プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -






シスター・マリア

14.スプートニク


  夜の闇の中に浮かび上がるオシリス・クロニクル社は恐ろしく巨大で、何か不吉なもののように思えた。

 社はほぼ24時間稼動おり、建物は夜ともなれば照明で美しく照らし出されて一つの光の柱となるが、ガガにはやはりそれは

 醜く不安を掻き立てるものとしか映らなかった。

 しきりにトラックが出入りしているのは、資材を運び込んでいる為だ。

 社の正面入り口前でそれらのトラックが運んできた荷物を降ろしている男達は、皆一様に特殊な装甲服に身を包んでいる。

 物理的ダメージを可能な限り低下させ着用者の筋力の限界を上げる、ヤザワ火研のプロテクタースーツだ。

 体にぴったりした黒いボディスーツの上にごてごてと白い超強化プラスチックのプロテクターが装着されているもので、『保健所』の

 メンバーなどが使用しているものと同等の強化装甲服である。

  ひっきりなしに出入りする彼らの元へ場違いに派手なペイントの施された四駆を滑り込ませると、当然というか何と言うか彼らに

 呼び止められた。

 黒いシールドの貼られたパワーウィンドウを下げると、うんざりした顔のミス・シンデレラが顔を出す。

 「俺らは招待客だよ」

 相手が何か言う前にミス・シンデレラがそう先手を打った。しかし、

 「誰の紹介だ?」

 という相手の質問に次の言葉が出なくなる。

 少し考えた後にミス・シンデレラは切り札を口にした。

 「サイバーダイヴ能力者を連れてきた」

 その言葉に男は背後を振り向いた。ダンボールを運んでいた男が手を休め、彼と顔を見合わせる。

 「降りて社に入れ。車は俺が移動させる」



  ガガは今回始めて己の体でオシリス・クロニクル社に足を踏み入れた。

 もう社内に残っている人間は少ないのか余分な照明はほとんど落とされており、広大なエントランスホールは半ば闇に埋もれている。

 奇妙な感覚だった。テレビで見た記憶の中の名所に立ったような、言い表せないシンクロ感。

 「まさかこんな理由で再びこの場所に来ようとはね…」

 腕組みしてミス・シンデレラは感慨深そうに周囲を見渡す。

 切れ長の眼を更に細くさせ、一年前の屈辱を思い返しているようだった。

 彼の今日の格好は黒い革ベルトを全身にぐるぐると巻きつけたような服で、所々に降りている金具がジャラジャラと音を立てている。

 その上にボロボロのロングコートを羽織っており、ホラー映画のヒーローのようないでたちだ。

 輝く金髪をまとめて後頭部で一つに結えた彼はこの暗い中ではちょっと見女性と間違えそうだった。

  しばらく二人共足を止めてエントランスホールを見渡していると、軍服姿の男が奥からやって来た。

 特殊部隊が使うような真っ黒なものだが、先ほどの男たちとは異なりプロテクターがついていない身軽なものだ。

 ミス・シンデレラやガガもあまり人の事は言えないが、この幾何学的な美を醸し出す空間で軍服姿というのは異様に見えた。

 非常にがっちりした体形の彼は三十代の頭と言ったところだろうか、よく通る太い声で言った。

 「お疲れさん。待っていた」

 一瞬、ミス・シンデレラと彼とは視線を噛み合わせたまま動かなくなる。お互いの腹の内側を探っているのだろう。

 「ミス・シンデレラ…と、名乗っておこうか。こっちがガガだ」

 「貞島だ。ああ、名前なぞどうでもいい…来てくれ」

 そう言うと貞島と名乗った男は二人に背を向け、闇に飲まれたエントランスホールの奥へと歩き始めた。

 その後を追いながらミス・シンデレラが質問を口にする。

 「『スプートニク』に発掘に行くんだろ?」

 「ああ」

 「あそこに行く通路は全部埋まってる筈だ。どのルートから…?」

 やけに詳しいミス・シンデレラに対して貞島は微塵も疑問を感じていないようだ。

 やがてエントランスホールから寒々しい雰囲気の薄暗い通路へ出ると、天井の僅かな明かりを頼りに三人は先へと進み出す。

 「地下施設は非常時に備えていくつも脱出経路が用意されていた。それこそ蜘蛛の巣みたいに張り巡らされてな…

 例の事件でほとんど埋まっちまってたが、調査を進めるうちにスプートニクに通じるヤツが一つだけ生きてる事がわかった」

 腕を組んでミス・シンデレラは一人頷いた。

 ガガも質問したい事があったが言い出せないでいる。

 シスター・ヴェノムが電子的経路からスプートニクに侵入しつつあるという事だ。社のメンバーは知っているのだろうか?

