プワゾンドールズ #3
- ハッピーエンド クリスマス -






シスター・マリア

21.キボウ


  ガガの目覚めを迎えたのは空気を震わせるような絶叫だった。

 尾を引いていたそれはやがて途切れ途切れとなり、遂には喉に血が絡まってゴボゴボという音に代わってゆく。

 アザーがシスター・ヴェノムの背に突き立てた手刀は彼女の細い体を貫き、指先は喉の下から噴き出す鮮血を伴って現れる。

 ブラックフォーマルのドレスに闇のように暗い染みが広がった。

 「ガガが夢を脱したと知って慌ててトドメを刺しに来たんだろ…?」

 相手の肩越しに見える真っ赤に染まった自分の手を見ながら、アザーは苦々しげに言った。

 シスター・ヴェノムは体を痙攣させながら限界まで目を見開き、喉の奥から派手に血液を吐き出す。

 紫色のルージュを引いた唇に鮮血の赤が交わった。

  大きく体を仰け反らせた彼女の背に更に腕を深く刺し込みながらアザーは続ける。

 ガガと接していた頃の涼しげな瞳は凶暴な色に染まり、声色は残酷さを秘めていた。

 「お前は自身の強化の為に自分を構築するデータを強大にし過ぎた。こんな窮屈なネットじゃ首が回らない」

  相手の左肩を掴んだ手に力を込めて指を食い込ませると、彼は一思いに腕を引き抜いた。

 「あっ…」

 呻き声と同時にシスター・ヴェノムの口から血が迸った。

 縛めから逃れた彼女は前屈みになり、大穴の開いた胸を両手で押さえながらよろよろとたたらを踏んで振り返る。

 指の間から溢れた血がくすんだコンクリートを赤く染めた。

  ガガにとっては始めて見るシスター・ヴェノムの劣勢だった。

 足元がおぼつかなくなりその瞼はほぼ彼女から光を奪いかけているが、しかし尚その目は狂気と憎悪を失ってはいない。

 爛々と輝く視線は憎しみの炎でアザーを燃え尽くさんばかりで、むしろ膨れ上がったかのようにさえ思えるそれは彼にぞくりと

 する寒気すら覚えさせた。

 彼女のその一文字に結んだ口元から食い縛った歯がギリギリと鳴る音がする。

 「貴様…この野郎…この野郎…ゴミが、クズが、計算機が、ぶっ殺してやる…」

 相手への呪いと復讐の欲望を溢れさせながら、長い時間をかけてシスター・ヴェノムは途切れ途切れに怨嗟を吐いた。

 時折血と共に吐き出される言葉は弱々しくも今までにないほどの覇気を含んでいる。

 圧倒的な黒い殺気を風のように受け流したアザーは、相手の血液まみれになった腕をもう一度胸の高さに構えた。

 「お前はもう終わりだ」

 「終わり?」

 手の甲で口から溢れる血を拭い、シスター・ヴェノムは笑った。凄惨な笑みだった。

 胸を押さえていた片手が持ち上がり、その中指が高々と上がる。

 「豚とファックしな!」

 アザーが踏み込むと同時に彼女の姿は激しくノイズを散らし、霧散した。

 しばらく周囲を見回していたが相手が逃亡したとわかるとアザーはガガに向き直り、ほっとしたように溜息をつく。

 「良かった。無事だったんだね」

 「うん」

 血に塗れていない方の彼の手を借りると、ガガは複雑な表情を浮かべながら身を横たえていた床から起き上がった。

  そこはガガの入っていた独房の前の廊下で、アザーがずっといた場所である。

 ガガは扉の前で倒れていた。

 帰ってきたのだ。ここよりももっと深い、あの終わりの無い夢の世界から。

 アザーはひざまづくと彼と視線を合わせ、凛とした表情でまっすぐにガガの瞳を覗き込んだ。

 「再会を喜びたいところだけど時間がない。よく聞いてくれ。

 今ヴェノムは自己修復に手一杯で動けない筈だ、今のうちにセイスクリッド・スフィア…知ってるよね? まで行ってクドリャフカの

 ボディを冬眠状態から解凍してくれ。道順は僕は指示する」

 「うん」

 「急いでくれよ、ヴェノムがオートガードマンを目覚めさせたんだ」

 「オートガードマン?」

 「ああ、そうか」

