プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -






レディオガール
RADIO GIRL


4.悪夢絵師


  キャンバスをベンチに置いてイコンは一歩、踏み出した。

 夕闇よりもまだ暗い髪が僅かに踊り顔にかかったがイコンは気にも留めなかった。

 「殺しはしない」

 もう一度そう言って彼女は隣に立っていた男のうち一人のタキシードを掴んだ。

 立ち尽くしていた男は二人共微動だにせず、ガラス球の瞳だけがじっとパンハイマとサチをねめつけている。

 その視線から何ら意志というものは感じられずにイコンだけがあの中で一人、妙に際立って見えた。

 といってもその違いはただの人形か、ゼンマイ仕掛けで動く人形かくらいのものだ。どちらも人間離れしている事に変わりは無い。

 イコンが小枝ように細い指で掴んでいたタキシードの裾を思いっきり引っ張ると、カーテンのようにはためいて黒布は男の体から

 滑り落ちた。

 夕闇の中に浮かび上がった白蝋のごとく生白い、痩せこけた身体に走る筆の跡をパンハイマは見た。

 ゴッドジャンキーズ全員が彫っている喉の下のイレズミをはるかに延長させたような文様が肋骨の浮き上がった胸板、腹部から腕、

 爪の先まで隙間なく深い蒼を基調とした色彩で細やかに這っている。

 その散りばめられた断片的な絵が一つの何か、哺乳類のような動物を描いている事にパンハイマは気づいただろうか?