 ガガはミス・シンデレラがその事を聞いてくれるよう期待したが、彼は彼で気になっていた事を口にする。

 「俺らを呼んだのは一体誰だ?」

 「それは言えん。知らんほうがお前らの身の為だしな」

 フン、とミス・シンデレラは鼻を鳴らすと、その事についてはそれ以上は何も聞かなかった。

  通路の途中に現れたいかにも作業用ふうの飾り気の無いエレベーターまでやってくると、貞島がボタンを押す。

 扉はすぐに開いた。

 まず乗り込んだ貞島が二人が自分に続いて乗り込んだ事を確認した後、『▼』のボタンに触れる。

 エレベーターの中には充分な照明があり、ガガは一瞬闇に慣れた眼を射抜かれた。

 下へと降りていく中、腕を組んだままのミス・シンデレラはまた質問をする。

 「具体的にはどうするんだ?」

 「一個中隊…歩兵が約30名、それに戦闘用兼荷物運びの戦闘用マシンが五体。それらをスプートニクに送る。
                                 ピーピング・ビー
 地下の状況はまったくわからん。磁気が乱れていて『告げ口蜂』も使えん」

 スプートニクには暴走した警備ロボットや、ナイトメアウォーカー発動実験に使われた被験体らが生き残っている可能性がある。

 多少なりとも力ずくで事を成す必要があるのだろう。

 「だが地下のネットは外部から隔絶されてはいるがまだ生きているのだ。

 サイバーダイヴ能力者が必要なのは地下のネットワークにアクセスして状況を確かめてもらう為だな。

 無論ある程度は情報も集めてもらうが…」

 「クドリャフカって知ってるか?」

 唐突な質問にガガと貞島の視線がミス・シンデレラに注いだ。

 彼はじっと貞島の瞳を覗き込むと、組んでいた腕を解いて腰に手をやる。

 「実はそいつが欲しくて今日はこんなとこくんだりまで来たんだ。

 今回の件がすべて成功したら彼女のボディを貰いたい」

 率直過ぎる要求にガガはヒヤヒヤした。貞島は尚もミス・シンデレラと視線を合わせたまま動かない。

 その固まった表情が失笑に変わった。

 「ふざけるな。スプートニクに存在する情報・物資はすべて社に所有権がある」

 「ふざけるな?」

 軽く両手を広げると、ミス・シンデレラは一歩も引かずに不敵に笑って見せる。

 「こっちのセリフだ、クドリャフカは元々自由の身だった筈。社がとっ捕まえて被験体になる事を強要したんだろうが。

 この情報をロシア大使館に持ち込んだらどうなると思う? 失踪した北方領土出身の少女は日本の企業の一つに拉致されていた…

 国際問題に発展するぞ」

 「…」

 貞島は睨みを利かせたが、ミス・シンデレラはおどけて肩を竦めた。

 ガガにとっては今ほど彼が頼もしいと思えた事はない。

 「俺に決定できる事ではない」

 ようやくエレベーターの扉が開いてその隙間から闇が漏れた時、貞島は溜息のようにその言葉を吐き出した。
           ともえがわ
 「責任者に聞け。巴川という男だ」

