プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -






クレイジーハートブレイカー

9.最悪の再会


  少年は通路の壁に張り付きながら、目前で展開する死闘を呆然と眺めていた。

 それはさながらせめぎ合う氷炎のごとく、お互いの身を削っての呼吸を挟む間もない切迫した戦いだった。

 猛火のごとく繰り出されるスキンシャークの拳と蹴りの嵐を紙一重でかわすか受け流すかしながら、蝶姐はまだ一度も手を出していない。

 戦場となっているスペースは狭いが、その場を最大限に活かして彼女は回避に徹していた。

 相手の間隙を伺っているのだ。

 降り注ぐ拳と蹴りが途切れ、無防備な胴体を晒す瞬間を狙ってじっと堪えているのである。

 彼女の超震動による掌底の前にはスキンシャークの筋肉の鎧も何ら意味をなさず確実に衝撃を内側に浸透させ、破壊する。

 一度それに苦汁を舐めさせられた相手とてその事は重々承知しており、だからこそ敵を近づけまいと猛攻を繰り出しているのだ。

  もう数十分は攻防が続いただろう。

 蝶姐の倍は動き回っているであろうスキンシャークは疲れを知らないかのようになおも連打を続けていた。

 夜闇に滲み出るように白い息が放たれ、すぐに二人の動きによってかき消される。

 時々こちらの体を掴もうと伸ばしてくる相手の両腕に神経を尖らせながら、蝶姐は額に浮かぶ汗を拭う暇も許されなかった。

 彼女の体を捕え損ねてコンクリートに直撃したスキンシャークの丸太のような足による蹴りは、逆にコンクリートを砕いて彼女の体に降り注ぐ。

 破片のつぶてを受けて顔に小さい切り傷をいくつも作りながら身の軽さを駆使して、蝶姐はひたすら逃げに回る。

 「どうしたあァ! 前のヤツ打ってこいよ!」

  ネズミのように走り回る相手に挑発を口にしながら、スキンシャークがめり込んだ足を壁から引っこ抜く。

 その隙に眼に入りそうになっていた顔の汗を拭い構え直す蝶姐に向けて、不意に彼の胴体が地に沈んだ。

 考えるより速く反応し、軽く跳ねてこちらの膝を狙った下段の回し蹴りをやり過ごす。

 コンクリートの破片を撒き散らしながら唸りを上げて通り過ぎて行ったそれを受けていれば、彼女の骨などマッチ棒よりも簡単に

 折れていただろう。

 スキンシャークの唯一にして最大の武器はこの怪力なのだ。蝶姐が必要以上に相手の動作に意識を集中させているのはこの為だ。

 次の攻撃に備えて着地と同時にニ,三度地面を蹴って後退した彼女の視界を不意に、唸りを上げて追いすがってきた大きな影が覆った。

 咄嗟の事に判断が遅れ蝶姐の慌てて両手で守った頭部で腕越しに衝撃が弾け、ゴツンという金属同士がぶつかり合う重い音と同時に

 一瞬目の前で火花が飛び散る。

 押し潰されそうなくらいの重圧を放つその一撃からようやく視界が戻った瞬間、体勢を崩して地に伏せった彼女に向かって猛然と間合いを

 詰めるスキンシャークの姿が目に入った。

 背後で起こった何かがガラクタの中へ突っ込んだ騒音に、初めて彼女は状況を理解した。

 スキンシャークは下段の蹴りを放ちながら片手で廃棄されていたオートバイを持ち上げ、距離を取った蝶姐に投げ付けてきたのだ。