 全体に浮き上がるペイントと台紙となった透き通るような白い鉱物の肌は奇妙な調和を見せ、彼は場違いにもそれを美しいと思った。

 しかし自分の腕を掴んだサチの手が震えを増している事に思い出したように気づき、すぐに我に返って彼は懐に突っ込んだ手の中の

 固い鉄の物質を確かめる。

 正気を望んでとっくに手放した相手が何をしようとしているのかは予想の範疇ではない。

 「殺しはしないけれど…」

  別の筆を取り出して目の前の男の背に回り、イコンは言葉を続けた。

 「それも貴方達の努力次第」

 背伸びして彼女は男のうなじの下あたり、両脇の中間あたりの場所に空いていたスペースにゆっくりと、愛撫するように筆を走らせた。



 「おやおや」

  人影は瞳を閉じたまま苦笑のような表情を浮かべて見せた。

 彼の作る表情の一つ一つ、そのすべてに奇妙な違和感を感じずにはいられない。

 歪めた唇の端も三日月を描く目じりも歯車で可動するようにどこかギクシャクと不自然だ。

 あえて表現するなら、その表情の向こうには何もない ―― 『空っぽ』だとでも言うべきか。

  神薙市内、某所。

 眼下に広がる街の明かりを一望できるビルの屋上で、クシミナカタは鉄柱に手を当てて立っていた。

 空が近い。手を伸ばせば天上に顔を見せている気の早い星々を掴めるほどに。

 彼のその隣にはすっかり闇に閉ざされた世界よりも尚暗いタキシードをまとった男 ―― 久牢が影のように控えている。

 蓬髪から覗くナイフのように鋭い眼はクシミナカタと同じ方向の闇の奥へと縫いつけられていた。

 「殺さないなんて気はさらさらないみたいだ…イコンも向こう見ずな子だね。だからこそまあ、そこが好きになったんだが」

 「命令違反です」

 後ろで手を組み合わせながら、すらりと直立していた久牢が抑揚の無い声を発した。

 ゴッドジャンキーズ共通の無機物感が彼が元から足元のコンクリートから生えているような錯覚に陥らせる。

 「ああいう子なのさ、放っておいておあげ。…さて」

 クシミナカタの瞳が薄く開き、淡い光を放った。

 「今夜も『アンテナ』の感度は良好だ…電波を集めるのに苦心しなくて済む」

 勘が鋭い人間ならば見えたかも知れないだろう、クシミナカタの周囲に渦巻く色を持たない流動を。

 街から湧き上がるように滲み出てきたそれは、やっと探していたものを見つけたかのようにクシミナカタの元へと収束されてゆく。

 そう、帰るべきたどり着くべき場所を見つけて殺到するかのように。

 仏頂面を貼り付けたまま不動の姿勢を保っている久牢はともかく、常人ならば卒倒しかねない不快感と鬱屈を含んだその『電波』は

 クシミナカタの針金のように細い身体に巻きつき、一通り蹂躙した後に腕を伝ってやがて彼が手を当てていた鉄柱へと流れ込んだ。

 もし電波に色があればクシミナカタの全身を頭も尻尾もない、何百匹もの異様に細長い蛇のような何かが生き物のように這い回るのが

 見えたかも知れない。

 サチがパンハイマに説明したのと同じ、人々の誰もが持つ『送信アンテナ』から無意識に発する孤独、怒り、絶望などのやり場のない感情

 ―― 彼女とクシミナカタが『電波』と呼ぶものが今、彼の身体に集結しているのである。

 手を伝って鉄柱へと怒涛のごとく流れ込んだ電波はたちまちのうちに鉄柱の頂上―巨大な皿のような物体から凝縮され、再び中空へと

 放たれた。

 一直線に火線のように帯を描いてそれは闇の彼方へと送信された。

 パラボラアンテナから今しがた集めたばかりの電波をビームのように撃ち出したのである。

 その向かう先は?



  イコンが筆を下ろして全身にペイントを施された男の元から早足で離れるのと、天から落ちてきた目に見えない『何か』が男の

 身体に稲妻のように落ちるのはほぼ同時だった。

 それは周囲にまさに落雷のごとく凄まじい衝撃を放って空気を震わせ、砂煙にパンハイマとサチはほんの数秒視界を奪われた。

 その遮断された視界の中、パンハイマの鉄の眼は別のものへと変貌を遂げようとしている男の姿を見た。

 痩せこけた体中に浮き上がった血管は全身を這い、仰け反った胸には間隔を置いて電撃の帯がほとばしる。

 極限まで見開かれた目はもう何も見ていなかった。

 ぐおお、と大きく背に上体を折ってその男が呻きとも悲鳴ともつかない声を肺の空気と一緒に絞り出す。

 その背でイコンが真っ直ぐに自分の胸の前まで腕を持ち上げ、気を送るように両方の掌を男に向けた。
                                                      ノイズアンドノイジー
 「見せてあげる。ゴッドジャンキーズが生み出したナイトメアウォーカーの抽出・具現化術『雑音鏡界』を!」

