プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -
クレイジーハートブレイカー
7.裏切り者
消毒液の臭いが充満する白亜の室内。
しかし窓からはほとんど陽光は望めず、じっとりと湿った暗い影だけが漏れていた。
「他には?」
薄汚れてはいるがよく洗濯された真っ白なシーツのベッドの脇の椅子に腰掛けていた女が、冷徹な声で聞いた。
小柄で華奢だが刃のように鋭い雰囲気を持つ、瞳に刺さるような美女だ。
聞きなれている筈のその鼻にかかるような高い声も、今はベッドに横たわる少年にとっては肝を冷やす以外の何ものでもない。
体に走る手当てをされた無数の傷は見るからに痛々しく、それが人間が意図して行った拷問の跡だと言う事は明らかだった。
「俺を拷問しやがったのは女でした。ティ…ティチェとか…そんなカンジの。何か発音しにくい名前で…」
「顔に刺青のある?」
「そうッス」
スキンシャークを一撃でのした女か、と反射的に記憶が甦る。
彼は元から執念深い性格で絶対の自信を持っていた筋肉を鎧を破られたその事を根に持ち、最近は随分荒れている。
病室の中には他に二つほどのベッドがあるだけだ。
ここは個人病院で入院施設は整っておらず、この病室は主に点滴を打つ際に使われていた。
この少年がこうして傷の手当てを受けて入院できるのは、この病院の経営者でもある医師が彼らネヴァーエンズと同じくザ・ショップを激しく
憎む男だからだ。
他にも資金的にネヴァーエンズのバックアップを行っており、ある理由から街の界隈の病院には行けない彼らの通う事のできる病院でもある。
六角町で奪ったケースの中身を判断したのもこの医者だ。
わんとう
「『腕刀』とか呼ばれてる女らしい、サドで喧嘩がえらい強いとか。ま、シャークのヤツが素手で負けたんだから疑いようもないね」
ヘルダイヴが癖のない髪を掻き上げながら目を細めて大きく溜息を一つ。
「どこまで吐いた?」
不意の質問にベッドに横たわる少年の体が強張る。
相手が途切れ途切れに語る内容を彼女は疲れたような表情で聞いていた。相手の声が消えると小さく頷いて腕を組む。
かなるがわせんせい
「アタシの名前に溜まり場か。この病院と香鳴川医師の事は言ってないな?」
「それは言ってないス」
「オーケーオーケー。それさえバレなきゃなんとかなるさ、とっとと体ァ治しな」
ほっとしたように笑ってヘルダイヴは席を立った。
情報を吐いてしまった事の責任を追求されると思っていた少年は安堵の吐息を漏らすよりも、呆気に取られてぽかんと口を開けたままだ。
「ところでその女はお前が全部吐いたってのに拷問をしたんだな?」
「はい」
ギリ、と奥歯を噛んだ彼女の瞳に明らかな怒りの炎が宿る。
「ふざけた事してくれるぜ」
医院があるのは繁華街の裏路地で、ここは賑わいも遠く四六時中ひっそりとして日も殆ど届かない。
じめじめとしてあまり衛生的とは言い難い立地条件だが、ここの医師・香鳴川は付近の風俗店などの営業者からは重宝がられている。
パオ・ナナ
彼は包娼をも治療できる数少ない人形医なのだ。
人形医と言っても人間の医者がそうであるように細かく分類されるのだがいかんせんまだ新しい分野でもあり、なり手が少ない事もあって
人形医は慢性的な人手不足である。
彼の専門は外科だが可能な限り内科の方面もカバーしている。
近親憎悪と言うべきか大概の人間が包娼という存在を蔑視しているのに対し、香鳴川は彼女らを人間と平等に扱っていた。
そしてそれがネヴァーエンズと大きな繋がりを持つ一つの理由でもある。
