を押さえ、自分の身につけた服を視線で指す。

 「貴方が寝ている間に乾きました」

 「ああ。そうだか」

 呆けたような返事を返すシュマリに、彼女はくすりと笑いを零した。

 「まー、ともあれ良かっただな」

 大あくびをしてそう呟いてから社の前まで行くと、彼は先祖の英霊に朝の挨拶を済ませた。



 「申し遅れましたが私、エストラ王国のシェラハと申します。

 危ないところを助けて頂いて有難う御座いました」

 洗練された優雅な物腰で自己紹介を済ませた彼女に、シュマリは三度目の自己紹介をしようとした。

 「俺ァ、ムグミカ族のシュマリってんだ。二つ名があって…」

 「『灰色杖の…』でしょう?」

 彼女は悪戯っぽく笑って彼の言葉を遮る。

 船の進路がずれていない事を確認したシュマリは釣り糸を垂らしながら驚いた口調になる。
  あん
 「何だぁ、最初っから言葉ァ通じてたのか?」

 「ええ。実を言うと」

 「じゃ、何で黙ってただ?」

 シェラハは苦笑を作った。

 「その…怖くて。貴方が」

 「取って食うように見えたか?」

 苦笑のまま彼女は頷く。シュマリは複雑そうな顔をした。

 「ごめんなさい。私を助けてくれた時に気付くべきでした…ご無礼をお許し下さい。

 貴方を侮辱してしまった」

 「あー。俺ァ過ぎた事ァ考えねえし悩みもしねえ。

 村にゃあ『心と胃袋がでかいやつがいい戦士』っつう言葉がある」

 自分に背を向けて竿を上下する彼の言葉に思わず吹き出しながら、シェラハは彼の隣に腰を下ろした。

 こちらを見上げるその瞳に興味の光が宿ったことに鈍いシュマリは気付かない。

 「貴方の村はどこにあるんです?」

 「『雪と氷の大地』だ」

 「それってどこにあるんですか?」

 「こっからずーーーーーっと北に行くとあるだよ」

 シュマリの太い指が指した方向を見て、シェラハの眉根が寄る。

 「もしかして『地の最果て』から?」
       めぇ
 「何だ、お前らそんな風に呼んでんのかァ? まあそこじゃねえか」

 「ね、ね、雪ってどんなのなんですか?」

 好奇心に突き動かされて自分の腕にしがみ付く彼女を見下ろし、今度はシュマリが眉根を寄せた。

 「どんなのって…お前、白くて柔らかくて冷てえだよ。シェラハの国じゃ降んねえのか」

 「私はおとぎ話の中でしか聞いた事がないんです。

 北の国へ行った提督からも聞いた事がありますけれど…」

 「提督? 何だそりゃ?」

 返ってきた言葉に彼女は明かに動揺した様子だった。

 自らの滑った口を人差し指で軽く撫でて鞭を入れると、視線を宙に泳がせながら取り繕う。

 「えー…えーと、ふ、船乗りです。その、知り合いの!」

 「そうか」

 あっさり納得し過ぎるシュマリに少し驚くが、内心ほっと胸を撫で下ろす。

 このあたりにはなるべく触れて欲しくない部分があるのだ。

 船の甲板に掌を押し当てながらふと、彼女は新たな疑問を口にした。

 「この船は氷からできているのでしょう? なのにちっとも冷たくない。

 それにいくら寒くても、この海では溶けてしまいそうなのに…」

 「あー。こいつァな、ただの氷で出来てんじゃあねえだよ」

 少しだけ彼の鼻息が高鳴り、大きな胸がぐいと反る。

 彼が得意になっているのだとシェラハは気付いた。

 「雪山に住んでる女神様から族長の先祖が頂いた船だ。ほんとはもっとでかかったけんど、なにぶん古くてなあ。

 使えねえ部分を切り落としてったらこんだけ残ったってワケだ。

 俺が旅に出るっつったら族長が貸してくれただよ」

 「神が遣わされた船なのですね。凄いわ!」

 改めてシェラハが感嘆を漏らしてから船をまじまじと見据える動作に、シュマリの胸は益々仰け反った。

 「どういう仕組みで前に進んでいるんですか? 帆も無いみたいだけれど…」

 「眼に見えてねえだけだ。ちゃーんと魔法の帆があって風を受けてんだ」

 「操作はどうやるんですか?」

 竿を上げて餌を付け直しながら彼は背後を親指で示した。

 「そこに社があるだろ、ドクロが乗っかってるやつだ。

 それに頼めば俺のご先祖の英霊さまが船を動かして下さるだよ」

 「英霊…?」

 「何でも聞いてくるやっちゃなあ、昨日までの無口っぷりァどうしたぁ?」

 呆れて笑うシュマリに彼女は少しだけ頬を朱色に染めた。



  そんな訳でシュマリとようやく笑顔を取り戻したシェラハの、奇妙な組み合わせの旅は始まった。

 大きな手のおかげで細かい仕事が苦手だったシュマリに変わって、シェラハは実に器用に仕事をこなす。

 たちまちマントや座布団のほつれと穴が塞がり、部屋の中は見る見る片付いて清潔になってゆく。

 しかしくるくるとよく働く彼女に対してシュマリの中の疑惑は少しずつ大きくなっていった。

 ムグミカ族は総数で200人足らず、雪と氷の大地に集落を作って素朴な狩猟生活を営んでいる。

 よって彼らには貧富の差というものがほとんどなく、一族を纏める族長や知恵袋となる魔術師がいても身分の上下も存在しない。

 助け合って生きて行く事が当然だったのだ。

 だが彼らと故郷を同じくする、ペンギンを祖先とする鳥人族は違う。

 発達した独自の魔法文明を持つ彼らは私利私欲に明け暮れ、特に生まれつき魔法を使える者と使えぬ者という決定的な

 身分差がある。

 魔法を使えるものはその力で富を成し、使えぬ者は彼らの奴隷となって生きていくしかないのだ。

 『金持ちはカネが無ければ何もできない』と、鳥人族の都市から来た奴隷の少年は皮肉交じりに言っていた。

 シュマリの予想ではシェラハが乗っていた船は裕福な者しか所有できぬものと見た。

 しかし彼女はなかなかどうして器用である。もしかしたらあの船に乗り合わせた奴隷だったのだろうか?