 正面の男から放たれる猛烈な邪気を含んだ風を浴びて髪をなびかせながら、イコンは最後の解除の言葉を口にした。
  エントリー
 「ENTRY!」

 言葉が終わった瞬間に男の身体は破裂しそうな勢いで膨れ、ねじれ、急速に縮んでを一呼吸の間に繰り返して僅かずつ成型を始めた。

 サチは視界が回復せずとも相手のその全身にまとわりつく電波を感じた事だろう。

 いつも自分が感じている電波の量の比ではなく、もっと意図的に収束し凝縮されたより強大なものを。

  終始続いていた音が男の絶叫だと気づくのに何故か随分時間がかかった。

 現実離れし過ぎた悪夢のような状況のせいだとパンハイマは一人納得した。

 見えない手で粘土をムチャクチャにこねまわしているような変貌が終結を迎え、砂煙が落ち着いて視界が晴れた時その場には新たな

 影が出現していた。

 男だった時よりもいくらか背丈が伸びている。

 頭上で哺乳類がいななく声を聞いてパンハイマは驚愕に固まった。

 馬だ。

 闇に踊る長く蒼いたてがみとしなやかな筋肉を持ち、その全身には人間だった頃と同じく全身に奇妙な文様のようなものが走っている。

 瞳からは何の感情も読み取れない赤光を放ち、パンハイマとサチを見下ろしていた。

 さかんにアスファルトの道路をひづめで引っ掻きながら、長い首をもたげてもう一度灼けつくような吐息と共に男だったものはいななきを

 上げた。

 「私は人の心の底に潜む怪物を絵にして描ける。その絵はキャンバスが人間の体なら、クシミナカタが集めた電波を送り込んで具現できる」

 優しく、しかし冷血にイコンは笑って見せた。

 氷でできたひまわりのような笑顔だった。

 「素敵でしょう?この馬は嵐みたいな憎悪に身を焼かれた人の心にいた子。教団がさらってきた人だったけどね…

 憎しみが伝わってこない?何もかも轢き殺してやりたくなるような、迅風みたいな憎悪が」

 馬の横腹に愛しそうにそっと触れて、イコンはもう一度笑って見せた。

 「スレイプニル!」

 命を受けて空気を切り裂く、何か高い音波のような咆哮を上げてスレイプニルと呼ばれた馬は後ろ立ちになる。

 「お…叔父さん」

  パンハイマの背後にくっついていたサチが恐怖に支配されて強張った声を出した。

 見開いた目は展開されている出来事を到底現実だと認識できている風はない。

 「走れ、サチ!」

 背後にサチを押しやってパンハイマは懐に突っ込んでいた手を抜いた。

 その掌に握られていた鉄の節くれを確認し、サチの眼の光が僅かに驚きに波打つ。

 いつか教えられた通りに手の中の銃を構え、両足を大地に固定するとパンハイマは立て続けに引き金を引いた。

 前足を下ろして四脚で降り立ったスレイプニルの鼻っ面が不意に弾け、赤黒い塊を撒き散らす。

 「無駄よ。物理的な破壊力では雑音鏡界は破れない」

 イコンの嘲笑に呼応するかのごとくスレイプニルは失った鼻先の肉を物ともせず、突然引き絞られた矢のようにパンハイマに突進した。

 慌てて背を向けて走り出したすぐ前方でサチが待っていた。

 「叔父さん!」

 「バカ、走れっつったじゃないか!」

 サチの首根っこを掴むようにして慌ててパンハイマは彼女を進行方向に押しやった。

 「どうなってんの!? どうなってんのよぉ!?」

 彼に急かされながらサチが素っ頓狂な叫び声を上げる。

 「知るか、喚いてないで走れ!」

  不意に振り向いたパンハイマの背後で、雷のような勢いで駆けていたスレイプニルの姿が霞んだ。

 本能的に背筋に走った冷たさに咄嗟に彼がサチの腕を掴んで道路の脇に跳ぶ。

 サチの短い悲鳴を引き裂き、渦巻く白い波動をまとったスレイプニルは文字通り一本の光の矢となって電光の勢いで直進した。

 ゼロコンマ数秒で加速した彼の通り道から辛うじてパンハイマたちは姿を消す事ができた。

 道路の脇へと退いた二人が何とか顔を上げると、追い越したスレイプニルがゆっくりと長い首だけ回して振り返る。

 サチは確かに馬が嘲笑したように感じた。

 銃弾によって弾けた鼻っ面の肉は何時の間にか再生している。

 「あの野郎、笑ったよ!」

 パンハイマの手を借りて立ち上がるサチが憤慨して声を荒げた。

 その声は彼には届いていない。

 驚愕と共に瞳に映っているのは、加速したスレイプニルの通り道のアスファルトがすべて熱によって半円状に削り取られている

 という現実だったからだ。

 直撃していればパンハイマとサチは跡形もなく蒸発していたに違いない。

 「参ったな」

  冷汗を拭ってパンハイマは考えを巡らせた。

 よりによってギガントを連れてきていない日に相手が理解不能な力を使って襲い掛かってくるとは。

 落ち着け、必要なのはこれを現実だと理解すること、そして状況の打開策を見つけること。

 パンハイマは手の中の拳銃を握り締めたまま頭の中でそう自分に言い聞かせた。

 銃弾はあと四発、しかし命中しても効果がない事は照明済みである。

 スレイプニルは楽しげに尾を揺らすと胴体の方向転換をし、再び二人に向かって頭を下げた。

 「うわっ」

 慌ててサチの手を取るとパンハイマは再び逃避行に移る。

  ふと、左手の白い壁が途切れて檜作りの門が現れた。

 一瞬の躊躇の後に銃で通用門のカギを破壊し、足で蹴飛ばして扉を開くと中に飛び込む。

 「叔父さ…」

 振り向いたサチが焦燥に駆られて叫ぶが、その言葉が終わるより早く再びスレイプニルは光の矢と化した。

 たった今しがた二人が通ったばかりの扉を突き抜け、土壁の破片を撒き散らしながらスレイプニルは砂埃を切り裂いてその姿を

 浮かび上がらせる。

 しかし煙にその影が滲み出るより早く彼の視界から小さな二つの動体は消えていた。

 軽く鼻を鳴らして赤光を放つ双眸を巡らせると、広い日本庭園に面した屋敷の戸が派手に蹴破られている事に気づく。



  土足で畳張りの部屋を横断しながらサチは気兼ねして聞いた。

 「勝手に入っていいの?」

 「良かないけど、どうせ人は住んじゃいないよ」

 このへんはバブルの時代に生まれた高級住宅街だからね、と付け加えて再びパンハイマは知能指数300とも400とも言われる

 頭脳を巡らせた。

 銃は効かない、さりとてあの足では逃げ切られるかどうかも怪しい。

 いくつもの障子を開き、広く長い廊下を小走りに進みながらパンハイマは焦りを隠せないでいた。

  すっかり夜闇は落ちているがパンハイマのヘッドディスプレイの眼には暗黒のベールなどないも同然である。

 何度も段差に足を取られて転倒しそうになるサチを抱き止めながら、パンハイマは口を一文字に結んで頭をフル動員させる。

 あいつらなんでサチを狙ってる、やっぱり『アンテナ』とか言う力が目的なのか? いや、今はそんな事考えてる場合じゃない。

 手を引かれていたサチがパンハイマの焦燥を悟ったのかおずおずと進言した。珍しい態度だ。

 「あのさ。ゲームとか漫画だとこういう場合」

 「?」

 思わず立ち止まって振り返ったパンハイマにサチは続けた。

 「つまり、本体をやっつければ倒せるんじゃないかなーって」

 本体?