 アザーは手短に救出にやってきたミス・シンデレラの隊の事とシスター・ヴェノムの目論見を伝えた。

 「それにヴェノムもまだ死んじゃいない」

 アザーの表情が引き締まる。

 「さっきのは致命打になった筈だし、今言った通りミス・シンデレラ達がサブバンクを破壊している。

 ネット空間が縮んでいるんだ、あの女くらいおっきなデータだとほとんど動けないんだけど…」

 それ以上言わんとしている事はガガにもわかった。

 短い付き合いだがシスター・ヴェノムの異常なまでに執念深い性格は嫌と言うほど思い知らされたのだから。

 「さ、現実世界に。ボディに戻ったら僕の指示通りに進んでくれ、まずはミス・シンデレラ達と合流させるから」

  彼に背を向け際、ガガは伏目になって何か言おうとした。

 今更ながらアザーにどんな顔をして接すればいいのかわからなかった。

 彼は一度は何もかもを見限り自身の殻に閉じ篭ってしまった自分をきっと軽蔑しているだろう。

 そんなガガの心痛に気付いたのか、アザーはひょいと肩を竦めた。

 「あの事なら今は議論してる時間はないよ。それに気にしちゃいないし」

 「ごめん」

 「いいのさ。気に病むこたないよ。さ、急いで」

 消え入りそうな声の謝罪にアザーは小さく笑って答え、彼を急かした。






  アポロは惰眠を貪る快楽に溺れていた。

 今までのように、そしてこれからもずっとそうなのだろう。

 『アポロ』。この名を呼んでくれる人はもうこの地には存在しないだろう。
                                    トゥアーリ
 他の姉妹達はすべて活動を停止するか破壊され、もはや皇 帝シリーズで生き残っているのは末っ子の彼女だけだった。

 生き残っていると言ってもアポロは自分に与えられた時間のほとんどを睡眠に使っている。

 ほとんど死んでいるのも同じだった。

 かつて行った人間の虐殺もさっき訪ねてきた小さな人影も最早どうでも良くなり、彼女はまたもゆるゆると浅い眠りに落ちて行く。

 この部屋とベッドの上だけがアポロにとって世界のすべてであり、それ以上欲しいものなど何も無かった。

  ふと、シーツに顔を埋めた少女の耳に届く不快な音があった。

 それは囁く声であり耳を塞いでもお構いなしに彼女の意識に染み込んでくる。

 アポロは苛立たしさを覚えた。自分の安眠を妨害する人間達は今までにことごとく暴力を以って黙らせてきた。

 彼女は静寂と沈黙を懇願したが、脳に浸透する声はそれを否定する。

 『アンタみたいなボロ臭ェのは趣味じゃないんだけど』

 彼女は自らの意思を蹂躙する何かに気付いた。

 それは太陽が沈むと同時に現れる夜気にも似ており、有無を言わせず未熟なその心を呑み込んで行く。

 圧倒的な勢いの前にアポロは成す術もなく自我を食われ、眠りよりも尚深い深淵へと落ちた。

 意識が霧散する際に感じたものは、半ば錆びついた自分の体が軋みを上げながら動き出す感覚だった。

 『あのゴミどもの内臓ブチまけさせなきゃすべてに置いてスッキリしないね。

 使ってあげるわ、愛しい妹よ』






  随分久し振りに自分のボディに戻ったような気分だった。

 ほったらかしにしておいたせいか自分の体は他人の物のようで、しばらく五感と四肢の感覚を取り戻すのに苦心する。

 ひどい寝不足のような頭痛と倦怠感で体が悲鳴を上げている。それに無論空腹も収まってはいなかった。

 体と心がバラバラだったが10分もすると統一感が戻り、ガガは立って歩けるようになった。

 霞む目を擦るとコントロールパネルからコードを引っこ抜き、こめかみに戻してアザーの指示を待つ。

  相変わらずスプートニクの空気は淀み、重く不愉快なものだった。

 慣れたとばかり思っていた鼻を錆の異臭が突く。

 空腹のあまり胃痛がする腹を押さえながら三分ばかりその場に立っていると、コントロールパネルのマイクからアザーの声が放たれた。

 ザ… ボディの調子は?

