プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -
クレイジーハートブレイカー
5.二度目の再会
聞いた話によればアイドルグループの熱狂的なファンと言うのは、そのライブに行く時必ず自分が持っている中で一番高い(良い)服を
着ていくのだと言う。
何故ならばそのアイドルがふと観客席を見下ろした時に自分を見ているかも知れないから…との事だ。
はっきり言えば蝶姐はその話を紫陽花から聞いた時にその娘たちはバカなんじゃないかと思った。
どこでライブをやるにせよそのアイドルとやらだって何千人という中のたった一つの人物など見てはいるまいに。
摩昼の電話から二日目の夜、七時半。
しかし今はその気持ちが痛いほどわかる。
夕食を摂る人で溢れ返る飲食店街の一角、ある小さな居酒屋を前に蝶姐はもう一度自分の服装を確認した。
同年代の娘たちと比べればカネは持っている方だ。身に付けているアクセサリや服に出費を惜しんだつもりはない。
摩昼はそう大したパーティでもないからくだけた格好で来てくれと言っていたが、どうしても意識してしまう。
紫陽花にも指摘されたが毎日のように喧嘩に明け暮れている彼女は(自覚はないのだが)どうにもガサツらしく、もっと女の子っぽくしろと
言われて今夜は珍しくタイトな紺のスカートにスーツ姿である。
格闘の際に踏み込みや蹴りがやりにくくなるのでいつもはパンツルックが基本だが、今日は忘れる事にした。
コンパクトを覗き込んで自分が女子大生かOLに見えない事もないという事をもう一度調べ、彼女はいざ店内へと踏み込んだ。
引き戸の向こう側にいるであろう人々と顔を合わせるのにはありったけの勇気を必要とした。
店頭の赤いのれんとちょうちんの隣の壁には本日貸し切りと言う張り紙が出されている。
二日前の摩昼からの電話というのは高校の同窓会の誘いで、蝶姐の電話番号は街でたまたま再会したハヤシバラから聞いたらしい。
彼には一応緊急時に備えて自宅の電話番号も教えておいたのだが、どうやらハヤシバラは見た目通り口が軽いようだ。
ドラッグストアと伊緒の事件を終えて高校を出てからはぱったり音信不通になっていた蝶姐が摩昼にさえ連絡先を教えなかった理由は
たった一つ、その頃どうしようもなく募っていた彼への思いを断ち切る為だった。
摩昼と心を分かち合った伊緒を憎むのは間違っている。そんな事はわかっていたが、考えとは裏腹に湧き上がる憎悪はいつ殺意になるとも
知れない。
彼に幸せになってほしかったから何もかもすべてを捨てて逃げ出してきた。
あれから数年、先日二人に会った時蝶姐は改めて再認識させられたのだった。つまり己の思いが時間によっては解消されない事を。
「こんばんわ」
精一杯の声を振り絞り、戸を引く。
アルコールと居酒屋独特の味付けの濃い料理の香りを含んだぬるい空気が鼻をついた。
店内は半分ほど客で埋まっている、どれもこれも懐かしい顔ぶれだが再会を喜ぶような心の余裕はなかった。
新しく買った黒のロングコートを脱いで手にしながらどの席に着こうか迷っていると、彼女に気付いた一人の女性が立ち上がった。
ちょう
「蝶?」
ポニーテールで釣り目の彼女が驚きと笑みの混じった表情で声をかけてくる。
こちらの名前を知っているという事は同級生で知り合いだったという事に間違いはないのだが、彼女の顔は蝶姐の記憶の中のどれとも
一致しない。
返答に窮して立ちすくんでいる彼女に呆れ果てて女性は名乗った。
「わかんない? 佳奈美だよ」
「ああ」