 「巴川だって?」

 ガガは瞬間的にミス・シンデレラの表情が変わるのを見た。

 「巴川 大の事か!?」

 彼のあまりの態度の豹変に、ガガと貞島の視線がミス・シンデレラに集中する。

 まるでその巴川という名が呪いの言葉であるかのように彼は身震いし、そして苦々しげに歯噛みした。

 「ネメシスの頭取じゃないか…何だってこんなとこに」



  たどり着いたホールは広大で、エントランスと同じ位の敷地があった。

 ただし社の顔とでも言うべきその場所とは違いこちらは飾り気がまったくなく、巨大な倉庫の中を思わせた。

 ここそこで装甲服を身に付けた人員が物資を運び込んだり点検する作業に追われている。

 スプートニクに送り込む人員は30人前後だと貞島は言ったが、ここではその倍以上の人間が忙しなく動き回っていた。

 背広姿の男も多く、恐らくは指令系統と思われる彼らは折畳式のテーブルの周囲に立ってしきりに何か話し合っている。

 貞島の後に付いて彼らの前まで行くと、ミス・シンデレラとガガの場違いな様相にその視線が一気に集中する。

 「『例の客』です」

 「おお」

 そう漏らして柔和に微笑んだ男は50代の前半という所だろう。

 一同の中心にいる彼がここの責任者らしかった。胸には『巴川 大』という身分証明カードが降りている。

 深い灰色の背広を着こなしており、歳相応には見えないがっちりした体格の持ち主だ。

 一頻りミス・シンデレラを眺めた後に、その視線は隣のガガへと降りてゆく。表情が苦笑に変わった。

 「待っていた。久し振りだな、神無崎君…に、あー…君は?」

 「ガガだ。そっちのお望みのサイバーダイヴ能力者だよ」

 ミス・シンデレラがガガの自己紹介を代弁すると、巴川を含めた一同が静かにざわめく。

 ガガを見下ろして何事か囁き合う者もいた。

 こんな子供だとは予想していなかったのだろう。ガガはそんな態度を見せる大人たちに何だか気分が悪くなった。

 「ま、よろしく頼むよ、ガガ君。神無崎君もゲストとしてよろしくな。過去の事は水に流して」

  温和そうな雰囲気の巴川は握手を求めて右手を出したが、何故かミス・シンデレラは無表情のまま左手を差し出した。

 不思議そうに眉を寄せた巴川が右手を引っ込め、彼と左手で握手をし直す。

 ガガはこの時ミス・シンデレラの表情が強張っている理由は、相手があのネメシスの幹部だからだろうと単純に考えていた。

 彼は一年ほど前に同社に仕事の関係で煮え湯を飲まされているのだ。

 ミス・シンデレラはは外見上はいつものように落ち着き払って冷静のように装っていたが、その反面で今にも目の前の男に

 右腕のランチャーを炸裂させそうな殺気を霧散させている。

  そんな彼の態度に気づいているのかいないのか、巴川は微笑みを浮かべたまま説明を始めた。

 「おおよそは貞島に聞いただろうが、更に詳しく説明しておこう」

 「その前に」

 冷ややかなミス・シンデレラの口調に巴川が顔を上げる。

 「あんたはネメシスの人間の筈だ。何で今回の件に?」

 「私のとこはオシリス・クロニクル社と専属契約をしている警備会社だよ。

 今回は司令官として呼ばれていてね、彼らが持ち帰った品々の管理も任されている」

 こちらの不躾な態度にも穏やかな姿勢を変えない彼の様子を眺めたまま、ミス・シンデレラは彼の経歴について調べた事を

 思い出していた。

 巴川は陸軍士官学校出のエリートで元軍人、退役してからネメシスを立ち上げた男だ。

 実戦経験の持ち主が必要だと踏んで、オシリス・クロニクル社が彼を呼んだのだろうか。

 しかしミス・シンデレラは巴川について、それ以外のある一つの経歴を知っていた。

  彼らの周囲には様々な電子機器が積み上げられ、仮設のコントロールルームとなっている。

 それらに見下ろされている折畳式のパイプ椅子を二人に勧めると、巴川はテーブルの上に広げられていた地図を目で指した。

 「それがスプートニクの地図だ。ただしそこへ通じる通路のほとんどは崩れ落ちて通行不可能…

 ところが最近の調べで一つだけ比較的被害の少ない通路が発見された。

 『ライカ』って名前が付いてる、その赤く塗られているヤツだ」

 ガガは巴川に促されるままに椅子に腰を降ろしていたが、ミス・シンデレラは立ちっぱなしでじっと巴川を睨んでいる。

 ネメシスとの一件ではよほど腸の煮え繰り返る思いをしたのだろうとガガは思った。

 ガガがテーブルに視線を落とすと、画用紙に整然と引かれた図形の中に赤い線が糸のように走っている。
                      インセクトロイド
 「そこを通って一個中隊と戦闘用の多脚機械を五体ばかり送る。質問は?」