ヘルダイヴは冬の匂いを含んだ風に髪をなびかせながら、病院から北へと移動していた。
人気も少ない昼の繁華街の真ん中に中程度の公園があり、砂場の前の青いベンチに目的の人物を見つけて彼女はジャンパーのポケットに
手を突っ込んだままそちらへと歩み寄ってゆく。
コンビニで買ったパンを齧っていた青年が女の姿に気付き、咀嚼を休めて精悍な顔を上げた。
年季の入った革ジャンを着た長身の男で、がっちりとした体格だが余分な筋肉はまったくついていない。
彼は目の前で立ち止まった相手に値踏みするような視線を送りながら。拍子抜けしたような声を発した。
「…『キャプテン・ヘルダイヴ』?」
「そーだよ。意外?」
目の前にいる女は黒のミニスカートに勲章や腕章がたくさんついた軍服のようなジャケットを羽織っていた。
青年はザ・ショップと戦っていた時に戦闘用に改造された包娼とは何度も戦った事がある。その彼の本能が告げている。
こいつは人間じゃない。
「ネヴァーエンズのヘッドが女だとは思わなかった」
思案とは別にそう口にして足を組んで背もたれに身を預けると、スポーツドリンクで口の中を洗い流して青年は質問を続ける。
「アタシも想像してたよかイイ男で嬉しいよ、島原摩昼さん」
「用ってのは何だ?」
雲一つない空に向けられた顔からは何ら緊張感が感じられないが、ヘルダイヴは彼が放つ本質的な殺気のようなものを感じ取っていた。
にわかには信じ難かったがそれはこの男ならザ・ショップの一角を壊滅させるだけの力があるかも知れないという妙な説得力を持っている。
ヘルダイヴも相手の隣に腰を降ろすと、油断のない視線を送りながら相手の観察を続けた。
「コレ見て」
彼女がポケットから取り出した折り畳んだ紙片を受け取ると、それを丁重に開いて一通り眼を通す。
何かの化学記号や配列などが並んでいるが結局これが何なのかはさっぱり理解が及ばない。
なんだこりゃ、と言おうとした摩昼の先を突いてヘルダイヴが別段声のトーンを変えずに言う。
「アンタちょっと前にザ・ショップの『ドラッグストア』をぶっ潰したろ? 今連中はデカい収入源だったソレを復興さそうと躍起になってんの。
んでハートリペアだっけ、アレに変わる新しい資金源に別のヤクの調合に成功したの。そいつはその設計図の一部のコピー」
無言のままだが彼の放つ雰囲気がさっと変わったのがわかった。
「『クレイジーハートブレイカー』っての。すげえ強烈なヤクみたいよ、ハートリペアを作ったヤツの子分だか部下だかが研究してたらしいけど」
「信用できん」
素っ気無く言ってぞんざいに畳んだ紙片を突き出した相手の腕を押し戻すと、彼女は構わず続ける。
「アタシらネヴァーエンズのバックアップをしてる人がいてさ、その人旧ドラッグストアに勤めてた事あんだよねー。
うしお
間山 潮…って知ってるよね。間山 伊緒の父親でアンタが殺ったドラッグストアの所長」
「何が言いたい?」
一時向けられた殺気を風のように受け流しながら、唇の端だけ笑ってヘルダイヴは答えた。
「アタシらの仲間になってもらいたいワケ。ザ・ショップをぶっ潰すのに力を貸して」
予想だにしないその言葉にゆっくりと振り向いた摩昼とヘルダイヴの視線が噛み合った。
摩昼の方はまだ相手の事を底から信用してはいない。
ネヴァーエンズと言えばこのあたりでは有名なチームだ、関わった犯罪の数ももはや数え切れはしまい。
「お前らはつまり何なんだ?」
「え?」
質問を無視した相手の言葉がわからず、彼女が一瞬変な顔する。
「ザ・ショップに喧嘩売るなんざ正気のヤツがやるこっちゃじゃねえだろ。相手が何なのかわかってんのか?