言われて初めて彼女は嘆息を漏らしながら旧友の名を思い出した。
と言っても名を聞いても蝶姐の記憶の中での彼女はセーラー服に身を包んだ不良少女の姿しか思い当たらない。
あの頃は確か鮮やかな金髪で化粧もどぎつかった筈だが、今目の前にいる娘はどこにでもいそうな普通の女性だ。
蝶姐の実家は道場で『刺踏』と呼ばれる中国武術を伝承しており、幼い頃から彼女は父親の手ほどきを受けて育ってきた。
彼女は当時自分の力を周囲に示したくて仕方なく(若気の至りだと本人は言うが、今も大して変わってないじゃんとは紫陽花談)しょっちゅう
暴力沙汰や問題を起こしては警察の世話になっていたという意外な過去を持っている。
陰険なやり方を好まないだけでこの頃すでに蝶姐はサディストだったのだろう。人を殴り倒す事に正常ならざる快楽を覚えていたのである。
当時実家の道場では同じ門下生であった佳奈美とつるんでよくムチャクチャをやったものだった。
人は変わるものだと変に納得しながら蝶姐は佳奈美の隣に腰を降ろした。
「蝶ってさ、どこ行ってたの? 全然連絡なかったけど。卒業式も来なかったし」
ティエチェ
蝶とは蝶姐のあだ名である。日本人に蝶姐とは発音しにくいのだ。
「うんまあちょっとね」
興奮気味に語る旧友に対してあまり再会への喜びを示さず、蝶姐はいつもの冷淡な表情を張り付かせたまま答える。
あまり飲めない酒を注文しながら、彼女は友人にできるだけ何気ないように一番胸の奥につかえていた質問を発した。
「摩昼は来てる?」
「島原くん? あそこで飲んでるよ」
佳奈美が振り返って示した視線を追うと、座敷の席で紺のトレーナー姿の青年が一人コップを片手に仲間たちとじゃれ合っている。
先日逢ったばかりなのにこみ上げてくる懐かしさと愛しさに、その姿を眺めているだけで気が遠くなりそうだ。
摩昼の隣には伊緒がいた。
愛しい人との距離はこんなに近いのに隔てるもののあまりの大きさは蝶姐に簡単に絶望をもたらす。
彼らが交わす雑談の中で時折上がる笑い声には摩昼のものが混じっている。あの笑顔はもう自分には絶対に掴めない。
「あんた島原くんと付き合ってたんじゃないの?」
寸分の時間を置いて正面に向き直りながら、蝶姐は佳奈美の質問にひどく疲れたような溜息を漏らした。
「まさか」
高校時代に好きだった人の影を追い続けてるだなんて、ここにいる周囲の人間から見ればとてつもなく馬鹿げた事なのだろうと彼女は思った。
あの人には好きな人がいて、それは私じゃない。
もう何千回となく認識した現実を今一度飲み込んで目の前に置かれたカクテルに手を伸ばした。
「相変わらずだねえあんたは」
幾分酒が入って朱を帯びた顔で眉根を寄せて苦笑すると、佳奈美はそんな相手の顔を覗き込みながら飲みかけの酒に口をつける。
蝶姐があまり感情を外に出さないのは今に始まった事ではなかった。
高校の時からずっとそうだ。笑う事さえあまりなかった彼女だが、摩昼の事に関してだけは普段には絶対に表に出さない激昂を見せた。
彼が一度些細な問題から他校の生徒複数を相手に乱闘を繰り広げて胸骨と肩の骨を折った時、ボロボロになって帰ってきた彼を蝶姐は
何度もぶん殴った。泣きながら『馬鹿野郎!』と繰り返して。
幼馴染として暮らしてきていつから摩昼を男性として好きになったかはもう覚えていない。
ある日気が付いたら彼がなくてはならない存在だと言う事に気づいたが、それを認めるには蝶姐はあまりにも臆病すぎた。
何となく言い出せないまま過ごしてきたところにドラッグストアの事件が起き、そしてその思いは永久に閉ざさねばならなくなった。