 「ガガが安全だという保障が欲しい」

 抑揚のないミス・シンデレラの言葉に、巴川は彼と視線を噛み合わせた。

 ミス・シンデレラは相変わらず眼から火を吹きそうな視線を相手に注いでおり、それは無茶をしないかとガガを不安にさせる。

 「ガガ君の役目はスプートニクの状況を知るマップを手に入れる事だ。

 かつての事故以来、スプートニクでは磁場の混乱や断線・マシンの暴走など計り知れんカオスが発生している。

 スプートニクのメインデータバンクには地下施設の現状を知る為の…まあ自己健康診断の結果みたいなデータがある。

 それは常に自動で更新されているから、最新のバージョンを手に入れて来て欲しい。

 特に危険はない…ずっとインセクトロイドに乗っててもらうしな」

 「どのくらいで終わる?」
             ライカ
 「今夜はとりあえず通路の確認とその地図の入手だ。三時間もあれば充分だな」

 もう何も言う事がなくなったらしく、ミス・シンデレラは口をつぐんだ。



  どうやら義務らしく、ガガもプロテクタースーツの着用を促された。

 体にぴったりした真っ黒なボディスーツの上にプロテクターを装着して行き、最低限の装備を取り付ける。

 最終的には頭部から下のすべてがスーツに包まれた。
                  ひしがみ
 着替えるのを手伝ってくれた菱上と名乗る隊員は一番サイズの小さい最軽量のものだと言ったがそれでもガガにとっては大きく、