 「大丈夫だよ」

 じゃあ指示通りに動いてくれ、まずは…

 「てめえの粗末なナニを切り取って口に突っ込みな」

  背後から現れた柔らかな口調に似合わない下卑た罵倒に、ガガはつま先から脳までが痺れた。

 騒々しい機械音がぺたぺたという足音に覆い被さる奇妙な作動音を上げながらそれは闇から生まれた。

 錆び付いた玩具のように首を軋ませながら、顔だけ振り返ったガガの視線の先にいたのは一人の少女だった。

 ただし無理矢理跡付けしたような左腕は己の胴ほどもある巨大な機械製で、人間的な他の部分とは同調を拒んでいる。

 作り方を間違えたちぐはぐな人形。そんなイメージだ。

 薄い布の寝巻き越しに浮かび上がる白い裸身がこの薄闇の中では眩しいほどに輝いている。

 しかしその表情に浮かんでいるものは、今まで散々ネット空間であの女が見せた虫でも見下すかのようなあの笑いだった。

 「カスが」

 ガガにそう吐き捨てて少女は細い左手を胸に押し当てた。

 そこには拳が突っ込めるくらいの大穴が開いており、内側では赤黒い肉と錆ついた鉄とが不協和を奏でている。

 「役者を忘れて舞台を進めてんじゃあないぜー。特にヒロインを、ね」

 そう言ってから少し顎を持ち上げると少女は思いっきり自分の舌を突き出した。

 太い蛭のようにぬらぬらと輝くその表面には、あのスマイルマークがペイントされていた。

  全身の神経を駆け抜けてゆく恐怖にガガが走り出そうとした瞬間彼は突如として正面の空気に抵抗を感じ、その小さな体を

 何かの力に押し戻された。

 強風を受けた時のように髪がなびき、再びシスター・ヴェノムの前へと強制的に呼び戻される。

 どんなにもがいてもまるで空気が粘つく網になってしまったようで振り切れないのだ。

 ガガの体は音もなく歪んだ笑みを浮かべる彼女の目前へと移行された。

 ガガ! ガガ!

 アザーの叫ぶ声が放たれるマイクを彼女が五月蝿げに見遣ると、それだけでコントロールパネルは内側に潰れた。

 もがくガガに視線を戻すと、楽しげに眺めながらシスター・ヴェノムは唇を尖らせる。
              あ ん な 女
 「連れないじゃない。クドリャフカの事なんかすーぐ忘れさせてあげるわぁ」

 流し目を作って耳元に囁く相手から逃れようとガガは狂ったように暴れた。

 四肢は見えざる網に捕われほとんど動かず、胸を縛る圧力にしきりに呻き声を漏らす。

 「暴れちゃイヤ」

 シスター・ヴェノムの左手が油の切れた機械特有の軋みを上げて僅かに持ち上がった。

 それぞれが巨大な鉤爪となっている五指を開くと、掌に埋め込まれていた黒い球体が姿を現す。
                 トゥアーリ
 「醜いでしょ。このボディは皇 帝シリーズの最後の一体で『アポロ』って言うの。