こんな事を考えるのはもう止めようと決心しても、『今、あの時がもう一度来たら』と蝶姐は思う。
あの時はっきりと自分の胸中を言うべきだったんだ。
例え摩昼の答えが肯定でも否定でも、返事さえ受け取っていれば今こうしてこんなに苦しむ事はなかっただろうに。
深夜になって遅れて店にやってきた出席者も大方揃い、宴もたけなわという盛り上がりを見せていた。
最初の頃は振り返ってはしきりに摩昼の事を気にしていた彼女も幾分酒が回ってきたのだろう、佳奈美と思い出話を交わす内に次第に
背後に振り向くその回数も減ってきた。
珍しく饒舌になって複数の相手と話を続ける内に、やがて会話の内容は自分たちの現状へと移っていった。
大抵の知り合いは大学生だが早い者はもう就職活動をしていると言う。
化粧品の開発に関わるべく化学の勉強に取り組んでいると熱っぽく語る佳奈美の顔はとても大人びて見えた。
とてもあの頃一緒になってバカな事をしていた不良少女とは思えない。志望の製薬会社の名前を挙げる彼女が生意気に思えたので蝶姐は
思わず毒づいた。
「アンタ全然勉強できなかったじゃない。私も相当だったけど」
「あーそういう事言う? 蝶だって新入りの一年ぶん殴ってたじゃん、頭にバケツ被せてドロップキックかけたりさ」
「知らないね」
猛然と反撃に出る佳奈美からぷいと視線を反らして空々しく彼女は否定した。
会話に混じっていたカウンターの席の数人が笑い声を上げる。
件の新入りの一年とは入学式早々愚かにも蝶姐に絡んできた娘の事である。
生意気だから殴った、正当防衛だと蝶姐は証言したが彼女は正当防衛の意味を根本的に勘違いしていた。
思えば当時はそんな事ばかりしていたような気がする。
ムチャクチャをやるのは蝶姐も摩昼も同じだったが、蝶姐は突発的と言うか突然誰にも予想のつかない事を発作的にする持病のようなものを
持っており、対して摩昼は筋の通らない事が大嫌いでやはり問題をよく起こしていたがどちらかと言えば蝶姐の抑止力となっていたのは彼だった。
蝶姐が無軌道とすれば摩昼は己の信念にそぐわない存在に対して向かってゆくというふうだ。
当然ながら二人はしょっちゅう喧嘩をしていたが、兄妹か姉弟のように数日もすればコロリと忘れて普段通りの仲になっていた。
今となってはあの頃は至福の時として宝物のような記憶で残っている。
自分を止めてくれたのはいつだって摩昼だった。
「それはそうと蝶は?」
「ん?」
不意に湧いた佳奈美の質問に蝶姐が鼻を鳴らして答える。
「だから今。何やってんの?」
ひと時彼女に数人の視線が集中した。
心地良く頭に軽い混濁をかけていた酔いがすっと抜け落ち、途端にどう答えていいかわからず蝶姐は返答に困った。
と、不意に彼女の背後に気配が生じる。
「俺も聞きたいね」
柔和な笑みを浮かべたまま蝶姐の隣からにゅっと顔を覗かせたのは精悍な顔つきの男だった。
自分に向けられた言葉だと気付かずしばし蝶姐の時間が停止する。
「摩昼」
彼と向き合っている体の表面のすべてが火がつきそうに熱くなった。
予想だにしない事の成り行きにどぎまぎしながら、しかしそれとは別にどう質問を切り抜けるか必死に頭を巡らせる。
「何やってたんだここんとこ? お前の親御さんずーっと心配してたんだぞ」
「うん。そのー…」
ファンデーションを厚塗りしているので今日は顔の刺青は目立たない。、特に隠す必要はなかった。
自分に絡みつくいくつかの視線に焦りを促されながら、ふと浮かんだ事を口にした。