 ベルトをきつく締めて裾をめくり上げてもまだ残る。

 思ったより動き易い設計になっているがかなり重く、日頃体を動かさない生活をしているガガには鉛のごとく圧し掛かった。

 加えてオプションの装備は他にも防毒マスクや水筒、緊急医療セットやツールナイフなど様々で、ガガは足を引き摺るように

 歩かねばならなかった。

 ガガがよろよろしながら菱上と一緒に着替えていた物陰から姿を現すと、ホールの奥にある大きな扉の前に召集を受けた

 兵士達が足早に集まっていた。

 菱上もガガの手を引っ張りながらそこに向かう。どうやら彼がガガの世話を請け負ったらしかった。

  あらかじめ隊列が決まっていたのか、誰に指示される訳でもなく装甲服姿の30人の隊員は颯爽と整列を済ませた。

 皆一様に背筋を伸ばして直立不動のまま胸を反らし、軍隊式の『気をつけ』の姿勢をする。

 ガガは菱上に押しやられて最前列におり、この中隊の隊長らしき男の隣に立たされていた。

 「休め」

 という中隊長の抑揚の無い言葉に、中隊のメンバー全員が機械のような正確さで体勢を変える。

 ガガは見知らぬメンバーの前に立たされて緊張を隠せない。張り詰める周囲の空気に胃がキリキリする。

 「我々は現在よりオシリス・クロニクル社の地下施設『スプートニク』へ足を踏み入れる。

 今日のところは通路の確保と地図の入手だが油断はするな。それから…」

 彼は隣のガガに視線を落とした。

 「こっちの客は最優先で守れ。サイバーダイヴ能力者だ。以上」

 短い前振りはそれだけで終わり、各隊員は自分の配置に向かって再び動き始めた。

 彼らが肩に下げている銃は狭い通路内でも使い易い小型のマシンガンで、光を吸収する特殊な塗装がなされている。

 ガガには拳銃は渡されなかったが、代わりに菱上が刃渡り20cmほどの大きなナイフをベルトにつけてくれた。

 グリップについている銃のようなトリガーを引くと刃の温度が上昇し、白熱してシャッターでも焼き切れる特別製だ。

 緊急時には傷口を焼いて消毒する時にも使うらしい。

 まあ使わないだろうけどな、と笑って菱上はガガをホールの中央へと連れていった。



  途中、金髪を振り乱しながらミス・シンデレラがガガの元へと駆け寄ってきた。

 軽く息を弾ませながら走ってくるその姿に、ようやく緊張を解いたガガが笑みを見せる。

 「何だ、やたら大きくないか?」

 ガガがその言葉に右腕を上げて見ると、巻いておいた長すぎる袖が解けて彼の指の先まですっぽりと覆っていた。

 左手でそれを元に戻すガガの目の前に、不意にミス・シンデレラの顔が現れる。

 「ま、成り行きで結局ここまで付き合う事になっちまったが…後悔はしてないさ」

 跪いて相手と目の高さを合わせた彼の瞳からは、ガガを精一杯気遣う気持ちが伝わってきた。

 不思議な縁だがガガと出会わなければミス・シンデレラもこんな目には逢わなかっただろう。

 運命の分け目となったあのオフ会が今となっては何故か懐かしい。

 今まで考えた事もなかったが、ガガは今、彼という存在の有り難さが身に染みて伝わっていた。

 「色々ありがとう」

 心ばかりのガガの礼の言葉に、ミス・シンデレラはもう一度笑顔を見せた。

 「その言葉はまだ早い。クドリャフカを助け出して来てからだ…君が潜ってる間にボディの件は俺が話をつけとく」



  ホールの中央では五体のインセクトロイドが暖気を行っており、チリチリする排気風がガガの顔を撫でる。

 インセクトロイドとは小型乗用車よりも一回りほど小さい胴体に八本の足がついた、『タランチュラ』という愛称の通り蜘蛛に

 そっくりな乗用機械で、車両では侵入が難しい悪路や局地などに対して開発されたものだ。

 ガガもテレビやビル建設の工事現場で見た事がある。

 しかし今回のもの戦闘用らしく前の二つの足は銃砲となっており、二つのガトリングが無機質な輝きを放っていた。

 ガガが脚立を踏んで上がらされたインセクトロイドは最後尾のもので、蜘蛛の腹に当たる部分が搭乗席になっている。

 入り口から上半身を突っ込んだ菱上にベルトの装着を手伝ってもらいながら、ガガはプラスチックと鉄の織り成す表現し難い臭いに

 鼻をひくつかせていた。車の中のあの臭いだ。

 正面のモニタはすでに起動しており、前方のインセクトロイドの後部が映し出されている。

 「機器にゃ触るなよ。…まあ、自動操縦になってるから触っても意味ないんだけど」

 長時間座っていてもパイロットを疲れさせない為だろう、妙に座り心地のいい椅子に身を沈めたガガに菱髪はそう忠告した。

 複雑なベルトに身を縛られらたガガは、頭上の出入り口から顔を突っ込んでいる菱上に何とか頷いて見せる。

 「もしなんかあったらそのレバーを引いてくれ。ああ、非常時以外は使うなよ」