 100キロは下らないであろうその鉄塊の直撃は免れ、ちょうどタイヤに当たる部分が僅かに引っかかっただけだったのは幸運だったと言えよう。

 しかし今、彼女は危機に追い込まれていた。

  額から流れ落ちる己の血液に片目を塞がれ、呼吸をする暇もなく彼女の顎をサッカーボールの要領で蹴り上げようと駆け寄る

 スキンシャークの爪先が砂埃を上げながら霞む。

 着地の体勢が好ましくなく回避は不可能だと断定し、悔やみながらも蝶姐は顎の前で両腕を組んで盾を作った。

 腕を構成する重金属が受けたスキンシャークの蹴りに悲鳴を上げ、ビキッという亀裂の入る嫌な音を立てて彼女の体は鞠のように跳ねる。

 本能的に空中で両手で頭部を守り、蝶姐は背中から広場の隅のコンクリートの壁に激突した。

 背骨にズシリと響く苦痛に脳が痺れ、衝撃に呼吸が止まる。

  壁を滑り落ちて地面に転がった彼女にねっとりとした笑みを張り付かせたまま、スキンシャークは悠々と接近してきた。

 しりもちをついている地面から相手の足音が地響きのように伝わってくる。

 ダメージにより立ち上がる事もできない相手を満足そうに見下すと、彼は顔に下卑た笑いを含めた。

 「自分が俺の好みじゃねェ事を何かに感謝しとけ。犯るにしてもてめェじゃ勃たねえ」

 「正直に言ったら? 『ボクのナニは小さすぎて恥かしくて見せられません』ってさ」

 苦痛を堪えて精一杯の嘲笑を込めた蝶姐の言葉に、スキンシャークの表情が凍りつく。

 相手の一言により一瞬で頂点まで激昂した男の片足が持ち上がり、彼女の顔の前までくるとそれは空気を裂いて一直線に突き出された。

 命中すれば彼女の頭部などスイカのように踏み潰されるだろう。

 しかし片腕を背後の壁に押し付けて体を固定すると、蝶姐は肺の空気を吐き出しながら目前へ迫る靴底を前に右腕の掌底を寸分の

 狂いもなくそれに合わせて叩き込む。

 一瞬、炎に照らし出される二人の姿は伸ばした腕の掌と足の裏によってつながった。

 唸り声は同時に上がり、衝撃に動力をほぼ破壊され腕を弾かれた蝶姐は苦痛に更に表情を歪める。

 一方靴底に打ち込まれた掌底からの超震動により、片足の骨を粉々に粉砕されたスキンシャークは背後へと体勢を崩した。

 次の瞬間黒い風と化して跳ね起きた蝶姐の放った掌底は片足立ちになっていた相手のみぞおちを捕え、完全な形で入ったその衝撃は

 筋肉を徹しスキンシャークの巨体の中で爆発した。気合いと共に彼女の口から漏れた呼気が空気を震わせる。

 派手に尾を引く血液を吐き出しながらしばらくは痙攣を繰り返していたが、腹に突き刺さった蝶姐の腕からずれて砂煙を巻き上げながら

 彼の体は地へと崩れ落ちて行った。

  ほぼ機能を停止してしまった右腕を押えながら呼吸が平常に戻るのを待って、ゆっくりと片手を耳にやる。

 「古滝? 終わっ…」

 言いかけて始めて耳の中からすっぽりとプラスチックの感覚が抜け落ちているのに気づいた。

 戦闘中に落としてしまったのだろう。探そうと地面に眼を凝らしたがこの闇で見つかる筈もなく、早々に諦めて彼女は何気なく広場の

 出口へ向き直った。まるで髪を掻き上げるような、本当に何気ない仕草で。

 しかしその瞳に宿る暗い欲望の炎を当てられたユマは全身に駆け抜けた冷たい絶望に声もなく後ずさった。

 少年に向かって一歩を踏み出そうとした時、不意に脇腹を押えながら再び短い苦痛の呻きを漏らして蝶姐は地面に膝を着く。