「大学受かったんだけどさ。親から振り込んどけって言われてもらった入学金を…その。遊ぶカネに使い込んじゃって…」
「…んで三年も家出を?」
呆れて笑い出す佳奈美に数度蝶姐が小さく頷く。
「マジかよ」
彼女の周囲の全員が爆笑を始める中、照れ笑いをしながら彼女はちらりと摩昼の顔を盗み見た。
これで彼も少なくとも自分がザ・ショップの一員になっているとは考えはしまい。内心ほっと安堵の吐息を漏らす。
この人にだけは軽蔑されたくない。
「働いて返そうと思ったんだけど全然お金貯まらなくて。…父さん達には言わないでね、絶対」
嘘は気が引けるが仕方ない。蝶姐は精一杯の懇願の表情を摩昼に向けた。
「いいけどよ」
笑って答えた彼に対して少し心が痛んだが、どこかで彼と何らかの約束ができた事が嬉しかった。
何であれ彼と自分は今、一つの事を心の中で共有していると思うと胸の内側の苦痛が少しだけ和らぐような気がした。
街が寝静まりもう夜も明けようと言う頃、三つの人影が大通りの交差点の前でタクシーを待っていた。
宴会が終わって出席者がそれぞれ帰路につく際に店ではあまり話ができなかったからと、タクシーを待つ間に摩昼の方から蝶姐を
誘ったのだった。
終電はもう出てしまったし、何より伊緒が酒に呑まれて足腰立たなくなってしまったのである。
ビル群の彼方はすでに白み始めているが、摩昼と蝶姐の二人の足取りはしっかりしていた。
さすがにいっぱい引っ掛けたサラリーマンなどの姿もまばらで街に人通りはほとんどない。
「何やってんだかなお前は」
「うぐ」
摩昼が肩を貸している伊緒はすでにグデングデンで明白な意識があるわけもなく、呆れ果てた彼の問いかけにも唸り声を上げるだけが
精一杯のようだ。
彼女のストレートの長髪が真っ直ぐに下に垂れている。その髪に埋もれた伏せた真っ赤な顔から時折声が発せられていたが、ロレツが
おかしくなっていて何を言っているのかは本人以外誰にもわからない。
「こいつァどこぞの会社に入って死ぬほどデカい金を動かす仕事に就きたいんだとよ」
何から話そうかとしきりに悩んでいた蝶姐に対し、頭を掻きながら唐突に摩昼が口を開いた。
「具体的に展望が決まってて羨ましいこった。俺なんか卒業できるかどうかもわかんねえよ」
「そう。大変だね」
おかしそうに笑いながら、何となく目の前の車道を行き交う車を眺めていた蝶姐が答える。
今日話していてわかったが、予想とは裏腹に高校を出て三年もすれば皆結構将来について考えているようだ。
皆が熱くこれからについて語るのに対し、蝶姐は談笑に加わりながらもどこか場違いな居心地の悪さを感じていた。
そう言えば自分は将来の事など考えた事は一度もない。
いつもいつも頭に浮かぶのは目先の事ともう絶対に自分のものにはならない人への渇望だけ。
高校生の頃には何か胸に秘めた夢があったような気がする。だけど摩昼を失うと同時にその夢も掻き消えてしまった。
―― みんな全部自分の事は自分でできるようになってゆくのに、何で私はこんなにもガキくさいままなんだろう。
ずっと胸につかえていたそんな思いが彼を前にして再び浮かび上がってきた。
自分みたいないつまでたっても一人では何も出来ないどうしようもない奴と比べれば摩昼の恋人、伊緒はよっぽどできた人間だろう。
だから彼には彼女が似合っているのはわかっている。二人に割り込む隙間など露ほどもないくらいに。
「あ」
ふと空いた道路を滑るように走る一台のタクシーが、大通りの彼方を眺めていた摩昼の目に入った。
「悪い、ちょっと変わってくれ」
肩を貸していた伊緒を傍らの蝶姉に押し付けると、摩昼はタクシーに向かって両手を振った。