殴り込みかけて勝てる相手かよ」
「んー…ウチのチームの連中ってさ、ほとんど人間じゃないワケよ」
自嘲するように笑いながら足を持ち上げると、ヘルダイヴは堂々とベンチの上であぐらを掻いた。
そのミニスカートの奥の辺りをちらりと眺めた摩昼がすぐに眼を反らして相手に呟く。
「…見えてるぞ」
「何が?」
「あー…いや、何も。で? 人間じゃねえってどういう事だ。お前ら全部包娼か?」
少し慌てたように話の続きを促す彼を変な奴だなと内心思いながらも、気を取り直して彼女が説明を続行する。
「ご名答。ウチのチームで人間なのはほんの数人、あとはアタシを含めても全員が人造人間とドールズ。
ストレイ・ドールズとか風俗街から逃げてきた連中で構成されてるワケよ。全員ザ・ショップにはちょっとムカついててね。
何よりあいつら仲間を殺した」
ヘルダイヴが噛み締めた奥歯がギリッと鳴った。
ザ・ショップの地下街一掃作戦の頃から抗争が続いているネヴァーエンズと連中は双方莫大な被害を出しているが、根城を追われた
彼女らがゲリラ作戦に出てからはザ・ショップ側の被害のみが拡大し続けている。
とは言えネヴァーエンズとて無傷のまま今日まで戦い続けてきた訳ではなく、ヘルダイヴも多くの仲間と友人を失ってきた。
「銃器なんかはアタシらのスポンサーが手に入れてきてくれる。あとは切り札が欲しいワケよ、島原くん」
そうは見えないが年齢だけで言うなら(包娼の場合は設定年齢だが)ヘルダイヴの方が摩昼よりも年上だろう。
自分に向けられた視線を受けて摩昼はしばし考えを巡らせた。
確かに彼にとってもザ・ショップは許し難い存在だ、薬物絡みとあれば尚更である。
しかし今、彼には守るべき存在がある。心配はかけたくない。
随分長い間彼は中空の一点を眺めて思案に耽っていた。ヘルダイヴはその返答が肯定だと信じて粘り強く待つ。
喫茶『アイアンメイデン』では懲りもせずに蝶姐が古滝に挑んでいた。
コンクリートに囲まれた寒々しい店内の白いテーブルに向かい合って腰を降ろし、二人はノートパソコンのキーの上で指を滑らせている。
思考時間が混ざるせいか時折休む彼女のタッチ音に対し、退屈そうな顔をしながらガムを噛んでいる古滝は一点の曇りもなくほぼ一定に
その音が響いていた。
一本のケーブルで繋がれているお互いのパソコンの間に置かれている紙幣は二枚の万札で、これが今回の賭け金である。
店内の隅では犬飼がのんびりと煙草をふかして新聞を読んでいた。紫陽花はハヤシバラと地下街へ遊びに出かけている。
「ちっくしょ〜…」
モニタの中で崩壊寸前の戦線を維持するのに必死になっている彼女に対し、古滝は余裕で傍らのコーヒーカップに口を付けていた。
エプロンをつけたユマがおかしそうに二人の姿を眺めながら蝶姐のカップにもコーヒーを注ぐが、夢中になっている彼女は気付いていない。
「このオタク! オタク! オタク!」
「うるせえよ」
モニタに食いついている相手の罵倒を軽く受け流しながら古滝は軽やかにキーを叩き続ける。
遂にその首都まで侵攻の手が迫った時に、相手を哀れに思ったのか古滝はアドバイスを口にした。
「だからな、お前ァ踏み切れてねえんだよ攻める時も守る時もよ。
今しかないっつーチャンスを見つけて攻撃かける時にさ、相手の罠じゃないかとか別んとこから攻撃受けるんじゃないかとか疑心暗鬼んなってて
中途半端にやっちまってるだろ? いいじゃねえか失敗だとしても。そんなんじゃ死ぬまでお前ァ中途半端なままだぞ」
「…」
彼の言葉にふと蝶姐が手を休めて顔を上げる。
モニタの中では首都が陥落し、大統領『ティエ』が再び銃殺刑に処されていた。
―― 死ぬまで中途半端なまま、か。
思うところがあって遠い眼をしていた彼女の視界に、ふとしばらく姿を消していたユマが戻ってくる。
エプロンを外して上着を羽織り肩にボストンバッグを担いでいた。荷物の量はかなりのようでバッグは大きく膨れ上がっている。
「じゃ、僕仕事ですから」
「その荷物は?」