 背をコンクリートに打ちつけた時のダメージが残っているようだ。

 「畜生…」

 困惑する己を前に小刻みに震えてその場にうずくまりながら動きを止めた彼女に、ふとユマは憐憫の情を催した。

 スキンシャークに受けた傷が大きかったのだろうか。しかし警戒は解かないままに不意に彼は一歩を踏み出してしまった。

 頭の中の片隅でまだ蝶姐に対する思いが途切れていなかったのかも知れない。何かの間違いかも知れないと言う愚かだがすがりたい願い。

  もう一歩を踏み出した瞬間、ビチャッという湿った音を聞いて彼は足元に視線を落とした。

 揺らめく炎の光を浴びて何か赤黒いものが地面に散っている。

 呆然とそれを眺めていた彼は最初、足に生じた異変を痺れか何かと思っていた。

 ずっと立っていたせいだろう、違和感を確かめようと太股に手をやった時に始めてユマは足にできた大きな凹凸に気づいた。

 「私を心配して来てくれたんでしょ? 貴方のそういうとこ、好きよ」

 うずくまったまま発せられた蝶姐の声に呆然としていた彼の足に、すぐに焼け付くような苦痛が発生する。

 上体を折って倒れそうになった少年の細身を何事もなかったかのように立ち上がった蝶姐が抱きとめた。

 今、彼の右の太股は蝶姐の放った手刀により中ほどまで切断されていた。

 ざっくりと抉れた傷口から覗くのは肉と吹き出す血液、そして場違いに白く夜の闇を切り取る大腿骨。

 痛みは感じたが蝶姐の腕の中では頭が痺れたように機能せず、すべてが遠く幻のようだった。

 しばらくユマを抱き締めていた彼女は一時犬のように鼻を鳴らす。

 燃え尽きようとしている炎の半分腐ったようなガソリンの匂い、空気に含まれる血の匂い。

 「やだな」

  本人はまったく自覚がないだろうが、スキンシャークと同じかもしくはそれ異常に粘液質の笑みを浮かべて絞り出したような彼女の言葉が

 闇に漏れる。

 ドクドクと波打つ己の心音がユマには聞こえていただろうか。

 「高まってきちゃった…」

 ざわざわざわ。強風に煽られた広葉樹のように自分の内側に広がって行く、どす黒い欲望。

 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけと自分と古滝に心の中で言い訳をすると彼を抱き上げて蝶姐は通路へと向かって行った。

 やがてチェーンが降りている金網が通路を塞いでいる場所までたどり着くと、そのチェーンを手刀で手頃な長さに切り落とす。

 半覚醒のユマの両手を金網にチェーンで繋ぐと、蜜の滴る果物を扱うように彼女は彼の唇に自分のそれを寄せた。

 「ちょっとだけ。ホントちょっとだけだから」

 そう呟いて虚ろにどこか遠くを眺めているユマのベルトに手をかえた。



  それからの事をユマはよく覚えていない。

 自分の体に撒き散らされたのが自分の血液なのか相手の体液なのか、交互に襲ってくるものが快楽なのか苦痛なのか。

 聞こえてくるのが自分の悲鳴なのか、相手の嬌声なのか。

 ただ目前にあった女の顔は激しく愉悦に歪み、自分の肉体を執拗に攻めていた。

 脳内麻薬の激流を味わいながらふと彼は紫陽花の事を思い出した。

 僕が裏切り者だと知った時、紫陽花はどんな顔をしただろう。涙を流してくれただろうか?