酒くさい息を吐く彼女を慌てて抱きとめながら、ふと蝶姐は耳元に迫った伊緒の口から漏れる吐息に言葉が混じっているのに気付く。
「ティエチェ」
か細く不明瞭な声だったが、それは確かに彼女の名を呼んでいた。
「何、吐きそう?」
「…あいつさー。鈍いしバカだからどう言えば気付くかなーって」
「何が?」
声色に混じるものはどこか蝶姐にすがっているような響きがある。
困惑しながら返事をする彼女に、伊緒はこれ以上ないほどの衝撃を与える一言を口にした。
「仕事決まったら結婚…してって」
その言葉を聞いた瞬間、糸のように細い蝶姐の希望が切れたような気がした。
街の僅かに残留している雑踏や車の音が彼方に遠のき、激しい耳鳴りに襲われる。
元から摩昼の事はもう絶望で彩られていたのに、今また更にその上に張っていた僅かな光が一息で吹き消された。
心を覆い尽くす暗いものをどうにも表現できず、彼女は必死に自分の考えを振り払った。
―― 殺してしまいたい。
宴会の席でも始終つけたままだった手袋に包まれた右腕が震えを押さえきれずカタカタと鳴る。
それは自分でも間違えようもなく己の腕刀が血を求める鍔鳴りだった。
もう何もかも失ってもいい。今ここですべての判断を捨ててこの女を殺したい。
抱きついている彼女を支える左手はそのままにまるでそれ自体が意思を持っているかのようにわななく右腕を抑えるのには全身全霊を
込めての抑止を必要とした。
伊緒の人格が憎いのではないのだ。むしろ蝶姐は彼女が好きだった。
しかしこの女の存在は蝶姐と摩昼の距離を果てしないものにしている。
自分の中で激しくせめぎあっている二つのものがある。
一つは確かに摩昼の幸せを願っているのに、もう一つは自分の欲望の為に彼からすべてを奪いたいという破滅的な欲求だった。
何も遮るものなどない、右腕の超震動を発動させて抱いている女の心臓に突き立てればいいだけだ。
それは恐ろしく簡単で取り返しのつかない過ちだが、耐えがたく蝶姐の心を誘惑するのだった。
すでに奪われてしまった彼女が一番求めていた摩昼の心の一部分が、もう一度誰の所有物でもなくなるかも知れない。
例え自分がそれを手に入れる事ができなくてもいい。誰のものでもなくなるのなら。
「…摩昼は鈍いけど優しいから」
相手の肩を抱きながら強張った声を蝶姐は何とか絞り出した。
「はっきり言えば通じると思う」
それでもこの時蝶姐にそう言わせた感情は、やはり摩昼を好きだという純粋な心の力だったのだろう。
紙一重で己の欲望に打ち勝つ事ができたらしい。
全身に巡っていた強張りがゆっくりと引いてゆくのを感じながら、己の心の内側のすべてを隠して蝶姐は目の前の最も憎くく、羨望した
存在に囁きかけた。
「幸せになってね」
「…」
相手が小さく数回、頷いたように感じられた。
腕の中の伊緒の体温の暖かさが、蝶姐の心が抜け落ちたような喪失感を増大させた。
タクシーの後部座席に伊緒を押し込んでいる時、ふと摩昼は誰かの声を聞いたような気がした。
ひどく悲痛で哀れな声だったが、振り向いた所に立っている蝶姐に特に話し掛けてきたようなふうはない。
ただ少しうつむき気味の彼女の表情が気になった。
「どうかしたか?」
返事はすぐに返ってきた。
「別になにも」
軽く別れの挨拶を交わしてタクシーに乗り込もうとした時、ああそうだと呟いて彼は再びアスファルトに降り立った。
「こないだ会った時に同窓会の事ァ言おうと思ってたんだけどな。忘れてたっつーか…何だ。