 できれば使いたくなかったわあ、貴方にこんな姿を晒したくないもの」

 黒曜石のような不気味な輝きを見せるそれに表面にバチッと雷光が走った。

 ブン、というテレビのスイッチを入れた時のブラウン管のような音がした次の瞬間、えもいえぬ浮揚感と共にガガの視界の光景

 すべてが奥へと吹き飛んで行く。

 何が起こったか理解できないままの彼の体は、通路のはるか奥の突き当たりまで弾き飛ばされていた。

 背中で衝撃が爆発する。息が止まり、内臓が引っくり返るような苦痛にガガは胃液を吐き出した。

 不可解な事にガガの体は壁からずり落ちず、磔になるような形で壁面に貼り付いている。

 まるで重量が作用する方向が変わったようだ。彼の体は大の字になったまま見えない圧力によってぴくりとも動けない。

  シスター・ヴェノムはゆっくりと時間をかけてガガのいる場所まで歩いて来た。

 彼まであと3mほどという所で立ち止まり、相手を制止させるように左手を広げて彼に向ける。

 何とか圧力に対抗して上半身を起こそうとしていたガガの鼻先で黒い球がまた唸った。

 それと同時にガガの体を磔にしている力が急激に増し、再び持ち上がりかけていた体を壁に叩き付けられる。

 少年の短い悲鳴が通路に上がった。

  シスター・ヴェノムは堪え切れずに腹を抱えて笑い始めた。

 「ね、凄いでしょ? アポロには重力を操れる能力が備わってたの。

 見て見て、それにこんな事もできるんだから!」

 無邪気な口調の裏に想像を絶する残虐性を秘めてシスター・ヴェノムは左手の指の一つをクイと持ち上げた。

 ガガは身動きが取れない自分の右腕に、別の方向からの力がかかったのに気付く。

 何とか視線だけ右にやると、壁に押し付けられた腕が少しずつ右回りに回転しているのがわかった。

 やがては人体の構造の限界をも越え、何かのエネルギーは万力のような力でガガの腕を一回転させる。

 ボギョ、という肘の骨が砕ける音。筋肉が捻じ切れる音。腱が引き千切れる音。自分の悲鳴。

 それらはすべて同時に放たれ、廊下で反響を繰り返した。

  唇の端を歪ませたまま目を閉じて、小鳥のさえずりでも楽しむかのようシスター・ヴェノムは目を閉じていた。

 廊下に木霊する彼の悲鳴の尾が消えてからたっぷり余裕を取り、薄く瞼を持ち上げる。

 「疑問を当ててあげようか? アザーはアタシが自己修復に手間取るからしばらくは安全だ…って言ってたんじゃない?

 その通りだとも! 確かにアタシは自身の強化に強化を重ねたせいでとんでもないデータ容量の存在になってる。

 ダムの決壊が僅かな傷から始まるように…アザーのさっきの一撃は鋭くアタシの心臓部を貫いたワケよ」

 ガガは何も答える事ができなかった。

 あまりの苦痛に耳鳴りがし、相手が何を言っているかもほとんどわからない。

 意識が白濁していく中で、ただ右腕だけは溶岩の中に突っ込んでいるように熱かった。

 「今アタシん中でアタシを形作るすべてが崩壊を始めている。

 もう時間はあんまりないの。人格もそのうち消えてなくなっちゃう…だけど喜んで、愛しの君よ!

 アンタを拷問して犯して殺してまた犯して食うだけの時間は残されてるのよハァーーッハァ!