 パンハイマの頭が閃いた。

 「そうか、あの…イコンとか名乗ってた」

 「ダイコンの親戚かな」

 「今はいらんギャグは言わんでいい」

  パンハイマが再びサチの手を引いて歩こうとした時、不意に重心を移すのに失敗した彼女が足がもつれて派手に転倒した。

 「ひゃっ」

 「あらっ?」

 短い悲鳴につられて手を引っ張られたパンハイマが同じく廊下に転がる。

 何をやってるんだ、とパンハイマが慌てて床に手をついて口を開こうとした瞬間、背後の壁が紙のように千切れ飛んだ。

 咄嗟にパンハイマがサチの状態に覆い被さり、破片から彼女を守る盾となる。

 長年に渡って体積した埃と土壁から沸いた砂煙からゆっくりと影が浮かび上がる。

 ほんの数秒前まで転倒する前に立っていた場所は、スレイプニルの突進を受けて跡形もなく消滅していた。

 そう、今二人の目の前に絶望が蒼い馬の姿を借りて具現化したのである。

 背に受けた土壁の破片で打撲を作り、苦痛に表情を歪めながら起き上がったパンハイマをスレイプニルが見下ろした。

 今度は彼にもわかった。この目の前の憎悪という分子を凝固させて作った怪物があからさまに嘲笑したのが。

 「くそっ」

 珍しく罵倒が口をついた少年の視界はもやがかかったように曖昧なものになっていた。

 予想以上に背に受けたダメージが大きいらしい。よろめいた彼を立ち上がったサチが抱きとめた。

 「叔父さん!」

 「『ハンス』だってのに…」

 歯を食いしばって苦痛を無視しながらもサチに肩を借り、パンハイマは何とか銃口をスレイプニルの鼻先まで持ち上げた。

 弱々しく痙攣を起こす腕にはまったく力がこもっていない。

 彼をバカにしたようにスレイプニルは鼻を鳴らした。

 「笑ってろ馬野郎…くそっ」

 熱を帯び始めた背の怪我に意識を持って行かれそうになるパンハイマの耳に、悲痛なサチの声が遠くでがんがん木霊した。

 「叔父さん! 叔父さん!」

 サチの瞳から溢れた涙が彼の頬に当たった。

  スレイプニルが二人をねめつけるのに飽きたようにいななくと、頭を下げてひづめで床を掻いた。

 全身に少しずつみなぎる、見えない流動のようなものが渦を巻いて馬の身体にまとわりつく。

 もはや対抗するすべての術がなくなったらしい。

 サチを突き飛ばして相手の突進の軌道から反らす準備をすると、パンハイマは不敵に笑って見せた。

 「馬面野郎」

 罵倒が相手に伝わったかどうかはわからない。

 しかしその言葉と同時にエネルギーを集中させて眼を焼くような光の球体をまとったスレイプニルの姿が不意に霞んだ。

 「いやだ!」

 サチがパンハイマの腕にしがみついて叫んだ。

 次の瞬間パンハイマはスレイプニルに向けていた、銃を持つ手に突然火がついたような熱を感じた。

 苦痛を感じる熱さではない。光の帯を巻きつけているかのような、強い信頼のある光が放つ熱だ。

 どうなってんだ?