  時間の感覚がなくなってどのくらい経っただろう。

 しばらく続いていた喘ぎ声が断続的な、途切れ途切れの短い呼吸に変わった。

 「今日はここまで」

 絡みつくような湿った女の声に返事はなかった。

 金網に磔のように固定されたユマの全身に走る切り傷は闇に映える彼の白蝋の肌を犯し、虎のように縦縞の模様になっていた。

 殴った後もキスマークもあらゆる欲望の限りをその体を用いてぶちまけた跡が生々しく残り、そして彼はぴくりとも動かない。

 ただ悲鳴さえも絞り尽くした口から漏れる弱々しい呼吸だけが辛うじて命を繋ぎとめている事を物語っている。

 死んではいない。死なないようにやるのがアンダーガードに置ける蝶姐の役目だ。

  余韻にとろんと蜜のように澱んだ瞳をしばらく彷徨わせ、左腕に飛び散った相手の血と体液の混ざったものを払おうと宙に一閃させる。

 びゅっと空気が鳴って黒ずんだ壁に染みができた。他にも全身に返り血はかなり浴びているが、無論すべてユマのものである。

 全身から気力が抜け落ちるような感覚に立っているのもやっとだったが、まさかこのままここで眠り込む訳にもいかない。

 「お楽しみはまだこれから」

 朱を帯びた顔に付着した血液の飛沫を拭いながら大いに乱れた服装を正して、相手の戒めを解こうと鎖に手をかける。

 古滝にどう言い訳をしようか頭を悩ませて手刀を一撃鎖に入れようとした時だった。

  通路の奥、ここからそう離れてもいないスキンシャークとの戦場になった広場ではまだ僅かに残った火がチロチロと空に舌を伸ばしており、

 それを逆光に一つの影が立っていた。

 気配に気づいた時に反応し、反射的に身構えた彼女の瞳にまず入ったのは光。

 くっきりと黒く人型にくり貫かれたその光景にしばらくまぶしくて眼を開いている事もできなかったが、しかしそれは本能的にその現実を

 否定しようとした彼女の精神がそうさせたのかも知れない。

 顔から音を立てて血の気が引いてゆく。ひどく耳鳴りがして凍えるような感覚に全身が痙攣を起こした。

 見ちゃダメだ。あれが誰か知っちゃダメだ。

 訳もわからないまま子供のように自分に言い聞かせた蝶姐の耳に、絶望をたっぷり含んだ声が届いた。

 「ティエチェ…」

 青年の声に何か返事をしたが声が出たという確信はなかった。

 違う。あれは摩昼じゃない。違う。これは現実じゃない。違う! 違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!

 渇望していた筈だが少なくとも今だけは絶対に逢いたくない存在は、彼女の否定を嘲笑うかのようにそこに存在していた。

 瓦解を始めた心を宿す頭の中。しかしそれは相手も同じだった。

 いつからそこに? 何でここに?

 男の手の中から落ちた鉄パイプが地面で跳ねて乾いた金属音を立てる。

 果てしない空洞となった蝶姐の内側にその音は永久に木霊を続け、次の瞬間彼女は金網を手刀で破って闇の中へ飛び込んだ。

 遠ざかる背後でもう一度自分を呼ぶ声が上がったが、蝶姐が振り返る事はなかった。






  一方背後に迫るいくつもの足音に急き立てられながら、ハヤシバラは必死で路地を走っていた。

 追跡者が店の黒服なのかネヴァーエンズなのかわからないまま、とにかく腕につけたガントレットナビを頼りに悲鳴を上げる肉体に鞭打って

 疾走を続ける。

 古滝からの声は途絶えたままだ。

 そろそろロッキング・チェアーズが傍受を始める頃だろうと踏んで無線での一切のやり取りを中止したのである。

 緊急時に指定された場所へと向けて地面を蹴る彼の額には玉のような汗が浮かび、荒げた呼吸も限界を超えた肉体の酷使に途切れ

 途切れになっている。

  ようやく見えた大通りへの出口にほっと安堵を漏らす彼の目の前で、乱暴な運転で急停止した黒塗りのワゴンがそれを塞いだ。

 最初は追っ手側の差し金かと肝を潰したが窓から身を乗り出した古滝の姿に二度目の安堵の溜息を漏らし、すぐに後部座席の扉を

 開いて転がり込むようにして飛び乗る。

 きらびやかな夜の街のネオンを切り裂いて爆走するワゴンの車内で一通り呼吸が落ち着くと、初めて古滝の後頭部以外に見える人影が

 ない事に気づいた。

 犬たちは放っておいてもアイアンメイデンに戻ってくるように訓練されているし、もし捕まった場合は自爆して一切の証拠を残さない。

 古滝は紫陽花を病院に届けてから急いで戻ってきたのだろうが、しかし蝶姐は?