 マイゴッドよ! マイスピリットよ! 我が授かりし時間と熱は無駄にあらず!」

 バヂ、とシスター・ヴェノムの手の中で黒い球が唸るとガガの上に更なる重力の波が被さり、彼は喉の奥から自身の肋骨が

 軋む悲鳴を聞いた。

 内臓に凄まじい圧迫が発生する。まるで巨大な手に臓腑を握り潰されているようだ。

 もはや悲鳴も上がらない。ただ空気だけが肺から搾り出された。

 「ね、どう? 『ごめんなさい、もうしません』って言ったら許してあげるよ。

 お家に帰らせてあげようっての。アタシって優しいと思わない? ほら、言ってみて!」

 突然重力が消え失せ、ガガの胸から重石が退いた。

 壁の磔から逃れ、少年の体は不意に折れたハンガーにかかっていた服みたいに地面にどさりと落下する。

 彼は甘い空気を求めてしきりに咳き込んだが、それが終わるのをシスター・ヴェノムは律儀にも待っていた。

 「アンタのお口は下にぶらさがってるナニくらいの飾り物だわあ。 優しいお姉さんに言ってごらん」

 「…ば…れ」

 「え? 何? もっと大きな声で言って! クドリャフカにも聞こえるかもよ?」

 わざとらしく左掌を添えた彼女の耳に届いた言葉は予想だにしないものだった。

 虚ろだった彼の両目が目一杯開かれその視線を持って相手を射抜く。

 ガガはシスター・ヴェノムの目前に向かってまだ無事な左手を持ち上げると、その中指を立てて高々と天に向けた。

 「くたばれ!」

 一瞬で彼女の笑顔が歪み、それから一呼吸遅れて掲げられていたガガの左手の指がすべて重力の波動で反対側に捻じ曲がる。

 枯れ枝のように砕けた骨に悲鳴が上がるより早く、シスター・ヴェノムはつま先で彼の胸を突いた。

 「アンタのそういうトコ大ッ嫌いだわあ! なーんで素直に言えないのさ」

 相手の胸に足の裏を押し付けながら、シスター・ヴェノムは少しずつその足に力を込めて行く。

 折れた肋骨に圧力をかけられ苦しげに足掻く彼を嬉しそうに眺めながらも、内心彼女にとっては今の答えは予想外だった。

 あっさりと命乞いの言葉を口にすると思っていたのだ。

 この少年は『痛み』を異常なまでに恐れている。心にも体にも、傷をつけられる事を半ば尋常でなしに。

 自分の思い通りに事が進まないという事態は、シスター・ヴェノムの苛立ちを多いに加速させた。

 「夢諸共消えてなくなりゃ良かったのに…あーあ。お馬鹿さーん」

 数歩離れて自身が重力波の影響を受けない距離まで来ると、彼女は左手の掌を開いてガガの眉間に向ける。

 「あ、そうだ。5分ごとに重力が強くなってくってのはどうかな。

 一時間もすりゃあ車に轢かれたヒキガエルみたいになっちゃうよ、きっと」

 くすりと笑ったその横顔に右手の通路の奥から飛んできた何かが命中し、炸裂した。



 「バカ、ガガに当たったらどうする!」

  発砲した隊員の一人に詰め寄るミス・シンデレラを後部に押し戻し、巴川はヘルメット内のモニタに投影される少女に目を

 凝らした。

 頭に銃弾を受けた衝撃で地面に伏せっている彼女は熱反応が人間とはやや違う。

 サイボーグや人造・強化人間に見られる特徴だ。

 「これ以上発砲はするな」

 そう命じた彼を先頭に隊はゆっくりとガガに向かって前進を始めた。

 他の警戒に当たっているメンバーを除き、全員の銃口が倒れたシスター・ヴェノムの体に向けられている。

 少女の体はピクリとも動かなかったが隊員は油断を解いていない。

  隊員の一人がガガの前にしゃがみ込むと、苦痛に喘ぐ彼の意識の有無を調べる。

 「おい」

 「う…」

 ガガに駆け寄ろうとするミス・シンデレラを菱上が羽交い締めにした。

 「邪魔んなるから行くなって」

 衛生兵とおぼしき隊員はガガの脈拍や骨折の具合を調べ始める。

 「肋骨が何本か折れてるな、臓器に損傷があるかも。

 右腕の肘関節の骨折に、左手の指が全部折れてる…何だこりゃ、何をされた?」

 抱き起こそうと彼の体に手を伸ばした瞬間、伏せっていたシスター・ヴェノムの上体が突然バネみたいに起き上がった。

 一同の視線が集中する中、片手で割れた側頭部を押さえながら血に塞がれた目をしきりに瞬かせている。