彼の柔らかな声に、肩にしている荷物に視線を向けた蝶姐が言葉を返した。
「お客さんの中に色んな服でするのが趣味の人がいて…」
ユマは風俗街の一店で働いており男性としては珍しい売春をする包娼である。
苦笑を漏らす彼の言葉の意味を読み取り、彼女も微笑みを返して軽く手を振る。
「あーなるほど。頑張ってね」
「ご苦労さん」
古滝も合わせて軽く手を上げ、新聞を降ろして顔を見せた犬飼も加わる。
足早に去った彼の姿が消えるのを見計らうと手にしていた新聞をきっちり畳み、まだ残っているコーヒーを飲み干して犬飼は二人に
命令を下した。
内容の奇妙さにしばし二人は顔を見合わせたが相手の態度に気圧され、実行する。
やがて向かった先の地下室から戻ってきた二人の報告を耳にするや目に見えて彼の表情が変わった。
その瞳に込められているものは恐らくは焦燥だったのだろう。
「ハヤシバラと紫陽花を呼べ。緊急事態だ」
数分後、古滝の運転する古いワゴン車が市道を駆けていた。
激しく揺れるのは彼の運転が乱暴なだけではなく、事を急がねばならない理由があるからだ。
社内に押し込まれているのは四人と数匹。犬飼を除いたアンダーガードの面々とサイボーグ犬たちである。
最後部の座席ではその犬たちが狭苦しい社内にも文句一つ言わず、無機質な瞳でじっと前方で人間たちが行っているやり取りを眺めていた。
「マジなの?」
肩を落としたままの紫陽花の物憂げな声が重苦しい空気が支配する車内に響く。
「まあね」
流れてゆく窓の外を眺めながら、乗り心地の不快感に耐えている蝶姐が答えた。無関心を装ってはいるが声はやはり鉛を含んだように重い。
ハヤシバラは助手席からバックミラーで二人を盗み見て何か言葉を口にするべきかどうか迷っていたが、すぐに諦めて正面に視界を戻した。
「ケータイのバッテリー確認しとけよ。インカムは持ってんな?」
古滝だけはいつもの緊張感のないどこか気だるげな声で三人に注意を促す。
彼もそうではないかとどこか心の淵で疑ってはいたが、やはり今回のものは不意を突かれた不測の事態だった。
全員一度アイアンメイデンに集合し、犬飼から直接その事は聞いている。一番ショックが大きかったのはやはり紫陽花だった。
泣きそうな表情を見せた彼女に蝶姐は気遣いを見せた。
「やっぱあんたは待ってた方がいいよ。下手な事されても困るし」
「だな」
ハンドルを切りながらその言葉に古滝が同意を示す。
「俺は車、ティエチェは突入、ハヤシバラはイワノフ他の犬どもと組んで裏口の見張り、残りは犬たちだけで塞ぐ。
不安は残るがまァ…」
「待って」
古滝の口にする確認を制して紫陽花が声を上げる。
「あたしも行く」
精一杯の揺ぎ無い決意を見せながら、セーラー服姿のままの紫陽花は太股のホルスターから銃を引き抜いた。
薄暗い車内の中に差し込む僅かな陽光を弾いて銀の帯を散らすその銃を眺め、一人頷く。
「あたしが行かなきゃいけないんだ」
溜息を漏らすような彼女の声に彼はもう一度注意を促した。
「一応サイレンサーつけとけよ、けどこの界隈じゃ絶対銃は使うな。ここいらはもう俺らのシマじゃねえんだからな」
やがて街の灰色のコンクリートは途切れ、まだ日が高いせいか眠ったままのネオン街へとワゴンは入って行く。
神薙市中の繁華街の中でも最も巨大な風俗街、坂江町の花吹という地区で、古滝の言う通りこの辺りは百狼会よりも
ロッキング・チェアーズと呼ばれる台湾マフィア達の勢力が強い街だ。
といってもその二つは同じザ・ショップという巨大組織の傘下にある訳なのだが、日本のヤクザと台湾マフィアという因縁の深い仲であり
その関係は極めて悪い。
ただし性風俗関係とヤクザとの関わりは未だに深く、関係者達もどちらかと言えば百狼会の方の名を良く知っている。
実質的な支配をしているのはロッキング・チェアーズ、一般に浸透している影響力で言えば百狼会と言ったところだろうか。
彼の言葉も当然で百狼会の下部組織であるアンダーガードがこの力関係が微妙な立場にある街で大っぴらに銃器を使えばどんな問題が