 「ティエチェの返事が来ねえ。スキンシャークの奴にやられたかもな」

 自分の疑問を感じ取ったのか先手を打って古滝の口にした言葉に、ズボンの泥を払っていたハヤシバラの動きがぴたりと停止する。

 「つまりそれって…」

 「紫陽花は裏切りで負傷、ティエテェは恐らく殺された、ユマの回収は失敗、もし俺らがこの街で動きを起こした事がバレたら百狼会と

 ロッキング・チェアーズの関係は悪化でしかもその責任は全部アンダーガードにのしかかってくる。…笑っちまうだろ?」

 背もたれにどっかと身を預けたハヤシバラもさすがに閉口したが、古滝はいつもの緊張感のない口調でもう一言を発した。

 「犬飼の旦那…いや、俺らも下手したら上部組織に処刑されるかもな」






  どこをどう走ったか記憶にはまったく残っていない。

 ただ何度も胃液を戻した事と、自分を手刀で切りつけた事だけ覚えている。

 何でそんな事をしたのかはわからない。

 だけど皮膚に走る傷の痛苦だけが、粉々に砕け散ってしまいそうな自我を辛うじて肉体に繋ぎとめておけるような気がした。

 返り血まみれの自分を道行く色んな人に見られた。

 どんなものだったかは忘れたが絡んできた奴(真に親切で声をかけてくれただけかも知れなかったが)を何人かぶん殴った。

 ただただひたすら胸の奥に宿る心が重く、斬り捨ててしまいたい衝動に何度も駆られた。



  始めて、自分が立ち止まってじっと見つめているものが何か理解できた。

 廊下の天井に等間隔に灯る蛍光灯が、淡く光をコンクリートに落としている。

 そこに浮かび上がっているのはクリーム色のスチール製のドアだ。

 ひどくそれが遠く思えた。これは本当に現実のものなのだろうか? 混沌に精神を犯された自分の妄想の産物ではないのだろうか。

  ここは九灯のマンションで彼の自宅だ。

 一階の要塞のような正面入り口の通過パスワードは前に聞いているが、部屋に招かれた事は一度もない。

 それは多分自宅は自宅で別の愛人と逢う場所になっているからだろうが今の彼女にそこまで考えは及ばなかった。

  背後の柵を通して見える夜景は場違いに瞬いて美しい。

 一瞬の躊躇の後にインターホンのスイッチを押すと、相手の言葉が来る前に蝶姐は言葉を漏らした。

 「芹人さん」

 泣きそうになりながら、しかし必死に涙は堪えた助けを請う声がガランとした空虚な廊下に響く。

 「助けて」

 扉の内側からチェーンと鍵の下りるくぐもった金属音がして、スチールの扉が重く開かれた。

 隙間から姿を見せた相手の姿にもう一度彼の名を呼ぼうとしたが、慌てて蝶姐は言葉を飲み込まざるをえなかった。

 相手はきつい香水の香りのする若い女だった。

 「誰?」

 不躾に答えた相手の顔には見覚えがあった。確か九灯の愛人の中で一番上の…

 「何でも…ないです」

 慌てて取り繕うように漏らしてぱっとその場に背を向けた彼女の姿をしばし女は呆然と眺めていたが、すぐに室内から聞こえた男の声に

 扉を閉じる。どこかで見たような見ないような顔の娘だったが、特に重要な事でもなさそうなのですぐに忘れる事にした。

 パタパタとスリッパで深い絨毯を踏みながらキッチンへと戻る。

 「誰だ?」

 食卓で煙草をふかしていた男の質問に軽く微笑んで女が答える。

 「さあね。ドアを開けたらすぐ行っちゃった」



  マンションを出た蝶姐に夜に塗り潰された街は恐ろしく巨大なものと化して圧し掛かった。

 今さらながらに知ったたった一つの現実は、自分がどうしようもなく一人だと言う事。

 どこに逃げ込めばいい?

 行き場も帰る場所も失い、孤独に震え渦巻く絶望に呆然とする彼女はふと、いつも思っていた事が再び己の心を覆って行くのを感じた。

 ――― 私はどこに帰ればいいんだろう? 誰に助けてもらえばいいんだろう?