 ガガが操縦席の脇にある、火災報知機のベルのようにプラスチックのシールドに守られたレバーを指差す。

 「これ?」

 「そうだ。これから行くとこは磁場が狂ってて無線が使えねえ。ダイバーフォンもな…

 そいつを押すとアラームがなって仲間たちに異常を知らせる事ができる」

 もう一度ガガが頷くのを見届け、菱上は顔を引っ込めてハッチを閉じた。

 「じゃあな。出番になったらまた呼ぶぜ」

  彼が姿を消した事を確認すると、ガガは右手の手袋を取った。

 彼の白い手の甲には精密な刺青のようなものが走っている。十字架に炎の蛇が巻きついた、非常に細やかな細工物だ。

 左手でそっとそれに指を這わせながら、ガガは数時間前の出来事に思いを馳せていた。

 黒に一色にも関わらず非常に優美で豪奢なそれは、ある少女に入れてもらったものだった。



  ミス・シンデレラとガガがオシリス・クロニクル社に出る一時間ほど前、意外な人物がミッドナイトパンプキンを訪問した。

 早々に自分の用意を済ませたガガが廊下でミス・シンデレラの着替えを待っていると、誰かが傍らの階段を上がってくる音がした。

 ミッドナイトパンプキンのメンバーの誰かだろうと思い大して気にも留めなかったのだが、夕闇の迫る町を四角く切り抜いた窓を

 背に現れたのは黒い喪服姿の少女だった。

 ガガが驚いて身を預けていた壁から身を離すと、彼女は片手で顔のヴェールをめくって白い物憂げな表情をさらけ出す。

 「ナヴァルーニャ」

 「ごめんなさい。開いていたから」

 さらりとそう言って非礼を詫びると彼女はつかつかとガガに歩み寄った。

 「どうしてもクドリャフカの事が気になって…」

 「うん」

 変な相槌を打ちながら、ガガは内心全身の血液が逆流するような焦りに苛まれていた。

 彼はあまり親しくない人と、それも女の子と二人っきりで会話するのは何よりも苦手な事だった。

 内心ミス・シンデレラが早く着替えを済ませてくれる事を願う。

 「あれから何か進展は?」

 気恥ずかしさで彼女と視線を合わせる事もできないガガは何と言って説明すればいいか迷った。

 ミス・シンデレラならば冗談を交えてさっさと済ませてしまうような内容だが、ガガにとっては苦行だ。

 「オシリス・クロニクル社の地下にクドリャフカのボディが残ってるって事は知ってるよね。あー…それで…

 取りに行くんだ。これから…」

 「これから? またあの会社に泥棒に入るの?」

 ナヴァルーニャの冷たい色をした瞳に覗き込まれて、ガガの説明は益々たどたどしくなった。

 「違うよ。そのー…前に入っちゃった事がバレてて…その事をバラさない代わりに、今回の発掘に協力して欲しいって。

 ああ、オシリス・クロニクル社が地下施設っていうか…『スプートニク』に続いてる道が発見されたって」

 要領を得ないその説明にナヴァルーニャはくすりと苦笑を漏らした。

 どうしようもなくなったガガが俯いて頭を掻くのを見ながら、ナヴァルーニャは後ろで手を組んでその顔を盗み見る。

 「まだ時間はあるの?」

 「あと一時間くらいだけど…」

 「ちょっといい? 椅子とテーブルがある部屋を貸して欲しいんだけど」

 ミス・シンデレラは毎回着替えに手間取り、自室で何時間も衣装をとっかえひっかえしているようだ。

 今回もまた随分待たされるだろうと思いガガは頷いた。



  前にオフ会をやった部屋で、ナヴァルーニャは自分の黒いマニキュアを使ってガガの手にペイントを入れてくれた。

 ゴッドジャンキーズのメンバーであるイコンがデザインしたもので、彼女に教えてくれたらしい。

 お守りみたいな効果があるとイコンは言っていた、とナヴァルーニャは説明した。

  隊列を組んだ約30名の歩兵とインセクトロイドにより構成された中隊は、大扉を前に静止していた。

 その横にある小さなコントロールパネルをいじっていた兵士の一人が振り向き、高々と右手を上げる。

 普通の一軒家を二つ並べてもくぐれそうな大扉は、モーターが唸る音を立てながらゆっくりと両側に開き始めた。

 ―― 『生きて帰ってきて』 ――

  ようやく着替えを済ませて現れたミス・シンデレラと車へ乗り込む際、クルミと一緒に見送ってくれたナヴァルーニャはそう言った。

 ―― 『もしもクドリャフカを助けられなくても、生きて帰ってきて。

     例え彼女を見捨てたとしても、彼女自身を含めて貴方を責める人は誰もいないと思うから』 ――

  配置と同時にフルフェイスのヘルメットを被った兵士達と共に、インセクトロイドが脚部のシリンダーから圧搾空気が抜ける音を

 放ちつつ前進する。予想していたより搭乗席の震動は少ない。

 大扉の先にあるのは巨大な個室で、これ自体が一つの巨大な運搬用エレベーターとなっているらしい。