発生し、上層部にどんな迷惑がかかるかわかったものではない。
否応なしにこの街を舞台にしなければならなくなった犬飼の苦渋は想像に難くないだろう。
やがてワゴンは陽光の下でまだ惰眠を貪るこの街の一角に路上駐車し、古滝以外の全員が車を降りた。
花吹が本当に目覚めるのは夜が訪れてからだ。軒を並べる風俗店に挟まれた道はまだ人通りもなく閑散としていた。
「そんじゃね」
「ええ。また」
軽く声を掛け合ってそれぞれが自分のあてがわれた位置へと向けて去って行く。
いつもの元気を見せず火が消えたように大人しい紫陽花が少し気になったが、蝶姐も自分の与えられた仕事は滞りなくこなすべく自分に
気合いを入れると、目前にそびえている古い雑居ビルに向けて足を進めた。
別にどうという事はない、かなりの年月が経過しているであろう排気ガスにくすんだ汚い三階建ての建物だ。
テナント募集の張り紙はあるが業者が入っているふうはなく、無人の建造物独特の冷たい空気に寒気すら覚える。
ドアを押し開けると所々ペンキが剥げ落ちている通路を彼女は黙々と進んでいった。
その背がビルの中に消える頃、それを確認した古滝が車載電話の受話器を取る。ちょっとやそっとでは会話を傍受されない特別仕様である。
片手で手早く番号を叩くと向こうで出た犬飼に合図を送った。
耳に突っ込んだ小指の先くらいの大きさの小型インカムからノイズに混じって古滝の声が聞こえる。
『ジジッ… いいぞ。準備完了だ』
建物の中に入ってからしばらくは壁に背を預けて指示を待っていた蝶姐が、その通知を受けて更に奥へと進んで行く。
埃っぽい乾いた空気の中をしばらく進むうちに通路は突き当たりに出た。目前にはそこだけが真新しい金属製の扉があり、脇には
コントロールパネルと様々な端子接続の為の穴が口を開いている。
どれもこれも素人目に見ても異様に頑丈そうで、手榴弾を投げ込まれてビクともしそうにない。
彼女が監視カメラに睨まれながら懐から一枚の黒いカードを取り出し差し込むとすぐにマイクから重い男の声が放たれた。
『ザッ… 失礼ですが誰の紹介で?』
何の挨拶もなしの唐突な問いかけに微笑みを返しながら蝶姐が用意していた答えを口にする。
それは百狼会の中でもかなり上部に属する男の名で、たまたま犬飼は彼と知り合いでここの紹介状を持っていたのだ。
風俗街と関係が深くユマを紹介してきたのも彼である。
犬飼は権力欲はあってもこちらの方面には大して興味もなかったがやはり持っていて損はしなったようだ。
戻ってきたカードを受け取ると向こうからの返事はないままに不意に扉が両側へと開く。
中は3m四方の個室になっている。蝶姐が中に入ると扉は勝手に閉じ、すぐにエレベーター特有の内臓が浮くような不快感が迫ってきた。
自分の乗っているエレベーターがどのくらいの速さで地下へ向かっていたのかわからないが、少なくとも普通のビルの三階か四階分は
下っただろう。
停止し開いた扉からまず漏れてきたのは闇だった。一歩踏み出した彼女の鼻をつくのは甘ったるい香水とも花ともつかない匂い。
足元から靴を通して伝わる感覚から恐らくは絨毯が敷かれているのだろうが、眼が慣れるまでは何もわからなかった。
ふと突然闇から滲み出すようにして現れた、二つの大柄な影が蝶姐の前で立ち止まる。
彼女が脇に退いて道を空けると、今しがた蝶姐が乗ってきたエレベーターに乗り込みすぐに姿を消した。
暗くて男女の区別さえもつかなかったがそれは向こうも同じ事だろう。
しかし蝶姐は両方から何か、違和感のようなものを感じた。
それはまったくの見ず知らずの気配ではなく両方ともどこかで感じた殺気の持ち主。
つい最近の事のようにもはるかな昔の事のようにも思える。
結局それが思い出せないままに呆然と閉じたままのエレベーターの扉を眺めていた時、正面で新しい気配が生じた。
「いらっしゃいませ」
正装に身を包んだ男が礼儀正しく彼女に頭を下げる。といっても僅かな灯りのみでほとんど年齢はわからない。
声からして二十歳前後だろう。