 銃弾が命中したものの頭蓋骨が頑丈なおかげで死を免れたのだろう。

 「いってぇ…畜生!」

 「動くな!」

 銃を向けた隊員が一斉に引き金にかけた指に力を入れる光景を彼女は寝惚けたように眺めていた。

 しかしすぐに自分の置かれた状況を理解し、片手で血を拭って笑みを浮かべる。

 「動かなくなんのは君達よん」

 シスター・ヴェノムの左手の中で電気が弾けるような音がした。

 隊員たちは恐らく正面から迫ってきた見えざる壁に激突したかのような衝撃と感じただろう、重力の波動は津波と化して彼らを

 虚空に押し流す。

 あっという間に廊下の奥の暗がりへと飲まれて消えた彼らの後に残されたのは僅かに三人。

 重力波が放たれる瞬間に菱上に隣の通路に放り込まれたミス・シンデレラと、反射的にシスター・ヴェノムの右脇から彼女の

 背後に回り込んだ巴川、そして壁にうずくまったままのガガだ。

 「あーあー、回収されなかったの。アンタら分別ゴミかな?」

  上体を回したシスター・ヴェノムが巴川に向き直る。

 その掲げられた左腕が振り被られたと同時に彼は床に伏せったまま彼女の細い軸足に蹴りを入れて払った。

 どのような設計思想の元に創造されたかは不明だが恐ろしくウェイトバランスの悪いアポロのボディはそれだけで体勢を崩し、

 派手な転倒を見せる。

 即座に立ち上がると小銃で弾幕を張りながら後退する相手に憎々しげな唸りを漏らし、シスター・ヴェノムは上体だけ起こして

 左手を持ち上げた。

 その掌が開かれると重力の網に捕まった銃弾はすべて空中で停止し、弾頭の向きを180度変えて再び推進を開始する。

 自らの放った弾を背に浴びながら、巴川は横手の通路へと飛び込んだ。ボディアーマーの装甲が弾丸を弾く鈍い金属音が響く。

  飛び込んだ先では床でミス・シンデレラが頭を振っており、目の前で飛び散る火花を払おうとしていた。

 ヘルメット越しに額をどこかにぶつけたのだろう。巴川の姿に気付くと慌てて立ち上がる。

 「ガガは?!」

 「他人の面倒など見てられるか!」

 銃の先端についている小型カメラで角の影になっているシスター・ヴェノムの様子を窺いながら、巴川は怒鳴り返した。

 喚き返すミス・シンデレラを無視してヘルメット内のモニタの中でこちら目掛けて左腕を振り上げた彼女の姿を確認する。

 ほとんど反射的にミス・シンデレラを押し倒し、通路の奥へと頭から飛び込んでいた。

 シスター・ヴェノムの唸りを上げた左手から放たれた重力の爪は凄まじい衝撃音と共に壁を穿ち、その表面に五本の凹みの

 ラインを走らせた。

 皇帝シリーズが数年前に人間を虐殺した際に猛威を振るった能力で、爪から重力の断裂を放ちぶつける事であらゆる物体に

 破壊の爪跡を刻み付ける事ができる。

 壁には巨大な引っ掻いたような傷が残った。巴川らがその場に立ち尽くしていたら真っ二つにされていただろう。

 「SHIT!」

 彼女は的を外した爪に悔しげに歯噛みしてしばらく相手の様子を探っていたが、気配が消えた事を確認すると髪を揺らして

 振り向いた。

 「邪魔が入ったわ。さあ愛しいダーリン、続きを楽しみましょ」

 言葉は遥かなる虚空の中へと消えた。

 ガガはどこにもいなかった。



  引き裂かれるような腕と指の苦痛は焼けつく熱と入れ替わり、ガガは血液が沸騰するようなひどい暑さに苛まれていた。

 脳は白く煮え、今や意識はほんの細い糸で繋がっているに過ぎない。

 両足が無事なのは幸いだったが今倒れたらその衝撃で失神するかも知れない。

 彼は転ばないよう細心の注意を払い、繰り出すつま先に神経を集中させた。

 やっぱり動かない方がいいよ

 各所に置かれているスピーカーからはアザーの気遣わしげな声が聞こえてくる。もうほとんど涙声になっていた。

 ヴェノムはもう生還するつもりはないんだ、自滅する覚悟で君を狙ってる。

 クドリャフカだって君が死ぬ事を望んではいない! だのに何で君は…

 フラフラと前進を続ける少年の前に廊下は再び交差点を差し出した。

 「どっち?」

 ガガ! 逃げなきゃダメだ、ボディを手に入れるのはあの女が勝手に自爆するのを待ってからでも遅くない!