 迫り来る相手に思わずサチを突き飛ばす事も忘れて、思いっきり瞳を閉じたパンハイマは頭のどこかでそう考える。

 閉じた瞳の奥で、全身の力が銃を持つ手に集中するような感覚を覚えた。



  突然瞳を開いたクシミナカタに久牢が声をかけた。

 「如何なされました」

 「いや…」

 闇になびく乳白色の髪をそのままに、クシミナカタは眼鏡の奥で遠く一点を見つめていた。

 夜に溶けてしまいそうな美貌はどこか強張っている。

 隠し切れない驚きの感情だった。

 「ふむ。面白い『アンテナ』の使い方をするねえ…イコンのピクチャーナイトメアウォーカーに対抗するとは」

 白蝋の顔をゆったりとした笑顔に変えて、クシミナカタはそう漏らした。



  目の前から感じる、圧倒的な悪意の風が消えたと気づくのにしばらく時間がかかった。

 恐る恐る瞳を開いたパンハイマの視界からはあの蒼い馬は消えている。

 それとは別に手の中に奇妙な感触が残っているのに気づき、ようやく周囲を照らす光に目をやった。

 手にしていた黒鉄色の銃に凝縮した光がまとわりついている。

 それは手から垂直に伸びて銃を柄とした、僅かに刃の反った剣のような形へと成型していた。

 刃渡りは60センチくらいだろうか? 周囲の闇を払う猛烈な光を放っている。

 「これは?」

 彼の肩までの金髪がその光を受けて柔らかに輝いていた。

  右腕にしがみついて顔を伏せっていたサチに、できるだけ優しくパンハイマが声をかける。

 「サチ」

 彼女の名を呼ぶと、聞き間違えたかのように別の存在が物音を立てて返事をした。

 慌てて振り向くとやや後方に立っているのはあのスレイプニルだった。

 ただしその半身は闇の中に埋もれている。

 正面から文字通り真っ二つになっているにも関わらず、その右側だけが床に降り立っているのだ。

 内臓は存在せず、両断された部分から見せる腹の臓腑からは粘質の闇が漏れ出している。

 脇に転がっている残りの左半身は死んだように動かず、しかし生き残った右半身のスレイプニルの単眸は微塵も赤光を

 弱めていない。

 もしかしてこの剣で?

 震えながらようやく顔を上げたサチを傍らに、パンハイマは目の前の青い馬を両断した武器を眺めた。

 溢れるような光を放つ剣からは重さは感じられず、しかし持ち主の意のままに動くような手との統一感を携えている。

 体の一部が増えたような感覚に不意にパンハイマはめまいを覚えた。

  ガリ、と床をひづめで削る音が彼の意識を明確なものへと戻した。

 半身だけで立っていたスレイプニルが再び頭を下げて身構えたのである。

 見る見るうちに蒼い馬の周囲に収束するエネルギーを前に、パンハイマは冷静に深呼吸をして自分を落ち着かせる。

 スレイプニルが床を蹴るよりほんの一瞬早く少年は銃口を背後に回して引き金を引いた。

 凄まじい光を放つ剣の刀身は瞬時にしてパンハイマが手にしていた銃をボーガンのような形へと変貌させ、発射された銃弾は光の帯を

 巻きつけながら短い槍のようにスレイプニルの半身を貫く。

 イコンに名を呼ばれた時と同じく、奇妙な高い音波のような絶叫を上げて彼の身体は急速に変貌を開始した。

 パンハイマが放った光の槍を胸に突き立てたまま、急速に膨れ上がり、ねじれ、縮みながら見る見るうちにその姿はしぼんで行く。

 やがてあらゆる変動が失せた時その場に転がっていたのは、あの全身にペイントを施されたゴッドジャンキーズの一員の男の半身だった。

 横たわる白蝋の肌に浮かび上がる文様は水をかけた墨絵のようにぼやけている。

 その脇でもスレイプニルの最初に息耐えた左半身が人間の姿へと戻っていた。

  呆然と立ち尽くすパンハイマの手の中の光は少しずつ失われてゆき、やがて周囲には再びもとあったように闇が立ちこめた。

 「すごい、叔父さん。どこでこんな事習ったの?」

 床に座り込んでしまっていたサチが、全身の脱力感を押さえて感心と羨望に満ちた声を上げる。

 「僕が?今のを?」

 サチの質問に、しかしパンハイマは自分に問うように気の抜けた返事をした。



  ベンチに腰掛けていた少女が不意に顔を上げた。

 「壊れちゃった」

 大して未練もなさそうにそう漏らし、キャンバスを片手に抱えて立ち上がる。

 「…面白くないわね」

 無表情の下に感情を隠しながらも、瞳だけは憎々しげに屋敷の奥を睨みつけてイコンがそう漏らした。

 その視線が恐怖に駆られて突然背後に向けられた。

 額を伝う冷や汗と、軽く乱れた呼吸は隠し通せていない。

  確かにイコンは自分を呼ぶ声を聞いた。

 その視界の淵に移る自分を鏡に映したような姿のもう一人の自分を見た。

 夕闇に支配された世界に浮かび上がる、幻燈のような存在を。

 再び放たれた声にイコンは見た目に似合わず声を荒げた。

 「うるさい!消えて!」

 端から見れば鬼気迫るその表情は、しかしひどく悲しげに見えただろう。

 しばらく送っていた視線を道に移すと、やがて彼女は黒服の一人と共にその場から風に吹かれた煙のようにその場を後にした。
















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