「クラブ『ブレインジャック』へようこそ。お一人様でいらっしゃいますね、ご使命は?」
「ユリアマリスって男の子いるかな」
半ば闇に溶けていたその男が姿を消す頃、ようやく彼女の視界の暗黒も薄れて初めていた。
高級ホテルのロビーのような場所だが、向かいに見えるカウンターは光が漏れないようにシャッターが下りていた。
僅かに灯りが差す銃眼のように小さく開いた窓からは時折従業員の姿が見え隠れしている。
カウンターの脇から続く奥は点々とスタンドの淡い明かりが灯っており、それは永遠とも言えるほど遠くまで並んでいた。
初めて来た人間ならば不安を感じずにはいられない怪異な雰囲気の場所だが蝶姐は平然として態度を変えなかった。
ここに来るのは三度目だ。過去二回は拷問の師匠であるミタカのお供だった。
豪華なソファに腰かけると耳に突っ込んだまま忘れていたインカムを外し、ポケットに突っ込む。ここはもう電波が届かない陸の孤島だ。
埋もれるようにしてソファに座ってしばらくすると再び男が顔を見せた。
「ご案内致します。どうぞ」
男の後について彼女は闇の中を進み始めた。
暗いせいもあるだろうがカウンターの脇を抜けた先の場所は両側の壁が見えないほど広く、返って息苦しくなるような閉塞感を生み出している。
不規則に灯っている明かりの元では、置かれた大きなソファの中で生白い二つの人影が絡み合っているのが見えた。
そして喘ぎ声、何かを舐める音、粘液質な水音…
クラブ『ブレインジャック』。包娼を売春目的で使っている典型的な地下クラブだ。
広大な地下室に仕切りはなく、落ちた灯りがぼんやりと赤い絨毯を浮かび上がらせてさながら暗い紅の草原のようだった。
絡み合っているのは男女の組み合わせだけでなく、同性である場合も多数である場合もある。
時折その僅かな証明が白いもやのようなもので霞んでいる場合があった。媚薬の香や大麻を焚いているのだ。
なるべく息をしないように袖で口と鼻を押さえながら、蝶姐は歩みを進めつつぼんやりと道すがらの男女を眺めていた。
包娼と人間を見分ける手段は色々あるが、売春目的で製造されたタイプで簡単なのは性交渉の際に自分と相手に与える快楽を倍増させるよう
生殖器官に改造があるか、あるいは背中側の腰のあたりに液体の媚薬を注入する際に使用するジャックの開いた金属板があるかだ。
このクラブのレパートリーは主に下は12か13歳ほど、上は18歳までの少年・少女を中心としている。
攻め立てる男に両手を縛り上げられ泣きながら助けを求めている少女が眼に入り、蝶姐は思わず顔を背けた。
「どうぞ。ではごゆっくり」
数分ほど歩いた後に、先導していた男が振り返った。
男が示した手の先では僅かな灯りに光を弾く銀髪の細身の少年がソファにちょこんと腰かけている。
年の頃は十五歳ほど、少女と見間違えるような優しい顔立ちの文字通りの美少年だった。雪のような肌にやや大きめのワイシャツを
着ているだけの姿でほとんど半裸だ。
彼女を見つめる黒目がち大きな瞳がみるみる驚きの色に変わって行く。
「お姐さん?!」
「元気? ユマの仕事ぶりが見たくってさ」
蝶姐が微笑を見せて簡単に挨拶をしながら、恥ずかしそうにシャツの前をぴったり合わせる彼の隣に腰を降ろす。
ユリアマリスが彼のここでの正式名称で、ユマとは紫陽花がつけた愛称である。
「な…なん…何でお店に」
「いいじゃない。私なんか抱きたくない?」
言いごもる自分の肩に回された彼女の腕にユマがビクンと震える。
少年の首筋に冷や汗で張り付いた髪をその指先に絡めながら、笑みを絶やさずに言葉を続けた。
「違っ…そうじゃなくて」
喫茶店では決して見せなかった、蝶姐の自分を値踏みするような視線に耐え切れず慌てて眼を反らす。
彼の表情と声色に混ざっている焦りが不測の客人への驚きだけでない事を彼女は知っていた。
縮こまる相手を弄ぶかのように耳元に口を寄せながら艶然と囁きを漏らす。
「セックスマシーン用の包娼って、自我が確立したら地下室に放り込まれて三日三晩色んなヤツにヤられまくっちゃうんでしょ?