 中のコントロールパネルに再び兵士の一人が張り付き、操作を開始する。

 開いた時と同じくのろのろと扉は閉門した。

 ガガの正面のモニタの中には、バックミラー代わりにインセクトロイドの後部についたカメラの画像も小さく映し出されている。

 その中には腕を組んでこちらを見守っているミス・シンデレラの姿も見えた。

 一瞬彼はこちらに向かって手を振ったように見えたが、その光景もすぐに扉の厚い壁に遮断される。



  しばらくは室内を沈黙が支配する。

 ただエレベーターが奈落の底へと下がっていく音だけが低く響いていた。

 搭乗席のモニタはいくつかあり、うちの一つには先ほど巴川の見せた地下施設の大まかな地図が表示されている。

 その中に走る一本の赤いラインは、エレベーターの縦穴の途中で右へ折れていた。

 これから考えられるにどうもエレベーターを途中で止めて横穴に入り、そこから更に徒歩で下ってスプートニクに向かうようだ。

  モニタに表示される待機中の中隊の様子を眺めながら、ガガは色々な事を思い出していた。

 すべての始まりはシスター・マリアというダイバーラジオ番組から端を発し、そしてそれは今確実に終結へと迫っている。

 アザーは言っていた。『スプートニクに潜れば必ずシスター・ヴェノムが戦いを挑んでくるだろう』と。

 あの女はもうスプートニクへの電子的侵入を果たしてしまったのだろうか? ガガとしてはそうでない事を願いたかった。

 そう言えばシスター・ヴェノムの事については巴川に何も言わなかったが良かったのだろうか。

 今頃ミス・シンデレラが話していてくれるとは思うが…

 緊張するか?

 突然スピーカーから聞こえてきた菱上の声に驚いてガガが顔を上げる。

 正面のモニタの片隅で装甲服にヘルメット姿の兵士の一人が、こちらに向かって手を振っていた。

 ヘルメットから伸びているコードはガガの乗り込んでいるインセクトロイドと繋がっているようだ。

 ケーブルを使う有線通話は無線と違って電磁波の影響を受ける事なく通信を行う事が可能である。

 「平気です」

 強がりだった。

 本当は緊張で胃は強張り、膝の震えもさっきからずっと止まらない。

 しかしそれでも確かに前へ進もうと言う意志はガガの心の底で存在している。

 この先にはクドリャフカがいる。確実に。

 それが確実だからこそ、彼はあのシスター・ヴェノムに指摘された真実を意図的に心の外へと追放しようとしていたのだ。

 クドリャフカの純粋さに憧れながらも、ガガは彼女を殺したいほど嫉妬しているという事を。

 彼女の真っ白な純粋さは決して自分には真似できないものだった。

 愛する人さえ大切しようと思う事ができない、そのクドリャフカとはかけ離れた醜い感情を秘める胸の内は、ガガの心を無意識の

 うちに締め付ける。

 ちょっとばかしドンパチやるかも知れないけど…まあないとは思うけどな

  エレベーターが動いている間は暇なのだろう。菱上はまた話し掛けてきた。

 ま、安心しとけ。俺ら『保健所』の養成学校で鍛え上げられた先鋭だし、軍人上がりも大勢いる。

 暴走した警備どもなんざ屁でもねえさ

 その言葉は有り難く受け取っておいたが、ガガはこの先にインセクトロイドや兵士達に頼れない戦いが待っている事を知っている。

 シスター・ヴェノム。クドリャフカの生み出した『悪夢』…

 ナヴァルーニャは『ナイトメアウォーカーは殺せない』という。

 それを生み出した本人の心の一部である彼/彼女らにはそもそも生死という概念の存在しない者たちで、この場合はクドリャフカが

 生きている限り消える事も死ぬ事も絶対にないらしい。

 だが消滅させるのが無理でも相手の体を構成する情報を破壊し鎧を引っ剥がす事ができれば無力化させる事は可能だ。

 しかし正直に言えばシスター・ヴェノムとの戦闘に置いて作戦など何も練ってきていない。

 プロクシやウィルスは多めに持ってきたが、効果があるかどうかははなはだ疑問だ。

 行き当たりばったりという事になる。

 …そろそろだな

 菱上の言葉と共に、コントロールパネルに張り付いていた兵士の一人が慌しく手を動かし始めた。

 パネルと繋がっている携帯端末を操作しているようだ。同時に全身にかかっていたエレベーター特有の不快感が和らぎ、消えて行く。

 重い音を立ててエレベーターは身を揺さ振り、停止した。

 少しずつ開いて行く扉の隙間から果てしない闇が漏れ始める。

 すべてを飲み込むその暗黒の中に向けて、一同は最初の一歩を踏み出す。



  禁断の領域『スプートニク』で、社の兵士たち一同の探索と少年一人の死闘が幕を開ける。
















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