またすぐ会えるような気がしててな。家族みたいなモンだったからな」
彼の言う通り蝶姐と摩昼の心の繋がりは家族のようなものだったのだろう。
その距離は離れはしないがそれ以上縮む事も決してない。
じゃあなと言い残し、最後にもう一度微笑を見せて摩昼はその場を後にした。
軽く手を振って彼に答えたが、蝶姐はうつむいたまましばらくその寒空の下を動かなかった。
「助けてよ」
ふと、風が消え入りそうな彼女の声を拾った。
ついさっき彼の背に投げかけた言葉と同じ言葉を再び蝶姐は口にしていた。
何から助けて欲しいのかわからない。彼に言うべき事なのかもわからない。
だけど彼女は口にせずにはいられなかったのだ。
「助けてよ…」
ポツリと彼女の頬を伝った一滴がアスファルトに落ちた。
アンダーガードらの縄張りである地下街は広く、中でも大曽根駅の付近はブランドものを扱う店が多く若者が集う場所の一つである。
通称ゼロゾーン(大曽根をローマ字にすると『O ZONE』)と呼ばれるこの場所の一角、きらびやかなショーウィンドウに挟まれて小さな
目立たない教会がある。
キリスト教であるという事は確かなのだが細かな宗派の区切りは誰にもわからない。
ただとにかく教会だと言うことでそれはその場に存在していた。
堅牢な扉を開いて中に入ると薄暗い長方形の室内の両側には長椅子が等間隔で置かれており、正面には長い間ほったらかしの
埃にまみれた
聖母像が鎮座している。
管理者が誰なのかもはっきりせず、時折神父なのか牧師なのか見当もつかない男が出入りしているが大抵は無人である。
湿気た空気は澱み、天井の寒々しい蛍光灯から落ちる無機質な明かりは周囲を鬱屈と照らし出していた。
いるだけで気分が落ち込んでくる場所だ。ザ・ショップが地下街を一掃する前は各チームのリンチに使われていた場所らしい。
そんな忘却の場所に時折訪れる人影があった。
いつも決まって腰を降ろす場所は前から二番目の右側のベンチの隅だ。
ロングコートを身にまとったまま沈痛な表情で瞳を閉じ手を組んで一心に祈りを捧げている。
蝶姐は特にキリスト教徒というわけではなく、自分の身に災いが降りかかった時だけ神様にすがる、どちらかと言えば不信者だ。
だけど胸に溜まり込んだどうしようもない感情が爆発しそうな時はここへきて吐き出す事にしている。
大して効果はないが気休めでもいいから助けが欲しかったのだ。
ぎゅっと閉じた瞳の奥で捧げる祈りは決まってある男性への思いについての事だった。
しかしその祈りは思いの成就ではなく、思いの『諦め』への渇望。
―― 忘れさせて下さい。あの人の事はもう忘れさせて下さい ――
何故自分は失恋してから何年たって今なお彼の事が忘れらないのだろう?
あの人の声も夢も、何もかもが好きだった。
もう忘れなきゃならないのに。私さえすべて諦める事ができたら、みんな幸せになれるのに。
何で私はこんななの? 何でみんなみたいにうまくできないの?
あの時、ほんの一瞬でも伊緒に対して湧いた殺意を抑えきれなかった自分への嫌悪は更に募ってゆく。
その場に摩昼がいなければ迷う暇さえなかったかも知れない。
好きになって欲しいのに、いつも自分は嫌われるような事ばかりしてしまう。それは多分相手が自分を好きでないという現実に耐えられなくて、
その場から逃れようと自滅的な行動を取ってしまうからなのだろう。
そんな事はわかっている、わかっているけれど好きな人の前に自分の居場所がないという事は苦痛以外の何ものでもないのだ。
静まり返った教会の闇に埋もれた彼女から、やがて僅かに低い嗚咽が漏れ始めた。