 それとも長い航海のうちに自分の事は何でも自分でできるようになったのか。

 どちらにしろ、貧乏が人を器用にする事は間違い無いと、シュマリは一人納得した。

 直接彼女に身分のことを聞くのは止めておいた。彼なりの気遣いである。

  日輪が丁度真っ直ぐ頭の上に差しかかった頃、二人は空きっ腹を抱えて甲板に寝転がっていた。

 シュマリはもう、竿から手を離している。ここ最近、魚どもはちっとも食いつく気配が無い。

 残り少ない食料を節約する為には夜まで保存食を口にする訳にはいかないのだ。

 「貴方にとってはご先祖様が神様なのですね?」

 「あー。かもな」

 飽きもせず自分のことを追及してくるシェラハに、シュマリはぐでっとうつ伏せに倒れたまま力無く答えた。

 両の手足をだらんと伸ばしたその様子は、趣味の悪い成金が好んで部屋に置きそうな熊の敷物のようだ。

 「勇気を持って戦った戦士ってのァ死んだ後もこの世に留まって、子孫を手助けするっちゅう使命を貰うだ」

 「シュマリも戦士になる事が目的なのですか?」

 「まあな。今度の旅も半分はそれが目当てっちゅうか…にしても腹減ったなぁ、眼が回るだ」

 彼の視線の先では上半身を起こしたシェラハと、果ての無い青空を舞うカモメ達の姿が見える。

 シェラハの船を拠点としていたカモメは行く所がなくなり、今度はシュマリの船を住処と決めたらしい。

 最初からいたのと仲が悪い彼らはしょっちゅう空中で激突し、熾烈な生存競争を繰り広げている。

 しかもおかげで卵は沢山採れるようになったと思いきや、気性の荒いその種はシュマリが巣に手を伸ばすと死に物狂いで

 襲いかかってくるのだ。

 近頃は元からシュマリの船に居座っていたカモメたちもそれを真似るようになり、まったくもって悪い真似事というのはすぐに

 他者に伝わるものらしい。

 魚を主食とするカモメの肉は臭くて美味くないが、いよいよそんな事も言ってられない日も来る様子だ。

  せめて船でも通りかからないかしら、と思ってシェラハは海原の彼方に眼をやった。

 どちらを見回しても飽きるくらい水平線が広がっているばかりだ。

 彼女が焦点を合わせていたのは海の向こう。だから、目の前に這い上がってきたものが視界に入ってきても、すぐには

 それの輪郭が掴めなかった。

 ぼんやりと彼女の緑色の瞳に映るそれは、気分が悪くなるような生臭い臭気を放って甲板に手をかけた。

 べちゃり。水かきのついた掌から、押し潰れた水滴が飛び散る。

 もう一度べちゃり。それから両手に力を込めると、身を乗り出して、ぶちゃっ。

 シェラハは自分と目が合ったそれを、大きな魚としてしか認識できなかった。

 魚にしてはおかしな所は体と同じく鱗に包まれた手足がついている、という事だ。

 上半身だけ甲板に乗っけたその半魚人は凍り付いたシェラハに鼻っ面を寄せると、占い師が使う水晶球みたいに大きな

 二つの眼をぱちくりと瞬かせた。

 引き攣った悲鳴が上がると、少女は転げるように背後で寝転がっていた熊の上に飛び乗る。

 「ふげ」

 背中を圧迫されて変な声を出すと、背中に彼女を乗せたままようやく彼も目の前のそれに気づく。

 シュマリの大きな黒い瞳は半魚人のオレンジ色の眼球をしばらく眺めていたが、突然何かに気付いたようにバッと

 立ち上がった。

 背中のシェラハが転がり落ちる事などもちろん気付かないままに。

 「サハギンじゃねえかあ」

 間延びした声を出すと片手を上げて挨拶し、甲板の端へと歩み寄って腰を下ろす。

 自分を見上げる半魚人に親しげに笑ってシュマリは声をかけた。

 「よう、調子ぁどうだ?」

 サハギンと呼ばれたそれはややあったのち、いぶかしむように言葉を返す。

 「まあ、そこそこか」

 サハギンはたどたどしい共通語でそう言った。彼らには独自の言語が存在するのだ。

 「入り用なんだわ。お前さん、このへんでサハギンの物売り、知らねえか?」

 「俺がそうだ」

 「おー。こいつは都合が良いだな!」