ミタカさんがそれに参加した事あってさ。『月下狂騒』とか呼んでたっけ?
そこで衰弱死しなかった男女だけ表で売りをやらせて後は全部廃棄。貴方その頃の事覚えてる?」
凍りついたユマのみるみる下がってゆく体温が手から伝わってきた。
「貴方が裏切り者だってのはもう割れてるの。今までせっせとネヴァーエンズに伝えてた情報の大半はデタラメ。
犬飼のダンナは最初っから気付いてたの、貴方が自由と引き換えにアンダーガードから寝返ってたって事はね」
彼は今日仕事へ向かうと言い大荷物を持っていたのは、そこを永久に後にする際の用意だった。
犬飼は以前ユマに『重要な書類』だと言ってデタラメな情報を載せた書類やフロッピーを預けていた。
さっき犬飼がユマの私室である地下の一室を調べさせたのはその書類を彼が持ち出したかどうか調べる為だったのだ。
そして前にネヴァーエンズの捕虜を捕えた時の事。
彼らはユマの仏心を動かして逃げたのではない。ユマはずっとアンダーガードの一同がいなくなる時を狙っていたのだ。
たんこぶは自分で作るか仲間に殴ってもらって作ったのだろう、喫茶店の中にたまたま監視役の犬がいない事が幸いだった。
捕虜は逃げてすぐに公衆電話か何かでリーダーに連絡を取り脱出した旨を伝え、ヘルダイヴ達は近場にいた仲間に連絡を取って恨みを
晴らすべくアンダーガードの行き先に網を張っていた。
ユマという存在を裏切り者として考えればすべての辻褄が合うのだ。
犬飼はいつの頃からか知っていたが一同に話さなかったのは、特に紫陽花が彼に好感を抱いているという事からだった。
脱走の手助けでもされては適わない。
犬飼としてはもうユマが脱走するのはもうしばらく後の事だと踏んでいたが予想以上に速かったので慌ててアンダーガードの面々を収集し、
さして自由の利かない不利な土地に踏み込んでまで彼の補足を試みたのだった。
こちらがわざと彼に漏らした情報はほとんどデマだが彼が持っているネヴァーエンズの情報は極めて貴重なものである。
では何故ユマは仕事に行くと言ってそのまま姿を消さなかったか? 恐らくは仕事を終えてから仲間の手引きで逃げるつもりだったのか。
それは包娼の頭部に埋め込まれた発信機が関係しており、もし彼が仕事先に向かわずそのまま姿を消せば店側はすぐに彼の捜索を始める
だろう。
帰り道で消える予定だったのは犬飼がさして彼の帰る時間を気にしないよう振舞っていた事である。
姿を消すなら必ず帰り道だと相手の行動を制限しておけば、万一の場合に色々細工がし易い。
「で、質問なんだけど。貴方は多分百狼会に回されると思うんだけどさ、見ず知らずのそこの尋問官に拷問されたい? それとも私に?」
親しげに笑みを浮かべて蝶姐は続けた。いつも喫茶店でユマに見せる、柔らかな笑い方だった。
「もちろん私だよね、一番最初に見た頃からずーっと狙ってたんだから。
いっつも想像してた、貴方の可愛いその顔がどんなふうに歪むかってさ」
この人は僕を愛してなんかいない。
ユマにとってはいつも優しい姉のような存在だった蝶姐が、今恐るべき存在に変わった事を彼は知った。