  夜の闇が次第に朝日に飲み込まれ、ついにはその一片さえもが失せた頃。

 目覚めた街は平常の賑わいを見せて嵐のように過ぎ去った狂騒の一夜を何事もなかったかのように塗り変える。

 アンダーガードの根城に近い地下街からやや脇道に反れて走る地下道の一つ、この人に忘れ去られた地区も朝日の恩恵を受けて天井が

 途切れている場所からはさんさんと十二月の陽光が注いでいた。

  冬の朝のツンと澄んだ空気に鼻腔をちくちく刺されながら、等間隔で天井の穴から注ぐ四角く切り抜かれた光の下を一人の少女と犬が

 真っ白な息を吐いて歩いている。

 薄暗く常に淀んで湿気た空気が充満するここも朝だけはマシになる。

 頭上の通風孔の隣を通る地上の歩道から通行人がゴミを投げ捨てる為、狭い通路は埋もれて非常に汚い。

 過剰なフリルのついたスカートの裾にゴミがつかないように気を遣いながらジャスミンは黙々と前進を続けた。

 犬がふんふんと鼻を鳴らしてその後をついてくる。すらりと痩せた柴犬と何かの雑種で毛皮に斑模様があるのが特徴だ。

  通路を一通り探したが今朝は『食料』は落ちていなかった。

 住処にしている部屋には拾ってきたまだ辛うじて稼動する冷蔵庫があるが、中に保存しているものもそう長くは持つまい。

 朝日を砕く軽くウェーブのかかった栗色の髪に指を絡ませながら、ジャスミンは小さく整った鼻で大きく溜息をついた。

 やがて両手をいっぱいに伸ばせば両側の壁に届いてしまいそうなくらい狭い地下道を抜け、直角に交わる広めの通路へと出る。

 頭上ではやはり通気の為に天井には等間隔で吹き抜けになっており、壁に走るダクトの口が時折蒸気を吐き出していた。

 足元に散らばるゴミを蹴飛ばしながらちょっと見ただけではわかりそうにもない、薄汚れた壁の中から凹んだ取っ手を見つけ出して引く。

 扉の内側に貼り付けたベルがカランカランと乾いた音を立てた。

 元が何の目的で作られた部屋なのかはわからないが恐らくは倉庫か何かだったのだろう。天井や壁をぐねぐねと走るパイプを覗けば

 その部屋は綺麗に片付いており、どこから見つけてきたのかディズニーのアニメに出てくるようなメルヘンチックな調度類によって

 占められていた。

 確かにジャスミンの持つ雰囲気からしても、おとぎ話の世界のようなその部屋は素晴らしくマッチしている。

  入ってすぐの部屋は台所になっており奥の部屋へと進むと彼女は樫の木のテーブルにテーブルクロスを広げた。

 部屋の片隅に置かれている古めかしいミシンの周囲にはやりかけの洋裁や布切れなどが散乱しており、そこにちらりと眼をやってこなすべき

 仕事のことを頭の一角に置いておく。

 半ば趣味でやっているデザイナーの真似事で、たまに蝶姐が差し入れてくれる服やはぎれ、死体から剥いだ服などで作った洋服である。

 『フラワーチャイルド』という彼女独自のブランドでたまに蝶姐に頼んでメーカーに送ったりしているが、世の中の人にはなかなか好評のようだ。

 最も向こう側は試作の服の材料の一部分が腐乱しかけた死体の衣服だったとは夢にも思っていないだろうが。

 隣の部屋を行き来して食器やティーポットなど並べ、それが終わると椅子に腰掛けてお湯をついたポットの中身がお茶になるのを待った。

 黒いエナメルの靴と白いハイソックに包まれた両足を、少し高めで爪先がつかない椅子から伸ばしてぶらぶらと弄ぶように振りながら、しばし

 彼女は相手に声をかけるべきかどうか迷った。

 「ねえ」

  意を決して鈴が鳴るような声を放ったが、ベッドの中から反応は何もなかった。