 ガガは立ち止まり、もう一度質問を口にした。

 「セイスクリッド・スフィアはどっち?」

 …死ぬのが怖くないのか?

 アザーは知る由もなかったが、彼の言葉にガガは笑っていた。

 何でかは自分でもわからない。腕の骨は砕け肋骨も折れているというのに、何故かふっと笑みがこぼれたのだ。

 「アザー、君って初めて会った時、僕に言ったよね。『クドリャフカの居場所は言えない』って…」

 ガガはセイスクリッド・スフィアまでの道程を自分で思い出そうとしたが、ひどい頭痛のせいでうまく行かなかった。

 体に刻み付けられたあらゆる苦痛が脳を串刺しにしている。

 「クドリャフカはシスター・ヴェノムの中にいるんじゃないのかな」

 何も返事は返ってこない。ガガは生まれて初めて『苦笑』というものをした。

 「…図星だろ?」

 何故…

 「僕の想像さ」

 壁に寄り掛かって目に入る汗を拭おうとしたが、手はどちらも使い物にならない。

 仕方なしに左手を掲げると折れた指はそのままに手の甲で額を拭う。

 「何となくね。ヴェノムは体内に檻を作ってクドリャフカを閉じ込めてるんじゃないかってさ…一番安全だし。

 でもその事を言ったら僕はヴェノムと戦う意思がなくなるかも、って思ったんじゃない」

 母体であるクドリャフカが死ねばその心の一部であるシスター・ヴェノムもまた滅びる運命にある。

 もし自分がヴェノムだったら、という相手の立場に立って考えた結論だった。

 呼吸は荒く熱く、通り過ぎてゆく喉を焼いた。

 アザーはまた黙った。ガガは喘ぎながら途切れ途切れに言葉を続ける。

 「このままヴェノムが死んだらクドリャフカはどうなるの?」

 …彼女も死ぬ

 今度は幾分遅れたものの返事は来た。

 しかし口調は鉛のように重く、搾り出された言葉は辛辣なものだった。

 時々は体の主導権がクドリャフカに移ったりしてたみたいなんだ…あのメールは正真証明クドリャフカの書いたヤツだよ。

 頼む、ガガ。逃げてくれ…! 君まで死なせる訳にはいかないんだよ!

 「クドリャフカのボディを冬眠から目覚めさせる」

 満身の力を込めて壁から身を離すと、ガガはもつれる足を何とか制動して再び廊下の奥の闇と向き合う。

 「ヴェノムの精神崩壊が始まってあの女のボディの動きが止まったら、僕を中継してクドリャフカのボディとヴェノムを繋ぐ。

 そこから後はクドリャフカの精神だけを抽出してボディに戻す。…できる筈だ」

 しばらく音信が途絶える。

 ガガにアザーの苦悩は手に取るようにわかり、アザーにとってガガの行動は理解に苦しむものだった。

 『自分を無能と呼ぶのはあらゆる手段を尽くした後にしろ』…そんなとある戦争映画のセリフを思い出す。

 確かにガガの言う手は理屈としては不可能ではない。しかし精神崩壊が始まるまでシスター・ヴェノムから逃げ切れるか?

 逃げ切れたとしてもあの女の精神がクドリャフカごと消滅する前に彼女のみを抽出できるか?

 希望はある。しかしそれは尽きかけたロウソクの火のように儚く、細い。

 対して絶望は圧倒的な業火と化してすべてを呑み込もうとしているのだ。

 しかしガガはそれでも、嵐以前のそよ風にも消えてしまいそうな希望にすがる事を選んだ。

 以前の彼では考えられない事だった。

 アザーは苦渋の判断を下した。

 右に曲がって真っ直ぐだ。その先にセイスクリッド・スフィアはある






















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