 甲板で頭を打った痛苦で涙を滲ませていたシェラハもようやく立ち直り、恐る恐るシュマリの背後から奇妙な来訪者に

 視線をやる。

 シュマリはそんな彼女に握り拳を作ってガッツポーズを見せた。

 「何とかなりそうだよ。うまい飯が食えるだ」



  サハギンというのは海底を住処とする、まあそのまんま半魚人のことである。

 飯屋も道具屋も酒場もない海上でサハギンは大抵、人間の船乗り相手に食用の海草や魚を売ったりして商売をする。

 食料倉庫がすっからかんならば彼らの持ってくる食料は船乗りにとって当然、命綱だから、サハギンたちは大抵思うままに

 暴利をふっかけてくるのだ。

 すべてがそうとは言わないが、サハギンも人間と同じで良いやつがいれば悪いやつもいる。

 お宝を満載した海賊船が食料が底を尽き、彼らから食べ物を貰う変わりに黄金や宝石をそっくりふんだくられたという話も

 あるくらいだ。

 何せ相手は海を住処とする半分は魚の種族、支払いをしらばっくれて逃げようにも船底に穴でも開けられてはたまらない。

 『カネで命は買えないぞ』…と、言うのがサハギンの商人の殺し文句だ。

  シュマリ達が出会ったサハギンは、どうやら良いやつだったようである。

 シュマリが故郷の海に住まうサハギンらと交易する際に使用していた通貨は使用可能で、彼らから鯨の肉と油、食用の海草、

 海草石鹸、どこかの沈没船から引き上げてきたという酒樽、それに貝殻から削り出したナイフを買うことができた。

 荷物運びのサハギン数人が海へと帰ってひとしきり商談が済んだ後に、一番最初のサハギン(といってもシュマリにも彼らは

 皆同じ顔に見えたので、多分)は妙な行動を見せた。

 上半身を甲板の上に乗り上げたまま、手で口のあたりを撫でながら遠くを見るような仕草を見せる。

 「何だぁ、まだ売り足りねえか?」

 「いや…そうそう、今思い出した」

 「何をだ」

 「つい最近、船を見た」

 購入品を手に取って眺めていたシェラハとシュマリが顔を見合わせる。

 「どこでだぁ?」

 「…俺の母親なんだが、年のせいか最近、すっかり腰ヒレが弱ってしまった」

 「んあ。そりゃ良くねえなあ」

 「もう200ゴゴ、旅費があれば海底温泉へ連れて行けるんだが」

 「ああ。そうだか」

 「…200ゴゴでいいんだが。誰か恵んでくれないものだろうか」

 「俺もそう思うだな、うん」

 見ていられなくなったシェラハがのんびりと酒の味見をしているシュマリに耳打ちする。

 「あの、200ゴゴくれたら教えてあげる、と言っているのでは?」

 「何でだ? こいつのおっかさんとそれがどう関係あんだ」

 それを見ていたサハギンは首の両側についているエラをぱくぱくさせた。溜息だったのかも知れない。

 「170に負けておこう」

 どうやら鈍いシュマリの言動を値切りと勘違いしてくれたようだ。

 特別な貝殻でできた通貨を170ゴゴ分渡すと、彼は三つしかない指の一本を立てて東を指す。

 「今日の早朝にあちらの方角で五つの大きな船から成る船団を見た。

 商売をしようと思ったんが連中、それどころではなさそうだったな。大きな騒ぎが起きていた」

 「海賊や大海蛇に襲われていたのですか?」

 「いや、どうやら内部で問題が起きたみたいだった。

 帆を畳んでいたから航行もままならないくらいの事態らしい」

 そこで話を打ち切ると、毎度の利用、感謝すると言い残し、サハギンは甲板から上体を離して海の底へと帰って行った。

 「行ってみっか」

 しばらく彼が指差していた方向を眺めていたシュマリが、相変わらずののんびりした口調で彼女に聞く。

 「私は構いませんけれど…」

 「決まりだ。わくわくするだな、何が起きてるやら」

 鯨の肉を干し肉にする準備を始めながら、彼は声を弾ませて活き活きと言った。





















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