 椅子から飛び降りて木製のベッドまで行き、毛布に包まっている相手の肩に触れるともう一度ジャスミンは声をかけた。

 「ねえ、お姐さん。お茶を飲まない? クッキーもあるわ」

 もぞもぞと気だるげなイモムシのように毛布から頭を出した女に、ジャスミンはにかんだように笑って見せた。

 激しい頭痛と吐き気、それに頭の中で激流と化して渦巻く鬱屈した精神に妨害されて微笑みを返す事はできず、蝶姐は礼だけ言って上体を

 起こした。

 毛布を跳ね除けて目頭に手をやる。メンテナンスを受けていない右腕は動かないままだ。

 そしてそれとは別にだるく、血と鉛が入れ代わったように全身が重かった。溜息を一つ。

 「ありがとう、ジャスミン」

 もう一度礼を口にして髪に手をやる。ボサボサだ、肌の調子も悪い。きっと今の自分はひどい顔をしているだろう。

 「でも遠慮しとく。食欲がなくて」

 「そう。…それから、古滝さんに電話をしておいたわ。悪かったかしら?」

 上目遣いになって潤んだ大きな瞳を向けられ、ようやく蝶姐は相手に笑顔を返す事ができた。

 「…あー。いやあ、いいよ。ゴメンね、色々」

  昨晩突然押しかけた彼女をジャスミンは快く向かえてくれた。

 アイアンメイデンに向かわず何故ここへ来たかは自分でもわからないが、ただ彼女だったら自分を拒絶はしないだろうと言う根拠のない

 希望があったからだ。

 ベッドから足を下ろして腰掛ける形になりながら、これからどうするべきかもやのかかった頭で考えを巡らせる。

 まずはアイアンメイデンに行って昨晩の事情を話さなければ。ユマは恐らく摩昼が連れて行っただろう。

 昨日の事を思い出すのは辛かったが仲間達にもあまり迷惑はかけられない。行かなくては。

 全身に圧し掛かる脱力と虚無感を意図的に無視してベッドを降り、ジャスミンがハンガーにかけておいてくれた服を着込む。

 また大きく溜息を一つ。

 幼いなりに落ち込んでいるのはわかるのだろう。相手を気遣ってかジャスミンはそんな蝶姐には昨晩から何ら質問を投げかけなかったが、

 髪を撫で付けている彼女を上目遣いに見上げながらふと遠慮がちに口を開いた。

 「何かあったの?」

 蝶姐の一呼吸分の時間が停止し、それが解けると柳眉を垂らして苦笑する。

 「ちょっとね」

 あの時、摩昼は自分を見てどう思っただろう。変わり果てた幼馴染に絶望しただろうか?

 摩昼が自分に何らかの、恋愛感情とは別の親愛感を自分に持っていたとしてもそれはすべて砕け散ってしまっただろう。

 最も恐れていた事態だった。しかし自分がそういう人間だとバレるのはある程度予想できないでもなかった。

 「いや。違うかな」

  ふと一人そう否定を呟いた彼女をジャスミンが不思議そうに見上げる。

 「私が一番怖かったのは多分、摩昼に嫌われる事じゃない。摩昼が私の事を忘れちゃう事だったんだ」

 摩昼に嫌われたら生きていけないような気がしていたが、しかし今蝶姐の胸の中には大幅な絶望と小さな希望。

 もう、いや最初から摩昼と自分は愛し合う事は不可能だった。今回それがはっきりしただけだ。

 だけど今生まれた一粒の希望は多分、どんな形であれもうしばらくは彼の人生に関わっていけるだろうという絶望的な希望だった。

 「?」

 「ああ、何でもないよ」

 膝を床につくとジャスミンの小さな体を抱き寄せる。肌で感じる少女は淡い花のような香りを漂わせていた。

 「ありがとう、ジャスミン。貴方がいてくれて良かった」

 



















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